ケン・ウィルバー「自我を超える道」

a0009919_18553033.jpg『自我を超える道』 ケン・ウィルバー著 安藤治訳
『インターネット時代のトランスモダンな意識主体』 吉田豊著
(『imago』Aug,'96 青土社より(文中KW=Ken Wilber, 吉田=吉田豊))

恥さらしシリーズ第二弾!
むかし、トラパに寄り道しようかなぁ~と思っていた時のもの。
はっきりいって、シリメツ。
投稿:98.04.07(Tue).

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a0009919_18583029.jpgトランス・パーソナル~???
そう聞いて、ふつうどんなイメージを持つだろう。
ボクの場合は、真っ先にトランス trance 状態を思い浮かべた。
それは非常にネガティヴなイメージだ。
狂信的な宗教者
霊魂が憑依したと巫女さんや霊媒師
薬物中毒者……
といったうさんくさいイメージしかない。
となれば、トランス・パーソナル tran[ce]-personal とは、
うさんくさい霊媒的性格になる。
ウィルバーは、どう言っているのだろう。
トランス・パーソナルとは前個(プレ・パーソナル)-個-超個(トンラス・パーソナル tran[s]-personal)という段階的な「個人」とされている。
なんだか分かったような、分からないような解説だ。
もっとくわしくいえば、超個とは「自分の個的心、身体、感情、思考、感覚から創造的に離脱した自覚の中心と広がり」「あらゆる思考、感情、感覚、欲求の動じることのない目撃者」(p.198吉田)。

ウィルバーは、トランス・パーソナルの方法論は、構造主義やポスト・モダン思潮の、いわゆる「主体」問題という時代状況と密接な関係をもっているという。

「これらポストモダン思潮はすべて、実際にポスト自我思潮である。事実、それらはしばしば自分たちの企てを「自我-哲学の死」とか「主体-哲学の死」であると公言している。これらはすべてトランスパーソナル的見方から強い指示を受けるものだが、それらが言っている「自我の死」とは、純粋なトランスパーソナル的次元に開かれることを意味しているわけではない。」(p.146KW)

つまり、ウィルバーは、ポストモダン思潮との密接な関わりを認めつつ、あえて、それらの限界を指摘する。
彼の独自の階梯的自己システムおいて、それは、「ケンタウロス的自己 centauric self 」(ヴィジョン-論理)の獲得にすぎず、それでも、「これまでの「自我」よりはましであ」り、「ポストモダニズムは『正しい方向に向かっている』」(p.146KW)、あるいは、それへと変容していることも付け加えている。
手っ取り早く言えば、それに対する、トランスパーソナル研究の優位を高らかに宣言しているのだ。

ウィルバーによれば、意識というものは、およそ九つの基本構造(レベル)を持っている。

意識の基本構造            自己システム
プライマリー・マトリックス      F0:”自他未分”の状態
感覚身体的               F1:物質的自己
空想的-情動的            F2:情動的自己
表象的心                F3:概念的自己
規則/役割               F4:役割の自己
形式的-自省的             F5:成熟した自我
ヴィジョン-論理            F6:ケンタウロス的自己
サイキック(霊的)           F7:サイキック・セルフ
サトル(微細)             F8:サトル・セルフ
コーザル(原因)            F9:コーザル・セルフ
(p.123吉田を参照しました)

これらの階梯は、ウィルバーが言うように「ヴェーダーンタ(哲学)に、その元型的表現を」(p.143KW)持っていて、深い関係を持っているらしい(また、各項の詳しい説明については、本誌「imago」を参照されたし)。
このようなウィルバーの自己システムにおいて「自己」とは、吉田氏の解説に依れば「意識の基本構造という梯子(階梯)を順に登っていくクライマー」(p.122吉田)のようなものだという。

「『自己は常にただ一つの段階にいるわけではない。それどころか、あらゆる種類の退行や循環的変動、先の段階への一時的飛躍、至高体験などが生じる。』だが、いかなる段階もスキップして発達していくことはできない、とウィルバーは明言している」(p.125吉田)

こうなってくると、このシステムは、意識、あるいは霊性の階級的ヒエラルキーとして現れてきて、非常に危険な様相を帯びてくる。
さすがに吉田も、この点には、
「果してウィルバーが描いているような自己の発達経路しかないのか」という疑問を呈している。
吉田は、「欧米型」と「日本型」を「別個に考えることもできるかもしれない」(p.125吉田)として、ウィルバーのシステムに対して賛同することに含みを残している。

ウィルバーのシステムから言えば、ポストモダン的自我、つまり、ケンタウロス的自己は、この階梯からいくと、まだまだ山の中腹あたりであり、まだまだ、不完全な自己である。
では、いったい、その階梯から見て、ポストモダン的自我(ケンタウロス的自己)に欠けているものとはなんだろうか?。それだけでも、この議論はじゅうぶんに面白いかもしれない。
a0009919_6138100.jpg

ケンタウロス的自己に対して、欠けているもの
それは<観察する自己>だと言う(p.126 吉田)。
ポストモダンやその哲学も、内省的な態度はとってはいる。
しかし<観察する自己>とは単なる内省ではなく、「単に見たり聞いたりすることでもない!」(ibid)。この場合の「<観察>とは、評価や価値判断をいっさいせずに、ただただ気づいていることなのである Be aware! 」(ibid)という(じつをいうと、こういった件は、永平広録にもある)。
「”ただ気づいている意識そのもの”、つまりアウェアネス(気づきの意識)」ことだという(p.126 吉田)
しかし、この「気づき」は、例えば、道を歩いていて思わぬところに花が咲いているのを見て、「その花の名前を思い浮かべようとしたり」、あるいは「鳥の鳴き声から受けた印象やそこからわき出た連想に捉えられ」た瞬間に、失われてしまうほうの「気づき」なのである
むしろ、それに「気づいている」ときであって、観察とは、この「アウェアネスの持続ないし強度」(ibid)だという。
「少しも思考に巻き込まれずにただ気づき続けている」ということらしい。
もちろん、ここに仏教の「悟り」を強く読み込むことができるだろう。
(「捻華微笑(ねんげみしょう)」などは参考になるかもしれない)

さて、このウィルバー(吉田)の<観察する自己>(アウェアネス)からみれば、
哲学の「経験的自我」や「純粋自我」は、どうなるのだろうか?
「ドイツ系の哲学には経験的自我と純粋自我(超越論的自我)という区別がある(カント、フッサールなど)。~中略~それでは、この純粋自我ないし超越論的自我はウィルバーの<観察する自己>と同じものだろうか?
筆者の考えではこうである。即ち、純粋自我が対象を認識するというだけの単なる主観性だとしたら、それは<観察する自己>とは絶対に同じものではありえない!ということである。」(p.127吉田)

吉田は、さらにこの「<観察する自己>とは単なる知的概念ではない、それ以上のもの」(ibid)、アウェアネスによる「心に決定的な質的転換が生じる」(p.128)ことを強調する。

「心に決定的な質的転換が生じる」
とは、なんだろうか?
ウィルバーによれば、
「瞑想に電気的脳波パターン(深いシータ波/デルタ波)やそれらを誘導する機械が広く商業的に使用されるようになり、大きな変化が起こるだろう~中略~そしてまた、こうしたことから『悟りをえられる』ような人は誰もいないだろう」(p.149KW)という。
あるいは、また「人は電気的誘導によってトランスパーソナルなものを垣間体験する(味見する)ことができるかもしれない(サイケデリックス[精神展開性薬物]によってそうできるように)。だが、内面の認識の変容なくしてはその状態はやがて消え失せるであろう」(p.150KW)という。
なぜなら、「脳と心は、まさに単純に、同一ではないからだ。悟りは心(意識)において起こるものであり、脳で起こるものではないからである(変化は起こるが)」(ibid)。

もちろん、ここには色々な問題点を指摘できるだろう。
「単純に同一ではない」ことがなんなのか?
ただの変容と悟りの差はなんのか?、それは確かめることが可能なのか
……などなど問題は多い。
(ちなみに「心に決定的な質的転換が生じる」は、ギリシア哲学ではペリアゴーゲーと解することもできるかも?)
ウィルバーは、そういった個人の意識の変容を、社会進化論になぞる。
「社会進化における「周縁」グループと「正常」グループとの関係」
「私見では、世界変容の理論は「神秘主義的マルキシズム」となって効果を発揮すると思う」(p.152KW)という注目すべき主張がある。
いわゆる「段階史観」とも思える発言である。
人によっては、「マルクスが駄目でもトラパがある」などと言われるゆえんであろう。
a0009919_7482947.jpgウィルバーの「階級的自己システム」は、「近代的なある種のマルクス主義」の「階級論」や「ある種の存在の被拘束性(マンハイム)」と、明らかに呼応するかのように見える。
そういう見方に立つなら、マルクスの階級論が外部(リバティ)を論じたものであり、トラパ(ウィルバー)はその内面(フリーダム)を論じたものにすぎない(ちなみに、オウムも「霊性の階級システム」、つまりマハーヤーナの「三つの世界の重層構造」を持っている)。

ウィルバーの想定しているマルクスとは、文字通り「世界変容の理論」であって、あらゆる「物質的-技術的-経済的基盤の複雑に入り組んだ関係をカバーし」(p.152KW)、「構造(意識/無意識)」や「状態」を暴きだし、人々に意識の変容をせまることで、世界変容をもたらす。
ウィルバーは、これをマルクスの最良の部分として受け取っているようだ。

しかし、ウィルバーは、
「われわれはもう一度(東洋と西洋の、そして北と南の)タントラ的伝統に戻らねばならない」とし「これらの伝統は普遍的に、有限領域(地球などすべて)が霊の完全な顕現であると見なしている。それゆえに、それらは形のあること、下降、内在性、女性を、地球の価値などを祝し、敬うのである。
霊の上昇(超越)と下降(内在性)との秘められた関係性はシュリ・ラマナ・マハシリによって表現されている

世界は幻想である。
ブラーマンのみが現実である。
ブラーマンは世界である。」(p.154KW)

こういった上昇と下降という二つの流れを包括する「包括的霊性」こそ、ウィルバーのトランスパーソナルの核心のようである。

ウィルバーにいわせれば「世界変容の理論」であるトランス・パーソナルは、「独自に、人間の知識探究に関わるさまざまな分野を総合し、統合するという位置づけを持っている」という。
(こういった言い分が、哲学と似ていることに注意しよう。)

個人的には、ウィルバーのいうことは、宗教用語や革命理論や哲学に対する偏見を取り去ってしまえば、そんなに哲学から遠くはないような気がする……

「トランスパーソナル研究は、つねに、世界のなかに霊を見、霊のなかに世界を見る人々とって指針となっていく」というのだが……
そんな霊が見えたらねぇ~誰も苦労しないと思うけど……(笑)

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by qsso | 2005-09-20 05:48 | 哲学ノート | Comments(3)
Commented by qsso at 2004-09-25 07:05
ボクも霊を信じないわけではない。
つうか、その場所を探している……

ちなみにギリシア哲学、
特にプラトンの思想は、いわばカースト輪廻思想のようなものが
その中核にありますねぇ~
プラトンに言わせれば、頭が良いヤツは生れる前から決まっているし
善人はもとから善人だった……悪人は悪人……
生きているあいだは、それを思い出すだけなんです。

ギリシア思想というと
一般には、民主主義発祥の地みたいなことを言われているけど
ソクラテス-プラトンをギリシア思想の本流だとすると
彼らは徹底的に反民主主義者なんですよねぇ
だいたい、ソクラテスの弁明なんてのは
「多数が正しいとなぜいえるのか?」
そのたった一つの問いのために捧げられたものだといえるのに……

だから、
ぼくに言わせると
哲学者はみんな「反」民主主義者じゃないといけない(笑ゲラゲラ)
Commented by Satomaru at 2016-04-07 10:26 x
いかなる段階もスキップして発達していくことはできない

人は生きることも死ぬこともあきらめた時、至高体験をする事がある。
あたかも段階を飛び越え到達した様に思うかもしれないが、体験した者にとって、今までの人生全ての経験が段階的に到達に向かっていた事を理解するだけである。
Commented by Satomaru at 2016-04-07 10:27 x
いかなる段階もスキップして発達していくことはできない

人は生きることも死ぬこともあきらめた時、至高体験をする事がある。
あたかも段階を飛び越え到達した様に思うかもしれないが、体験した者にとって、今までの人生全ての経験が段階的に到達に向かっていた事を理解するだけである。
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