道徳の時間 相互性の原理

世間のひとは、すまし顔で、よく云う!
「自分にされてイヤなことは、他人にもしないこと」
なあんてねぇ
「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
とかさぁ

でも、これっておかしいよねぇ~
「私は殺されたくない。だけど、私は殺してもいい」
って思ったって、べつにぜんぜんいいじゃん(ほら、織田信長とか、戦国武将はみんなそう)。
私は殺されたくないからって、なんで、それが、私が殺さない理由になるのか?
ホントは全然理由になってない。

哲学者の永井さんも、こういう風に答える
「一般に人は人を殺してはいけない、したがって人は私を殺してもいけないが、自分だけは人を殺してよい」(80頁)
「私や私の愛する人が殺されるのは嫌だが、だからといってそれがどうして私が他人を殺してはいけない理由になるのか」(23頁)「なぜ人を殺してはいけないのか?」)

然り。

「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
は、要するに
「オレは殺さない。だからみんなもオレを殺さないでくれ」
ということだ。
こんな相互性の原理が、ホントに社会で説得力があるとは思えない。
逆に、こんな原理が本当の意味で社会で肯定されるなら、世の中は大変な大混乱に陥ることになる。

たとえば、
オレは貧乏だ!
だから、みんなも同じだけ貧乏になってくれ

オレは不幸だ!
だから、みんなも同じだけ不幸になってくれ

オレは背が低い
だから、みんなも同じ背丈になってくれ

オレは死ぬ
だから、みんなも死んでくれ

オレは失恋した
だから、お前も惨めになれ

オレ(40代ストーカー)が思う分、
君もオレのことを思え!

オトコとオンナ
親と子も

同じようなことが言える

永井も言ってるように。
「われわれは常日頃、現に相互性の原理を否定して生きている」(23頁「これがニーチェだ!」)

それなのになぜか、世間のヒトは、そういう相互性(の原理)が成り立っているように思いたがる
かのようである。

すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 選択屋健ちゃん

これがニーチェだ
永井 均 / 講談社
スコア選択: ★★★★★






-----以下はこの記事についてのnakaiさんとの対話----

Commented by nakai at 2005-05-10 22:00 x
「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」

「オレは殺されたくない!だから、みんなも殺されたくないと思ってくれ!殺さないでくれ!」
ではない。

「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
には他人に「なってくれ」という願望、問いかけはないのではないでしょうか。
私が私の中での私だけの考え、決意。人を殺さない理由だと思います。

しかし、
>私が他人を殺してはいけない理由になるのか
の「理由」にはなっていない。
ということだと思います。


Commented by nakai at 2005-05-10 22:02 x
すいません、追記です。
「理由」→「いけない理由」
です。
Commented by qsso at 2005-05-11 18:20 x
どうもどうも
はじめまして~
コメ
有り難うございます。

ハナシの主題がちょっとずれているかなぁ~

あくまで、この文章は、相互性の原理(及びその信者)への疑義です。
ボクからすると、
「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
ということの相互性は
「オレは殺さない。だからみんなもオレを殺さない」
ともいえる。
結局、
「オレは殺さない。だからみんなもオレを殺さないでくれ」
と、その相互性は願望にすぎないレベルに容易に転換している。
というより、信者にしてみれば、
容易に転換しているからこそ、その相互性が成り立っているかのように思えて、信じることができる。
そしてそののちに、(場合によっては、この部分を抑圧して)
「私は殺さない」が、
個人の勝手な決意になりえたひともいるでしょう。
個人の勝手な決意でしかないなら(片務的でしかないなら)、
その相互性は否定されて……結局、ボクと同じ事を言ってるにすぎない。
(ボクは個人の勝手な決意、信条まで否定したりするつもりはありません)
Commented by qsso at 2005-05-11 18:21 x
決意だけだったら
「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
前件は要らず無条件で「私は殺さない(善い)」から「私は殺さない(善い)」だけで済む(定言命法)。

しかし、余計なことかもしれないけれど、
「私は殺さない」は、
単に「私」が殺せないだけで、
殺すだけの能力がない、あるいは単に「弱い」が、
「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
に(もっともらしい道徳へと)転換されて、
弱者の願望の正当化になっている可能性すらある。
ニーチェが言うように、
弱者のルサンチマンが転換しているだけかもしれません。
Commented by nakai at 2005-05-11 20:49 x
どもども。

「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
には、そもそも相互性の原理、他者性はないと思います。
そう取ることで、願望にすぎないレベルを容易に転換する、信者が出てくる、間違いが起こると思います。
言葉そのものからは
「だからみんなもオレを殺さない」
とは言っておらず、信者を批判する前提がなければ、言葉そのものからは他者性は汲み取れません。

>決意だけだったら
のお話ですが、殺すのも殺されるのも「私」。
例えばqssoさんが、私・nakaiを殺したとすると、qssoさんも「私」であり、nakaiも「私」である、ということです。
なので、
「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
になる。つまり「私」が前件もいれた
「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
を思わなければ、他の「私」が「殺し」をすることを容認することになる。だから、私は「私」という存在により、決意する、ということです。

たしかに
「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
を道徳と取ると、qssoさんの仰るとうりかと思います。

では、また(´∇`)
Commented by もふもふ at 2005-05-12 00:02 x
我思う故に我あり…かにゃ。

違った?
Commented by qsso at 2005-05-12 18:42 x
哲学の記事における コメントの仕方の
ルールを付け加えました。
これからは、それを遵守して下さい。
ヨロシクお願いします。
Commented by qsso at 2005-05-12 18:43 x
nakai さん

前回も云ったように
あくまで、上の本記事は、相互性の原理(及びその信者)への疑義です。

> 「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
> には、そもそも相互性の原理、他者性はないと思います。

そういわれてもねぇ
そもそもが
本記事は、云うまでもなく、
nakai さんの決意ついてのおハナシじゃなくて、
この記事のタイトルで示しているように、
あくまで、道徳-相互性の原理のハナシなんです。

つまり、「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
この文について、
> そもそも相互性の原理、他者性はないと思います。

と、
ホントにそう思っているヒトには、
関わりのないタームだす……

nakai さんのような決意ができないとか、いってるんじゃないんです。
Commented by qsso at 2005-05-12 18:44 x
> 言葉そのものからは
> 「だからみんなもオレを殺さない」とは言ってお
> らず、信者を批判する前提がなければ、言葉その
> ものからは他者性は汲み取れません。

「信者を批判する前提がなければ…」
と仰りますが、
この記事の、本文冒頭を読んで貰えれば分かるように
> 世間のひとは、すまし顔で、よく云う!
> 「自分にされてイヤなことは、他人にもしないこと」
> なあんてねぇ
> 「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
> とかさぁ

ボクとしては
すでにここで信者(すまし顔でいう世間のヒト)を前提にしているのは明白(のつもり)です(笑)。
Commented by qsso at 2005-05-12 18:46 x
> 殺すのも殺されるのも「私」。
> 例えばqssoさんが、私・nakaiを殺したとすると、
> qssoさんも「私」であり、nakaiも「私」である、
> ということです。

お言葉ですが
qssoが、nakaiさんを殺したとすると、
qssoが「私」であり、nakaiさんが「私」であろうと
nakai さんの死体を見れば
殺したのは、そこに包丁を持って突っ立っているqssoであり、
殺されたのはnakaiさんであることは
事実として明白であるはずです。

その死体(事実)を前にして

それがどうして
> なので、
> 「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
> になる。つまり「私」が前件もいれた
> 「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」

になるのか?
ちょっと理解できません。

もしかして、
突っ立っているqssoは、
感極まって漏らしているかもしれません。
Commented by qsso at 2005-05-12 18:46 x
ボクに云わせれば、
qssoが「私」であり、nakaiさんが「私」である事実は
だからこそ
> 「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
…を
> 私は「私」という存在により、決意する、
> ということ
には必ずしもならず、
別の帰結(上記したような事件)も生むと思う。
Commented by qsso at 2005-05-12 18:49 x
nakai さんは
そうじゃなくて

> qssoさんも「私」であり、nakaiも「私」である、
ということに
等質(あるいは等価)性を認定して、
「だから」「……なんだ」ということですネ
しかし、
こういう等質(あるいは等価)性を認定してしまうと、
結局、相互性を成り立たせてしまうことと、
同じことではないですか?

ボクから云わせると
「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
は、まさに
そういう等価(等質性)が、成り立つという信者の
告白そのものです。

「オレは貧乏だ!
 だから、みんなも同じだけ貧乏になってくれ!」
という願望を持つ信者は、
「qssoも「私」であり、みんなと同じ「私」である」
と思っているからです。

永井の言いたいことは、ボクに云わせると
そういった近代の等質空間についての嫌悪だと思います。

ウチの北の方の台詞で言うと
「勝手にあんたと一緒にしないでぇよ~」
ってこと~
Commented by qsso at 2005-05-12 18:51 x
> 「私は殺されたくない。だから、私は殺さな
> い。」になる。つまり「私」が前件もいれた
> 「私は殺されたくない。だから、私は殺さな
> い。」

だから、この一連のアーティクルは
そういう条件なら、
「私は殺されてもいい。だから、私は殺してもいい。」
「私は殺されたくない。だから、私は殺してもいい。」
……
逆の転換が起こる可能性があることも示唆することで
絶対的条件に…理由に、ならないことを示唆したわけですが
Commented by qsso at 2005-05-12 18:52 x
> 「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
> を思わなければ、他の「私」が「殺し」を
> することを容認することになる。
> だから、私は「私」という存在により、決意する、
> ということです。

ボクは、
個人の勝手な決意や信条まで、否定していないことは
前にもいいました。
そもそも、そんなことは否定できるものではないですからネェ

nakai さんが
なぜ、そう思わなければ、ならないことについては
なぜ、決意したいのか?
は、ボクの問題ではないので問いませんが

「決意」に、必ずしもそのような理由(知)が必要だとは思えません。
Commented by qsso at 2005-05-12 18:55 x
たとえば、
「どういった女性だったら嫁にいいか?」
という問題で、
松嶋菜々子にしようか?
常盤貴子にしようか?
と考えた場合、
すべての利害得失が分かったうえで、まだ、決意に至らないことがあると思います。
結局、決意に至るときは、
そういった「知」を切断するしかない。
ビュリダンのロバを思い出していただければいいと思います。

「決意」とは、知を切断する「知」
すべての知を超えた「知」(知と呼べるかどうかは、ボクにはわかりませんが)という側面があると思うんです。

哲学的な言い分からすると
「決意」は、要するに、もう形而上学なんです~
人間の知(リクツ)の上からやってきます。
だからリクツは要りません(じつをいうと合理的な決意にも同じ事が言えるんです)。
あっても、結局、あと付けのようなものになります~
Commented by qsso at 2005-05-12 18:56 x
結局、「決意」はリクツじゃないので

> 「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
> を思わなければ、他の「私」が「殺し」を
> することを容認することになる。

別に「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」と思わないでも
他の「私」が「殺し」をすることを容認しない決意もできるし、
「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」と思っていても
他の「私」が「殺し」をすることを容認することを決意できる……
と思えるのですが…

まぁ要する
「決意」で済むのなら、
別に、そんなリクツは要らない。
そういうことです。

あとは、そういうものに、そういうリクツを欲している、
ひとの問題ということになるかと思うんですが……
Commented by nakai at 2005-05-13 21:33 x
「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
を道徳教条としてqssoさんがお話したことについての私のコメントは、御門違いであり、浅はかだったと思います。

しかし、最後にひとこと付け加えます。
「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
はやはり、言葉そのものは只単にある「私」の勝手な「決意」で
>そんなリクツは要らない。
と取ることが、そんなリクツは要らないと思います。

「私は殺さない(善い)」
だけで済むことは、「私は殺さない」ということに関して「私」が「決意」することは出来ません。
何故ならば、「私は殺さない」は「状態」だからです。

それと、
「私は殺されたくない。だから、私は殺さない。」
の「決意」にある種「他」へ対する「願望」が含まれることは否めませんが、だからといって、「他」に対して「~しろ」「~なれ」という意味はないです。そう取ることこそ、リクツだと思います。
Commented by nakai at 2005-05-13 21:34 x
「私」というものが「殺し」をするのだから、「私」というものが「殺し」をしなければと思わなければ、「私」の「決意」と「願望」は良くならない。
そして、qssoさんが仰るとうり、ここから「相互性」はでます。
しかし等質性ではありません。

それと私も浅はかではありましたが
>あくまで、上の本記事は、相互性の原理(及びその信者)への疑義
ということは、このお話は
「哲学」
ではありません。「思想」のお話かと思います。

ps永井氏の抜粋は「理」なので「哲学」ですが。


Commented by qsso at 2005-05-14 12:03 x
> 勝手な「決意」で
> >そんなリクツは要らない。
> と取ることが、そんなリクツは要らないと思います。

「決意に、リクツは要らない」って
リクツじゃなくて事実でしょう?
だって、ボクがいま「さぁ歯を磨こう」とか、「今日は右足から家を出よう」とか
なんの「リクツ(理由)がなくても、決意はできる」もん!
これって、ボクの超能力じゃないでしょう?
もしかして
あなたはできないの?
おもしろいだすなぁ~

「リクツ(理由)がなくても、決意はできる」
は事実だす。
Commented by qsso at 2005-05-14 12:06 x
もっと、恐ろしいのは、
「リクツがあっても、リクツとは違う(逆の)決意もできる」
(例えば、クルマに乗る人や、煙草を吸うヒトなんかは、あらゆる科学的見地から危険、よくないと分かっていても、かならずそうするとは限らないことや……(良い学校に入ったほうが社会で有利になることは分かっていても、悪友に連れられて遊びほうけたり…理由なく行きずりのオンナと…)
…そう考えると人間の生活はほとんどそういう事態ですが)
ということ(事実)を指摘したまでです。
そこは、どうなんですか?
> そんなリクツは要らない
とか逃げないで、
ここであなたがやるべきことは
どんな「決意」にも、かならず事前に正当なリクツがある
あるいは、正当な理由には、かならず人間は従う
ことをしめすべきではないでしょうか?

そうしないとあなたのリクツは、チンプンカンプンになるような気がしますが…。
Commented by qsso at 2005-05-14 12:07 x
> 「願望」が含まれることは否めませんが、だから
> といって、「他」に対して「~しろ」「~なれ」
> という意味はないです。

他者への願望を「~しろ」「~なれ」と表現することは、そんなにおおきな逸脱だとは思えませんが…
Commented by qsso at 2005-05-14 12:09 x
> そう取ることこそ、リクツだと思います。

ボクはリクツがダメだとも
「決意」がダメだとも、云ってはおりません。
自分の云ってることが、リクツじゃないとも、云った覚えはありません。

「決意」することにとってリクツ(理由)は、
必要条件でも充分条件でもないと云ってるだけです。
Commented by qsso at 2005-05-14 12:10 x
> 「私は殺さない(善い)」だけで済むことは、
> 「私は殺さない」ということに関して「私」が
> 「決意」することは出来ません。

あなたの決意ですからご自由に……

> 「私は殺さない(善い)」だけで済むことは、
> 「私は殺さない」ということに関して「私」が
> 「決意」することは出来ません。
> 何故ならば、
> 「私は殺さない」は「状態」だからです。

「「私は殺さない」は「状態」だから」なんですの?
Commented by qsso at 2005-05-14 14:49 x
> qssoさんが仰るとうり、ここから「相互性」はでます。
> しかし等質性ではありません。

ボクが書いたのは
> 等質(あるいは等価)性……
ですが…

しかし、あなたは
> 殺すのも殺されるのも「私」。
> 例えばqssoさんが、私・nakaiを殺したとすると、
> qssoさんも「私」であり、nakaiも「私」である、
> ということで

> 私は「私」という存在により、決意する、と

と記しています。
この点は、どう考えても
私の「私」という存在の等価性が前提にされています。
「私」を a とすると
f(a)
qsso(a)
nakai(a)
a=a;

qsso=nakai=f

相互性は
この等価性に従って、
「qssoも「私」であり、nakai さんと同じ「私」である」
「qssoも「私」であり、みんなと同じ「私」である」
から
「qsso がされてイヤがっていることは、同じように nakai さんにもイヤだろう。」
「qsso がされてイヤがっていることは、同じように みんなもイヤだろう。」
と等質性へと転換して
「自分がされてイヤなことは、他人にもしてはならない。」
という相互性のおとぎ話へと駆け上っていくことです~


中島義道さんだったら
こういうかもしれない、
「私は殺さない」という決意をする「彼らは、おうおうにしてみずからを道徳的にも善いと信じているからこそ、いっそうその正体は悪なのである。」55

2005/05/10
[PR]
by qsso | 2005-09-11 06:10 | 哲学ノート | Comments(0)
名前
URL
画像認証
削除用パスワード