飢えた子供の前で(小泉義之)

「かつてサルトルは、「飢えた子供の前で文学は無力か」という問いを立てたことがあった。そのときサルトルは、飢餓という悲惨な現状を変革するための道徳的実践的生活と、文学を生業とする作家の生活との関係を、問い質していたのである。遠いところで子供たちは飢えて死んでいるのに、自分は快適な書斎でタイプライターを叩いている。飢えた子供を救済するべきであることは明白なのに、自分は文学を楽しみ、文学で食費さえ稼いでいる。この事態を真剣に問い直すと、何かいたたまれない気持ちになるのだ。
 南北問題や内戦問題を、政治的経済的に受けとめるだけではなく、真剣に個人的にも受けとめようとするならば、サルトルの問いは現在でも重い。……
 ところでサルトル自身はどう答えたのか。サルトルによれば、悲惨な現状に対する無力感にさいなまれる人間を描くような文学、そして、悲惨な現状と無力な人間に対して異議を申し立てを行うような文学があるとすれば、そのような文学は直接的にではないにしても、間接的には現状の変革を促進することになる。その限りで、飢えた子供の前でも文学は無罪であるし文学は無力ではないのである。」(pp.20-21)小泉義之「デカルト=哲学のすすめ」

バングラデシュとニューヨーク

「近年、トマス・ネーゲルは次のように論じた。道徳の要請は普遍的であるから、これを厳格に解するならば、個人が私的に享受している「良い生活」に対して、強い疑義念をいだかざるをえない。道徳的に正しく生きることと、良い生活を維持することは深く対立するように見える。
「それほど高くないニューヨークのレストランでの二人分の食事の代金は、バングラデシュでの平均年収に相当する。私は食べる必要に迫られて食べるのではなく、そこで食べたくて食べるにすぎないのだから、その代金は飢餓救済のために寄付された方が善いだろう。同じことは多くの購買についても言えるだろう。衣服、ワイン、劇場、切符、余暇、贈り物、本、レコードなどである。……経済的配分に関してきわめて不平等である世界において、かなり上層に位置する人が慣れ親しんでいる生活を、不潔であるにしても充分に耐えられる生存の水準を切り下げるだけで、毎年、飢えた数十の家族を養うことができるのである。ここにおいて、飢餓と闘うための最善の方法は何であるかと論ずることは、問題の要点を外している。」」(pp.22)小泉義之「デカルト=哲学のすすめ」

飢えた子供のまえで、自分を問い質す。

「サルトルとネーゲルは、彼らが享受している良い生活と、悲惨な現状を変革するために営むべき道徳的生活との間に分割線を引いて、両者を鋭く対立させている。募金活動に応じるときに、本当にこの程度で善いのかと考える人や、災害のときに、ここで安穏として善いのかと考える人は、サルトルやネーゲルと同じ仕方で、良い生活と道徳的生活の対立について考えているのである。そして一度はそのように考え始めた人でなければ、倫理について語る資格はないとさえ言えるだろう。
 それでも私は、サルトルとネーゲルは過っていると主張したい。第一に、飢えた子供の前で文学は「無力」であるに決まっている。飢えた子供の「力」になるのは、水や食物であって書物ではないからである。飢えた子供を救えという道徳的要請は、具体的には、飢えた子供が水や食物を享受できるようにせよという要請以上でも以下でもない。第二に、「文学」の価値を、現状変革のための有効性によって計測するという文学観は、残念ながら今や失効している。文学の価値は面白いか面白くないかで計測されるし、文学はそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。第三に、人間としての使命は、飢えた子供に水や物を与えるということであるが、文学者としての使命は、飢えた子供にも文学の喜びを分かち与えるということであろう。だから文学者としてのサルトルは、飢えた子供にとっても「嘔吐」は面白いのか問うべきであった。そして、異議申し立てという形式で文学を延命させようとするのではなく、いかに悲惨な状況においても文学は精神の力になると言い切るべきであったのだ。
 ネーゲルはどうだろうか。第一に、問題の核心は、レストランで〈いくら〉払い、年収を〈いくら〉得るかということにではなく、こちらは〈食べている〉のに、あちらは〈食べていない〉ということにある。貨幣の多寡が問題ではなく、食物の多寡が問題なのである。第二に、国際通貨体制と国際経済が不当で不正であるとしたら、ドル建てで問題を提起すること自体が過っている。一般に、政治経済的カテゴリーを使用して考えること自体が過っている。収入の格差の〈大きさ〉に驚くよりは、収入に〈格差〉がありうるということに、あるいはむしろ、食費に〈格差〉がありうるということに驚くべきである。水や食物に〈値段〉があるということに繰り返し驚くべきである。人間にとって水や食物は同じ使用価値をもつにもかかわらず、商品化されて異なる価格を賦与されるということをけっして自明視してはならない……」(pp.26-7)小泉義之「デカルト=哲学のすすめ」

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by qsso | 2005-07-30 07:12 | 戦争倫理学 | Comments(0)
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