自分で作る哲学

> 哲学は書かれた事を読んで終わり。
> ではなくて
> 自分で作るもの。


そんなコメントがあった。
然りである。

ただし
哲学を作る
そんなことは凡人にできるものではない(特にオレ如き非才浅学なら尚更)。

ただ、このことを、ほとんどのひとは、次のように誤解しがちである。
「青年の哲学の根本課題は、人生である。つまり、生き方の問題だ。いかに生きるべきか──このひとことに青年の問いは要約される。日本では、哲学というもののイメージが、青年の哲学によって作られてきたが、それは哲学の本質を誤解させることになった。一度しかないこの人生をどう受けとめるかのちがいは、じつはたいしたちがいではない。」永井均「子どものための哲学」

しばしば、哲学は、自分が「この人生をどう受けとめるかのちがい」によって、表れるようなものと、誤解されがちだ。
だから、しばしば、ひとは赤裸々な個性的な自分の生き方こそが、哲学だと勘違いして、
そういったものに描き立てようとする。
そうだとしたら、哲学は、単なる人生論である。
いわば、哲学は、個性的な人生というわけである。

しかし、「個性」ということにすら、疑い(哲学ってのは、なんでも疑いを差し挟むクセのようなものだからねぇ)を向けるなら、福田が、次のように云ったことを、少しは考えてみると良いかもしれない?
「変わりたくない、という人が非常に多い。
 これも若い人たちを見ていてのことですが…~中略~
 就職することで、自分が、自分の個性や性格が変わるのが怖い~中略~
 恋愛についても同じようですね。
 強い関係を他者と結ぶことで、自分が変わってしまうのでないか。~中略~
 こういう変化への恐怖は、強い自己愛によって引き起こされていると考えていいでしょう。~中略~
 つまりは、いまの自分の「自己」などというものは、ちょっとした契機で、仕事とか恋人によって壊されてしまうのではないか、という恐怖がある。
 それはおそらく、もっとうがってしまえば、自己の壊れやすさというよりも、自己の空無というか、無内容についての認識である~中略~
 つまりは自分がきわめて空疎であるということが分かっている。~中略~
 正直に申しあげて、大変に失礼だけれど、あまり社会的経験のない、今の若い人たちに、いや本当の問題はむしろ若い人たちだけではないのですが、個性だの、人格だのといったものがあるとは思えないのです。
 無論、いろいろな好みとか、センスとかいったものはあるでしょうし、それなりに独自の経験といったものはあるのだと思います。
 けれども、そういったものは個性だの何だのというほどのものではない。
 個性とか、人格とかいったものは、自分自身だけでできるものではない。個人の感覚とか、内面的な意識とかから発するものではないからです。
 まったく逆に、他者とのさまざまな関係からこそ、人が人たる輪郭ができてくるのではありませんか。」(pp.47-8)福田和也「悪の恋愛術」

個性というのは、自分がつくりあげるものではない。
そんなことをいうと、
「なんでそうなんだ?」「お前の読みはどうかしとる」とお叱り受けそうですが、
いえ、福田の書いてることすら、そうなんです。
個性は、
「他者とのさまざまな関係から」
しかも
「内面的な意識とかから発するものではない」のであれば、
いくら、じぶんがこういう風な関係を~と思っても、どうにもならないということなのです。
これは、じつに当たり前のことで、自分が、他人にこう思われたいと思っても、他人たちは、そんなことなど馬耳東風、自分の思いとは、まったく違ったイメージを持ったりすることは、長年連れ添ってきた夫婦ですら、じつにしばしばあることです。

個性みたいな社会的なものは、自分の力では、どうしようないものなのですねぇ。
「個性」は社会(他人との関係)の結果でしかない。

哲学者についても、それはいえると思います。
結果、人生論みたいになってしまう。
それは、他人から見て、そうであるにすぎないんです。
「「いかに生きるべきか」を教えるのが哲学である、と信じている人がいるようです。しかし、いかなる哲学といえども直接それを教えることはできません。
~中略~
何とも大げさで抽象的な「悩み」(筆者註:阿部次郎「三太郎の日記」倉田百三「愛と認識との出発」)は、現代の青年にあまり訴えるところはないような気がします──正直言って少々滑稽な感じもします──が、じつは二十歳前の私自身これらを夢中で読みましたし、和辻哲郎「古寺巡礼」に感動して大学一年の秋休み、彼が歩いた道と同じ道を一人旅もしました。見事な金色の稲穂のかなたに寺々の甍を眺めて、こうした雰囲気的なものに軽く酔って、私は「哲学的な旅」をしていると思い込んでおりました。大和路をひとりトボトボ歩きながら、漠然と「いかに生きるべきか」と思索することこそ哲学だと思っておりました。ですが、──あとでゆっくりお話しますが──その一年後本当に骨身にして哲学とは何かが分かってから、甘い情緒的な散策はそれ自体けっして哲学的ではないことを悟りました。
 もちろん「いかに生きるべき」は、すべての真剣に生きる人にとって、とくに若い人にとって大きな問いです。しかし、こうした人生論はとくに哲学のテーマではなく、文学や宗教や芸術の共通の大きなテーマだ、と私は言いたいのです。」(95頁)
「寺々の甍を眺めて、こうした雰囲気的なものに軽く酔って、私は「哲学的な旅」をしていると思い込んでおりました。大和路をひとりトボトボ歩きながら、漠然と「いかに生きるべきか」と思索することこそ哲学だと思っておりました。」中島義道「哲学の教科書」

いまだに、こういうひと、よく見かけるよなぁ~
「哲学は人生について考えるのであって、人生について思い悩むのではない。哲学は人生について悩むことはできない。なぜなら、よろしいでしょうか、ここがもっとも肝心なところで、したがってもっとも理解され難いところなのですが、哲学は、人生について思い悩むほどに人生を信じてはいないからである。人が人生について悩むことができるのは、それを自明なものと信じているからに他ならないが、もしもその自明さを信じていないのなら、人はそんなものについて悩みようもないはずなのである。なぜって、悩もうにも、そもそもそれが何なのだか、わからないのだから。」(143頁)池田晶子「睥睨するヘーゲル」

なんで?
なんで?
なんで?
ボクは、ボクなりの納得を求めている
バカだから、分からない
もやもやする
なんで?
なんで?
探し続けること以外に道がない(そういう性分)
だから、窮余の一策、
自分の非才を味わいつつ、
他人の哲学書を読む
余計に
なんで?
なんで?
なんで?
が連発!
……しかし、問い続ける(やめることができない。やめても、知らないうちにぶり返している)
問い続けることができなくなったらボクの哲学は終わるでしょう。


永井均「〈子ども〉のための哲学」



池田晶子「睥睨するヘーゲル」



中島義道「哲学の教科書」



福田和也「悪の恋愛術」

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by qsso | 2005-07-31 08:06 | 哲学ノート | Comments(0)
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