寛容とは何か

大庭健「共生の強制、もしくは寛容と市場と所有」現代思想vol22-5
「自由とは、そこからズレることだからである。「リベラル」という形容詞が、「寛大」とか「度量の広い」といった意味で用いられてきたのは、主としてこの文脈においてである。
 自由主義・リベラリズムのこの顔は、多数派の一員でありつつ「寛容」であらねばと感じた知識人によって体現されてきた。このことは、必ずしも対等な立場の間での理性的な相互承認として根付いたのではないし、さりとて少数派が遮二無二制度化したものでもない。リベラリズムとは、多数派でありつつ異なる声に少しだけ敏感だった知識人の思想として始まり、そうしたものとして定着したのである。
 そして、そのことは、論理的必然でさえある。少なくとも「寛容」の本旨が、異なる価値を奉じて生きる者たちを、自分達と対等な権利を持つメンバーとして遇する、ということであったかぎり、寛容とは、多数派がとる・とらない態度なのである。多数派によって貶価され否定される価値を奉じ、そのゆえに不利益・迫害をこうむってきた少数派にとっては、「異なる価値を尊重する」ということは、多数派の価値を尊重することに他ならず、彼らによる迫害を尊重する(!)に他ならない。かかる少数派にとっては、論理的に言って「寛容」が出る幕はない。この点からすると、靖国合祀は信教の自由の侵犯だという訴えにたいして「多数派の信仰に対して寛容であれ」という判決を下した日本のの裁判官たちは、人類の政治思想史に実に独自の、まことにニッポン的・没論理的な貢献をしたのであり…(140-1頁)」
 「リベラリストが、個人の自由の尊重の問題は寛容で片づくと思ってきたのは、自分が多数派の一員であることを都合よく忘失したか、あるいはもう捨ててもいいと思う価値に限って寛容を発揮したか、そのいずれかであることが多い。前者であれば、あまりにも軽率だし、後者であれば、あまりにも狡猾である。狡猾である、とは他でもない。これはもう手放してもいいと判断して異なる価値観に譲歩したとき、そこには、代わりに(いち早く!)これだけは手放すまいと改めて握りしめなおしたものがあるのである。」(143頁)

それにしても大庭は庶民(多数派)に聖職者のような生活をせよ!とでもいうのか?
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by qsso | 2016-09-18 19:00 | つれづれ | Comments(0)
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