自分さえ良ければそれで良いのか?

ジコチューだ!
そういうことを言って批判する人がいる。
確かに、この平和で豊かな日本でたらふく喰ってノンキに暮らしているかぎり、
いまからいうことは、あんまり考えないで良いかもしれない……

しかし、人間が生きることを根本から考えると、
少なくとも、人間は動植物の命を取って、その死体を食べて生きながらえている。
とすると、その事態だけでも、
人間さえ良ければいいのか?
という問いが成り立つはずだ。
個人的に換言すれば、
自分さえ良ければいいのか?
という問いになる。

果して、どうか?
ずばり!
天才バカボン風に答えると
人間さえ良ければいいのだ!
自分さえ良ければいいのだ!

法律にも、正当防衛・緊急避難という考え方がある。
航海中、嵐で漂流し、食べるものが無くなって、同僚を殺して食べた。

同じように嵐にあい、船が大破した、ふたりだけが生き残った。
小さな板がひとつあって、ふたりで掴まったら沈んでしまう
力の強いほうが、それを奪って生き残った。

殺さないと生き延びられないとき、殺して良いことになっている。
(もちろん勝手に死んでもかまわないが……そんなひとは希だろう)

平和な日本に住んでいると……
「そんなことをいうが、そんな舞台設定は、いまこの日本には存在しない
 フィクションじゃないか?…それ自体が権力的な言い分だ!」
そう思うかもしれない。

しかし、われわれの社会は、凶悪犯を死刑執行で殺害するにも、
見ず知らずの(なんの実質的な損害を被ってない)われわれの名において執行される。
我々の社会の近代法が「復讐(私刑)」を禁じているからである。
(大衆は復讐の連鎖というのを忌み嫌っていると言われているが……ボクにはそう思えないが)
われわれの社会の予防措置として「だけ」殺しているのである。
自分が「安全に」生き延びるためだけに他人を殺しているのである。

政府が、要らなくなった産業・企業(ゼネコンとか……)を切り捨てるのも、要らなくなった人間を切り捨てるのも(そのせいで何万人か自殺者が増えても)、あるいは自動車が原因の、公害や事故で犠牲者が毎年一万人ぐらい出ても……、その製造販売を許容しているのは、われわれの社会の発展(国益)のため。われわれ(多数派)が生きのびるためなのだ。

自分が生きるのびるためであれば、何をやっても構わないのだ。

なぜなら、自分が生きることは良いことだからである。
だから、ボクたちは、動植物(人間を含む)の命を遠慮なくもらって、
食べてることは良いことなのだ。

逆に、自分が生きていることを良いとは思えず(肯定できず)、愛する人もなく、生きる喜びもなく、いつ死んでも良いと思っている人間(タクマ君とか……)に、人を殺すなというような……いかなる倫理も無力であるのは見易い道理である(まして世界平和など考えられもしない)。

少なくとも、自分が「生きることは良い」ということが基盤にない限り
どんな倫理も無力なのだ。

自分が「生きることは良い」と言っても、更に次のようなケースはどうだろう?
自己犠牲のケースだ。

母親が自分の肝臓を子どもにあげた。
それは自己犠牲かもしれないが
移植反対派から言わせれば、
「親のエゴイズムだ!
 子どもはそれを望んでいたのか?わかるものではない?」
要するに「自分さえ良ければそれで良いのか?」
という反論がある。
だからといって、
母親のエゴイズムを
簡単に否定できるとは思えない。
(もちろん、社会的にはある種のガイドラインは必要だとは思うが)
それでも、母親が子どもに生きて欲しいと願うのは(自己犠牲ができるのも)、自分が生きることをじゅうぶんに肯定できていた(生きることが良かったと思った)あとからに違いないだろう。

個人のエゴだけでなく、家族エゴもあれば、地域エゴもある、企業(団体)エゴもある、国家エゴもある、ボクたちは、いろんなエゴに囲まれている、奢侈な生活、所有物(財産)、娯楽なんてのはすべてそうだ…
「自分さえ良ければそれで良い」というエゴイズムを、完全否定してしまうと、
社会生活の大半は破綻するだろう。

経済学には「合理的経済人」という言葉がある。
「合理的経済人」とは、
自分の満足を最大にするように意思決定し行動するという人間のことだ。
(もちろんこれについては色々批判もあるだろう)
早い話が、利己的人間のこと。
しかし、おおよそこの世の経済政策やビジネス(商売)といわれているものは、この「合理的経済人」を規範にして、物事を組み立てているはずである。
それどころか、多くのひとびとは、ホントは他人の、そういう(自分の満足を最大にするような)意志決定や行動を期待しているぐらいなのである(でないと商売、成り立たないからねぇ)。

「じゃぁやっぱり、自分さえよければいいの?」
「そもそも、「自分さえよければいいというのはいけない」というひとも、それが「自分にとっていいことだと思える」からそんなこといってるんだろう?
 問題はエゴをどこまで許容するかだろう……
 その制限も最低限の自発性で守れるもんじゃないと通用しないだろうなぁ~
 そうじゃないと逆に警察国家になってしまう~
 まずは社会がどうの、他人がどうの、政治がどうの、国家がどうのという前に
 自分を知ることだろうなぁ~」
「へぇ~そうなんだけど
 ~オレなんかの場合、自分を知るということは……
『何の実力もなく、バカで、弱いくせに支配欲、嫉妬心だけがバケモノで、強情で傲慢で吝嗇で、小さく暗く臭くイケテナイオッサン』ということを知ること……」
「そうだねぇキミを見てると、じつにそう思ってしまう。」
「こんなにDQNなオレじゃ『こんな日本に誰がした!みんなで世の中を(平和な日本に)変えよう!』とか言っても…誰も本気で考えてくれないよなぁハハハ」
「世の中を変えようとか言う以前に、自分を変えなきゃねぇ(笑)」
「そうねぇ。
 だいたいオレはなんの実力もないバカなのに、キチガイカルトまで入って、なんで世の中を変えようなんて考えたんだろう?」
「ていうか
 なんの実力もないバカだから、自分を変えられない。その歯がゆさ(ルサンチマン)が世の中の変革という思想へ行かせたんだろうなぁ~
 そういうひとの弱いところを煽って商売するヒトが世間には一杯いるからねぇ~」
「煽られたかぁ~」(寂しそうに)
「なんと言っても若いとき(思春期)の至上命題は、自分が社会で、どう生きていくかだからねぇ
 社会に対する不安、恐れ(の裏返し)なんだよ……
 自分のダメさ弱さの裏返しなんだよ……
 だから見易い善玉・悪玉史観や陰謀史観に飛びついてしまう……
 永井均さんも言ってたけど、じつは、そういう時の「世の中の変革の思想」とかいうラディカリズムは見せかけにすぎないんだよ……
 そもそもが社会に合わせ過ぎた結果なんだから…」
「そうなのか?」
「たとえばさぁ
 自分がキムタクになったらと考えてみよう?
 背が高くて、カッコ良くて 女に持てて、リッチで
 キミとは正反対だ!
 なにをやっても褒められる
 そうなると……どうだろうか?
 キミは、そういう「いい」世の中を、
 これはおかしいと思って
 変えようと思うだろうか?」
「アハハハ
 己(自分)を知るということは、一種地獄だなぁ」
「まぁふつぅ~じぶんひとり持て余してるような人間が、たとえ世の中を動かしたところで、ダメでバカな自分は変わらない~自分が変わらないということは、結局、なにも変わらないんだよ~
 社会や他人なんか、どうでも良いんだよ
 まず自分なんだ!
 自分が、まず「よく」(幸福で)なくちゃ~
 快楽と安逸を貪り尽くすことが大事なんだよ
 自分が生きている良さを味わい尽くすことが一番大事なんだ!
 だから、みんなそのためにがんばってるんだよ
 自分の幸福が、他人の幸福、社会の幸福、世界の幸福につながっているだけなんだ!
「私は、「汝」や「我々」のおかげで生きているのではなく、いつも「汝」や「我々」と断絶して生きている。私の存在は、共同性や社会性によって可能となっているのではなく、全く逆に、私が独りで存在して初めて、共同性や社会性がようやく可能になる」(小泉義之)んだよ」

(以上書いたことは、小泉義之先生、永井均先生、加藤尚武先生の著作から、遠慮なく拝借して書いているので、誤解の無いように)
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by qsso | 2004-05-09 18:15 | 戦争倫理学 | Comments(0)
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