村八分


「八の史的考察

 この「はち」に関しては平安後期のものとして「本朝はちや由来記」がある。それは、
「洛中洛外から畿内まで夜になると忍び出てあらし廻り、官裁をもって警戒しても、元来が忍びになれた者ゆえ、ここかと思えば又あちらの飛燕のような早業にて立ち廻り」
 と、その反体制ぶりをとき、なんとしても取締りのできかねた当時の模様をのべ、
「よって京はいうに及ばず、国々にても手をやき、毒をもって薬になさんと、八の者をよび、これに乱暴盗賊の防ぎをさせたところ、その功が現われてか日本国中にこの八の支配(司法警察)がひろまった」とでている。「日本列島原住民史」[朝日新聞社刊、日本シェル出版刊]に詳しく解明はしてある。
 つまり戦国時代にあっては、
「八の者」つまり「はちや」といわれた連中は、安国寺といった寺方や、それまでの既成勢力側からみれば、それは賎民にひとしい原住系の人間だからして、
「藤吉郎さりとて八[の者]にて候」とは、これは軽蔑をこめて書かれたのが原文である。
 それを間違えて、安国寺はケイ眼[慧眼]で藤吉郎を、さりとてはの者とみて天下をとることを予見していたなどと書くのは、盗作か借作して歴史とするにしても、あまりに出鱈目すぎはしないか。
 八の部族がはっきりした存在だった事は、『集古十種』に、「摂津国天王寺蔵、佐々木四郎高綱旗図、長三尺八寸二分幅二尺五寸」
 と説明されている源平時代の旗にも、「治承二戊戌年八月上旬。討敵事如蜂起。無退無転無二無三、兵術自由自在、己割鉄石而己」と高綱の自著の上に「蜂起」の大文字がある。蜂と八は同じである。
 また、梶原源太の布旗には、ただ一字。「八」とだけ大きくでている。
 つまり日本歴史専門家はご存じないが、「八はた」を信仰する「みなもと」の原住系が日本にはいて、これが足利時代には、
「白旗党余類之徒」とか「八」といわれていた。なにしろ秀吉も信長に仕えていた頃は、旗さし物には、丸に「八」を入れたのをもって戦った。
 そこで日本の大都市名古屋では、
「郷土のうんだ英雄をしのび」その○八を市章にさえしている。なのにそれも知らずに、
「藤吉郎はさりとて八」を間違えたり盗用しているのには、なんといったらよいのだろう。
 また附言すれば、出雲などでは明治まで、「郡巡りはちや」の下に「村うけはちや」があって、彼ら八部衆というのは、つねに捕物用の棒術、剣術、柔術のけいこに励んだ。
 そして各地とも上役人見廻りや年貢納め、又は祭りの時には、
「大小二刀をさし、棒をもって警護役」をつとめ、各受持の村方の非違を訊(ただ)し、
「あげ米」と称し一般百姓は稗や麦が常食なのに、はち衆は献納させた米を食していた。
 だからして江戸期やそれ以前のものに、
「八木」とかいて「よね」「こめ」とよませているのも、このためである。
 また羽仁五郎氏は『都市の論理』で、アテネの例をひき、憲兵警察官は奴隷の仕事だったというが、これは日本でも同じことで、
「天孫系に制圧された原住系の八」が、その役割をはたしていたのである。だからして、よくチャンバラ映画で、主人公がみえをきり、
「おのれ不浄役人め」とか「不浄な縄目をうけるものか」というのもこれからである。
 バッタバッタと江戸時代の捕手が斬られる場面だけが許可されるのも、そのせいなのである。
 もちろん、ヤ印の八部衆全部が体制側の走狗で、
「御用ッ」「御用」をしていたわけでもなかろうが、岡っ引や番太もみな同じである。
 ところが村方に寄食して威張って米をくっていた八部衆も、明治七年に警察制度が変ると、前御用族の彼らは村方一同から迫害された。
 もちろん、もう米を献じてくれる者もなく、あべこべに殴られ蹴られ爪はじきにされた。
 これが「村八分」という文字にかえられている具象の真実である。つまりこうした、
「八」の歴史でさえ専門外といわれる私などしか知らぬところに、日本歴史に虚妄が沈澱する。」(八切止夫「八切日本史」)



「村八部の起り

 頼山陽が門下生になり教えを受けた事もある備後神辺の儒者にして詩人でもあった菅茶山は、文政10年(1827)年8月に死去する前に「福山風俗」「福山志科」を書き残した。
 その中に備後福山市東の三吉村に、
「三八という者らの住む地域あり。これ水野侯が福山十万石を賜る時、三河より伴いきたりし八の者なれば、今も三八と名づく」と出ている。
 この水野侯というのは「汝も光秀に肖るべし」と、家康から光秀遺愛の槍を貰った寵臣で、大坂夏の陣の大和街道の指揮官を勤め、後の島原の乱にて討死にした板倉重昌に代わって松平伊豆守が指揮をとっても不落と聞くや、老体に鞭打ち福山から駆けつけ島原を落城させた水野勝成で、その三男も旗本に取り立てていたが、この倅が旗本白束組の水野十郎左衛門である。
 さて、この福山の三八について、「六郡志」に、
「三八は常に両刀を腰に帯び、牢番、警吏、拷問、処刑をなし、深津村專故寺の前にて斬首をせしが、のち榎峠にてこれを行っていた」同地方の事を誌している。
 また「備後御調史料」では、
「当地にては茶筅は竹細工をなすが、勧進ともよばれ代官役所の稲の坪切りをなし、普段は捕縛術剣術の練習をなし常時代官の検覧をうく。また鎮守の祭礼には神輿の先払いをなし、陣笠ぶっさき羽織にて両刀を帯び、手に六尺棒腰に十手をさした。三八または八部衆ともいう」とでている。
 これは「おどま勧進勧進」の五木の子守唄で知られるように、いわば「乞食」扱いを蔭ではされながら、表向きは刀を二本さし代官直属として、気にくわぬ者はすぐ召し捕ってしまい、でっちあげのように牢屋へ放り込んで断罪していた三八の風俗である。今でも言われる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」の語源かこれからだという。
 さて、なぜ百姓が彼らを乞食扱いしたかというと、正規の扶持米ではなく、百姓から役得のように米を巻き上げ、それで寄食していたせいである。
 明治維新で薩摩出身の川路利良が邏卒総長となり、外遊後新しい制度を設けてから、それまでの警察官であった三八が村内からつま弾きされてしまったのが、いわゆる今も伝わる「村八分」の起こりなのである。
 また、裏日本での「因幡志」にも、
「伯耆や因幡にては、元日、盆の十三日にはハチヤが唱門師のごとく各戸を廻り米穀を貰い受く。平時は御目付役宅に出入りし、棒や十手をもって警邏をなし、軽罪はハチヤ預けといいて、彼らに歳月を限ってハチヤの奴僕とされた。」とあるし、出雲などでは、
「文化4年(1807)松平出羽家書上書」という公儀へ提出の公文書もあり、それには、
「当家が雲州の拝領せし後、各郡ごとに「郡廻り鉢屋」を設け郡牢を一個所ずつ置き、この鉢屋の頭は尼子時代の牢人の素性ゆえ「屋職(やかた)」とよばれ、その下に
「村受け鉢屋」があって、これが各村ごとに数戸ずつ配置され、担当区内の村民の非違を司っていた。これは天領の大森町も同じで、他に一定地ごとに鉢屋の集落移住地があり、ここでは常時、抜刀、柔術、棒術を修練。山陰地方にて名ある武芸者はみな此処の出身なり」堂々と書かれている。
 しかし明治7年に警察制度が変革してからは、やはり村八分として追放された者が多く、大正6年調査表の「島根県分布一覧」には僅かに、「鉢屋186戸、長吏173戸、番太56戸、得妙3戸、茶筅30戸。計448戸」とある。
 また尼戸の残党が村受け鉢屋や郡代鉢屋になった事の裏付け史料としては、
「昨十九日の合戦にて、鉢屋掃部ら鉄砲をもって敵を討取りし段は神妙に候」
「はちや、かもんら永々と篭城のところ、このたびも敵勢取りかかり押しよせし時も、おおいに力戦奮闘、武辺をかざりしは神妙也」といった永禄8年4月20日、同10月1日付の尼子義久の花押のある感状が、はちや衆かもん衆頭の、河本左京亮宛で現存している。
 「掃部頭」というと、今では井伊大老の事をすぐ連想するが、彼が公家を弾圧し安政の大獄を指揮したのは彼個人のバイタリティーのみでなく、「公家に対する地家」つまり「俘囚の末裔が武家である」という民族の血からの、反動的な圧迫だったともみられるのである。
 それにもともと公家というのは、「よき鉄は釘にならず、よき人は兵にはならぬ」というのを金科玉条となし、彼らが征服した原住系の末裔をもって兵役を課し、「夷を以って夷を制す」となし、これが武家の起源であるが、差別の為か蔑視の理由によるか、そこまでは解明できないが「掃部頭」とか「内膳」「弾正」といった官名ぐらい軽いものしか、武家には与えていない。「清掃人夫取り締まり」とか、「配膳係りのボーイ」といった扱いだったのが前者の意味であり、後者は「糺」という文字も当てられ「ただす」と訓されていた。これは唐から輸入された制度で天智帝の時に始まり、大宝令で法文化された延暦11年(792)に「弾正例八十三条」という当時の刑事訴訟法が発布されたが、公家は、「兵になる事を嫌った」ごとく、「ただす役割」もまた嫌って、これを原住系に押しつけた。「千金の子は盗賊に死せず」の精神なのである。だから、よく映画や芝居で「おのれ、不浄役人め」とか「不浄な縄目にかかるものか」と軽蔑した言葉が出てくるのは、つまり俘囚の子孫が役人だった事に起因している。
 だからして公家が織田信長の父信忠に「御所に献金したのは奇特である」と「弾正忠」の官名をやったりしているのも、織田家というのは実は近江八田別所、昔の捕虜収容所の血統だからである。
 しかし、尾張の織田家を弾正にしたところで、京へ来て「御用、御用」と召し捕りをやるわけではないから、その後は有名無実になってしまったが、明治2年5月に新政府はこれを復興。同7月に弾正台京都出張本台、4年2月に弾正台京説摂出張巡察所と、捕物機関を設けたが、後司法省に吸収され、なくなってしまった。」(八切止夫「論考・八切日本史」)


我ら!八切史観(笑)

八切止夫作品集
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by qsso | 2006-04-19 18:23 | 文学・歴史 | Comments(0)
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