日本のアウトサイダーたち

「鉄鼠 : 正月映画」承前。
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グリース対ソッシュ

自らをソッシュ側においてみる人は、どれぐらいいるだろうか?。
どう考えても、大学にも行き、車を乗り回す、日本の若者のかなりの部分はソッシュ側であろう?。
(この意味で、ワシは日本のいわゆるオタク、アキバ、「サブカル」……などをアウトサイダーとは思っていない(また「サブカル」だとも思っていない。言葉の誤用だと思っている。))

いまでこそ日本でも、
「格差社会だ」なんて言われてるけど、
日本の大半のヒトにとって、
アウトサイドも8mileも、
まだまだ外国のオハナシ、映画だけのオハナシ……
生活から乖離した
おとぎ話の世界の出来事……として…
受け止められているような気がする。
(特に品格路線とやらに引っ張られているようなひとたちは(笑))

あたりまえだが、日本にだって、むかーしから
アウトサイドも8mileもある。
有史以来、厳然と身分(差別)社会を営んできた日本社会が、
「御一新」で、あっという間に近代国家、
大敗戦記念で一夜にして、平等、自由、人権…尊ぶ、アメリカ型民主主義国家に「ヘンシン!」……ってな具合には現実には行かない。
どんなに社会の上辺が、ガラッと変わってしまっても、
そこに生きる人の心までは、簡単に変わってしまうことはない(世間人って、どんなに上半身で革新、進歩派を気どっていても、下半身(家で)は根っからの保守主義者だもんね……)。
もちろん、維新、近代化以来、そういう切断線を見えないようにする社会的な力(平等主義)が働いてきたことはいうまでもない。
たとえば、平民、国民、市民、庶民はおろか、「同じ民百姓」という言葉(ナレーティブ)にすら、そういう力学をみてとることができる(気になるひとは、そういう文献をあたってほしい)。
日本は、近代化して、日本国民になって、みんな一緒、みんなおんなじ……になったというわけである(以下「みんな一緒」原理)と呼ぶ。「みんな一緒」原理は、単なる平等主義とは違う点がある)。
あたかも、それはムラウチの皆の衆(ムラの衆)の意識が、同心円状に広がっていく感覚である。
ことほど左様に、いまでも日本には、たくさんのムラの衆=「良い人」たちがいて、
ことあるごとに「みんな一緒……」
「みんなおんなじ」(これが政治的場面では全会一致式とかになる)
「だれでも、努力すれば夢は叶うものだ」
「自分がされて嫌なことは、他人にしちゃいけない」「相手の気持ちを考えろヨ」
「みんな不完全なのだ。だからこそ、お互いを必要としている」だの
「…ひとりでいきてるんじゃない!」…
「社会(あるいは国家)、世間様に、生かされていることに、感謝しなさい」…だの
その手の御説教ばかり聞かされる……
なにかというと「みんな一緒」にしたがるひとがうじゃうじゃいる。
要するに、世間(社会)では、そういう切断線は、見ちゃいけない。
「キミとボクのあいだに横たわる深い溝は見ないでおこう」
って、いわれているのである。
そういった「目隠し構造」になってるから、
ひょっとしたら、ある種、その溝は、日本の方が深いかもしれない??。
わからないけど、
ちょっとぐらい疑ったって良い……
ちょっとぐらい疑って良いと言っても、
またぞろ大半の良い人たちは
「まあまあそうことを荒立てることもない」「和を持って尊しとなす」「仲良きことは美しきかな」……などと「究極のことなかれ主義的」お説教で押し流そうとするか、
「「皆の衆の立場」で、そういうムラウチの掟に疑いを持つこと自体、天にツバする恩知らずなことだ」とかといって、取り締まろうとするんじゃなかろうか?。

だいたい、日本の場合、「格差社会だ」なんて騒いでいるのは、
アウトサイダーではなく…
「まさにプチ・ブルジョアジー」(ソッシュ予備軍)たちだけのような気がする。
ワシには「格差社会」論も、目隠し構造の一種に見えてしかたがない。



かつて日本の近代化にとって、そういった(「みんな一緒」原理の)力が、非常に有利な面があった可能性まで否定はしない。しかし、日本社会(多くの人たち)は、そういった近代化成就、社会貢献を鼓吹することによって、切断線を隠蔽し、アウトサイダーたちを闇で葬ってきたことに、意識的に無感覚であろうと(忘却しようと)していたのではないか?とすら思える。
ことあるごとに、「欧米に比べると日本は同質的な社会」と言われてきたのは、じつは、みんなで、そう思い込もうとしていただけではないだろうか?
同質的な社会とは、じぶんの「なかま」以外の無視、自分たちにとって不都合なことをいうヤツを仲間はずれにして、排除してきただけのことではないのか?

いうまでもないが、世間の「良い人」たちが、「みんな一緒」原理を推進しているのは、単に近代化成就……社会貢献のためだけではあるまい。
「みんな一緒」原理は、世間の「良い人」たち=ソッシュの側の人たちを、無意識にソッシュ側から離脱させ、よっぽど用心深くなければ、結果として「良い人」たちは自分をアウトサイドの側に置いてしまうだろう。
…つまり「ボクもキミも、みんなおんなじか弱きアウトサイド(市民)だ」いうわけである(これは、日本のサブカルやオタク……文化にも通底するように思う)。
運が良ければ、官僚・腐敗…政治を正す、知識人、文化人、政治家、善意の第三者(弱者の代弁(代表)者)としてふるまうことすら許される。
だから「良い人」たちにとっては、ソッシュ側にならない(切断線を隠す)ことは、ヒール役にならなくて済むだけでなく、ずいぶん社会的に得をする(一粒で二度おいしい)ことになるだろう。
しかし、みんながアウトサイドになってしまえば、
そういった世界には敵がいなくなる。
だから、問題があると、
「みんな一緒の原理」国民(良い人)たちは、
まるで、自分たちがヒール役にならないためにも、ニセの切断線(たとえば右/左、親米/反米、官僚/国民、平和主義/軍国主義、革新/保守、民営化賛成/反対……etc(自分たち以外の敵))をたえず作り出して、もてはやして見せてるかのように見える。
もちろん、こういったことは「良い人」たち側の要請だけで、できるものではないだろう。
そもそも、古くは、勝ち組の要請に従順であることが、アウトサイド(敗者、弱者など…)の側の生存の条件であった。
さすがに、制度が充実した今では、それがそのまま今日明日の生き死にに直接関わるとまではいえないだろう。
しかし、要請に積極的に従順であることによって、
ひょっとしたら他人を蹴落として、自分だけキャリアアップ、ビジネス的成功だってありうるかもしれない。
逆に、弱者(敗者)がアウトサイドを自覚し、正面から掲げ、強調することは、
我が国の下のような困難と酷似しているのではないだろうか……。
「敗戦と占領を経て、法的に国家主権を回復したとはいえ、軍事的にはほぼ完全に、外交的にはかなりに、経済的文化的にも一定程度は、アメリカ合衆国に従属しつづけてきたのが、日本国家だった。この状況下でナショナリズムを自覚し、正面から掲げたならば、軍事と外交におけるアメリカからの完全自立を目標とする長く困難な闘争へと邁進するほかなくなるだろう
 だが、アメリカが珠に軍事的に世界国家化した戦後、ことに冷戦後の世界情勢下で、これは日本、いやほとんどの国家にとってあまりに現実性を欠いたプログラムである。
 そんないかんともしがたい屈辱的状況をまえに、日本人、特に知識人の多くは当初、ソ連・中共をうしろ盾としたマルクス主義革命を夢見て、日本民族が社会主義を掲げてアメリカ帝国主義から民主的独立を果たす路線を信じた。そして、革命の可能性が遠ざかるにつれ、彼らのほとんどは現実直視から逃げ、戦争放棄で世界の先駆となった日本という観念的なナショナリズムへと退嬰的にも閉じこもっていった。」(26頁)浅羽通明「ナショナリズム」
ソッシュ(インサイド)の知識人たちなら、長く困難な道でも、観念的なものに退嬰的に閉じこもって生きることもできよう、しかし、弱者(アウトサイド)が生きていくには、現実を直視し、現実を肯定する(要請に従順であることを-内面化する)か、しないか、しかない……??
しかし、否定すれば、長く困難な道が待っている…
では、肯定すれば……
アウトサイダーの道は、
楽な道なのか?
( ^∀^)ゲラゲラ



アウトサイド、弱者、ダメ……人間ほど、自己評価が高いという見方もある。
「日本はもっと立派なはずだと思いたい切ない心理」(286頁)(同書)は、
弱者、負け組の
「自分はもっと立派なはずだと思いたい切ない心理」と直にコネクトし(繋がっ)ている。




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by qsso | 2007-01-14 19:23 | つれづれ | Comments(2)
Commented by いし at 2007-01-15 19:10 x
それで
あなたの立ち位置は、、、
Commented by qsso at 2007-01-16 05:18
そうねえ
客観的にはロワーロワーだろうが
お願いできるなら
ソッシュ予備軍ということに( ^∀^)ゲラゲラ。

それで、もし、ねじれているとお気づきの貴兄には、
(ネットなどで)アメリカ的価値や恩恵に、
どっぷり浸かりながら、
ちょい反米が知的にかっこいいと思っている
(だいたい、そういう知的スタンスすら輸入されたものじゃ?)
いかにも標準的な戦後日本人と一緒ということで…お考えください
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