日本国家の自立

ってことがよく言われる
中途半端な反米&平和主義者にかぎって
特にそういうことを声高にいうひとが多い。

古くは漱石のような文学者が、
明治国家を「内発的ではない」と批判したことが、広く知られている(じつはもっと昔から、そんなことばかり言われてきたのだが…)。
そのせいかどうかはしらないが、それから、似たようなことが
独立国家論として、繰り返し言われてきたわけで……
現代ならさしずめ、敗戦後、米国に属国のように従属し続ける日本国家に対して、
真の独立国家、つまり、内発的な思想で自立した国家を目指すべきだと訴える「品格」論調がそれ。

中途半端な平和主義者は、
中途半端な反米主義者であることが多い。
なぜか?
「平和国家「日本」を戦争へと加担させる米国には反対(大国の横暴)だ」というわけである。
そうやって中途半端な平和主義者は、中途半端な反米路線を経由しているうちに、
次第に独立国・自立路線に流れて、右派的な路線に、吸収されてしまってることが少なくない(しかも、気づいてないところが、タチが悪い)。
戦争の負担を強いる世界国家「アメリカ」に毅然とした態度を示せない日本国家を批判し、
どんな関係(もの)にも従属しない、内発的な思想を持つ、唯我独尊、自立した国家であるべきだという。
(なかには、そうでなければ、「大嘘の平和憲法国家」だとか言い出すひとまでいるから、ちょっとしたプチナショみたい!(笑))

しかし、そもそも日本人の場合、反米みたいな、弱きを助け強きをくじく……巨悪に立ち向かう個人みたいな
(青臭い)知的スタンス(批判的精神)自体が、そこから輸入されたものだろうし(もともと日本ではオカミにお仕えして死ぬことぐらい(諫言、諫死とか)しかなかったからな…)、
それこそ欧米的な近代的個人(いちばん身近なのはハリウッド映画のヒーロー)への憧れと俗流の知的ファッションからのものがほとんどと思う(要するに、ちょい反米ちょい反体制を気どってるのが、知的にカッコイイと思っているだけ)。
少なくとも、反米思想自体は、内発的で自立した知的スタンスとは思えない。
ていうか、そもそも、なんの関係も影響も受けていない知的スタンスなんてありえるのだろうか?(これはずいぶん昔に柄谷から学んだことなんだけど)?

なんの関係にもとらわれず自分の内発的な信じた道(知的スタンス)を行く唯我独尊・自立国家といえば、オツムの弱い人には、なんとなく威勢が良くて、聞こえが良いのかもしれないが、
ごまかされてはいけない、そんな文句は、自分勝手なリクツで、相手(関係)無視で、国際社会で振る舞って良いと言ってるのとなんらかわるところはない。
かつての侵略国家(大日本帝国や第三帝国など)の行動原理と、さして変わらないのである?。
もしかしたら、そういうことを言う人たちは、「私たちは平和を愛する良い人間であり、その理性と良心に則って行動するからノープロブレム」とか思っていないだろうか……。
そういう人間の理性や良心だけをあてにすることが、
いかにあてにならないものかを思い知ったのが、あの二つの世界戦争だったのではなかろうか?

ワシなんか
大嘘の平和憲法国家かもしれないけれど
とりあえず、いま平和だからいいじゃん
自前で軍隊持ったり
自前で核開発するより
ラクでいいじゃん。
とか思うけど……
彼らは、そうは思ってはいないのだろうか?。

それにしても、どうして彼らが、
そんなに自立国家にこだわるのか?
たぶんに、それは戦後個人主義の(自立)思想をかいかぶってるような気がする。
個人が大人になって自立(核家族)するように、日本国も自立しなければならない。
自立する、一人前になる…
なんとなく、そんなふうに思ってるような気がする。
自立論をとっているひとに、いい大人が多いのは、そのせいかもしれない。
しかし、近代になって個人(国民)が自立したとはいっても、
なにもかも完全に自立しているわけではあるまい。
結局、イヤでも会社に行かなければ
暮らしてもいけない。
日本の男なんか会社から完全に自立してやってるひとは、そんなにいないのではなかろうか?。
その会社だって、商売だって、芸能だって、……
社会(国家や国家間)の掟や通貨を無視して、じぶん勝手にやっていいわけではないし、やれるわけでもない。
結局、近代的個人(国民)の自立と言ったって、そういった力関係の差異(強弱)のなかで従属して生きているわけで、それとは、まったく無関係に、個人が自立しているわけではない。
それなら国家だって国際社会という社会にいる以上同じことではないのか?。
アメリカという巨大な世界国家の力関係のなかで、うまく生きていく以外にないのではないか?
そう考えれば、日本がアメリカに従属するのも、お父さんが会社に行くのも、同じようなものではないのか?
かえって、完全に自立し、手前勝手なリクツでなんでもできる、唯我独尊国家のほうが、危険なのではないか?(個人レヴェルでいうと、そういう(戦国武将のような)人間ばかりが社会にじっさいにいたら困るように)
「敗戦と占領を経て、法的に国家主権を回復したとはいえ、軍事的にはほぼ完全に、外交的にはかなりに、経済的文化的にも一定程度は、アメリカ合衆国に従属しつづけてきたのが、日本国家だった。この状況下でナショナリズムを自覚し、正面から掲げたならば、軍事と外交におけるアメリカからの完全自立を目標とする長く困難な闘争へと邁進するほかなくなるだろう
 だが、アメリカが珠に軍事的に世界国家化した戦後、ことに冷戦後の世界情勢下で、これは日本、いやほとんどの国家にとってあまりに現実性を欠いたプログラムである。
 そんないかんともしがたい屈辱的状況をまえに、日本人、特に知識人の多くは当初、ソ連・中共をうしろ盾としたマルクス主義革命を夢見て、日本民族が社会主義を掲げてアメリカ帝国主義から民主的独立を果たす路線を信じた。そして、革命の可能性が遠ざかるにつれ、彼らのほとんどは現実直視から逃げ、戦争放棄で世界の先駆となった日本という観念的なナショナリズムへと退嬰的にも閉じこもっていった。」(26頁)
浅羽通明「ナショナリズム」
「たしかに、すべてから「完全自立」する…
それは大変、高尚なことであるのかもしれない。
それからみれば、今の生活は、いかんともしがたい屈辱的状況(囚人生活)だと喩えられてもしかたない…
しかし、この生活だって、それなりにいいところもある……
この生活を捨てて(会社を辞めて)まで、そんな困難な(ユートピア)プログラムに参加しようとは思えない……云々」
そんなふうに大半の大人は思えるのではないか?
自分のことについては、そう思っている大人たちが……
なぜに…国家の完全自立にこだわるのか?
わからない…?
お父さんたちが会社を辞めないように、国家も完全自立を求めない
大事なのは自立ではなく、
自分の幸福(ごきらく)な生活ではないのか?( ^∀^)ゲラゲラ
「大人は自由である。習慣や慣行に服従して大人しく生活することは楽しくて快い。動機はどうであれ、既成のライフ・スタイルに乗ることが一番良い生き方なのだ。確かに大人は、そんな生き方が最善のほんとうの生き方でないことは弁えている。しかし大人は、人生において最善のほんとうの価値を求めても仕方ないと割り切っている。それが大人というものだ。だから大人は気楽なのである。
 そして大人はデカルトに言うだろう。自分の人生を囚人生活に喩えられてもかまわないが、わざわざ苦労して脱獄する積極的理由があるだろうか。家庭や会社や社会を捨てるのは大人げないやり方だし、それは一部の変わり者の特権にすぎない。捨てたい者は捨てればよいが、自分は持ち場を離れるわけにはいかないし、そこで満足するしかない。脱獄こそが最善の道だと言いたい者には言わせておけばよい。悩みつつ牢獄に甘んじる大人の心情を、デカルトは分かっていないのだ。〈目覚めよと呼ばう声〉は音楽会の時だけの話だ。」(76頁)
小泉義之:「デカルト=哲学のすすめ」


浅羽通明「ナショナリズム」



小泉義之「デカルト=哲学のすすめ」

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by qsso | 2007-02-22 19:40 | つれづれ | Comments(1)
Commented by 舎 亜歴 at 2007-04-21 23:11 x
トラックバックができないので、こちらを。<a href="http://newglobal-america.tea-nifty.com/shahalexander/2007/04/post_1e57.html">日本人の歴史認識に問題提起</a>
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