国家を批判する論者たちを

日本という国家が否定されることは
日本人が否定される
という理屈で、
高橋哲哉など……サヨク系?のひとたちに怒りを感じるヒトたちがいる……
それにしても、なにが、そんなに気にくわないのだろうか?
考えられる理屈の筋道は、
日本国家が否定されるとき、否定される「日本人」が「私」だからだろう。
たとえば、日本国家が否定されるとき、否定されるのは「ブラジル人」であったり、あるいは、日本人が否定されるとき「私」がブラジル人なら、
なんとも思わないだろうと考えられるからである。
否定される「日本人」が「私」であるからこそ、
国家を否定する論者に怒りをおぼえる……そうとしか、考えられない。

まず、言葉を明確にしておきたい。
そういう論者が言いたい「国家の否定」というのは、
正確には、現在の国家に対する批判的態度のような気がする。
なぜなら、「国家を否定」は、論理的にありえないことだから。サヨク系?の人は、右傾しかかっている国家(の政策やそれを支持指導しているひとたち)を否定?しているかもしれないが、国家(という枠組)自体を否定しているのではないのは明らかだろう。
また、
日本国家の否定が日本人の否定に結びつくのは、
日本人の集合が日本国家となる場合であろう。
日本人の集合=日本国家
しかし、日本人であっても、日本国家を批判されても、なんら痛痒を感じない外国籍の日本人もいるだろうから…
正確には、(日本国籍を有する)日本国民の集合→日本国家
であろう。
まとめて言い直すと
「日本国家が批判されると、日本国民が否定される。
そして、その日本国民が否定されることは、「日本国民」である「私」が否定される。
「私」を否定する論者であるサヨク系のひとたちは、とんでもないヤツラである……怒」
そういう順序みたいである。
(ていうか、それ以外に考えるのは、ちょっと難しい)…
しかし、ここまでくると、
この考えが、そうとうクルクルパーな思想を元にしていることが分かると思う。
どこがクルクルパーか?
国家と自分との同一視。
こういった思想が、戦前の「お国のために」という思想と地続きなのは、ムカシはよく知られていた。
それなのに、こういうことを言ってしまう人たちは、たいがい自分のことを日本の古い体質を批判する進歩的な人間だと思っているから、いっそう香ばしい。
自分と国家を同一視してるから
国家を否定されると、自分が否定され
腹が立つのか……なるほど。

それにしても、
国家と自分とを、すぐさま同一視すれば、戦争動員まで行かなくても、
原発や米軍基地、屎尿、ゴミ処理施設など……を、そういうひとたちの家の隣に簡単に作れたり、
国家財政健全化のための優生法や安楽死を認めたり、国家国民(全体)の最大生存をめざして、少数の健常者を犠牲にして、たくさんの病人を助ける移植だって許されるだろう(ちなみに国家の財政は、そういう経済思想を大なり小なり正しいこととして……税金を取っているように思われる)。
国家の過失(&犯罪)による(薬害などの)被害者(個人)は、国家のために国家賠償金だって、請求すべきでないということになる(ここらあたりは、いかにもクルクルパーで自覚せざる国家主義者だという気がするが(実は、このような(軽佻浮薄な)ひとたちが、この国の国家主義の大半を支えている)。
たぶん、クルクルパーたちも、こんなことになるのは望んでいないだろう。
国家の利益と個人(私=自分)の利益は、つねに一致するとは限らないから、
国家のやりたいことを、自分がやりたいことと、すぐさま一致し(同一視はでき)ない。
当たり前である。
一致するどころか、
「自分」と「国家」の利害は衝突するのである。
(そういう衝突するところに出来るのものが公共圏(パブリック)だということが、いまだに理解している人が少ない。ほとんどの場合、公=国家か、公=シミン(社会)に回収されてしまい、「個」-「私」がいつまでたっても出てこないハナシばかり)

同一視できない側からすれば、
国家のやりたいこと、していること(施策)を批判し、
自分のやりたいこと(利己)を要求することは、国民-個人としての当然の権利であろう。


さらに「私」から考えれば
日本国民-個人は、社会的な「私」のひとつの属性にすぎないと考えることもできる
たとえば、
社会的な「私」の属性には、次のようなものが考えられる
○×会社の社員である側面、
大阪市民である側面、
男性である側面、
父親である側面、
世帯主である側面、
友達である側面、……
・身長……cm……
・体重……kg……
・チビ、デブ、臭い、ハゲ、水虫……
・出身地 えの戸
・言語 えの戸弁……
ふつう「私」は
いろいろな側面、属性(ヘーゲル的にいえば、色々な「自己」がある)を持っている。
社会的な「私」にとって、日本国民は、社会的属性の一つにすぎないだろうし、
また、社会的な「私」も、「私」から考えれば、そういうひとつの属性にすぎないだろう。
上の国家主義論者(クルクルパー)は、これがまったく逆さまになっていて
「私」が、日本国家のひとつの要素(や属性)にすぎないこと(なんちゃってヘーゲリアン)になっている。

どうしても、国家と「私(個)」のあたりで、躓いてしまう人が多い。
なぜか?
それはたぶん
自分の生まれ育った場所に対する自然な感情みたいなものが関係しているような気がする。
だから、躓いてしまう多くの人が、強い反発を感じてしまうのかもしれない。
確かに、自分の故郷(クニ)を大事にしたい気持ちは分かる。
自分を育ててくれた両親(あるいは集団)を愛するように、自分の生れた場所を愛する、愛着を持つのは、広汎に見られる人間の性癖(習性)なのかもしれない?。
その延長上に、「日本」というひとつのまとまりがあると思うのも分からないでもない。
つまり、
郷土(=故郷(クニ))=国家となっていることが多い。

たとえば、彼らの考える国家とは、しばしば
「祖国とは私たちが子供のころに夕暮れまで遊びほうけた路地のことであり、石油ランプの光に柔らかに照らし出された食卓のほとりのことであり、植民地渡来の品物を商っていたお隣のショーウインドウのことである。」(ミルヘス)
みたいな下手なブンガク趣味、あるいは郷土へのロマン主義に流さて
内面で
郷土(=故郷=クニ)と国家が強く結びついていることが少なくない(この点について、浅羽通明「ナショナリズム」P53-を参照して欲しい)。

しかし、勘違いしてはいけない
浅羽の本でも指摘されてるように……
このような郷土感情は、国家(主義)によって、つねに
ただ利用(あるいは排斥)されてきた存在にすぎない。
断じて、「郷土」は国家ではない。
この場合の「郷土」はブンガク(感情)でしかないが、
国家は目に見える統治(権力)機構(手錠、牢獄、死刑台、核弾頭…)なのだ。

近代・戦後民主主義から、こっちの「国家」というものは、
あくまで権力装置であり、
霞ヶ関に散らばる、官僚機構(法治機構)の謂いである。
(逆にいえば、現今では、法治(官僚)機構すらない国家は、国家ではあるまい。)

考えてみて欲しい。
日本国家(という統治機構)なんか成立する遙か以前から、
キミらの祖先は存在したし、また、その遙か以前からキミらの故郷(クニ-土地-land)は存在する。

そういう「ヒト」-「私」から見ると、
前述したように、
「(日本)国民」とは、社会的属性のひとつでしかないだろう。
具体的にいうと、法的取り決めで日本国籍を有することでしかない。
そんなもの、「郷土」とはなんの関係もない。
「子供のころに夕暮れまで遊びほうけた路地」とはなんの関係もない。

「「国民」という自覚がないのは、日本人ばかりではない。ロシアが東方進出のため敷設した鉄道を用い、一千万人ほどの清国人が、満洲、シベリアへ新天地を求めて流亡していった。
 彼らは、たとえば日本の、また清の国民としてのアイデンティティなどはほとんど有していない。ただ、少しでもしのぎ易そうな地を求め、どこへでも流れてゆくまでだ。そこに自らのアイデンティティを委ねられる国家などなくとも、人は大地の上で裸一貫で生きてゆける。
 ……当時の日本もまた、かなりの人々にとって、より生きやすいチャンスと引き換えに捨てても惜しくない国だった。」(33頁)浅羽通明「ナショナリズム」
なんらかの事情で
その国家(統治機構)が根こそぎにされる場合(例えば、敗戦した日本やドイツのように…)もありうる。
しかし、どんな名前の統治機構になろうが、
いつだって
裸一貫
生きてきたのが「人」-「私」である。

逆にいえば、
このような国家主義者の論理とは、
そういう
「人-私」の自信(覚悟)の無さの表明かもしれない。


すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 郵政民営化賛成の声!


国家nation
クニ(故郷・故里)country
土地(郷土) land


ちなみに
ワシは
高橋哲哉が大嫌いである( ^∀^)ゲラゲラ


浅羽通明「ナショナリズム」


高橋哲哉「靖国問題」

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by qsso | 2007-03-01 19:12 | つれづれ | Comments(0)
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