太宰治「姥捨」

a0009919_11331875.gif太宰の作品のなかで、『満願』や『姥捨』は、その筋では「転向」期の作品とかよばれている。とくに、『姥捨』については、その筋で、よく言及されてる(ような気がする)。

『姥捨』は、太宰が妻に裏切られ、その妻初代とおこした心中事件の顛末を描いたものであるが、太宰は、このことについて、それ以前にも二、三書いている。
が、『姥捨』には、そのどれとも違う「距離」が感じられる。




この距離を、その筋では、妻かず枝の主体をプロレタリア(あるいは、若いときのナロードニキ-左翼運動)と読みかえて、それへの……運動パトロンとしての太宰の訣別宣言だと言われる向きもある。

そういう文脈で読んでいけば、
例えば、東京から心中旅行にたつその晩、かず枝が「すしが食いたい」と言いだすところ、
『嘉七は、すしは生臭くて好きでなかった。それに今夜は、も少し高価なものを食いたかった。
「すしは、困るな。」
「でも、あたしは、たべたい。」かず枝に、わがままの美徳を教えたのは、とうの嘉七であった、忍従のすまし顔の不純を例証して威張って教えた。
 みんなおれにはねかえって来る。』
ここに左翼運動、あるいは民衆への啓蒙、教育的配慮へのある種の皮肉まじりな実感が込められていると、評すこともできる。
 また、心中の舞台となる水上温泉のその宿で、主人公の嘉七が二人の破局へ到る経緯をむしかえして、こういう……
『「ねえ、おまえは、やっぱり私の肉親に敗れたのだね。どうも、そうらしい。」
 かず枝は、雑誌から眼を離さず、早口に答えた。
「そうよ、あたしは、どうせ気にいられないお嫁よ。」
「いや、そうばかりは言えないぞ。たしかにおまえにも、努力の足りないところがあった。」
「もういいわよ。たくさんよ。」雑誌をほうりだして、「理くつばかり言ってるのね。だから、きらわれるのよ。」
「ああ、そうか。おまえは、おれを、きらいだったのだね。しつれいしたよ。」嘉七は、酔漢みたいな口調で言った。
 なぜ、おれは嫉妬しないのだろう。やはり、おれは、自惚れ屋なのであろうか。おれをきらう筈がない。それを信じているのだろうか。怒りさえない。れいのそのひとが、あまり弱すぎるせいであろうか。おれのこんな、ものの感じかたをこそ、倨傲というのではなかろうか。』
ここには結局、かず枝(あるいは「おまえ」=プロレタリアの主体)に対する「愛」が「同情としての愛」であり、裏を返せばそれは「おまえ」への(つまり芸伎だった実の妻初代への)軽蔑でしかなかったことに関する省察が含まれている、と読むことも可能である。
地元の素封家(ブルジョア)の子息でありながら、プロ作家に夢を馳せる当時の太宰にとってプロ運動は使命であり、重荷だった。それを作品の主人公嘉七に次のようなことを言わせている(ここでも「おまえ」=プロレタリアに読み替えてみよう)。
『私は、なんとかして、あたりまえのひとの生活をしたくて、どんなに、いままで努めて来たか、おまえにも、それは、少しわかっていないか。わら一本、それにすがって生きていたのだ。ほんの少しの重さにもその藁《わら》が切れそうで、私は一生懸命だったのに。わかっているだろうね。私が弱いのではなくて、くるしみが、重すぎるのだ。』
そのプロ運動の重さを切々と訴える。
失敗した心中の現場でひとり覚醒した時には、もっとけなげにも、
『おれは、まだまだ子供だ。子供が、なんでこんな苦労をしなければならぬのか。』
とその耐え切れぬ心情を告白しつつ嗚咽する。
もちろん、このことは、ブルジョア国粋化する社会背景が、太宰に劇的な変化を与えていることはいうまでもない。
つまり、プロ文学の衰退……アテが外れた(乗り遅れた)イナカ文学青年……ブルジョアとしての自分の自覚……
なにより作家になりたかった太宰にとって、もはや凋落したプロ運動や思想は、邪魔でしかなかった。
もう訣別するしかない。
それは、いままでの自分に対する訣別であり、初代(かず枝)との訣別を意味する……
とまで読めそうである。

太宰は、まるで還元主義的使命を実行するかのごとく、心中を決行する。
といっても、最初から死ぬ気は、さらさらなかった。
ポーズだけでよかった。
それならばカッコがつく……
だが、そのことによって太宰は、思わぬ貴重な体験をする。
ある種の「原始状態」体験(ペリアゴーゲー)が、あったような気がする。
それが本書の最大のターニング・ポイントだと個人的に思う。

太宰は、心中の発端を、嘉七に次のように語らせている(文中の「こんどのこと」とは妻の浮気のこと)。
『あの女に、おれはずいぶん、お世話になった。それは、忘れてはならぬ。責任は、みんなおれに在るのだ。世の中のひとが、もし、あの人を指弾するなら、おれは、どんなにでもして、あのひとをかばわなければならぬ。あの女は、いいひとだ。それは、おれが知っている。信じている。
 こんどのことは? ああ、いけない、いけない。おれは、笑ってすませぬのだ。だめなのだ。あのことだけは、おれは平気で居られぬ。たまらないのだ。
 ゆるせ。これは、おれの最後のエゴイズムだ。倫理は、おれは、こらえることができる。感覚が、たまらぬのだ。とてもがまんができぬのだ。』
オレは、この部分がこの作品のもっとも大事な部分のように思う。
 エゴイズムと感覚。
それが社会や左翼運動や啓蒙・教育ではどうにもならぬこと。
それでも、なお、太宰(嘉七)は
『私は、やっぱり歴史的使命ということを考える。自分ひとりの幸福だけでは、生きて行けない。私は、歴史的に、悪役を買おうと思った。ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す。私は自身を滅亡する人種だと思っていた。私の世界観がそう教えたのだ。強烈なアンチテエゼを試みた。滅亡するものの悪をエムファサイズしてみせればみせるほど、次に生れる健康の光のばねも、それだけ強くはねかえって来る、それを信じていたのだ。私は、それを祈っていたのだ。私ひとりの身の上は、どうなってもかまわない。反立法としての私の役割が、次に生れる明朗に少しでも役立てば、それで私は、死んでもいいと思っていた。誰も、笑って、ほんとうにしないかも知れないが、実際それは、そう思っていたものだ。』
太宰はなお、ある種の歴史・系譜・社会還元主義と、ゲーテ「光強ければ影も濃し」、あるいはニーチェ的な「末人」的デカダンス(キリスト)、ラスコーリニコフ的反立法、ハイデガー的決断主義、などのロマン主義的使命を折衷したポオズを貫こうとする(太宰というヤツはポーズだけのオトコなのだ(笑))。
言うまでもないが、デカダンスとは嘘を知りつつ嘘をつくことであり、きれいさっぱり嘘八百だということである。
ほんらい、デカダン対本能(原始状態)の闘いは戦う以前に決着がついているのである。しかし、「社会的使命」や「歴史的使命」という(ジツゾン的)虚構の中では、このデカダンスこそが(不健康こそがその虚構性によって)健康へと押し上げられてしまう。
オレの見る限り太宰は、そのことに気附かずに死んでしまったような気もする。が、もちろん、「エゴイズム」と「感覚」を、それと知りつつ「愛-神」=嘘をもって対峙するからこそ、デカダンスの真髄なのであろう。
のびやかな太宰の中期の幕開けとなるこの作品は、その「エゴイズム」と「感覚」という原始状態によって、大きな断絶を迎えることになる。

睡眠薬による心中はとにかく失敗に終った。
杉林の闇のなかで先に目覚めた嘉七は、ゆるゆると草原の勾配を下っていく。
そこで、いまだ目覚めぬかず枝を発見する。
薬物でいまだ萎えた四肢を引きずりながら嘉七は、『おれだけでも、しっかりしなければ』と思い、『よろよろ立ちあがって、かず枝を抱きかかえ、また杉林の奥のほうへ引きかえそうと努め』るが『虫の努力』、ようとして効果は上がらない。
『ああ、もういやだ。この女は、おれには重すぎる。いいひとだが、おれの手にあまる。おれは無力の人間だ。おれは一生、このひとのために、こんな苦労をしなければ、ならぬのか。いやだ、もういやだ。わかれよう。おれは、おれのちからで、尽くせるところまで尽くした。』
 ここでもまだ先の読み替えができる。多くの文学者はここにこそ、メッセージをよみとるのかもしれない。
 やがて断念して、次のようにいう、
『単純になろう。単純になろう。男らしさ、というこの言葉の単純性を笑うまい。人間は、素朴に生きるより、他に、生きかたがないものだ。』
『おれは、この女を愛している。どうしていいか、わからないほど愛している。そいつが、おれの苦悩のはじまりなんだ。けれども、もう、いい。おれは、愛しながら遠ざかり得る、何かしら強さを得た。生きて行くためには、愛をさえ犠牲にしなければならぬ。なんだ、あたりまえのことじゃないか。世間の人は、みんなそうして生きている。あたりまえに生きるのだ。生きてゆくには、それよりほかに仕方がない。おれは、天才ではない。気ちがいじゃない。』
 太宰は、この告白の前にも、『古い友だちも(中略)私の愛情を信じなかった。むりもないのだ。私は、つまり、下手だったのさ』と告白し、前期によく見られた天才の気取りが解除されている。

 社会的及び歴史的な使命に還元されることのない主体、そして、『単純になろう』『素朴に生きろう』という、太宰なり「解除」を作り出している。そうすることによってはじめて自己運動として「生きる」主体を発見した太宰を、
もうボクたちも、社会的及び歴史的な系譜・構成主義的読みをすることを辞めよう。
『おれは、この女を愛している。どうしていいか、わからないほど愛している。そいつが、おれの苦悩のはじまりなんだ。』
『単純になろう。単純になろう。男らしさ、というこの言葉の単純性を笑うまい。人間は、素朴に生きるより、他に、生きかたがないものだ。』
大事なのは、
感覚とエゴイズム
これだ!

オレが、この愚かな女を愛したのは社会の構造か?
社会的な自我か?
このできの悪い我が子を、すこしでも健やかなれと思うのは社会の構造なのか?
社会構造的な自我か
君が愛しているのはすべて構造か?社会構成主義のせいか?
社会構成主義的な自我か?
すべては歴史的系譜のせいか
オレがそいつらを愛しているのは社会構造のせいか?歴史のせいか?権力のせいか?
そういった知識は、結局、「わたしは社会という権力構造のなかだけで働くロボットです……はたまた世間のドレイです~?」と言ってるにすぎない。

書を捨て、口笛吹いて、街に出よう
そして、軽やかなステップでダンスを踊ろう!
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by qsso | 2004-08-14 11:34 | 太宰治 | Comments(0)
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