カテゴリ:哲学ノート( 452 )

「普通、物と関係する場を物と並行する方策が取られる。たとえば、原子論における空虚がその例である、だが、そうなると、物とは独立に存在する場は物とどういう関係にあるか、その存在性格が曖昧なままになる。そこで、思い切って物より物の関係を優先させる関係説が唱えられるが、関係は、あくまでも、物の関係であるから、関係とは何ぞやということになると、再び、物に帰られなければならなくなる。かといって、物を捨てて事に徹する道を進むならば、合理性の元となる自己同一者がそこにはないから学問が成り立たない。関係説は、現実としての事そのものを基礎を置こうとする志向と、合理的学問たらんとする思考の不安定な混交である。四次元多様体を使う方法は、この点、自己同一者とその総体的場を同時に供給する巧妙な方法である。」
「物理学は四次元多様体を書き込む際の文法を研究するのであって、事の世界を直接表現するのではない。これを忘れると物理的世界は実在するのか否かという生産的でない議論が生ずることになる。たとえば、物理学は、「放物線を描いて運動する石」を表現するが、「石が放物線を描いて運動するコト」を表現しない。物が運動するコトは日常言語によってしか語ることはできないのである。運動を表す式は、時間点と空間点の対応関係を限定しているのみであり、それは出来事に毫も言及していない。」(115頁)雨宮民雄「数学と質料」現代思想vol.25-9

「物体の質量はどのように知られるか。マッハの答えは、物体間の相互作用による速度の変化、つまり加速度を測定することによって、となる。では速度はどのように測るか。もちろん距離の変化だから、このようにして距離という基本量の測定に帰着する。では、時間はどうか。これは後に再論するつもりだが、図35に示したように、力学法則(配置の変化の法則)をまず確立すれば、それに基づいて時間は再構成できるというのがシナリオである。マッハの次の言葉を想起しよう──「物事の変化を時間によって測ることなど、まったくわれわれの能力を超えている、これとは逆に、時間とは、われわれが事物の変化を通じて引き出した抽象である」。これから具体的な指針を読みとるためには、投射体の運動を考えてみればよい。
図36を見ればわかるとおり、水平方向の慣性運動が時間を図る「時計」の役割をしているのである。慣性運動は「位置の一様な変化」だから、その一様な変化に即して他の変化(自由落下)の割合が測れる。そうすると、慣性運動での変化が同じベースで増えるのに対して、自由落下での変化は1、4、9、16という比率で増えていく(最初の落下距離を1とする)。これを的確に表現する手段が「落下距離は時間の2乗に比例する」という、時間を入れた表現になったわけである。」
(138-9頁)内井惣七「空間の謎・時間の謎」
a0009919_09290334.jpg


現代思想1997年8月号 特集=二〇世紀の数学

青土社

undefined



[PR]
大庭健「共生の強制、もしくは寛容と市場と所有」
自由主義をめぐる一断想
「自由主義を、専ら社会主義との対比において考えようとするならば、「権利」と「帰結」という相当に普遍的な二項対立のもとで事態を整理するのが、最も好便な出発点となる。例えば、こうである。どんな人も自由も尊重するという自由主義は、「権利」に着目するのか「帰結」に着目するのか、それに応じてふたつに分岐するし、せざるをえない。一方では「ある人が結果的には別の人を蹴落としたとしても、蹴落とされた人も自由に行為したのだから、結果を盾にして社会だの国家だのが介入してくるのは個人の自由の侵害だ」と主張する、権利至上主義的な自由主義──リバータリアン。
他方では、「ある人の自由が、結果的に別の人の自由を、その人のせいにできない仕方で阻害するのであれば、前者の自由を規制することこそが、個人の自由を尊重することである」と主張する。帰結考量的な自由主義──リベラリズム。この両極への分解である。
 自由主義は、歴史的にみても、不断にこの両極の間で大きく振れてきた。しかし、かかる一般論だけをもとにして、自由主義を単に社会主義の対立項としてのみ考察するならば、もっと目の粗い論法へと滑っていくことになる。例えば、こうである。自由主義の、かかる両極分解は、しょせん西欧先進国でのコップの中の嵐でしかない。それらは、遡ればレヴェラーズ・ディッカーズ、デカブリストからナロード・ニキの、そしてエスエルからクロンシュタットの、そして……といった、自由な共生の夢ゆえに血糊に足を取られつつ人の頭をカチ割ってきた歴史の中の、超マイルドなエピソードでしかない。従って(?)右のような英米式の自由主義の分岐は、むしろマルクスの今日的切迫性をこそ示しているのであって、云々。しかし、かかる論法で話をまとめてしまうならば、丸山を「自由主義の最良の血統」と認めて対峙した梅本レベル以前で終わることになる。」現代思想vol22-5
結果の平等志向の自由主義──リベラリズム…パヨク的というよりも…日本的に言えば、きわめてヒャクショー的な思考
そして、権利至上主義(働いたもんは絶対俺の物)的な自由主義──リバータリアン
ようは、カネモチ、権力者嫌いの平等思考の日本人が多いのか…
それとも、貧乏人、バカ、無能…嫌いの能力主義的な日本人が多いのか
それで変わってくるわけだなぁ(笑)

[PR]
Amazon.co.jp: 哲学はなぜ役に立つのか? eBook: 萱野 稔人: Kindleストア
「哲学に向いているというのはどういう人でしょうか。それは一言で言えば「頭の悪い」人です。つまり、なにか自分の理解を要求する問題の前に立ち止まってしまって、もはや一歩もその先に進めない類の人です。いくら考えても真に自分を納得させることができない問題に、馬鹿正直にいつまでも向かい合っているような人です。
 「頭のいい人」は違います。そんな問題にいつまでも向かい合っていても埒があかないのだから、そんなものはさっさと分かったことにして、もっとすぐに埒があく問題へと歩みを進めるのです。このやり方で次々に問題が「解決」されていきますから、その人は「有能」な人ということになります。すなわち「頭がいい」のです。…略…
 しかし幼い日々には、実に多くのことに「なぜ」と疑問をもったのではありませんか。本物の哲学者とは、この素朴な疑問を、誰もその前から逃げ出すことのない一個の厳然たる「問題」にまで鍛え上げた人のこと、この意味で極端に「頭の悪い」人のことなのです。」(斎藤慶典:講談社「本」june.2002)

斉藤さんの意見に賛同するつもりはない
だいたい哲学に向いてようが向いてまいが、ワシにはカンケーないからなぁ

哲学以前に「そもそも、人間として役に立たない」という文を考えてみよう
人間とは何か? 役に立たないとは何か?
とやりだしたとたん、自分の頭の中に数々の問題がうなりをあげて襲いかかってくるひと
その前段階で「ハイわかりました」となるひとと、ならないひと

「四則演算にしても、四則演算をする以外の何かの役に立つことがあるのだろうか」(澤野雅樹)

[PR]
「ここは、たいした理由はないが、S・J・グールドなどに紹介され、少しは知られたアンコウに登場ねがって、しばらく思考実験につきあっていただこう。チョウチンアンコウの小さなオスはメスの鼻先に突き出しているルアーの妖しい光をキャッチしたら、何をおいてもそちらへ自らをナヴィゲートしなくてはならない。そして、いちはやくメスのお腹の然るべき場所に食いついて、頭の先からメスの血管系と連結し、自律的な個体としての活動にかかわるスイッチをすべて切って、まあほとんど自己崩壊したかたちで、メスのボディ・コントロールに身を任せて、ただただメスの送ってくるはずの産卵信号だけに反応して放精すべく待機するのである。こういうことがまっとうできるのが、このアンコウのオスらしさなのだ。これは壮烈な性淘汰の篩にかかってきたはずである。放精の瞬間だけをひたすら測っている、いやメスに任せて「自己抑制」しておけるか。これはほかの魚のオスたちがひたすらメスの産卵を前にして、行ってきた活動の集中度にくらべると、まったく別の、それをすべて抑え込む方向の「努力」である。ぐうたらしてコストを軽減すればよいというのではなくて、コストを軽減するコストをかけねばならない。ダイエット競争か軍備縮小競争みたいものだ。これまたむずかしい。一度そのラインやコンテクストに乗ればよいが、そこへ行くのがむずかしいだろう。おそらく「ムカシアンコウ」のとっていたやり方とは別の生き方へ転じなくてはならなかったからだ。それはどうした事情だったろうか。アンコウのメスが発光バクテリアと共生して、暗い方へ暗い方へと向かって行ったからだろうか。暗い方へ向かうほどにアンコウのメスの口が大きくなりはじめたことは納得できるが、このことはアンコウのオスにとってはあまり都合のよい変化ではなかったろう。メスの口が大きくなることを魅力的だと思わなかったオスはつぎつぎにアンコウ業から脱落していった。なにより発光バクテリアと当時のアンコウのオスとは敵対関係にあったかもしれない。しかしそれに頼らなければやっていけないメスの事情とは何であったのか。それはきっと、メスがあまり餌探しに熱心に動きまわるのがイヤになる事情を考えるほかない。動きが少し悪くなってきたメスをめぐって、アンコウのオスたちのメスをめぐってのまずたいへんな競争が生じただろう。そこでは当初、ほかの魚の場合のように、大きなオスこそが有利な状況であったにちがいない。しかしやがて、それではダメになった。メスはどんどん深みに向かい、餌の条件もあまりよくない深海へ向かった。そこではたしかに餌を独占できそうである。しかしそうなると、大きなオスが困った。ゆっくり餌をあさってデカクなっているうちに、メスはどんどん深みへ向かう。デカクなっている暇はない。ここで小さいオスに有利になる条件が生じた。とにかく早くメスを見つけて腹に取りつくのだ。そこでの競争、これは放精のタイミング競争である。やがて、ほんとうに腹に食いついて、ほとんどメスの「放精器官」となるところまで、オスらしさが進化したのだ。もう時計どころの話ではないが、ここにも時計の変化が内在化されている。いっさいの発生過程が変化したのである。小さく成熟するのはネオテニーといわれる現象である。より一般的にはヘトロクロニーと呼ばれる発生プログラムの変化である。そうしたらこのようなピーターパン・シンドロームが起こるのかは、成長ホルモンの抑制される変化に関連する。遺伝子の操作が可能な程度に理解されている遺伝子の仕業である。そこが変わることが必要であった。おそらくアンコウのオスは、他の魚のオスとおなじような、昔のオスの機能を発揮することのできる遺伝子は潜在的にはもっているだろう。それを使わなくてもよいようなブロック機構を進化させただけかもしれない。ただし、時計の歯車を変更したか、その歯車がいくぶん空転してもよいような仕組みをもつに到ったのだろう。
 また見てきたようなレトリックを使ったが、これはもちろん思考実験で、時計の変更を必要とするのは、あくまでも外の事情、あるいは「他人の事情」であることを示しておきたかったのだ。ここをつめないかぎりは、時計の問題は、たとえ内部の遺伝アルゴリズムとしての時計進行機構は解明されても、それが現実に動く事情、つまり時をめぐるズレ、つまりたくさんの時を生きているという生物らしい存在にかかわる意味は解けないだろう。アンコウのオスにとって時の問題は、われわれに外の思考を要求するはずである。」
 (遠藤彰「内なる時間と外の時間」imago vol.5-11)

a0009919_19233538.jpg

[PR]

a=(……f(f(f………f(f(認識)))))……);

f(a)

だれだっけ永井均さんか? 入不二基義さん?
忘れた?
まぁどっちだっていいか(笑)
[PR]
「物理学は四次元多様体に物を書き込む際の文法を研究するのであって、事の世界を直接表現するのではない。これを忘れると物理学的世界は実在するのか否かという生産的でない議論が生ずることになる。たとえば、物理学は、「放物線を描いて運動する石」を表現するが、「石が放物線を描いて運動するコト」は表現しない。物が運動するコトは日常言語によってしか語ることはできないのである。運動を表す式は、時間点と空間点の対応関係を限定しているのみであり、それは出来事には豪も言及していない。
 かくして、数から出発して現実へと向かう方向には、二種の抑圧が働いていることが分かる。一つは、数で表されるものしか存在してはならないという抑圧である。一つは、自然法則に従う物しか存在してはならないという抑圧である。この二種の抑圧が事から立ち現れる物に対して加えられることによって、物が規格化され、規格化された物の方から、逆に、事が構成されることによって、地上的現実が天上化されるのである。」雨宮民雄「数学と質料」 現代思想 vol.25-9
a0009919_632992.jpg

[PR]
野矢さんは独我論的傾向、つまり「私の知覚」という自我を拒否したまま他我に近づく…そこが分からない…どうせなら他我しかない…他我という文脈の中に自我はきっかり収まるんだとはっきりいえば、わかりやすかったのに…まぁ言ってるか???
でもまたその眺望&世界がまるごと、独我論的世界にぴったり収まるだけかもしれないけれど…??(客観的で他我的な独我論(笑))
いいや他我も自我も拒否する方法だってある
相手の心も、自分の心も…じつはわかっていない
「痛い」という記憶と言語だけがある……テキトー
(途中経過)
ダニエル・カーネマン: 経験と記憶の謎 | TED Talk | TED.com

哲学・航海日誌

野矢 茂樹 / 春秋社


[PR]
「ドゥルーズが機械を理性ではなく欲望に結び付け、欲望を「動物になること」に発見するのは、ドゥルーズが炸裂系ギャグの思想家であることを如実に語っており、そこに読むものが見いだすべきなのが、ものすごい速度を持った笑いであるはずなのは、いうまでもないだろ。
 外見、内容ともに現代思想界の『大法輪』と化している『現代思想』において、にもかかわらずドゥルーズがきまじめに、あまりにもきまじめに語られていたのとは対照的に、わたしはそこに猛烈なギャグを発見して、小躍りしたものだった。しかし、こうした動物/機械系のギャグは、ドゥルーズのような確信犯の書いたものよりも、それを無自覚に行っている者の方がより決定的な段階に達することが少なくない。
 わたしたちはそのような例として、モーリス・ブランショを知っている。彼が不可能なものや語りえないものについて延々と書き綴っていくとき、わたしはそこに人間の理性や節度を超えた不可能な機械を発見したい思いに駆られる。「不可能なもの」といってしまうと抽象的で哲学的な響きをもってしまうために敬遠されがぢだが、具体的に例をあげればそれは、自宅のハツカネズミが強烈な勢いで一箇所を回転しているうちに大技を次々に繰り出していつのまにかオリンピックの水泳競技の金メダルを獲得してしまったということであり、純粋な思考においてしか可能にならないものである……」(津「笑いの迷宮・猛烈な回転」(匿名時評) BUNGEI 1994 春季号)

「そうした回転系のおかしさを根源的に追及してみせたのは、おそらくはニーチェだろう。みにくいひとも熱に浮かされたサルも一緒になって永遠に回帰し続ける大いなる渦、すなわち永遠回帰ほど、ひとの笑いを誘うものはない。ずいぶんまえから、ニーチェの思想にはいかがわしさを感じ続けてきたが、ついついまじめな解釈の方に引きずられてしまい、言い出せずにいたのだ。」(同上)

a0009919_21363788.jpg

[PR]
「『論考』(独我論)にとらわれている限り、ひとは生きることができない。生きることは、生きるとは、他者とともに歩むことだからだ」(橋爪99)

しかし、『論考』はこうも言ってる
「5.64 …独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。」

[PR]
「むしろ、言語によって「私はここに一人いる」ことが保証されているんじゃないかなぁ…」
すさまじきものにして見る人もなきブログ!

『論考』時点で、どうかはしらないが…専門家ではないので(テヘッ003.gif
「歴史が私にどんな関係があろう。私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。私は、私が世界をどのように見たか、を報告したい。
 世界の中で世界について他人が私に語ったことは、私の世界経験のとるにたらない付随的な一部にすぎない。
 私が世界を判定し、ものごとを測定しなければならない。
 哲学的自我は人間ではない。人間の体でも、心理的諸性質をそなえた人間の心でもない。それは、形而上学的主体であり、世界の(一部なのではなく)限界なのである。」(ウィトゲンシュタイン『草稿』二七一頁)

はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)

橋爪大三郎 / 講談社


[PR]