カテゴリ:文学・歴史( 42 )

聖徳太子はいなかった(新潮新書)

谷沢永一 / 新潮社


ひろさちや、そしてこの谷沢永一さん(柄谷行人さんも)
愛すべき 関西人
逝かれて…もう何年になりますか?
さみしい限りです

ひまがあったらよく読んでましたが
本棚整理で見つけました
この本、読んでなかったなぁ~
関西のインテリはセンテンスが短くていいですねぇ
そして不必要なことをいわない
好きです。

そう。この本は"聖徳太子"が不必要だということを言ってるんですね。
聖徳太子非存在 ¬(∃x f(x))
厩戸皇子の実在までは○△ まーどっちだっていいやぁ本です。

もちろん先生は古代史をご専門にやられてる方ではありません。
なので、その手の推論or論証のたぐいの本ではありません
肩書きにもあるように評論家、書誌学なので…
…非存在説の…
いわゆるガイドブックなのです。

ガイドブックというと
他人の本をあれこれ読むだけで
A⇒B⇒C
∴存在しない
いたの?いてないの?いったってしょうがない調
という具合にあまりに退屈なので、
いわゆる戯作調なのでしょう

それでも随所に谷沢節は健在です…一杯飲みながらごゆるりと…
「リクツは最終的には力の強い者に味方してくれるのである。」(33頁)
「我が国はどれほど近代化して能力主義をおもむこうとも、世間がおこす波風の底には、出自家柄を尊ぶ精神の岩盤がすこやかにのこっている。」(37頁)
「天武天皇は唐の大宗と同じく、長兄をいただかねばならぬ身の不運をじっとかみしめ、隠忍自重の雌伏に堪えぬき、かねて周到な策謀をめぐらし、必要な手順を着々と積み重ね、時いたるや蹶然と身を大博打を投じ、世のおきてを踏みにじる勢いに乗って、とうとう皇位に達した。親の譲りを受けて位についた並みの君主とはことなる。彼は精力と油気と野心の凝りかたまった闘将であり猛獣であった。」(38頁)
「かたや支配の合理化、こなた反抗の合理化、方向は異なるが、意図(モティーフ)と精力(エネルギー)の発動という点では変わりない。人間社会の根幹が、生殖行為に存するのである以上、、個人が自己を合理化するための方法は、つきつめてゆけば、生誕を可能にした条件の確認、という、もっとも古くしてもっともわかりやすい、判定の方法によるしかない」(40頁)
「持統天皇は、天武天皇とのあいだに生まれた愛し子、草壁皇子を後継者と確定するため……深く意を決するところがあったらしい。すなわち大津皇子を容赦なく粛清した。この猛女はスターリンの大先輩である、その草壁皇子が若死にした。対策として自分が即位し、高市皇子を太政大臣の栄位に就けた。」(40頁)
「今のところ『上宮聖徳法王帝説』と呼ばれている書類が生まれた。学者の間ではむつかしい読み方がおこわれているけれど、必要もないことだから省く。正式の書名は記されていないようである……」(44頁)
「実力で権力をかちとった者は、実力で天下をかちとろうとする者の出現、近い将来にあらわれるでるかもしれない輩の、その可能性の芽をつみとっておかねばならない。」(47頁)
「藤原不比等にとって、聖武天皇が聖徳太子の生まれ変わりであることは自明の事実であった。人間は自分の言う論旨をそのまま受けとってくれる相手を立派な人だと信じる。人間にとって、自分に好都合な現象こそ真実である。人間は、自分の思い願いをかなえてくれる偶像を必要とする。格好の偶像が見あたらない場合は、誠実に偶像をつくりあげるのである。」(51頁)
「上代から中世にいたる時期、歴史記述はすなわち政治であった。宗教もまた政治であった…貴族社会におけるなみなみならぬ政治感覚を、あたまから認めようとしないのは、近代人の度しがたいウヌボレであろう。」(53頁)
「古代から中世いたる時代の文書が、なにをどのように記してとどめていようとも、すべては政治から生まれて、政治の目標に役立つために作為せられた。『日本書紀』もまた、ピンからキリまで政治のために書かれている」(54頁)
「政治の功罪は運に左右される。避けがたく運に左右される。」(56頁)
「聖徳神話にあっては、欽定であった裁判伝説が、のちには在野の智脳から発した。経路を異にするだけで、衆の精神を慰撫するというはたらきにおいては変わりがない。」(57頁)
「稗史野乗は、世のなりゆきに先行する。正史はあとから時間をかけて、過ぎさった事柄のツジツマをあわせる。」(58頁)
「ギリシャ悲劇詩人エウリピデスが…
 公平および平等は言葉としてあるのみ、現実に実現することはありえない」60
「信念の発露は事実の認識よりも強い。人間は心のよりどころをもとめながら生きているのであって、昔も今も、人間は現実をそっくりそのまま、うつしだす鏡面ではないのである。」(68頁)
「マッカーサーがかつてフィリッピンに下し与えた憲法の、その草案にひとはけ加えたのが、日本国憲法である。GHQの高官が、英語で書かれたこの文書を、我が国のかたちばかりの委員たちに交付し、ただぢに諾否を決せよと迫ったあと、しばらくベランダに出て、太陽光線の恵みを受けよう、と言ったと伝えられる。原子爆弾の効果を忘れるなという脅迫であろう。憲法草案をめぐって、議会では若干の応酬はあったけれども、日本国憲法は、反対派を許さない雰囲気のなかで成立した。宮沢俊義が一夜にして新憲法肯定にまわった処世はよく知られる。」(82-3頁)
「表には和をふりかざし、裏では力をほのめかして従属させることが。政治の要訣となる。」(91頁)
「忤(さか)フルコト無(な)キヲ宗(むね)トセヨ
 …十七条憲法をほめそやす人であって、この一句を表面に押しだして賞揚した人を見たことも聴いたこともない。」(91頁)
「…大体が人間性というものは、馬鹿げていて、悲しいものですよ。しかし、もし人生が君に寛大ということを教えたならば、人生は泣くことよりもむしろ笑うことの方が多いのがわかるだろうと思いますよ」サマセット・モーム「この世の果て」(102頁)
「昭和二三年、家永の目の前で、東京大学の日本史の主任教授である坂本太郎が、石生成一を選んでむかえいれ、それまであいていた教授の空席が埋められた。あからさまにこれを見よといわんばかりの人事を眺めて、おそらく家永は、今の世は間違っとる、と感じるようになったであろう、そして次第に反体制へと走っていく。」(122頁)
「論争なら論争らしく、議論の材料だけを吟味すればよいであろうが、情けないことに、すくなくとも我が国においては、かならずしも正しいとは限らぬ論争の片方がが、自分のメンツを保つため手段を選ばず、その時代に政治的な力をもつ権威をカサにきて、論理や実証に足をおくのではない優位の情勢を人工的につくりあげ、軍配が自分のほうにあるよう、手をつくして仕向けるという傾向がある。」(127頁)
「法隆寺が建てられたときの格式は、あまり高くなかったのに…」(134頁)
「人間はたえまなく苦の種を考え出しておきながら、並行して苦を消すための信仰に精をだす。なんとご苦労様であることか。」(155頁)
「人間の頭脳はあたえられた生理の構造からして、真実をそのままストレートに反映し認識するようにはできていない。」(185頁)
「もとより生産は基本である。しかし生産の現場は、散発であり分布であり点在である。たがいにせめぎあい競争する個々の生産力を統合して、よそから見て実体以上に大きな力として受けとられるようにまとめあげてゆくのが政治である。…生産力をたばねて威力として勢力として迫力として、未来へつなげるのが政治である。人の世は生産力をたばねて国力に昇華させる政治によって動く。…歴史の思考とは、それぞれの時代を運行させた動力の観察である。…」(216頁)

ちょうどいまラジオから let it be が…
なりゆく なりゆく
"つぎつぎになりゆくいきほひ…"
そして先生は司馬遼太郎の下のような引用で本書を締めくくっている
「記録のない古代を詮索するのは、実証性というレフェリーやリングをもたないボクシングのようなもので、殴り得、しゃべり得、書き得という灰神楽の立つような華やかさがあるものの、見物席にはなんのことやらわかりにくい。」(街道をゆく)

つまり、この手の類の本は笑った人が勝者です!
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この本。
かんたんに言っちゃうと、
小泉改革…その前中後を語った本。

最初に言っておくと、
この本の「あとがき」は、
おもきしモンキリで古く、
使えないハナシなのでパスします……。

以下箇条書き風にまとめずに…
書いてみますた。

・勝ち組/負け組指標を利用して隠そうとしたもの……
そう。何かが語られるとき、必ず、なにかが隠される。
そのことのほうが、時として大事なときがある。
みんなが混乱したり、取り乱しているときは……特に。

ぬあんか、こんなハナシを聞いちゃうと、
死んだ会田雄次のハナシを思い出すんだなぁ…
会田のハナシってのは、
「終戦」の反省をシカツメらしく語っている人たちこそが、
じつは敗戦を隠した(い)張本人だったっていうこと……。
あれだけ多くの反省が語られているにもかかわらず、
じつはそれこそが彼らの責任を隠すものだったってぇこと。
(ここであの「アーレントの責任」を引いても良いが)
じゃそれは誰なのか?、
会田によると、軍人はもちろんだが、
戦争を煽ったマスコミ、多くの教育者、お役人…
この指摘だけは、ホントに大事だと思うなぁ(といってもひとは、所詮勝ち組にしか乗らないから
意味無いかも?)。
以下は会田弁
「一番励んだのは官僚でしょう。いわゆる無名のまま背後で煽った連中です。自分の名で戦争を起こして敗北したら当然処分されるはず。東条英機(ママ)すら自殺しようとするぐらいですから、名前が出た人々は覚悟していたと思います。しかし第二線級の連中はそんな覚悟もなしに煽っていたのでしょう。
 無名の人々で次に挙げられるのは新聞人です。マスコミです。彼らは激しく煽ったにもかかわらず、誰がやったと言いだしたら自分の身が危ないから、一斉に隠しましたね。…(中略)…
 その次に挙げられるのは学者、教育者だと思います。煽ったのは特に教育者、教育学者ですね。『戦争へ行ってこい、御国のために死んでこい』といい続けていた。」
「その代表は、東京帝国大学教育学部の連中だったと思います。その中心人物の海後宗臣など戦前は、徴兵不合格者は罪人だから罰せよと書いていたのを私ははっきり覚えています。不合格になるような奴は身体が弱くてお国の役に立たないから処罰せよと主張した。そんな連中が、梅根悟、宗像誠也等以下そのようなことを書いた人物が、戦後は急転直下、侵略主義の権化天皇の排撃ですよ。一言の弁解もなしにね。立場が変わったので有名なのは歴史学者の家永三郎ですが、彼の場合には変わった理由はっきりしている。戦前は皇国史観を説いていましたが、戦後は百八十度転向した。ただし終戦直後に変わったのではなくて、自分が東大の教授になれないと知って急転直下左翼になった。彼はまだいいと思う。というのは、あれは彼の個人的恨みだということが、人から見てよくわかるからです。」
「彼(ビルマの最高司令官・木村兵太郎)大将は気分としてどうしても許すことができない。あの男は片腕を失った兵隊でも除隊を許さず敵にかみついて死ねと前線に送りだした。だが英軍が来るとラングーンに何万という日本の婦女子、看護婦、一般市民、それから軍隊を置いて逃げ帰ってしまった。卑劣とも何ともいいようがない敗戦責任者です。だから戦犯で処刑するのではなくて、敗戦責任で殺すべきだったと思う。部下をおいて逃げて帰ってしまった司令官はそうされてしかるべきです。しかも彼らは逃げて帰る時の飛行機のなかで辞令によって昇進している」
「私は少なくとも戦争中に将官になっていた人々は、天皇陛下の命令で任務についたわけですから、全員切腹するのかと思った。昔の武士のように腹を切るのだと思った。ところが阿南陸相など四、五人が腹を切っただけでした。それどころか、日本人はその人たちを戦後持ち上げた。なかでも辻参謀というとんでもない破廉恥男を、参議院でトップ当選させた。この男は単なる人殺しです。こんな男を選挙で当選させるから、ますますわけがわからなくなった。
 一方B、C級戦犯の場合のように明らかに無実の男が残虐行為だといってどんどん絞首刑になっているにもかかわらず私たちは反抗もしなかった。けしからんともいわなかった。戦後の無責任時代、責任逃避時代は、こういった亡国日本が敗戦処理もできずに、狡猾な変節漢・無責任人種をのさばらせたことから始まったと思います。」(p.13-14 会田雄二「日本人は敗戦を認めよ」月刊【発言者】Aug.'95.(西部邁事務所))
まことにお説ごもっとも…である。

橋本は、勝ち組だ!負け組だ!とか、そういうものを必要としていた人たちは、
じつは勝ち組ではないひとたち、
「パッとしない人たち」だったということに注目している。
パッとしない人たちは、負け組ではないものの、このままいくとずぶずぶと負け組にスライディングしてしまうパッとしない人たち
「本当だったら”負け組”にカウントされた方がいい人」(p.84)
このパッとしない人たちが、ぶら下がる対象として勝ち組(いわゆる”トレンド”ってやつかな?)を期待、必要としていた…
会田のハナシと関連があるのは
このパッとしない人たちが、勝ち組にぶら下がっているあいだは、いままでの(バブルや無策の)反省しないですむ
無責任ですむ……「「本当だったら”負け組”にカウントされた方がいい人達」は、「勝ち組」にぶら下がって生き延びる」(p.84)
会田なら
「「本当だったら”戦犯”にカウントされた方がいい人達」は、「占領軍」にぶら下がって生き延びる」
っていうおハナシ…
うーん、にゃあるほどとは思うけど…
ただ、
勝ち組/負け組なんてハナシ(図式)は、
変わらずに古い話じゃねッ
日本人なんか、つねにそういう思考法でやってきたんじゃ。
雑駁にあげても、源平、関ヶ原、維新、戦争、ヤスクニ、イジメ、郵政選挙、バッシング炎上…みんな常に勝ち組ぶら下がり論理
つねに勝ち組が暴走する社会…ニッポン!チャチャチャッ!

・バブル崩壊後の日本のことを書いているけど、かなりの部分は郵政選挙&小泉改革について。
郵政選挙の橋本の認識は、
そのむかし紹介した石川好とほとんど同じと言っていいじゃないかなぁ?…(p.80)

このなかで
「小泉にしたがったほうが得だと思ってしたがった人たちが大半だったということが見過ごされている」という指摘をしている。

やっぱ日本人は民主主義は分からなくても、損か得かだけはよーく分かるんだよねぇ
こっちの線のほうが、なんとかマトモなみんしゅしゅぎが成り立ちそうな気がするんだけど……功利主義じゃなくて損得主義

「重要なのは、その改革が適切かどうかではなく、それを言っている人たちが勝ち組かどうか?」(p.91)
まったくもってその通りだよねぇ。
たとえば、勝ち組コイズミ(郵政改革)に対するマスコミの最近の対応とか…
その逆が、アソー。
世界って不条理だねぇ?(笑)

「我慢がなくなった」(p.202)
んじゃなくて、我慢が変質してしまっただけだと思う。

・それにしても、なんでこうも
他人にぶら下がって自分のあたまを取っちゃいたい人たちが多いのか?
って思うかもしれないけど…
まぁぐうたらなワシがじぶんのことを言わせてもらえば…
ヤッパ楽なのねぇ…考えなくて良いっていうのは…。
オンブにダッコで、バンザイなのよ。
ひょっとすると日本国民って、一度だって、自分で考えて行動したことがないのかもしれない(笑)。
「そんなバカな!」「ふざけんな!」
って、日本人であるあなたは思うかもしれないけど、
きっぱりと言っちゃうと、そういう見かただって充分に成り立つと思うんだなぁlollol。

勘違いしちゃいけないのは、
そういったぶら下がりは、低学歴の家庭の主婦やアホなオヤジ&若者だけじゃないってこと。
ていうか、そんなことを考えている、ちょっと教養ってもんがあるオジサン・オバサン…のほうが、よっぽどべったりぶら下がり。
そんなオジサン&オバサン(オニイサン&オネエサンも加えてもいいけど)ほど、最新の思想やカタカナコトバ、小賢しいリクツ(最新のトレンドってやつ)にべったりでしょう?。
ドゥルーズが何を言ったとか
最新の思想はマルチチュードが核心とか
だれそれが権威がないとかあるとか
人の考えだけが頼りのくせに、
自分で考えたつもりになってる
こういう「パッとしない人」がタイハン。
だからよけいにタチが悪いわなぁ。
かくいう、こんな新書を読むワシも…
こんなもん読んで、安心して、頭とっちゃいたいために読んでることになるなぁ(哲学・思想書なんか好きなひとは、みんなそうかも(笑)。そういうもんを振り回せば、それで安心・幸福なんだよ)。

・相変わらず
目覚めよ!、システム(現状)からの脱出!
を説く気味の橋本だけど

といっても、みんなソクラテスになるわけにはいかないしねぇ
要路のことは要路の人にっていう考え方だってありでしょう?…
めんどくさいことは他人にまかせといて、
楽しいことだけ考えて(自分の幸福だけ追求して)生きる…
それもあんまりだと考えるなら…
結局、テキトーが一番良いんじゃねぇ

少なくとも、
ぶら下がるかどうかの問題じゃないかもねぇ
それぐらい人間って業が深い?

・ハシモチにとって、日本の社会は、あくまで”完成されたシステム”(ワシが思うに、たぶんに欧米型民主主義を超えているという意味で)で、その完成された社会を改革をすれば、自分たちの既得権益が損なわれるということは分かっている、しかし、このままではどうにもならないということも同時にわかっている社会なのねぇ

「自分たちの既得権益は減少し続けている」「自分たちはなにもしないが、誰かがなんとかするべきだ」というかんじで、勝ち組の暴走は十分に待望されていた…
このことは前にも書いたねぇ
ただ、待望されてない時代ってのが、たぶんに見あたらないと思うんだ。

まぁ「あとはよろしく」……ってことで
いまのポストコイズミの政局は、これを読んでから…なんて言って良いのか?

※太字は基本的に引用……と思う。
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を三ヶ月かかって読破。
ちかれた。
「趣味に理由がいるのかしら」
313ページ(プラトン学園マドンナ千石霧子のセリフ)

要らない

世の中には、趣味を理解しない人が多い。
たとえば、凡人(ワシを含む)は、
哲学者を見ると、
そんなふうに、なんでも、かんでも哲学的に(名前を与えて概念に押し填めて)考えてしまう必要はないのではないか?
と疑問を抱いてしまう。
たしかに…そんな必要どこにもない…
この世の中、哲学のテの字も知らない人はごまんといるが、それでなにか困っているようには見えない。むしろ、そんなもんなんもしらないひとたちのほうが豊かで善良で幸福な人生をおくっているようにも思えるぐらいである。
どう考えても、そんな必要はどこにもない。
哲学的に考えてしまうのは、単なる趣味であろう。
他人に何かを言うとき、つい頭を掻いてしまうくせのひとがいるが
あれとおなじようなもので…
理由はないのである。
趣味である。

ぬあんだ!、理由がないなんて、つまんない、あほくさい…と思うひといるかもしれないが…
ほんじゃぁ世の中に、真に理由があるものってあるだろうか?
たしかに……(ごく短いスパンで考えると)
受験勉強なんかは合格すること(ひいては社会的成功のため)に理由があるように思えるし、
働いているのも、家族の生活のため…のようにも思える。
しかし、じゃ、どうして合格したいのか、
どうして家族と生きていたいのか、
どうしてそんな必要があるのか……
と、どんどん理由の理由を尋ねられれば……
だんだん返答に窮して
あやしくなる…
「木はなぜ育つのか?」(スマリヤン)
朴念仁
神ならぬひとに究極の理由なんて……わかるわけない。

あーあ
生きる理由なんて、どうでもいい……

ぬあんて
もちろん、そんなふうに考えてしまうことも、また趣味なのである
仕事も趣味、地球市民もプチナショも趣味、
国家も趣味、戦争・平和も趣味、死刑も趣味、
社会も趣味、学問も趣味、
生きるのも趣味、死ぬのも趣味!
趣味!趣味!……シュミ!シュミ!……
……
「趣味に理由がいるのかしら??」

「♪生きてる理由なんてない
 ♪だけど死にたくもない
 ♪こうして今日をやり過ごしている……
 ♪そして今僕の前に横たわる
 ♪先の知れた未来を信じたくなくて
 ♪目を閉じてすごしている」
YouTube - mr children未来 -LIVE


奥泉光「プラトン学園」

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エイエーンのブンガク性年

「一九六〇年の丸山真男のように一般庶民のマイホーム主義を否定的に語ってはいけないし、一九九八年の小林よしのりのように若者の「ミーイズム」を虫酸が走るものとして罵倒してはいけないのです。なぜなら、もし現代の社会にもう一度「公的なもの」が作り出されうるとしたら、その足場は疑いもなく私利私欲だからです。……
 いまなお課題の形は変わっていません。私利私欲の上にどう公共性を築くか、が僕達の課題なのです。」1(78頁)

つまり「合理的経済人」を足場に置くって事ねぇ。
むずかしい言葉じゃない。スーパーに駆け込むおばさんたちですら日々実践してる。
それにしても、
いまなおエイエーンのブンガクセーネン&ショージョに、
このことを了解して貰うには、こんなまどろっこしいハナシをしないといけないのかって感じ。

加藤にしても、文学者って、
なにかというと、浅い、深いっていうけど……
いったい何なのかなぁ???。
ブンガクで読み替えれば、それだけ深いのか?
って言いたくなる(結局、「このワシだけがいちばん深いのじゃ!」って言いたいだけじゃん?)。

「日本の戦後という思想的泥沼に生きる経験を糧に」(283頁)
とか、
文学青年?って、相も変わらずひとりで不幸をしょってるみたいなガキっぽいヒロイズムばかりで、
たいがいうっとしい…なぁ…

加藤典洋「日本の無思想」
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「ムカシもイジメはあった。
だけど、それを止めるヤツがひとりやふたりはいたもんだ。
いまはそういうガキ大将みたいな子がいない。
いまは、いじめた子をかばうと、かばったその子がいじめの対象になってしまう」
なんていうひとがいるけど……
ワシは、ぜんぜんそういう風には思えない。
止めた人がひとりもいなかったなんていうつもりはないけど。
(それなら今だって、少数ならいるだろう)
少なくとも、ワシが通っていた学校には、止めるヤツなんかひとりもいなかったなぁ~
妹、弟のクラスも、そうだった~
イジメられっぱなし……だったよ~
それが、二、三十年前だから……
それよりもっと前なら存在したのか?
それよりもっと前というと
戦中・戦前……
しかし、インテリなんか
少年時代に、疎開先の田舎のガキ大将にイジメられたというのが定番の回顧談(怨念)になってるよな。
だれも、ガキ大将を止められなかった……ような気がする……( ^∀^)ゲラゲラ
だれも、止められなかったというと……
天皇陛下万歳!鬼畜米英!
国民総動員……戦争!
ノーモア・ナガサキ・ヒロシマ……
あのとき、戦争反対!、徴兵忌避!、打倒天皇!なんて……出来たヤツが、たくさんいたとは思えない。
戦後ドラマでは徴兵忌避者をイジメるのは、もっぱら憲兵だが、むしろ、世間にこそ、そういう者への迫害が強く存在したからこそ、可能だったのではないか?とか……
えーとそれより以前のことは……前にも書いたか?( ^∀^)ゲラゲラ

すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 「日本の拝金主義は
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 戦後の日本人はコシヌケだと嘆いている皆さんへ
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 日本人は物忘れがひどい?
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鉄鼠 : 浅羽通明「ナショナリズム」

わかもの……君の行く道は……ボクの通った道

「すなわち、彼はつねに多数者全体の良識の側に立って訴えてきたのである。
 そして、政府だろうと現体制だろうと、この多数者全体から見て正しければ、誤っていれば否定する。
 ……
 だが──、多数者全体とは誰か」(15頁)
「世間」だ。
「自らの存在理由をめぐる不安を解消したくて、社会問題へ関心を寄せ、正義の側へ加担することで安心したがる若者たち……。」(17頁)

しかし、「世間とは、きみじゃないか?」(太宰治)
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社会主義のナショナリズム

「敗戦と占領を経て、法的に国家主権を回復したとはいえ、軍事的にはほぼ完全に、外交的にはかなりに、経済的文化的にも一定程度は、アメリカ合衆国に従属しつづけてきたのが、日本国家だった。この状況下でナショナリズムを自覚し、正面から掲げたならば、軍事と外交におけるアメリカからの完全自立を目標とする長く困難な闘争へと邁進するほかなくなるだろう
 だが、アメリカが珠に軍事的に世界国家化した戦後、ことに冷戦後の世界情勢下で、これは日本、いやほとんどの国家にとってあまりに現実性を欠いたプログラムである。
 そんないかんともしがたい屈辱的状況をまえに、日本人、特に知識人の多くは当初、ソ連・中共をうしろ盾としたマルクス主義革命を夢見て、日本民族が社会主義を掲げてアメリカ帝国主義から民主的独立を果たす路線を信じた。そして、革命の可能性が遠ざかるにつれ、彼らのほとんどは現実直視から逃げ、戦争放棄で世界の先駆となった日本という観念的なナショナリズムへと退嬰的にも閉じこもっていった。」(26頁)

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・ボク=日本人

「「国民」という自覚がないのは、日本人ばかりではない。ロシアが東方進出のため敷設した鉄道を用い、一千万人ほどの清国人が、満洲、シベリアへ新天地を求めて流亡していった。
 彼らは、たとえば日本の、また清の国民としてのアイデンティティなどはほとんど有していない。ただ、少しでもしのぎ易そうな地を求め、どこへでも流れてゆくまでだ。そこに自らのアイデンティティを委ねられる国家などなくとも、人は大地の上で裸一貫で生きてゆける。
 ……当時の日本もまた、かなりの人々にとって、より生きやすいチャンスと引き換えに捨てても惜しくない国だった。」(33頁)

 そう!そう!
 惜しくなくなったら
 どこへでも流れてゆくまでのこと…
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・日本人とは誰か?

「日本人が、愛郷心や藩の主君への忠誠心ではない、日本国家への心情を自覚するに到ったのは、徳川時代末期、黒船来航で顕わとなった欧米諸国からの外圧ゆえだった。」(37頁)
この繰り返されるステロタイプ。
このとき名指されている日本人とは、いったい誰のことだろうか?

「日露戦争当時で人口の2.2パーセントしか選挙権者がいない明治国家」(202頁)

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自発的にファン……

「「……「日本の連戦連勝」は、近代社会の弱者・敗者でしかない民衆にも、”強者の一員としての彼ら”という自尊心をもたらせてくれた。常勝チームにファンが殺到するあの心理である」
「(民衆らは)お互いに煽りたてあいながら自発的に「国民」になっていったのである。」
(牧原憲夫「客分と国民のあいだ」)
……」(45頁)
ナショナリズムとはファン心理。
他人に過大に期待する

「満洲にあっては、「強者の一員となる」願いは、自尊心以前に、今日明日の生き死ににかかわる切実さをもっていたはずだ」(45頁)

自尊心も、生き死ににかかわる切実さかもヨ……?
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君は一体だれのために

「君は一体誰のために働いとるんだ、ロシアのためか」(48頁)
じぶん(のすべて)のためです。
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オクニ

「「祖国とは私たちが子どものころ夕暮れまで遊びほうけた路地のことであり……」ミルヘス……
パトリオティズム=郷土感情はナショナリズムではない。ナショナリズムは、近代国家とともに生まれた人為的なものだ。……
パトリオティズムはナショナリズムに、「時として利用され、時として排斥される」(橋川)。」(54頁)
民衆(弱者・敗者)の
強者(勝者)の一員としての一体感…錯覚

内面性の全体化
全体性の内面化
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いまだ国民(ネーション)なし

「「民衆をして真のネーションたらしめん」。橋川がこう表現する福沢の課題は、また当時の権力者が切望するところでもあった。国防のため人民を動員するにあたり、自ら「国家」へアイデンティティを抱き、すすんで従軍し報国する「国民兵」こそ必要としたからである。
 この急務を果たすべく、我が国が採った方法は、全日本人武家化計画だった。」(59頁)
日本国民=日本のファン

ご主人様のために、
こっちからすすんでいってワンといって死ぬのが日本人=武士道=日本人のファン

勝ち組と負け組の取り替えごっこ
ホントは、みんな勝ちた~い

「パトリオティズムを乗り越えるかたちで生まれた近代ナショナリズム」(64頁)
学校とテレビのナショナリズム

日本人としての紐帯(記憶)……学校とテレビ

戦後民主主義-教育

田舎⇔都会
戦前⇔戦後
戦争⇔平和
前近代的⇔近代的
軍事的⇔経済的
古い⇔新しい
悪(イケテナイ)⇔善(イケテル)……戦後日本人の倫理の基盤

「「近代国家はそれ自体、人間を作り出すひとつの教育装置」(柄谷)」(84頁)


「近い」ってのは、
運命だなぁ~( ^∀^)ゲラゲラ
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保守主義

「…事実として長く継承された制度や習俗のなかで培われてきた心性を尊重して、抽象的絶対的な理念や超越的信仰を懐疑する。保守主義とは元来そうした思想である。すなわち、長く続いた「事実」が、そのまま「価値」と見做される」(129頁)
これじゃ、保守主義とは、
近代主義リベラリズムだなぁ
わかってないなぁ~浅羽( ^∀^)ゲラゲラ
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ブンガクなんて…ララーラー

「……できたてほやほやの近代国家(もしくは民族)=ネイションの公権力が、それ以前の原型的なコミュニティ=エスニーの諸要素を、主に国民教育を仕切るために再構築したのが、国語や国文学や国史であった。そして、その生まれたばかりのフィクションへ付された自画自賛こそが、日本文化論なのであった……」(134頁)

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日本人の無私性

おのれをむなしゅうするということ

武士道=日本人性=奴隷根性の刷り込み
「オマイラは、いさぎよくご主人様のために死になさい」
忠犬ハチ公
「負け組は、いさぎよく勝ち組のために死になさい」

「個人を屹立させない……。さかしらでない=理念をもたない……。自然と人間を対峙させない……。くっきりとした方向性をもたない……。思い詰めた執拗な粘り強さがない……。容赦なき徹底性を厭う……。」(138頁)
たいはんの人間は奴隷だったから
悲しい過去…奴隷の歴史…人類の歴史

戦争をやってる国が、
ラストサムライなんて、もてはやしてりするのも、そのせい。
「不条理なまま殺されてもオレたちゃ奴隷だからしょうがない」
そういう空白(不条理)を埋めるための物語-武士道
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国家とは言い難い国家=日本

「戦争を放棄した非武装日本、従来の常識からは国家とは言い難い日本は、それゆえに、世界の先頭に立つパイオニア、諸国家が仰ぐべき模範なのだと思い込み、敗戦で焦土と化し、武装解除された現状にあって自らのプライドを保ち、屈折したかたちで「ナショナリズム」を充足しようとしたのだった。すなわち「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占め」(憲法前文)と思うことで満たされるナショナリズムを。あたかも、一週遅れたランナーがトップだと勘違いしたごとく」(254-5頁)

ワシはそこまで欲がないから
国家でなくたって
ワシが幸福ならそれでいい……( ^∀^)ゲラゲラ
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浅羽通明「ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門」


浅羽は、
「人はなぜ「思想」などを必要とするのか」?と、
問いかけ
「…人が思想を必要とするというよりも、思想を必要としてしまう人がいるのだ」(290頁)
と答えている。
浅羽にすれば、
「思想」を必要としてしまうほど弱く青臭い(ほとんどビョーキの)人間がいるだけなのだ……。
「ナショナリズムとは、コスモポリタンとして生きるには弱すぎる者たちの補助具」(291頁)
思想=ナショナリズムを必要とするほど弱すぎる者たち……
「日本はもっと立派なはずだと思いたい切ない心理」(286頁)は、
じかに、弱者、負け組の
「自分はもっと立派なはずだと思いたい切ない心理」にコネクトし(繋がっ)ている。

弱者のエゴイズムの帰結-近代民主主義国家

(もちろん、この考えでいけば、コスモポリタニストも「コスモポリタニズム」という思想を必要としている以上、弱く青臭いガキになるな。ここらへんは意外とヴィクトル・ユーゴーを引く柄谷かなぁ(笑))

「弱者の共同体である民族国家」(283頁)

そう!
みんな青く弱い……。
国民-民族。
ネーション、ポポロ


「思想」を必要としてしまうほど弱く青臭い(病気の)人間がいるだけのこと…」
もちろん、それは
「哲学」だって、おんなじこと。
だから
哲学なんかやってるヤツは、だいたいみんなキモイ~( ^∀^)ゲラゲラ


カルスタでは、よく指摘されることだが…
本書では、司馬を戦後民主主義において、空白(タブー)だった大衆のナショナリズムに、ひとつの模範解答をしめした重要な思想家として位置づけ、かつまた、戦後民主主義-近代主義者としての限界を示す。


個人的には、
リアルタイムがおおい本……なので
「アナーキズム」のほうが、面白かった。
どっちにしても、若い人は、読んでおいて損のない本。
アナーキズム―名著でたどる日本思想入門
浅羽 通明
筑摩書房
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※※

伝統とは何か?


本書で、浅羽は
伝統とは何か?
さかんに問いかけているように思える(280頁)。

「先祖から継承されてきた無数の遺産のうち、どれとどれを「伝統」という物語に採用するかは、まったく現代人の価値観次第である。護るべきたった一つの「伝統」などありえないのだ。」(280頁)
としている……
まったく、その通りである。
たぶんに浅羽は、
「日本の誇るべき伝統」という言葉で、
巷のホシュのオッサンたちが、なにか一つの伝統(「大きな物語」)に抑圧、ファシズム(全体化)してしまうことを意識(危惧)しているのだろうが……
たしかに「保守主義」における「伝統」とは(巷のホシュのオッサンたちが、どう考えているのかは知らないが)、
「保守」という構えのなかで示されてきたものや物語ともいえるが……、
むしろ、伝統なのは、示されたものではなくて、その構え(スティル)におけるマインド(思想)のほうなのではないだろうか?。
だから、浅羽の言うような「一つの物語」批判は的を少し外していると思う。
(ひとまず、物語に対する、文法、文体と考えてもいい)

保守主義というと、
マスコミ&進歩的知識人などのせいか、
すぐさま、戦後民主主義図式(安直な段階史観みたいなもののモノマネ)で、
自民党、守旧派、旧態依然、閉鎖的、現状肯定、現状維持…
前近代的因習……などと(要するに「古い=悪い」、「新しい=良い」の二項対立)
言下に否定、侮蔑するひとが、じつに多いが…(まったくもってステロタイプな…)…、
要は出来合いの負のレッテルを貼って思考停止に陥っているだけである。
そもそも、
そういう態度そのものがワシに言わせれば、「戦後民主主義の保守」的態度(構え)そのものである。
勘違いしてはいけない。批難しているのではない。
「いままで考えてきたことを、そう簡単には変えたくない」というのは、
人間の認識の自然な性向ですらある。

新発見、革新理論、パラダイム・チェンジ!etcと喧伝される
科学の理論ですら、
できるかぎり、それを避けるかたちが……
例えば、部分を手直しするような手法をとって、体系全体(システム)を維持するような(ピースミール)……手法が採られている。
というより、
まったくの革新、まったくのパラダイム・チェンジなんて……ありえるだろうか……?
鉄鼠 : 保守主義者。……ほかクワイン、ローティ……などの論考をリファーしてほしい……
ここでは「長く続いた「事実」が、そのまま「価値」と見做され」(129頁)ているかもしれない……)
こういった保守の態度(保守主義)なくしては、科学もトンデモになってしまうのではないだろうか(この理屈でいけば、日本の学者のほとんどは保守主義者ということになる)。

というか、
僕たちが使うコトバすら、そういった保守の態度(保守主義)なくしては、
使用できないのではないだろうか?
そういう観点からみれば、
どんなに一見デタラメに見える流行語やスラングも…、保守、伝統の「使用」に他ならない……。

こういった保守主義の態度は、生物がイメージできる。
絶えず、打ち壊しながら維持される……生命
……
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「八の史的考察

 この「はち」に関しては平安後期のものとして「本朝はちや由来記」がある。それは、
「洛中洛外から畿内まで夜になると忍び出てあらし廻り、官裁をもって警戒しても、元来が忍びになれた者ゆえ、ここかと思えば又あちらの飛燕のような早業にて立ち廻り」
 と、その反体制ぶりをとき、なんとしても取締りのできかねた当時の模様をのべ、
「よって京はいうに及ばず、国々にても手をやき、毒をもって薬になさんと、八の者をよび、これに乱暴盗賊の防ぎをさせたところ、その功が現われてか日本国中にこの八の支配(司法警察)がひろまった」とでている。「日本列島原住民史」[朝日新聞社刊、日本シェル出版刊]に詳しく解明はしてある。
 つまり戦国時代にあっては、
「八の者」つまり「はちや」といわれた連中は、安国寺といった寺方や、それまでの既成勢力側からみれば、それは賎民にひとしい原住系の人間だからして、
「藤吉郎さりとて八[の者]にて候」とは、これは軽蔑をこめて書かれたのが原文である。
 それを間違えて、安国寺はケイ眼[慧眼]で藤吉郎を、さりとてはの者とみて天下をとることを予見していたなどと書くのは、盗作か借作して歴史とするにしても、あまりに出鱈目すぎはしないか。
 八の部族がはっきりした存在だった事は、『集古十種』に、「摂津国天王寺蔵、佐々木四郎高綱旗図、長三尺八寸二分幅二尺五寸」
 と説明されている源平時代の旗にも、「治承二戊戌年八月上旬。討敵事如蜂起。無退無転無二無三、兵術自由自在、己割鉄石而己」と高綱の自著の上に「蜂起」の大文字がある。蜂と八は同じである。
 また、梶原源太の布旗には、ただ一字。「八」とだけ大きくでている。
 つまり日本歴史専門家はご存じないが、「八はた」を信仰する「みなもと」の原住系が日本にはいて、これが足利時代には、
「白旗党余類之徒」とか「八」といわれていた。なにしろ秀吉も信長に仕えていた頃は、旗さし物には、丸に「八」を入れたのをもって戦った。
 そこで日本の大都市名古屋では、
「郷土のうんだ英雄をしのび」その○八を市章にさえしている。なのにそれも知らずに、
「藤吉郎はさりとて八」を間違えたり盗用しているのには、なんといったらよいのだろう。
 また附言すれば、出雲などでは明治まで、「郡巡りはちや」の下に「村うけはちや」があって、彼ら八部衆というのは、つねに捕物用の棒術、剣術、柔術のけいこに励んだ。
 そして各地とも上役人見廻りや年貢納め、又は祭りの時には、
「大小二刀をさし、棒をもって警護役」をつとめ、各受持の村方の非違を訊(ただ)し、
「あげ米」と称し一般百姓は稗や麦が常食なのに、はち衆は献納させた米を食していた。
 だからして江戸期やそれ以前のものに、
「八木」とかいて「よね」「こめ」とよませているのも、このためである。
 また羽仁五郎氏は『都市の論理』で、アテネの例をひき、憲兵警察官は奴隷の仕事だったというが、これは日本でも同じことで、
「天孫系に制圧された原住系の八」が、その役割をはたしていたのである。だからして、よくチャンバラ映画で、主人公がみえをきり、
「おのれ不浄役人め」とか「不浄な縄目をうけるものか」というのもこれからである。
 バッタバッタと江戸時代の捕手が斬られる場面だけが許可されるのも、そのせいなのである。
 もちろん、ヤ印の八部衆全部が体制側の走狗で、
「御用ッ」「御用」をしていたわけでもなかろうが、岡っ引や番太もみな同じである。
 ところが村方に寄食して威張って米をくっていた八部衆も、明治七年に警察制度が変ると、前御用族の彼らは村方一同から迫害された。
 もちろん、もう米を献じてくれる者もなく、あべこべに殴られ蹴られ爪はじきにされた。
 これが「村八分」という文字にかえられている具象の真実である。つまりこうした、
「八」の歴史でさえ専門外といわれる私などしか知らぬところに、日本歴史に虚妄が沈澱する。」(八切止夫「八切日本史」)



「村八部の起り

 頼山陽が門下生になり教えを受けた事もある備後神辺の儒者にして詩人でもあった菅茶山は、文政10年(1827)年8月に死去する前に「福山風俗」「福山志科」を書き残した。
 その中に備後福山市東の三吉村に、
「三八という者らの住む地域あり。これ水野侯が福山十万石を賜る時、三河より伴いきたりし八の者なれば、今も三八と名づく」と出ている。
 この水野侯というのは「汝も光秀に肖るべし」と、家康から光秀遺愛の槍を貰った寵臣で、大坂夏の陣の大和街道の指揮官を勤め、後の島原の乱にて討死にした板倉重昌に代わって松平伊豆守が指揮をとっても不落と聞くや、老体に鞭打ち福山から駆けつけ島原を落城させた水野勝成で、その三男も旗本に取り立てていたが、この倅が旗本白束組の水野十郎左衛門である。
 さて、この福山の三八について、「六郡志」に、
「三八は常に両刀を腰に帯び、牢番、警吏、拷問、処刑をなし、深津村專故寺の前にて斬首をせしが、のち榎峠にてこれを行っていた」同地方の事を誌している。
 また「備後御調史料」では、
「当地にては茶筅は竹細工をなすが、勧進ともよばれ代官役所の稲の坪切りをなし、普段は捕縛術剣術の練習をなし常時代官の検覧をうく。また鎮守の祭礼には神輿の先払いをなし、陣笠ぶっさき羽織にて両刀を帯び、手に六尺棒腰に十手をさした。三八または八部衆ともいう」とでている。
 これは「おどま勧進勧進」の五木の子守唄で知られるように、いわば「乞食」扱いを蔭ではされながら、表向きは刀を二本さし代官直属として、気にくわぬ者はすぐ召し捕ってしまい、でっちあげのように牢屋へ放り込んで断罪していた三八の風俗である。今でも言われる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」の語源かこれからだという。
 さて、なぜ百姓が彼らを乞食扱いしたかというと、正規の扶持米ではなく、百姓から役得のように米を巻き上げ、それで寄食していたせいである。
 明治維新で薩摩出身の川路利良が邏卒総長となり、外遊後新しい制度を設けてから、それまでの警察官であった三八が村内からつま弾きされてしまったのが、いわゆる今も伝わる「村八分」の起こりなのである。
 また、裏日本での「因幡志」にも、
「伯耆や因幡にては、元日、盆の十三日にはハチヤが唱門師のごとく各戸を廻り米穀を貰い受く。平時は御目付役宅に出入りし、棒や十手をもって警邏をなし、軽罪はハチヤ預けといいて、彼らに歳月を限ってハチヤの奴僕とされた。」とあるし、出雲などでは、
「文化4年(1807)松平出羽家書上書」という公儀へ提出の公文書もあり、それには、
「当家が雲州の拝領せし後、各郡ごとに「郡廻り鉢屋」を設け郡牢を一個所ずつ置き、この鉢屋の頭は尼子時代の牢人の素性ゆえ「屋職(やかた)」とよばれ、その下に
「村受け鉢屋」があって、これが各村ごとに数戸ずつ配置され、担当区内の村民の非違を司っていた。これは天領の大森町も同じで、他に一定地ごとに鉢屋の集落移住地があり、ここでは常時、抜刀、柔術、棒術を修練。山陰地方にて名ある武芸者はみな此処の出身なり」堂々と書かれている。
 しかし明治7年に警察制度が変革してからは、やはり村八分として追放された者が多く、大正6年調査表の「島根県分布一覧」には僅かに、「鉢屋186戸、長吏173戸、番太56戸、得妙3戸、茶筅30戸。計448戸」とある。
 また尼戸の残党が村受け鉢屋や郡代鉢屋になった事の裏付け史料としては、
「昨十九日の合戦にて、鉢屋掃部ら鉄砲をもって敵を討取りし段は神妙に候」
「はちや、かもんら永々と篭城のところ、このたびも敵勢取りかかり押しよせし時も、おおいに力戦奮闘、武辺をかざりしは神妙也」といった永禄8年4月20日、同10月1日付の尼子義久の花押のある感状が、はちや衆かもん衆頭の、河本左京亮宛で現存している。
 「掃部頭」というと、今では井伊大老の事をすぐ連想するが、彼が公家を弾圧し安政の大獄を指揮したのは彼個人のバイタリティーのみでなく、「公家に対する地家」つまり「俘囚の末裔が武家である」という民族の血からの、反動的な圧迫だったともみられるのである。
 それにもともと公家というのは、「よき鉄は釘にならず、よき人は兵にはならぬ」というのを金科玉条となし、彼らが征服した原住系の末裔をもって兵役を課し、「夷を以って夷を制す」となし、これが武家の起源であるが、差別の為か蔑視の理由によるか、そこまでは解明できないが「掃部頭」とか「内膳」「弾正」といった官名ぐらい軽いものしか、武家には与えていない。「清掃人夫取り締まり」とか、「配膳係りのボーイ」といった扱いだったのが前者の意味であり、後者は「糺」という文字も当てられ「ただす」と訓されていた。これは唐から輸入された制度で天智帝の時に始まり、大宝令で法文化された延暦11年(792)に「弾正例八十三条」という当時の刑事訴訟法が発布されたが、公家は、「兵になる事を嫌った」ごとく、「ただす役割」もまた嫌って、これを原住系に押しつけた。「千金の子は盗賊に死せず」の精神なのである。だから、よく映画や芝居で「おのれ、不浄役人め」とか「不浄な縄目にかかるものか」と軽蔑した言葉が出てくるのは、つまり俘囚の子孫が役人だった事に起因している。
 だからして公家が織田信長の父信忠に「御所に献金したのは奇特である」と「弾正忠」の官名をやったりしているのも、織田家というのは実は近江八田別所、昔の捕虜収容所の血統だからである。
 しかし、尾張の織田家を弾正にしたところで、京へ来て「御用、御用」と召し捕りをやるわけではないから、その後は有名無実になってしまったが、明治2年5月に新政府はこれを復興。同7月に弾正台京都出張本台、4年2月に弾正台京説摂出張巡察所と、捕物機関を設けたが、後司法省に吸収され、なくなってしまった。」(八切止夫「論考・八切日本史」)


我ら!八切史観(笑)

八切止夫作品集
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ホント、このところの大河は
アゲマン伝説好き……だなぁ~
だれか書くと思ったけど……
やっとでたか~



大河(ドラマ&映画)はもとより、
歴史小説というのは、ウソ話がおおい(ていうか「ほとんど」といっていもいいくらい)。
シバリョウなどが書いている作り話を(シバリョウって意外と調べてないよなぁ(そのことについてはまえに書いた))、そっくりそのまま事実だと信じ込んでいる人が、
けっこういるからびっくりする。
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10代後半、
アコギ一本で
駅近くの公園
汚い便所の前
顔色悪く、へたくそ、大声

I'm an antichrist
And I'm an anarchist
Don't know what I want but I know how to get it
I wanna destroy the passers-by
cause
I wanna be anarchy
……
って唄っていたオレ……
みるべきところまったくなし
「早く家に帰ってクソして寝れ」って感じの……

キリスト教文化のない日本で、
そんなこと言ったって、ゼンゼンアナーキーにもなんにも……お話にもならないことを、当時ガキだったオレは知らなかった。
……

「ゲンダイシーソーをパンクしよう!」
なんだか甘酸っぱい本。

むかーし、この本が出た頃、
講談社の三木さんから勧められて読んだ。
当時確か、本人からもメールを貰ったような気がする……
(なんでくれたのか?いまだにわからん(笑)
そうそうなんでか知らんが、その頃は、大月隆寛からもメールをもらったような気がする)
もっとも、ついこのあいだまで、文盲だったオレに、
はっきりいってブンガクなんて分かるわけもない。
チョーテキトーなことを書いて返信したような気がする(笑)。

当時もいまも、やっぱりヤギ男とかガイトウ男やサカナ男のハナシはさっぱり分からない。
おもきし飛ばして読んだ。
再読しても、たいして印象は変わらない。

言語=観念で作られた「ゲンジツ」を破壊して、
そいつをいつも可能にしている脳みそを
アスファルト(ストリート)にぶちまける
石川のいう「唯物論ならず者」……とは、
そういうやつのことだ!
勘違いしてはいけないのは、
ここで「唯物論ならず者」とは、あくまで、
ストリートにぶちまけられたシラコのような脳みその方ということだ。
そうじゃないとおかしい~
とにかく、オレにとっては、
彼のブンガクとは、ぶちまけられたシラコを読み解く…

キレゆく「私」
キレゆく……ゆえに、まだ死んでいない「私」
ゲンジツをいかに「はつる」(脱臼させる)か?
ストリート・ブンガクジャンキーは……
本書は、それを目指す。

もちろん、こういったジャンキーに携われるのは、「人間のクズ」だけだ。
石川は言う、「人間のクズ」とは「ウィトゲンシュタインの想定する人間」のことである……
「ウィトゲンシュタインの想定する人間」とは「自分なりの意志を持っていたり、伝統を受け入れていたり」する一人前の人間ではなく、「人間のアマチュア」のことである( 91頁)。
それがホントにウィトの想定する人間かどうかはともかく、面白いことをいうと思う。
「人間のアマチュア」
だからこそ、言語=観念から自由である。

ふーん~なあるほど……いいたいことは分かるけどさぁ~
人間のクズからしたら、社会情勢や、ブルジョアジー、国際的ヘゲモニー、資本主義オヤジ等など、ことさら敵視するのはおかしくはないか?
弱者の味方をするのはおかしくないか?
正義なんかどうでもよくないか?
社会なんかどうでもよくないか?
ブンガクなんかどうでもよくないか?
人間のクズからしたら、愛や正義のまじめくさったブンガクジャンキーも、強欲にまみれる資本主義オヤジも、おなじクソヤロウだもの~
石川も、やっぱりそこで言語=観念に嵌っているのではないか?
つうか(石川も分かってるだろうけど)
ブンガクって、「言語=観念」そのものなんだもん~
「言語=観念」を「言語=観念」で塗りつぶすだけなんじゃ~?
石川曰く
やっぱり「指導的原理」に嵌ってしまうのではないか?( 177頁)
そう!石川もまた「「指導的原理」に嵌ってしまうのではないか?」という指導的原理に嵌っている。

ブンガクジャンキーは、人間の真の快楽を目指す……
うんわかった!
しかし?だけど?なんで?どうして?
言語=観念の資本主義オヤジたちが
人間の真の快楽を味わってないと、なぜいえるのか?
他人を従属させることが、
あるいは、
他人に従属することが
人間の真の快楽でないと、なぜいえるのか?
他人を縛ることが
あるいは、他人に縛られることが
人間の真の快楽ではないと、なぜいえるのか?
「縛っちゃイヤ!」は
ホントに「縛っちゃイヤ!」なのか?(笑)

そもそも、他人とそんな「チカラ」の関係なしで、いられるのか?
否、そもそも関係とは「チカラ」の関係以外にあるのか?
書き手-読者はどうだ!
文字・言語-読者はどうだ!
話者・ハナシ-聴衆はどうだ!
基本的に上・下のない言語は使用にたえうるか?
基本的に正・悪のない言語は使用にたえうるか?
そこはホレ、このまえ引いた、大庭の
「解体されるべき権力と、コミュニケーションを支えている力と、一体どこで区別するんですか」( 21頁)
ってこと……

そういう薄っぺらい正義や愛のおためごかし=ブンガク(言語=観念)こそ、
突破することにあるんじゃないのか?
ブンガクジャンキーが目指すのはブンガクではなく、
ブンガクを突破することだ!
だって
ブンガクジャンキーが目指すのはブンガクではなく、
快楽なんだから

「僕は昇りまた落ちてゆく 愛に似た金を握って
 どうせ逆らえぬ人を殴った 天使の様な素振りで
 毒蜘蛛も犬も乳飲み子も共存すべきだよと言って
 偽らざる人がいるはずないじゃん
 この現実に目を向けなさい」
     kazutoshi sakurai「マシンガンをぶっ放せ」

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