<   2006年 12月 ( 7 )   > この月の画像一覧

終わりに近づいてまいりました……
走り納め
投げ納め
打ち納め
しめ縄
門松
アコギの掃除
ゲンを変える

振り返ってみると今年は、
去年に比べると最悪で、
来年は今年よりさらに最悪な年だろう~
気がついてみると
ワシは生まれてこのかた、ずっーと最悪な年が続いている……
期待なんかしてない。

期待なんかしていないが、
思わず核ボタンを一秒間に三十万回押してしまった。
(そういうことだってあるさ~「人間だもの」)

サラバ地球よ!

スペースシャトルはゴキゲンだぜ!

一汗かいたから
風呂にでも入るか?
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ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門
浅羽 通明
筑摩書房
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鉄鼠 : 浅羽通明「ナショナリズム」

わかもの……君の行く道は……ボクの通った道

「すなわち、彼はつねに多数者全体の良識の側に立って訴えてきたのである。
 そして、政府だろうと現体制だろうと、この多数者全体から見て正しければ、誤っていれば否定する。
 ……
 だが──、多数者全体とは誰か」(15頁)
「世間」だ。
「自らの存在理由をめぐる不安を解消したくて、社会問題へ関心を寄せ、正義の側へ加担することで安心したがる若者たち……。」(17頁)

しかし、「世間とは、きみじゃないか?」(太宰治)
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社会主義のナショナリズム

「敗戦と占領を経て、法的に国家主権を回復したとはいえ、軍事的にはほぼ完全に、外交的にはかなりに、経済的文化的にも一定程度は、アメリカ合衆国に従属しつづけてきたのが、日本国家だった。この状況下でナショナリズムを自覚し、正面から掲げたならば、軍事と外交におけるアメリカからの完全自立を目標とする長く困難な闘争へと邁進するほかなくなるだろう
 だが、アメリカが珠に軍事的に世界国家化した戦後、ことに冷戦後の世界情勢下で、これは日本、いやほとんどの国家にとってあまりに現実性を欠いたプログラムである。
 そんないかんともしがたい屈辱的状況をまえに、日本人、特に知識人の多くは当初、ソ連・中共をうしろ盾としたマルクス主義革命を夢見て、日本民族が社会主義を掲げてアメリカ帝国主義から民主的独立を果たす路線を信じた。そして、革命の可能性が遠ざかるにつれ、彼らのほとんどは現実直視から逃げ、戦争放棄で世界の先駆となった日本という観念的なナショナリズムへと退嬰的にも閉じこもっていった。」(26頁)

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・ボク=日本人

「「国民」という自覚がないのは、日本人ばかりではない。ロシアが東方進出のため敷設した鉄道を用い、一千万人ほどの清国人が、満洲、シベリアへ新天地を求めて流亡していった。
 彼らは、たとえば日本の、また清の国民としてのアイデンティティなどはほとんど有していない。ただ、少しでもしのぎ易そうな地を求め、どこへでも流れてゆくまでだ。そこに自らのアイデンティティを委ねられる国家などなくとも、人は大地の上で裸一貫で生きてゆける。
 ……当時の日本もまた、かなりの人々にとって、より生きやすいチャンスと引き換えに捨てても惜しくない国だった。」(33頁)

 そう!そう!
 惜しくなくなったら
 どこへでも流れてゆくまでのこと…
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・日本人とは誰か?

「日本人が、愛郷心や藩の主君への忠誠心ではない、日本国家への心情を自覚するに到ったのは、徳川時代末期、黒船来航で顕わとなった欧米諸国からの外圧ゆえだった。」(37頁)
この繰り返されるステロタイプ。
このとき名指されている日本人とは、いったい誰のことだろうか?

「日露戦争当時で人口の2.2パーセントしか選挙権者がいない明治国家」(202頁)

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自発的にファン……

「「……「日本の連戦連勝」は、近代社会の弱者・敗者でしかない民衆にも、”強者の一員としての彼ら”という自尊心をもたらせてくれた。常勝チームにファンが殺到するあの心理である」
「(民衆らは)お互いに煽りたてあいながら自発的に「国民」になっていったのである。」
(牧原憲夫「客分と国民のあいだ」)
……」(45頁)
ナショナリズムとはファン心理。
他人に過大に期待する

「満洲にあっては、「強者の一員となる」願いは、自尊心以前に、今日明日の生き死ににかかわる切実さをもっていたはずだ」(45頁)

自尊心も、生き死ににかかわる切実さかもヨ……?
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君は一体だれのために

「君は一体誰のために働いとるんだ、ロシアのためか」(48頁)
じぶん(のすべて)のためです。
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オクニ

「「祖国とは私たちが子どものころ夕暮れまで遊びほうけた路地のことであり……」ミルヘス……
パトリオティズム=郷土感情はナショナリズムではない。ナショナリズムは、近代国家とともに生まれた人為的なものだ。……
パトリオティズムはナショナリズムに、「時として利用され、時として排斥される」(橋川)。」(54頁)
民衆(弱者・敗者)の
強者(勝者)の一員としての一体感…錯覚

内面性の全体化
全体性の内面化
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いまだ国民(ネーション)なし

「「民衆をして真のネーションたらしめん」。橋川がこう表現する福沢の課題は、また当時の権力者が切望するところでもあった。国防のため人民を動員するにあたり、自ら「国家」へアイデンティティを抱き、すすんで従軍し報国する「国民兵」こそ必要としたからである。
 この急務を果たすべく、我が国が採った方法は、全日本人武家化計画だった。」(59頁)
日本国民=日本のファン

ご主人様のために、
こっちからすすんでいってワンといって死ぬのが日本人=武士道=日本人のファン

勝ち組と負け組の取り替えごっこ
ホントは、みんな勝ちた~い

「パトリオティズムを乗り越えるかたちで生まれた近代ナショナリズム」(64頁)
学校とテレビのナショナリズム

日本人としての紐帯(記憶)……学校とテレビ

戦後民主主義-教育

田舎⇔都会
戦前⇔戦後
戦争⇔平和
前近代的⇔近代的
軍事的⇔経済的
古い⇔新しい
悪(イケテナイ)⇔善(イケテル)……戦後日本人の倫理の基盤

「「近代国家はそれ自体、人間を作り出すひとつの教育装置」(柄谷)」(84頁)


「近い」ってのは、
運命だなぁ~( ^∀^)ゲラゲラ
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保守主義

「…事実として長く継承された制度や習俗のなかで培われてきた心性を尊重して、抽象的絶対的な理念や超越的信仰を懐疑する。保守主義とは元来そうした思想である。すなわち、長く続いた「事実」が、そのまま「価値」と見做される」(129頁)
これじゃ、保守主義とは、
近代主義リベラリズムだなぁ
わかってないなぁ~浅羽( ^∀^)ゲラゲラ
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ブンガクなんて…ララーラー

「……できたてほやほやの近代国家(もしくは民族)=ネイションの公権力が、それ以前の原型的なコミュニティ=エスニーの諸要素を、主に国民教育を仕切るために再構築したのが、国語や国文学や国史であった。そして、その生まれたばかりのフィクションへ付された自画自賛こそが、日本文化論なのであった……」(134頁)

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日本人の無私性

おのれをむなしゅうするということ

武士道=日本人性=奴隷根性の刷り込み
「オマイラは、いさぎよくご主人様のために死になさい」
忠犬ハチ公
「負け組は、いさぎよく勝ち組のために死になさい」

「個人を屹立させない……。さかしらでない=理念をもたない……。自然と人間を対峙させない……。くっきりとした方向性をもたない……。思い詰めた執拗な粘り強さがない……。容赦なき徹底性を厭う……。」(138頁)
たいはんの人間は奴隷だったから
悲しい過去…奴隷の歴史…人類の歴史

戦争をやってる国が、
ラストサムライなんて、もてはやしてりするのも、そのせい。
「不条理なまま殺されてもオレたちゃ奴隷だからしょうがない」
そういう空白(不条理)を埋めるための物語-武士道
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国家とは言い難い国家=日本

「戦争を放棄した非武装日本、従来の常識からは国家とは言い難い日本は、それゆえに、世界の先頭に立つパイオニア、諸国家が仰ぐべき模範なのだと思い込み、敗戦で焦土と化し、武装解除された現状にあって自らのプライドを保ち、屈折したかたちで「ナショナリズム」を充足しようとしたのだった。すなわち「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占め」(憲法前文)と思うことで満たされるナショナリズムを。あたかも、一週遅れたランナーがトップだと勘違いしたごとく」(254-5頁)

ワシはそこまで欲がないから
国家でなくたって
ワシが幸福ならそれでいい……( ^∀^)ゲラゲラ
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アクアリウムの照明&エアーを
パソコンで管理ってのも考えたけど
経済性、スペースを考えると
ウチでは非現実的。

アクアリウム専門メーカーの
NISSOやGEXのPTもあるが
ビミョーに高い(それでも最近は安くなったほう)。

外部フィルターなので、夜間エアレーションも管理したい。
二系統は必要。

そこで登場するのが
ホームセンターでふつうに売ってるPT

REVEX PT24



これを近くのナフコ(HC)で

1個980円
安い
二個購入した。

それにしても、なんとも
アナログというか機械式というか
グロテスクというか、とっちらかっているというか
すっきりしない、よくないFACE。
なんといってもデカイよね!!。
デカイから、ウチのように
アクアリウムの電源まわりを
個別スイッチのある多口タップからとってあると使えない。
スイッチがジャマでコンセントをさせないのだ。
(なので短い延長コードに、トリプルタップで対処)

たしかに、見た目は悪いが、
見た目ほど使い勝手は悪くない。
一日一回オンオフしたら終わりっていうシロモノがあるなか
このPTは、この値段で、
15分ごとに24時間中、何度でもオンオフさせることが出来る。

アクアリウムは
照明の時間もエアーレーションの時間も、
水の状態を変化させるので、たいせつ。
ワシみたいに、ずぼら、へたれ酔っぱらいオヤジは、
気が着けば、48時間つけっぱなしってことが、よくある。
そういうひとにはうってつけのアイテムか??



とりつけて以来
週に一回の水替え以外(8L)は
なんにもすることがない……

あとは
餌をヤリながら
水槽をボーッと眺めているだけでいい……

アクアリウムって
ホントにへたれの趣味だなぁ……( ^∀^)ゲラゲラ
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浅羽通明「ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門」


浅羽は、
「人はなぜ「思想」などを必要とするのか」?と、
問いかけ
「…人が思想を必要とするというよりも、思想を必要としてしまう人がいるのだ」(290頁)
と答えている。
浅羽にすれば、
「思想」を必要としてしまうほど弱く青臭い(ほとんどビョーキの)人間がいるだけなのだ……。
「ナショナリズムとは、コスモポリタンとして生きるには弱すぎる者たちの補助具」(291頁)
思想=ナショナリズムを必要とするほど弱すぎる者たち……
「日本はもっと立派なはずだと思いたい切ない心理」(286頁)は、
じかに、弱者、負け組の
「自分はもっと立派なはずだと思いたい切ない心理」にコネクトし(繋がっ)ている。

弱者のエゴイズムの帰結-近代民主主義国家

(もちろん、この考えでいけば、コスモポリタニストも「コスモポリタニズム」という思想を必要としている以上、弱く青臭いガキになるな。ここらへんは意外とヴィクトル・ユーゴーを引く柄谷かなぁ(笑))

「弱者の共同体である民族国家」(283頁)

そう!
みんな青く弱い……。
国民-民族。
ネーション、ポポロ


「思想」を必要としてしまうほど弱く青臭い(病気の)人間がいるだけのこと…」
もちろん、それは
「哲学」だって、おんなじこと。
だから
哲学なんかやってるヤツは、だいたいみんなキモイ~( ^∀^)ゲラゲラ


カルスタでは、よく指摘されることだが…
本書では、司馬を戦後民主主義において、空白(タブー)だった大衆のナショナリズムに、ひとつの模範解答をしめした重要な思想家として位置づけ、かつまた、戦後民主主義-近代主義者としての限界を示す。


個人的には、
リアルタイムがおおい本……なので
「アナーキズム」のほうが、面白かった。
どっちにしても、若い人は、読んでおいて損のない本。
アナーキズム―名著でたどる日本思想入門
浅羽 通明
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※※

伝統とは何か?


本書で、浅羽は
伝統とは何か?
さかんに問いかけているように思える(280頁)。

「先祖から継承されてきた無数の遺産のうち、どれとどれを「伝統」という物語に採用するかは、まったく現代人の価値観次第である。護るべきたった一つの「伝統」などありえないのだ。」(280頁)
としている……
まったく、その通りである。
たぶんに浅羽は、
「日本の誇るべき伝統」という言葉で、
巷のホシュのオッサンたちが、なにか一つの伝統(「大きな物語」)に抑圧、ファシズム(全体化)してしまうことを意識(危惧)しているのだろうが……
たしかに「保守主義」における「伝統」とは(巷のホシュのオッサンたちが、どう考えているのかは知らないが)、
「保守」という構えのなかで示されてきたものや物語ともいえるが……、
むしろ、伝統なのは、示されたものではなくて、その構え(スティル)におけるマインド(思想)のほうなのではないだろうか?。
だから、浅羽の言うような「一つの物語」批判は的を少し外していると思う。
(ひとまず、物語に対する、文法、文体と考えてもいい)

保守主義というと、
マスコミ&進歩的知識人などのせいか、
すぐさま、戦後民主主義図式(安直な段階史観みたいなもののモノマネ)で、
自民党、守旧派、旧態依然、閉鎖的、現状肯定、現状維持…
前近代的因習……などと(要するに「古い=悪い」、「新しい=良い」の二項対立)
言下に否定、侮蔑するひとが、じつに多いが…(まったくもってステロタイプな…)…、
要は出来合いの負のレッテルを貼って思考停止に陥っているだけである。
そもそも、
そういう態度そのものがワシに言わせれば、「戦後民主主義の保守」的態度(構え)そのものである。
勘違いしてはいけない。批難しているのではない。
「いままで考えてきたことを、そう簡単には変えたくない」というのは、
人間の認識の自然な性向ですらある。

新発見、革新理論、パラダイム・チェンジ!etcと喧伝される
科学の理論ですら、
できるかぎり、それを避けるかたちが……
例えば、部分を手直しするような手法をとって、体系全体(システム)を維持するような(ピースミール)……手法が採られている。
というより、
まったくの革新、まったくのパラダイム・チェンジなんて……ありえるだろうか……?
鉄鼠 : 保守主義者。……ほかクワイン、ローティ……などの論考をリファーしてほしい……
ここでは「長く続いた「事実」が、そのまま「価値」と見做され」(129頁)ているかもしれない……)
こういった保守の態度(保守主義)なくしては、科学もトンデモになってしまうのではないだろうか(この理屈でいけば、日本の学者のほとんどは保守主義者ということになる)。

というか、
僕たちが使うコトバすら、そういった保守の態度(保守主義)なくしては、
使用できないのではないだろうか?
そういう観点からみれば、
どんなに一見デタラメに見える流行語やスラングも…、保守、伝統の「使用」に他ならない……。

こういった保守主義の態度は、生物がイメージできる。
絶えず、打ち壊しながら維持される……生命
……
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内面性の全体化

「痛みを理論化するには、全体性内面化の起源を考えることになるけど、それには内包と外延の間にある質料が担う、不定性を持ち込むことが必要となる。ここで云ってる不定性ってのは、潜在するものの、あらかじめわからない、わからないさだね。」(164頁)

「だから僕たちは、全体性の内面化の起源という問題に、やっぱり二人称という問題を見ることになるのさ」(163頁)

「痛みは二人称として成立しており、本質的に一人称と三人称の間の齟齬・調停を内在するはずだ。」(174頁)郡司ペギオー幸夫「生きていることの科学」

三人称と一人称の間、
類比ができるか、いなか……。

「一人称の指定と、三人称の指定とを、無理に対応づけるってことは、集合の要素を指定することと、写像を指定することを混同すること。」(173頁)

「一人称と三人称を共立させながら、調停してるってのは、まさにその馬鹿げたことを、ぼんやりやってるんじゃないかと思う。」(172頁)(上同書)

一人称と三人称の間に二人称をおく。
ここで母と幼児の言語ゲームを考えてみる。
言語ゲームだから、
痛みの理論は、「痛み」という「原事実」が成立した後でしか、それは辿れない。
すっかり原事実が完了した後、
一人称と三人称のあいだは、
家族的類比によって、(一人称→われわれの言語の無根拠性を暴露しながら)内面化され全体化してしまう。

こういった家族的類比を「郡司二人称」論と考えてみると
(お望みなら「郡司スケルトン」論でもいい)
そういった力は、
(つまり徹底して相容れない内部と外部が)
マテリアルにおいてつながっているからこそ、生みだされている……
ということ……みたい……


鉄鼠 : 郡司ペギオー幸夫「生きていることの科学」


「生きていることの科学」
郡司 ペギオ-幸夫 / 講談社



「ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか」
入不二 基義 / 日本放送出版協会

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「科学」としたところが…どうなんだろう?。
「生命と意識のマテリアル」
まあ、一般にマテリアル material といえば、材料、要するに「いわゆる物質」のことだ。
物質といえば、すぐに、
「そんなもん唯物論(マルクス主義)じゃないか?」とか……
思ってしまうような(なんでもイデオロギーで見なきゃ気がすまない生きた化石のような)アホは、この際、ほっときます。
ここで使うマテリアル material は、
アリストテレスの4原因でいうところの「質料」の別名……(23頁)
といっても、郡司にいわせると
アリが云ってるような(材料としての)質料は、「郡司質料」のごく一部でしかない(あとから考えればアリの対象知に近い気もするのだが……)。

質料といえば、以前、雨宮のエッセイを取り上げた…
雨宮によれば、科学の伝統的な思考は、主-客図式において主観・能動性を排除する。また、その排除は、質料-形相図式における質料排除に繋がっていると指摘した上で、
雨宮は、行き詰まった伝統的な思考を打破するために、「質料の復権」を訴えるといったものだった。
そういった意味からいえば、本書は、まるでそれに具体的に答えるかのような試みとも思えないこともない?。
といっても、雨宮は複雑系の科学やオートポイエイシス、内部観測(松野、郡司など)などの考え方(思考形態)も、いまだその伝統的思考形態を引き摺っているとして、質料の「真」の復権ではないと手厳しく批判していた。
「科学は形相の地平に理論を築く」(112頁)(雨宮)
能動性も、質料も、結局、形相(パソコンのCRT)の中に閉じこめられてしまう。
「えーそんな!?、科学は質料排除?」
「質料は質「量」として生き残ってきたんじゃないのっ」て思うひともいるかもしれない。
というか、質料って、なんのことだか、わからないひとは
こう考えてたら、どうだろう
目の前のテーブルの上に、ある塊(物)があって、そいつをちょっと、側にあった楊枝でいじってみたら、
いきなり水の入ったゴム風船のように割れて、
中から黒いドロー………ンとした液状のものが流れ出てきた。
…液状のものは…あっという間に、蒸発したのか?地面に染み込んだのか、とにかく、あとに残されたものは、本当に小さな繊維片だけ。
そんなイメージ。
「物」の闇-質料。
(カントの「物自体」…そのまえに実在論を確認する必要があるけど…割愛)

科学によれば、世界は、いろんな形をした「物」で隙間無くみたされている。
しかも
中身はドローンだ……
ドロン、ドローンが押し合いへし合いしていることになる。
そうかといって
郡司は、ドロンドロンの文学的修辞に埋没するワケじゃない。
「僕たちは、理念化された世界において、質料がどう現れるか、考えているんだ」(p.113)
そう、あくまで理念化された世界で考える……。
と、こうなると、さっきの雨宮が、こう記していた。
「科学の扱うことの出来る質料は、質料が形相の地平に投げかける影としての質料以上にも及ばない」(112頁)(雨宮)
じゃ雨宮にとって郡司は、その影を追い求めてるにすぎない……のか……??
どうかは読んでのお楽しみ……



ところで、個人的には、
本書を読んで、あんまり収穫はなかったといわざるをえない。

さいごまで、郡司さんの道具磨きにつきあったっていう感じかなぁ
(ま、他人の哲学を読むということは、ほとんどそういうことでしょうが……
もちろん、それなりの学問的な意義があるのかもしれないが……ワシには関係ない)
といえば、それまでだけど……
その道具立ても問題設定も、(昔と比べても)あまり目新しさは感じなかった(と思う)。
(ぬあんか郡司流の哲学活用みたいなハナシに思えた)

たとえば
「創ったマクロ表現への内省が、マクロ表現と切り離せない」(224頁)G
(もちろんミクロ表現とマクロ表現が切り離せないということがいうまでもないように……この本では、ミクロ表現はマクロ表現に寄生しているといった可能性があまり考慮されていない…それに代わって非対称性が強調される(230頁))といったことは
従来からの言語の問題と言っていい。

消失点、点の中の点(オープンリミット)などの議論も
十分に「言語」と置換可能であると思われる(「言葉の中の言葉」なんてありふれてる)。
同一哲学と「差異の哲学(非同一哲学)」(「非同一哲学」なんてものはありえないけど…ドゥルーズとかアドルノとか…ブンガク的修辞(微分、多様体etc…なんておしゃべり)でいうならともかく……マジで云ってるのはバカです)


「スケルトン」ってやつは
現実世界に「物自体世界?(といっていいかどうかはしらないが)」を二重化し(通路つけ)ようとしているかのような…(じつは、ボクもそれに似た拙い考えをもったことがある)…。
ある意味(カント的物自体世界)実在論に対抗(確認)するための道具みたいな感じだけど…
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選択における理念的世界(p.108-  )でも
ここで「透明な主体」が出て来る(p.111)
これもスケルトンのことだろう(ま、そういうことにしとこう)
この主体(スケルトン)が、例の理念的世界で、まるで亡霊のようにあたまのなかで事前と事後を行ったり来たりしたりしてるうちに……
いつしか、ひとは現実的世界を理念的世界と同一視する……
ある選択に、ひとがビビったりすることは、これに求められという。
郡司は、そこに質料-マテリアルの影を感じる……
現実的世界と理念的世界をつなぐ通路…マテリアル
(ところでスケルトンで大事なのは、要するに「操作」だけど
じつは「操作」ってのが、なんなのか、さっぱり分かっていない(世界の限界(私)かもしれない( ^∀^)ゲラゲラ)。)
「ぬあんだ!
そんなこと、あたりまえじゃん!」
って思う人いるかもしれないが……
あるいは
そこまでのハナシだと思うかもしれない。
郡司の選択は、あくまで理念的世界を描くだけで終わっているので、面白くないと思う人がいるかもしれない。
だいたい、こういうハナシになると、
哲学は、
ジツゾンって方向へ……持って行ってしまう
スケルトンは、ジツハ、ジツゾン!
just do it!
やってみなくちゃわかんねぇ
あたってくだけろ!
あーそれがジツゾン!
天皇陛下ばんざーい!
アルキメデスの1点!
とりあえず一服!
それが大事だよ
イチ、ニー、サンバー
でも、これって
やっぱ「知」ではないですよねッ
てことで……
もちろん、ないものねだりをしても仕方ない。

そういえば、野矢さんが、こう言ってたなぁ
「人間は現実べったりの動物でもないし
 超人的な論理的視力をもった神様でもない」(122頁)



マクロ表現
116ページのクラスの性格、平均概念、断片概念不成立
同じ事は個人の全体的な性格についても言える
「あなたの性格は暗い」……などといったときも使える


たとえば「タンパク質」といった言葉を考えよう
微細に見ていけば、そのいろんなタンパク質がある。
いろんな並びのモノ(アミノ酸)…
あるいは、傷みかけてるもの
分解されかけているもの(濃淡)
それを十把一絡げに
タンパク質という言葉を用いた時に
そこに蠢くモノ(差異)こそ質料……
身体こそ、質料性の装置…(120頁)


上述したように、雨宮論文では、質料は、科学にとって、伝統的に(科学的説明を困難にさせるものとして)排除されるべきものとされていた。
しかし、近年、計算機の発達によってもたらされた複雑系の思考などによって、にわかに見直されてきたが、雨宮にとって、そのような思考形態は質料性を形相の中に閉じこめてしまうことでしかない……と記している。
その点に、郡司は、こう答えているよう思える
「でも違う。質料は、科学から排除されるべき概念じゃないだろう。二項対立の間を取り持ち、間を作り出して、別の地平にしてしまう、そういう装置だよね」(p.38)


第三の思考形態

以前、保坂和志という小説家が、言語哲学者に
「言葉は世界を包括できない。言葉は世界から生まれたのであって、世界が言葉から生まれたのではない。言語哲学や分析哲学はそれを認めようとしないけれど、言葉より先に世界は厳然としてあり続けてきた。 」故に言語は世界の全てをあらわすことはできない。そして、人間は言語内でのみ物事を捉えているのでもない。」…(要約)
というような批判し、その境界線上では、小説家だけが、
(結局)言語化、表現できる、まるで特権でもあるかの如く説くという、なんとも食わせ物なハナシをしていたらしいが……
「一元論か二元論かのいずれかに決断せねばならないとする。素朴な思考形態だと思うよ。表現と表現されるモノが一致するなら、もしくは両者の差異を問題にする必要がないなら、許される思考形態は一元論だけだ。科学は一般に、こういう素朴な一元論を思考するよね。これに対して、表現したとたんに、モノそれ自体が失われると感じ、決して表現できない何物かが実在する。」(郡司:43頁)
「表現したとたんに、うしなわれるもの」
もし言語哲学者の一部(あるいは前述の雨宮にもそういったニュアンスが少し窺える)が追い求めていた質料が、それだとすると
郡司は、
そういったモノ-表現二元論こそを突破する(突破しているかどうかわからないが)ことに、質料投入(復権)の意義があると考えているようだ……

「本書の全体を通して、僕たちの問題は実在論との戦いであり、だけど同時に擁護だったとも言える。主体の側から、独我論的に出発、展開していく。このとき、どうしてもわたしには自由にできないなにものかが発見されるわけだけど、そこですぐに、「だから世界は実在する」って回収のされ方はしたくない。そういった実在論は、何も生みださず、生の現場に何も貢献しない。だから僕たちは、実在論と戦う。」(264-5頁)

「存在は、自らを存在たらしめる機制さえ無効にする力を内在し、時間を含んでいる。徹底して相容れない内部と外部がマテリアルにおいてつながっている。それが存在である。」(268頁)


SMAPクサナギくんの話は面白かった。

雨宮民雄「カオスの諸相と本義」 現代思想94年5月号

生きていることの科学
郡司 ペギオ-幸夫 / 講談社
ISBN : 4061498460
スコア選択:




はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内
野矢 茂樹 植田 真 / PHPエディターズグループ
ISBN : 4569614671
スコア選択:
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いいかげん
伸び放題になったので
大幅トリミング
はげ山になった。
すっきりした……
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