<   2007年 01月 ( 23 )   > この月の画像一覧

Yahoo!ニュース - 紀伊民報 - 紀南で12校33人 学校給食費の滞納(和歌山)

外食か食堂にしたらあ~
ぐだぐだ、バカバカしい

なんだったら、
愛国心(奉仕)を叩き込むために、
小学校から中学まで全寮制義務化とか?

Yahoo!ニュース - 時事通信 - 強盗、ガソリン?に引火し焼死=客もやけど-横浜の郵便局

寒かったんやなぁ~
[PR]
女性は機械livedoor ニュース - <柳沢発言>柳沢厚労相 謝罪したが辞任を否定 代表質問で

首相は機関。
[PR]
はっきりいって、洋泉社のこの手の新書にはロクなのはないが、
ひさびさにヒット!
ドゥルーズ、永井均以来の
最良のニーチェ入門書だ(太鼓判!)。
(フーコーも読んでねぇ)
わかりもしない、つまんない本を読んでないで
キミら、こういう本を読まなくちゃ~

といっても、
まったくのビギナーには、
つぎつぎに繰り出されるパンチに、
面食らって、理解できず、反感しかもたないかも
so!
問題は、君の、その反感さ……
それこそが、君の真の問題?
本書で、それをクリアーできるか?
あー無理かな?
無理かどうか、読んでみて
(´∀)ゲラ(´∀`)ゲラ(∀`)

解説は要らない。
読め!。
これぐらい理解できなくて
なにが哲学だ!
ボケッ!

「真理──反駁できない誤謬」

榎並重行:ニーチェって何?
[PR]
「西田哲学的に解釈された日本語においては、日本語においては、知覚する主体もまた、究極的には存在しない。雷鳴が聞こえているとき、海が見えているとき、それを聞いたり見たりしている主体は、存在しない。雷鳴が聞こえているということ、海が見えているということが、存在するだけである。あえて「私」と言うなら、私が雷鳴を聞き、海を見ているのではなく、雷鳴が聞こえ、海が見えていること自体が、すなわち私なのである。」(17頁)

「日本語においては、知覚する主体もまた、究極的には存在しない。」
は、
表現を変えれば、次のようにも言える
「見ているのに見ていない
 聞こえているのに聞こえていない」


似たようなものが禅問答(道元)にある。

「雷鳴が聞こえているということ、海が見えているということが、存在するだけである。」

禅の「行」と西田の「行為」(的自己)

ニーチェならば、どうだろうか
「日本語においては、「純粋」経験もまた、究極的には存在しない。」
ただ、人間の、そんな「誤謬」だけがある。



後期西田については、別途、他(清水太郎氏など)の論考を参考にした方がいい
たとえば、清水太郎「西田幾多郎における世界の自己構成の理論」現代思想vol27-4


独我論の蒸発

二冊続けて、ていうか、比較しながら読むと…なんか分かるかも…

いかにして「私」は「世界」になったのか?


永井均:西田幾多郎


入不二基義:ウィトゲンシュタイン

[PR]

「最近の本は……自分たちの自己正当化ばっかり……」

「ちょっとぐらい疑ったって良い……」

なにかを考えるってことは、
なにかを疑うことからはじまる…とかいわれたりする。
たとえ、なにかを肯定するためにはじまるとしても、
なにかをまったく疑うことなくして、なにかを肯定することは……なにかを考えることとは違うことだという気がする。
なんにも考えずに、やみくもに自己正当化……。
良く言えば信念の強い人だが……
ふつーに言えば、思い込みが強いだけのアホ(戦前の精神主義とか)。
勢古浩爾風にいうと、「自分から1ミリも出ようとしないバカ」

多分、ワシみたいに自己正当化だけになってしまうひとたちは、
真実よりも、自分をもっと良い人間に見(誤解さ)せたい。あるいは、
もっと立派(幸福)な人間であるはずだと思い込みたい、自己愛の強い、強すぎる、欲張りで傲慢でガンコな人(ジコチュー)なのだろう(要するに、ちっとも立派でもなく、禍々しく、卑しく、疚しく、貧しく、暗く、弱く、小さく、悪い人でもある)。

カントが道徳的善と幸福を截然と分けたのは、結局、そういうことだと思う。
「この世では、幸福はいつも真実を食い尽くす。真実を呑み込み、胃袋に入れて消化しようとする。幸福な人の眼は真実を見ていない。彼は真実を見ることをあきらめて虚偽を見ている。虚偽を見ながら、「これでいいのだ」と自己催眠をかけている。」(11頁)
「……普通の人は、死にものぐるいで幸福を求めたがる。みずからをだましても求めたがる。うちひしがれながらも「おれ(わたし)はほんとうは幸福なんだ」と思い込みたがる。まわりの人々も、彼(彼女)が無理にでもそう思い込むように、必死の思いで手助けする。紋切り型の甘い言葉を彼(女)の耳に流し込むのである。
 みんな、じつは王様が裸であると知っていても「きれいな着物ですねえ!と賛美するゲームを歯を食いしばって続けているのである。」(9頁)
「幸福は、盲目であること、怠惰であること、狭量であること、傲慢であることによって成立している……」(50頁)
「社会的に幸福ゲームを強要し、それに乗らない人を排斥し、真実を見ようとする眼を曇らせる。思考力を弱らせ、感受性を鈍らせる。こうした暴力が、まさに「幸福」という美名のもとに遂行されるから、ますますタチが悪い。美しい薄絹を幾重にもまとって貧弱な身体を覆い隠し、ひとを徹底的にだますから、ますます悪質である……」(88頁)中島義道「不幸論」
盲目、怠惰、狭量、傲慢であることによって成立している……
わかった!
だから、追い求めていないのに、ワシは幸福なのか!


それにしてもさぁ、
日本には、自分から一ミリも出ないで、
愛とか平和とか人生だとか年がら年中、説教したがるヤツ(ただの説教でしかないものを哲学だとかいいやがるものもいる)とか
ま、ミギとかヒダリとか、
自己正当化してるだけの(「これでいいのだ」という自己催眠でしかない)ものばかりだよなぁ……
いうまでもないけど、そういう自己正当化(天才バカボン的「これでいいのだ」という自己催眠)は、
盲目、怠惰、狭量、傲慢であることによって成立している
真実ではない
真実を見ようとしていない
のかも……( ^∀^)ゲラゲラ

中島義道:不幸論
[PR]
東京経済株式会社 社員ブログ: ナガリ書店~老舗書店閉店

とうとうナガリまで……

ワシが、はじめて
思想書(サルトルの「存在と無」)というものを買ったのが
当時、「電車」通りにあった小倉魚町の金榮堂だった。

当時、ワシは、新聞配達していて、
そのバイト代を貰った、その足で、よく本屋に向かった。

a0009919_6284214.jpg赤い路面電車を降りると、
駆け足で店に。
いまの大書店と比べるべくもないが、
細長い店内、急な階段、
ジャングルみたいに所狭しと置かれた本の多さ、
質(地方で細々とやっている同人誌類を扱っていた)は、ミカン山と田圃だけの田舎から出てきたばかりの当時のワシには驚きだった。

それにしても、
なぜ、そんな本を買ったのか?
いまもって、謎だが……
なんとなく、自分を、もっと立派な人間だと思いたい気持ちからだったと思う。
そんな本を手に持っているだけで、
まわりとは違う!
ワシは立派だ!……と思えた。
十代、チューソツの新聞配達員
なんか、そんな証しが自分に欲しかったのだと思う(内面にこだわったのは、外面(クルマやフク、カネなど)にこだわることが、当時のワシには経済的、現実的に困難だったからだろう~弱者ってのは、そういうとき、道徳(別の)ゲームを持ち出して勝とうとする)
さすがに、内容は、
チューソツの貧乏人には、さっぱり分からなかった。
分からなかったが、
ワシは、バイト代で、毎月、何冊かの思想書や文学書を買った。

それから、ほどなくして、
ワシは新聞配達のバイトも、なあんか、かったるくなって、やめて。
色々よからぬ仕事を転々とし、
住所不定の(日本国中を)居候生活をしているうちに……
その本たちは散逸してしまった。
結局、分からずじまいで、
いまにいたっている……(笑)


金榮堂、1997年閉店
うそつき村があったとさ。 金榮堂書店
小倉金栄堂の迷子2003
第3回書皮大賞
FrontPage - アモルフPukiWiki
日本一をめざせ!(長崎県 )


いまはなき、「デンシャ」
西鉄北九州線2
西鉄 北九州線 写真
惜別 西鉄北九州線
KBCアーカイブス
[PR]
アメリカの中東政策(イラクやイランなどに対するやり方)に対して、
> 地球は広い、
> やり方がいろいろあって、
> 当たり前……
的な言い方をして批判するするひとがいまだに多い…(もちろんアメリカをなにがなんでも批判するなというものではないのよ)…
お仲間社会(同質文化)日本にいると、
そんな暢気な言い方をしても痛痒を感じないですむひともいるのかも知れないけど…なんで痛痒を感じないですむかについては、このあいだ少なく論じた(鉄鼠 : 日本のアウトサイダーたち)
たとえば、
そういうひとでも
大日本帝国とか
ナチスドイツとか
元とか
あるいは
共産ソ連、中国、北朝鮮とか
そういうのも「世界は広い、色々あっていい、あたりまえ」と考えるのだろうか?
個人レヴェルでいえば、
タクマ君とか
織田信長とか
宮崎勤とか……
放火魔
強姦魔
虐待魔……
とかどうだろう?

そもそもネ、そういう言い方をしたら
アメリカのやり方に対しても、
色々あっていい……当たり前
になってしまうよね……相対主義の泥沼っていうんだよ

どうせ、
ノンキに中途半端な文化人のマネして、文化相対主義を気どっているだけなんだろうけど~
ヘイワっていいねぇ~

そういえば講談社の雑誌「本」で青柳正規が、次のように言っていた。
「……日本人は小さな自由とか小さな博愛とか小さな平等は持っているけれど、とんでもないギリギリの世界でそれをなお維持できるのかどうかは、まだ試されていないように思います」
まったくだよな
[PR]

「……そのなかでも、ワシが一番、自己正当化してるか( ^∀^)ゲラゲラ
禍々しく、卑しく、疚しく、貧しく、暗く、弱く、小さく、悪い自分を……」承前


「やっかいなのは、反省が意識の内部に自己分裂をもたらすことです。たとえば「自分はだめな人間だ」と自己批判するひとがいるとしましょう。自分をこきおろし、自分をおとしめるわけです。しかし他方でその人は、かくも厳しく自己を糾弾することによって、自分が高い価値意識を持っていること、つまりは優れた人間であることを主張しています」(31頁)梅木達郎「サルトル」

そうそう自己否定が、なによりの自己正当化
思い出すねぇ~むかしの太宰治とかねぇ…??

要するにだなぁ
 自己を貶(自己否定)しても自己欺瞞、
 褒め(自己正当化し)ても自己欺瞞……
 結局、なにをいっても自己欺瞞

自己欺瞞
自己欺瞞
自己欺瞞
……
自己についてなにを言っても、自己欺瞞
ハハハハッ

いっそクレタ島の貝になろうか
貝になって
海の深くで眠りながら
ノロウィルスを撒きちらそか( ^∀^)ゲラゲラ


むかし、岸田秀は太宰治の「人間失格」を評して、次のように記している
「この上なく卑劣な根性を「持って生れ」ながら、自分を「弱き美しきかなしき純粋な魂」の持主と思いたがる意地汚い人々にとってきわめて好都合な自己正当化の「救い」を提供する作品である。」

ビンゴー!


梅木達郎:サルトル






岸田秀「ものぐさ精神分析改版」


太宰治:人間失格改版
[PR]
万物斉同、絶対無差別。道諛の人、真人ありて後に真知あり。虚静恬淡、寂寞無為。大瓢用なし、無用の用。雷声にして淵黙、淵黙にして雷声。わっはっはっは。

最後の
「わっはっはっは。」
というのがいいよねぇ~

「わっはっはっは。」
で、前の文句も、無用の用。
木っ端微塵!

飢えた子供の前で
ギター抱えて、ワイングラスでも傾けて
リラックス……
リラックス……
[PR]
北花田のジャスコ(ダイアモンドシティ)へのお買い物
DVD-R50枚とマウスを買う
1280円(サンワサプライ MA-SMTR)

水槽は
水替え5L

フランジア3Lを買う

飲み過ぎには注意しよう。

さぁこれから
ギター弾こうっと……
[PR]