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上げか下げるか?
どっちが良いかなんて
ワシみたいなアホなオッサンに分かるはずもない。
分からないし、たいして興味もないけど、ひまつぶしに
なにがそこで言われているのか?
ていうか、ほんとは何が問われ、何が考えられているのか?
3分ほど考えたので、
その内容を報告したい。

「成人年齢18歳に引き下げ」に対して
「18歳では、大人になりきれていない」というときの「成人」の言葉の意味は
成人=大人ということになると思う。
じゃなんで大人じゃないといけないかというと、
巷間の議論のほとんどは、判断能力の有無だという。
責任を取れるだけの判断能力の有無。
その境界・基準こそが人間社会では成人年齢と言われてるようだ。
ワシみたいなボンクラには、「成人」とか「大人」とか、ごちゃごちゃして分かりにくいが、
要は、その境界(ボーダーライン)を上げるか、現状維持か、下げるかを議論しているわけだから、
すなわち判断能力の基準を上げるか、現状維持か、下げるかを巷間では議論していることになると思う。
上げるか、現状維持か、下げるかを議論するまえに、
まず考えられるべきは、そもそも現時点で、どの程度のものが大人程度の判断力と見做されているか?である。
大人といっても幅が広い
女子大生もいれば、寝たきり老人、暴走族、カルト教団の信者もいる
小学校しか出ていないものがいるかと思えば、ハーバード卒もいる
年齢的成人であるのに、子どもじみた判断力しかない者(ワシである)、
加齢で、まともな判断力を失っている老人
いかがわしい教祖・教団のいうとおりにするロボット信者等々…
たしかに現実の個々人の判断力の差は、想像以上にとてつもなくでかいが、
大人程度(年齢的成人)の判断力といわれるものの基準はそんなに高くないことがわかる。
すくなくとも知的障害者(成人)から不当に権利を剥奪するような基準ではない。
その程度の判断能力でいいのなら十歳からでもいいような気もする。

逆に、いまの判断力の基準が低すぎる、もうちょっと厳格に査定すべきだと(判断能力主義から)すると、
年齢制限を撤廃し、試験制、偏差値65以上の大卒、年収1千万以上でないものを成人と認めないとか……いう提案があってもおかしくない。


とまぁ
成人を知的判断能力の観点からのみ雑駁に考えてみた。
そういう側面からだけいうと、上げ派、現状維持派はちょっと分が悪いように思える…

もちろん、経験的判断能力というものを新たに定義して、付け加えて考えることもできるし、
そもそもこの議論は、ひとつの側面だけで議論されるべきものではないかもしれない…。
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(哲学者)中島義道さんの
「人生を半分降りる」
という本を読んだことがある。

たしかに…大学教授や人気者など
エラい人が降りるのは大変かもしれん……
が……
ワシのような凡人は、そうでない。
そういう「人生」には、最初から乗ってない
降りる必要がない。
降りる決意も要らない。
降りる残りしろがないのである。
否々、無理してアウトサイダーを気どってるわけではぜんぜんない。
ていうか、フツーのオッサンは、みんなそうなんじゃないか?
降りたい・降りてしまった気持ちがあるわけではない。
むしろ、まだまだという気持ちがありはするが、
すでにだいぶ降りてしまっている。
先の中島さんは、
何年か前、決意して、家族、親類縁者と絆を切り、社会の公式行事からも極力避けているという。
もちろん、ワシは、中島さんほど強い人間ではないので、
自分からそんなことはできない。
自分からそんなことはできないが、
子供、友人、親類縁者との縁は自然とどんどん切れる。見事なもんである(言うまでもないが、凡人には華やかな社会的公式行事なるものは存在しない)。
ここ二十数年ほど親戚(父・兄弟含む)の者の顔をだれ一人見ていない(結婚式・法事・葬式の類も生まれてこの方、呼ばれたことも、出席したこともない)。
もちろん、同窓会の案内も、どの学校からも届かない
親族、同僚、同級生から結婚式の招待状も貰ったことがないし、行ったこともない(これから仲人なんかに呼ばれることも絶対にない)。
年賀状出しても、ほとんどは返ってこない。
だれからも話しかけられない。
だれからも電話がかからない。
たぶん、死んだと思われているかもしれない…( ^∀^)ゲラゲラ
たまにお祝いを言おうと知り合いに電話をしても、ワシと分かると、
まるで勝手口で蛇蝎にでもでくわしたように、急に「時間がない」「またにして」といわれ…あっという間に切られる。
誓ってワシは犯罪者ではないのだが(それと同等に思われているのかもしれないが(笑))…。
凡人のオッサンは望まなくても、
知らぬうちに、人生をほとんど降ろされてるし、相手(社会・家族含)に(必要と)されなくなる……
(たぶんに、世の中には、「何の得にもならないオッサンとは関わらないに限る」という教訓が徹底されていると思う。「かならず君を必要としている人間がいる」なんて嘘八百である。
まして、オッサンになって、(中島さんのように)身内からも他人からも苦しくなるほど愛されるなんて(愛を要求される)ことは絶対にありえな~い。
たいがいの凡庸なオッサンは、バカ、クサイ、気持ち悪い、汚いと、
みんなから毛嫌いされて
老いて朽ち果てて死ぬ。
それが孤独と言えば、孤独で
悲惨と言えば、悲惨なんだけど…
個人的には、そういう過程が、凡人がオッサンになるということ……オッサンという意味なんじゃないかと思っている。

なんどもいうけど、ワシは自分でたいそうな決意して降りているのではないし、
これで良いとも思っていない。
まだ若いんだと思って、スタイルなんか気にして、むやみに走ったり……
ボンビーなくせにクルマや服にカネかけたり……して、
いっそう見苦しい……オッサンになってる。

結局、無いものねだりのよくばりなのかな~
無能力なのに嫉妬心と独占欲だけの男=オッサン。

寛平ちゃんじゃないけど
「いくつになっても甘えん坊!」かぁ~( ^∀^)ゲラゲラ

中島義道「人生を〈 半分〉降りる」
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「哲学(哲学をしているひと)って、なんかエラそう。」「上から目線」
そんなふうに思っている人は多い…ように思う
逆にいうと
シロウトでテツガクなんか名乗っている人のなかには、
「自分はテツガクやってるからエラい」「テツガク上から目線ビーム」みたいなのが
いかにも多い。そうなってることに気づいていない人もいる。
いわれもしないのに、自分の神の摂理から、ほんとうの正義とは…ほんとうの愛とは……を開陳したり、
他人の相談や社会(国家、世界…)の問題にアドバイスしたり、
そうするもんだと思い込んでいる人すらいる。

たしかに、ワシも他人の一定の考えには興味がある。
しかし、ワシが興味があるのは、それが持っている……合理的な思考…や「論理」の側面である。
むしろ、他人の人生や、たんなる感情吐露(巷間では「意見」と言われたりする)について、あーだこーだ言いたい気持ちはほとんどない(どうしてもと言われるなら、いっても良いが( ^∀^)ゲラゲラ)。
ていうか、凡人が哲学するとは、
そんなエラそうなことが他人(や社会…、国家…)に言えるはずがないことを、腹の底から分かってくることではないかと言いたいぐらいである。

だいたい哲学は、いっさいの虚偽(ウソ)を排して、合理的な思考から
真理を追い求める…

「真理」というと、先のエラい人たちは色めき立って、絶対良いことのように思い込んでいるひとが多いように思うけど……
真理が、ワシや他人、はたまた社会や国家、世界にとって、必ずや良いことだと決まっているわけではない。
いっさいのウソ(虚偽)を排して、
真理を追い求めることは、たしかに高尚なことかもしれないが
いっさいのウソを排して、他人に本当のことをいうことは、生半可なことではないし、
いつだって「良い」こととは限らない。
例えば、ある女性が真実にブサイクだったとしても、その人に向かって真実=「ブサイク」と言い続けたりすることなんか…(その点では吉本新喜劇は、ワシよりエラい

結局、哲学すればするほど、
ブサイクな人は己のブサイクさを狂うほど思い知るだろう……
ワシならば、己の非才、卑怯、不誠実、ネクラ、下品、貧弱卑小さを十分に知りつくした上で、
……にもかかわらず不当に巨大な虚栄心、嫉妬心、独占欲のなかで敗北感を舐め尽くすことになる。
だからといって止めるわけには行かない…(虚偽を挟んだ時点でおしまいだから)
そうやって、凡人は
ぐだぐだの掃き溜めの中でぐだぐだ自分について考えてるだけだから、
他人や社会、国家について、なにかエラそうなことが言えるわけもない( ^∀^)ゲラゲラ
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