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「ブルース・オールマイティー」の続編の「エバン・オールマイティ」ーを見た。
案外、おもしろかった。
映画を見ていて、哲学者土屋賢二さんの書いていたことを、ふと思いだした。
「かりに、研究の結果、どんな目標を立てるべきかが人類に知られたとします。その成果にわれわれは無条件に従うでしょうか。たとえばラーメンを毎日十杯食べ続けるべきだということが分かったとします。あるいは、東京のすべての公園の砂粒の数を数え上げることが人類最大の優先課題だということが分かったとします。そういうことが判明したら、その通りに行動するでしょうか。」(p.78)
「こういうと、「そんな馬鹿な目標を立てろという結論が出るはずがない」といわれるかもしれません。しかし、専門的な研究の結果、どんな結論が出るかは素人には分からないのが普通です。地球が丸いとか地球が動いているといった研究結果は、どんな常識から馬鹿馬鹿しく思えても、受け入れなくてはなりません。ラーメンを食べたり、砂粒を数えたりするのは馬鹿らしくて従うつもりがない、というなら、その人は、専門的知識を無視して、「自分の気に入ったことしかしない」と宣言しているに等しいと思います。」(p.79)土屋賢二「哲学を疑え」

馬鹿な目標。
それがエバンの場合、神に命じられた方舟作りだったわけで…
神様の尺度は途方もなく、フツーの人間には、馬鹿げてみえる。
舟を造り始めた彼は、そのせいで、まわりのひとはおろか、妻にすら、頭がイかれたと思われ、見捨てられそうになる。

映画は神の尺度世界で予定調和的に、
ハッピーエンドになってしまうからいいが……
現実の社会が、この映画のように、
どこぞの唯一の神の尺度によって、なにをすべきか(どんな目標を持つべきか)、なにをするのが正しいか、良いか、悪いか、なんでもかんでもホントに決められていたら…と考えると…
それはそれで、やっかいな問題を引き起こす…(たぶんに神が計算的理性であっても…おなじ…)…と思う
「(承前)ラーメンや砂粒の計算といった、一見して馬鹿馬鹿しく思えるような結論でなく、もっともらしい結論が出たとしても同じです。もしその結論が正しい結論だとすると、それに従うしかありません(そうでないと、われわれは「明らかにこれこれをすべきだとわかっているのに、それを実行する気がない」ことになってしまいます)。しかし、もしその結論に従うと、人間はロボットに等しくなってしまいます。どんな目標を立てるべきかが決まっていて、それを達成する方法も決まっているのですから、われわれには選択の余地はなくなります。~中略~自由もなくなります。決められたとおりに行動するだけで一生を終えるしかなくなるのです。でも、多くの人は、ロボットになるのを嫌がると思います。」(80頁)土屋賢二「哲学を疑え」

多くの人は、ロボットになるのを嫌がっているにも関わらず、
なぜか唯一正しい尺度の存在を信じ、求めているような気がする…???(^Д^)

映画 エバン・オールマイティ - allcinema#1



すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 「結局、人生、楽しんだ人が勝者です」
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世の中には、そういう言い方を嫌うひとがかならずいて、
「それじゃぁ快楽殺人者も人生の勝利者になってしまう?」
ぬあんて…いうひともいたりする。
そもそも、勝者といったって、
プロスポーツや経済的競争とはちがい、
人生には、絶対的(公式・単一の)尺度がない。
いったい何をもって「勝ち」とするかは、
最終的には個人-ひとそれぞれの尺度しかない……と思われ
となれば、じぶんが「よかった」と思えば、それで勝ちになる…
「よかった」人生=人生の勝利者……個人の尺度説
もちろん、そうは言ったって、人生にだって、
非公式ながら社会的尺度というものがある程度存在するし(たとえば、あらゆるランキングとか偏差値とかのニーズ……)、
また、個人の尺度といえど、そういったもろもろの社会的尺度を肯定するにしろ、反発するにしろ、それなしには成立しないもんだろう。
だからといって、この件に関して、社会や国家によって画一的な単一の尺度(公式)だけが強制されることを、みんなが望んでいるようにもみえない。
そうじゃないと宗教国家のような全体主義的「目的の国」(ファシズム)になっちゃうかも?

さて、人生-個人の尺度、「ひとそれぞれ」説という見かたに立てば、
「快楽殺人者は人生の勝利者なのか?」という疑問は、個人の尺度説の疑問になっていない。
単に、そういう疑問を表明するひとが、快楽殺人者とは違って、殺人なんかちっとも快楽でなく、
「良く」も「楽しく」もない人間であるということの表明にすぎない。
たぶんに、それは
家族に見とられ、天才バカボン的に「これで良いのだ(これでよかった)!」と満足そうに死んでゆく老人を見て、
「じょうだんじゃない!。おめーの人生なんかひどくみじめで、ちっともよくない!」といってるのと、おんなじで。
どうしようもない気がする…

もし、それでも、こういった言い方(人生-個人の尺度説)が気に入らないのであれば、
そのひとは、個人の尺度といえど、公式に認められた社会的尺度に従属する必要があり、
少なくとも「人生」なるものは、社会に認められてこそ、なんぼのもんであって、
公式に認められた尺度こそ優先すべきである……
と思っている人だという気がする。
ま、そんなに突っぱったひとは多くないとしても、
たいがいのひとは、
公的尺度だけを優先して生きているうちに、
それを内面化し、それこそが、じぶん(個人)の尺度だと勘違いして(ていうか、公的なのか私的なのか、もはや判別のつかない状況で)生きているもんだという気はする(ワシ含む)?。

たしかに、社会による公的評価は大事なことだとは思うが
いずれにせよ、「ヒトには、なにをやっても自由である」=根源(最後)的自由
という事実がある(ていうか、それなくしては歴史は作られなかった?)。

--------
以上は、「人生」とその価値については、
いっさい不問にしたおはなしである…が…
ワシはそれ以上興味ない…(^Д^)

すさまじきものにして見る人もなきブログ! : やりたいことをやれ!

すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 人生の尺度
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2003年   2人
2004年  15人
2005年  11人
2006年  20人
2007年  23人
死刑囚 - Wikipedia

毎年
交通事故死8千人弱
自殺者が3万数千人……など
国内で毎年、死ぬ人がだいたい110万人……
ワシも、いつ死刑執行されるか、わからん……
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ニューストップ > 「歩行者天国」の検索結果 > <秋葉原殺傷>歩行者天国の中止 都公安委が決定 - Infoseek ニュース

リアルホコ天になったんじゃ
シャレにならんわなぁ(^Д^)
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秋葉原通り魔事件の犯罪心理学

できの良い方に、期待するのは、
親(人間)として自然な感情だと思うねぇ。
そういうのって、いくら隠したってわかるしねぇ(^Д^)
親も人間だからさぁ好き嫌いってあるもん。

だいたい親の差別ばかりいわれるけど、
じゃぁあんたら子どものほうは、他人を比較・差別したことのないのか?って訊きたいよねぇ
どんなひと(聖人君子)が、親(ひと)の差別をあげつらってんのか?
(ワシの家の者など、キムタクとワシをあからさまに差別しているが)

ワシもガキの頃は、弟よりのろまでできが悪かったから
父親からあからさまに疎まれていたけど~(というよりも嫌われていたけど)
なんとも思わなかったなぁ~
ワシのほうも、親を比較・差別していたから、
なんともなかった(^Д^)
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ニューストップ > トピックス > 政治・社会 > 秋葉原無差別殺傷事件 - Infoseek ニュース - Infoseek ニュース

YouTube - kurumi MR.CHILDREN
……
♪ 十字路に出くわすたび
♪ 迷いもするだろうけど
……
♪ 希望の数だけ失望は増える…
……
ひとの数だけ失望は増える(^Д^)
「ドンマーイン」(+。+)
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ニューストップ > トピックス > 政治・社会 > 秋葉原無差別殺傷事件 - Infoseek ニュース - Infoseek ニュース
♪ 人生はアドベンチャー!
♪ 例え踏み外しても
♪ 結局楽しんだ人が勝者です
YouTube - Mr.children PV タイムマシンに乗って

やりたいことをやれ!
好きなことをやれ!
40歳を過ぎたら、好きなことをやれ!
50歳を過ぎたら、好きなことをやれ!
好きなことをやれ、イヤなことはするな
Amazon.co.jp: ノーベル賞受賞者特別寄稿 好きなことをやれ!!―21世紀の天才たちへ: 週刊少年ジャンプ: 本
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すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 私的言語の可能性
「酸っぱさの例でいえば、梅干しや夏みかんを食べた時に酸っぱそうな顔をするとき感じているとされるものを、酸っぱさの「第一次内包」と呼びます。何も酸っぱいものを食べていなくても、なぜだか酸っぱく感じられることが可能になった段階の酸っぱさの間隔そのものを、酸っぱさの「第0次内包」と呼びます」永井(13頁)

明日も仕事だと考えると、
憂鬱な気分になる……とか…

不思議なことに
「他人の痛み」…「彼女の痛み」……という言葉を習得(理解)する過程で
中島が言うような)消されるべき「彼女(他人)の痛み」は、ホントは一度として登場しない(必要でない?)。
よく「他人の哀しみを哀しむことはできない」なんていうけど…
「私にとってだけの痛み」を放棄することは、
原理的にありえないのでは……?
かどうかは読者諸賢の想像にオマケする…

永井均「なぜ意識は実在しないのか」
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「われわれが言語を習得するとは、すなわち自分と他人との差異性を消去する世界(ラカンの言う「象徴界」)に生きることなのです。言語を学んでしまったとき、私は私固有の体験ですら「大文字の他者」である公共の言語を使って表現するしかないのであり、これを逆に言えば、私の体験だけを記述しうるような「私的言語」はありえないのです。」中島(70頁)

「われわれが言語を習得したとたんに、言葉自身が有する同一性への要求(強制)を確認しておくと、私が「痛い」という言葉を習得するとは、多様な刺激に対して同一の「痛い」という言葉を適用することであり(「痛い」という言葉を学んだものはごく自然に「心の痛み」にまで至る)、同時に「私にとってだけの痛み」を放棄することであり、言いかえれば、自分の痛みを他人の痛みと同じ「痛い」という言葉で表現できるものとして理解することであり、この意味で自分と他人との差異性を消し去ることを学ぶことなのです。」中島(97頁)
言語と意識(中島と永井の場合)

たしかに、そうなのだが、
習得することぐらいでホントに差異性を消し去ってるのかなぁ~???
もっと単純に、彼女の「痛み」は……つねに
私の「痛み」……じゃないの?
つまり、みんな
気づかないうちに、
「私的言語」だけを語っている……
可能性がある……??(笑)
少なくとも、ワシは…( ^∀^)ゲラゲラ

中島義道「「死」を哲学する」
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・言語

「なぜそれ自体としてあるもの」が「無」という名の無と重なり合うのか? ここに、他者のあり方の秘密のすべてが隠されています。しかも、その秘密は存在論的秘密(?)ではなく、むしろ純粋に言葉の秘密なのです。私が言語を学ぶとは、自分と他者との溝を越えること、その無という溝を無視することだと言うことを思い起こしてください。サルトルの言うように、無は人間存在の「うち」に故郷をもつのではなく、無は人間存在が他者との差異性を抹消して言語を学ぶところに故郷をもつのです。いったん言語を習得してしまえば、こうした差異性は見えなくなる。しかし、じつは至るところで口を開けている。他人の苦悩や他人の死に遭遇することによって、私はその溝に気づき、足を止めるのですが、いざそれを語ろうと試みるや、どうしても語れない。」中島(135頁)

「われわれが言語を習得するとは、すなわち自分と他人との差異性を消去する世界(ラカンの言う「象徴界」)に生きることなのです。言語を学んでしまったとき、私は私固有の体験ですら「大文字の他者」である公共の言語を使って表現するしかないのであり、これを逆に言えば、私の体験だけを記述しうるような「私的言語」はありえないのです。
 だから、類推説はすべて逆転されなければならない。言語習得以前のナマの体験などありません。むしろ、われわれは言語を習得することによってはじめて、それによっては表現できないナマの体験があることに気づくのです。言語を習得しているわれわれは、そのかぎり自他の区別のない言語世界(象徴界)に生きている。そして、そうした自他の区別のない世界に生きているただなかで、各人は言語以前の自分固有の体験を発見し、同時にその対極に他人固有の体験を発見するのです。
 例えば、「食べる」という記述の場合、私は自分が食べる場合、そのつど異なった食べ方であるにもかかわらず、ヴィトゲンシュタインの言葉を使えば)「家族的類似性」をもつ行為として同じ「食べる」という言葉を使いますが、他人が食べる場合でも自分が食べる場合と「家族的類似性」をもつ行為として、ごく自然に同じ「食べる」という言葉を使うことができるのです。
 言いかえれば、もしわれわれが言語を学ばなければ、誰も(動物のように、幼児のように)自分固有の体験を発見できず、同時に、他人固有の体験も発見できないにちがいない。」中島(70頁)

「…言葉の習得とともにすでに自分と他人との差異性を消去する機能が作動してしまう。自分と他人とが「無」という名の同一の何かを体験していると思い込んでしまうのです。
……
……われわれが言語を習得したとたんに、言葉自身が有する同一性への要求(強制)を確認しておくと、私が「痛い」という言葉を習得するとは、多様な刺激に対して同一の「痛い」という言葉を適用することであり(「痛い」という言葉を学んだものはごく自然に「心の痛み」にまで至る)、同時に「私にとってだけの痛み」を放棄することであり、言いかえれば、自分の痛みを他人の痛みと同じ「痛い」という言葉で表現できるものとして理解することであり、この意味で自分と他人との差異性を消し去ることを学ぶことなのです。そして、まさにこうした強引な他人の痛みへの越境を遂行することによって、逆方向において私はこうした同一性には解消されない自分固有の痛みを知るようになる。自分の痛みと他人の痛みとのあいだに開かれる絶対的差異性を自覚するようになる。何しろ眼前の他人がどんなに「痛い!」と叫んでいても、その「痛い」という言葉の意味を理解しながら、私はまったく痛くないのですから。しかし、このことをあらためて言語によって表現しようとしても、それができないのを自覚するのです。「ぼくのこの固有の痛み」という同じ言葉をもって表現できる同一な何かになってしまう。
…言語を持って語ろうとするかぎり、私は私と他人との共通の磁場に引き寄せられてしまい、自分固有の領域を確保することはできなくなるのです。
 しかも、ここに重要なことは、私は自分の体験ではなく、他人の体験を基準にしてそれぞれの言葉を学ぶということです。ラカン的に言えば、私は鏡に映った頭部のある像を通じて、すなわち他人の視線を通じて、私の身体の同一性を学ぶのです。……
…私は他人に対しても私と同様に他人の身体との絶対的差異性を越境して、自分の身体を「私の身体」と語ることを要求する。そこには、恐ろしいほどの差異性が口を開けているのに、あたかもそれが見えないかのように同一の「身体」という言葉を適用する。このことに躓かない者だけが言語を習得することができるのです。」中島(95頁)
「言葉を習得するとは、第一に私の観点からでなく、他者の視点から見ること、記述することを学ぶこと、すなわち私の視点を無理やり(不特定の)他人の視点に合わせていくことです。」中島(97頁)


「神が私において想起する」中島(105頁)

すさまじきものにして見る人もなきブログ! : ポモとイッショ!
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すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 引用……自分の言葉で書け!

「ウィトゲンシュタインという哲学者は「私的言語」というものが可能か否かを論じて、不可能であるという結論を出したのですが、あの議論ははっきりと誤りで、私的言語が可能でなければ言語は不可能です。私的言語の可能性が言語にとって不可欠なものに転じることによって言語は成立するのですが、ただそうであるということを通常の公的言語で語ろうとすると、そのこと自体は公的言語の意味の働き方に乗らなければ語れないので、言わんとすることが言えない──言わんとしていることとは別の「正しい」ことが言われてしまう──ということが起こるのです。」永井(36頁)

「私が「私には他の誰にもない何かがある。私の私的経験には最も重要な意味で隣人というものがいない。それどころか、私だけ表裏が逆になっている」と言ったとしましょう。今度の相手はこう答えます。「その通りだ! 確かに、私には他の誰にもない何かがある。私の私的経験には最も重要な意味で隣人というものがいない。それどころか、私だけ表裏が逆になっている!」と。わたしはこう応答するでしょう。「違います。他の誰にもない何かがあると言わざるをえないのは私です。その私的経験に最も重要な意味で隣人というものがいないのは私です。表裏が逆なのは私です。あなたではありません」。私は、そもそも二人が同じことを言っているということ自体を認めないのです。
………問題の本質は、この「私」のような応答の見地に立つかぎり、およそ言語が成立しない、ということにあるのです。しかも、その言語を成立させない見地にも、十分な合理性があるのです。世界は事実そのようにできているからです。……出発点は、「世界は、事実として、なぜか、私の目からしか見えない」でもよければ、「身体を殴られると本当に痛いのは私の身体だけだ」でもいいし、「自由に動かせる体はこれだけだ」でもいいのです。これは、疑う余地のない、端的な事実です。あたりまえでしょう? だって、その否認こそが最初の発言の趣旨だったわけですから。」永井(119頁)

「言語とは、世界を人称的かつ時制的に把握する力なんですね。そのことによって、客観的世界というものがはじめて成立する。」永井(109頁)


・意識

「意識は「私」をほかのもろもろのものと同じく世界の内に構成するのであり、言い換えれば「私」は意識の活動にはじめから伴っているものではなく、意識によって構成されるものなのです。」中島(111頁)


「脳が意識を生みだしているにしても、その脳をどんなによく観察しても、その脳がやっている仕事は決して見えません。世の中の他のあらゆるものは、それをよくよく観察すれば、それが宿しているものや、それがやっている仕事が次第に明らかになってくるのに、ここにはそのような普通のつながりがまったくないのです。胃のやっている仕事は胃をよく観察すればわかるのに、脳がしている仕事は、そういうやり方では決してわかりません。脳がしている仕事を見るには、脳を観察しないで、脳自身に注意を向けないで、むしろ世界を見なければならない。」永井(7頁)

「感じられる「痛み」や「酸っぱさ」や「不安」や「憂鬱」は、感覚的・実質的要素こそが本質的な役割を演じており、見られる「家」や「空」や「酸っぱい顔」や「他人の脳」の場合は、逆に知覚的・機能的要素が本質的であって、感覚的・実質的要素は(もちろん存在するでしょうけど)本質的な役割を演じていない…」永井(28頁)

「意識とは、言語を初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られるとうのものの名でもあるのです。」永井(40頁)


とにかく意識は、石ころや木片のように実在するのではない。
それこそがほんとうの問題……
逆転の逆転の逆転の…走り出す…累進構造…

「一般的なゾンビの想定が可能になることによって、一般的な「意識」もまた成立します。」永井(84頁)


すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 人工無脳!インチキ脳科学・クオリアファンを逮捕しちゃうぞ!

永井均「なぜ意識は実在しないのか」

中島義道「「死」を哲学する」
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