<   2016年 05月 ( 18 )   > この月の画像一覧



アマゾン(プライム)で聞きました
nostalgia がデジタルになかったのは残念でした
大人の女性の歌というと
都はるみか石川さゆりを反復するしかないような
ポンコツじいさんに褒められても、
かえって迷惑でしょうが…
気に入りました…

明日から朝のクルマで楽しみます…
Jazz Vocalist ERIKA のNew York パッションライフ
[PR]
2015山川東部小学校閉校事業・千寿の楽しい歴史 : 千寿の楽しい歴史

ガキの頃、ソフトボール大会に行ったなぁ~

桜舞館小:268人、新しい学びやでスタート 4校統合し開校 みやま /福岡 - 毎日新聞


Mr.children「東京」

♪思い出がいっぱい
 つまった景色だって
 また
 破壊されるから
 出来るだけ執着しないようにしてる
 それでも匂いと共に記憶してる
 遺伝子に刻み込まれてく…♪   (Mr.children「東京」)
[PR]
考えてみたら80年代はもう午前0時は真夜中じゃなくなっていたよなぁ~

ガキの頃、
藤本さんの11PMがはじまったあたりの真夜中感が消えたのはいつごろなんだろう




明日に向って走れ(紙ジャケット仕様)

吉田拓郎 / フォーライフ ミュージックエンタテイメント


[PR]
「ここは、たいした理由はないが、S・J・グールドなどに紹介され、少しは知られたアンコウに登場ねがって、しばらく思考実験につきあっていただこう。チョウチンアンコウの小さなオスはメスの鼻先に突き出しているルアーの妖しい光をキャッチしたら、何をおいてもそちらへ自らをナヴィゲートしなくてはならない。そして、いちはやくメスのお腹の然るべき場所に食いついて、頭の先からメスの血管系と連結し、自律的な個体としての活動にかかわるスイッチをすべて切って、まあほとんど自己崩壊したかたちで、メスのボディ・コントロールに身を任せて、ただただメスの送ってくるはずの産卵信号だけに反応して放精すべく待機するのである。こういうことがまっとうできるのが、このアンコウのオスらしさなのだ。これは壮烈な性淘汰の篩にかかってきたはずである。放精の瞬間だけをひたすら測っている、いやメスに任せて「自己抑制」しておけるか。これはほかの魚のオスたちがひたすらメスの産卵を前にして、行ってきた活動の集中度にくらべると、まったく別の、それをすべて抑え込む方向の「努力」である。ぐうたらしてコストを軽減すればよいというのではなくて、コストを軽減するコストをかけねばならない。ダイエット競争か軍備縮小競争みたいものだ。これまたむずかしい。一度そのラインやコンテクストに乗ればよいが、そこへ行くのがむずかしいだろう。おそらく「ムカシアンコウ」のとっていたやり方とは別の生き方へ転じなくてはならなかったからだ。それはどうした事情だったろうか。アンコウのメスが発光バクテリアと共生して、暗い方へ暗い方へと向かって行ったからだろうか。暗い方へ向かうほどにアンコウのメスの口が大きくなりはじめたことは納得できるが、このことはアンコウのオスにとってはあまり都合のよい変化ではなかったろう。メスの口が大きくなることを魅力的だと思わなかったオスはつぎつぎにアンコウ業から脱落していった。なにより発光バクテリアと当時のアンコウのオスとは敵対関係にあったかもしれない。しかしそれに頼らなければやっていけないメスの事情とは何であったのか。それはきっと、メスがあまり餌探しに熱心に動きまわるのがイヤになる事情を考えるほかない。動きが少し悪くなってきたメスをめぐって、アンコウのオスたちのメスをめぐってのまずたいへんな競争が生じただろう。そこでは当初、ほかの魚の場合のように、大きなオスこそが有利な状況であったにちがいない。しかしやがて、それではダメになった。メスはどんどん深みに向かい、餌の条件もあまりよくない深海へ向かった。そこではたしかに餌を独占できそうである。しかしそうなると、大きなオスが困った。ゆっくり餌をあさってデカクなっているうちに、メスはどんどん深みへ向かう。デカクなっている暇はない。ここで小さいオスに有利になる条件が生じた。とにかく早くメスを見つけて腹に取りつくのだ。そこでの競争、これは放精のタイミング競争である。やがて、ほんとうに腹に食いついて、ほとんどメスの「放精器官」となるところまで、オスらしさが進化したのだ。もう時計どころの話ではないが、ここにも時計の変化が内在化されている。いっさいの発生過程が変化したのである。小さく成熟するのはネオテニーといわれる現象である。より一般的にはヘトロクロニーと呼ばれる発生プログラムの変化である。そうしたらこのようなピーターパン・シンドロームが起こるのかは、成長ホルモンの抑制される変化に関連する。遺伝子の操作が可能な程度に理解されている遺伝子の仕業である。そこが変わることが必要であった。おそらくアンコウのオスは、他の魚のオスとおなじような、昔のオスの機能を発揮することのできる遺伝子は潜在的にはもっているだろう。それを使わなくてもよいようなブロック機構を進化させただけかもしれない。ただし、時計の歯車を変更したか、その歯車がいくぶん空転してもよいような仕組みをもつに到ったのだろう。
 また見てきたようなレトリックを使ったが、これはもちろん思考実験で、時計の変更を必要とするのは、あくまでも外の事情、あるいは「他人の事情」であることを示しておきたかったのだ。ここをつめないかぎりは、時計の問題は、たとえ内部の遺伝アルゴリズムとしての時計進行機構は解明されても、それが現実に動く事情、つまり時をめぐるズレ、つまりたくさんの時を生きているという生物らしい存在にかかわる意味は解けないだろう。アンコウのオスにとって時の問題は、われわれに外の思考を要求するはずである。」
 (遠藤彰「内なる時間と外の時間」imago vol.5-11)

a0009919_19233538.jpg

[PR]
猛烈な回転 : すさまじきものにして見る人もなきブログ!

♪歩道の端を 落ちないように

 歩くのが好きだ

 腕を広げて 片足ごとに

 僕のバランスで…♪

In My Circle-ASKA


[PR]

a=(……f(f(f………f(f(認識)))))……);

f(a)

だれだっけ永井均さんか? 入不二基義さん?
忘れた?
まぁどっちだっていいか(笑)
[PR]
「物理学は四次元多様体に物を書き込む際の文法を研究するのであって、事の世界を直接表現するのではない。これを忘れると物理学的世界は実在するのか否かという生産的でない議論が生ずることになる。たとえば、物理学は、「放物線を描いて運動する石」を表現するが、「石が放物線を描いて運動するコト」は表現しない。物が運動するコトは日常言語によってしか語ることはできないのである。運動を表す式は、時間点と空間点の対応関係を限定しているのみであり、それは出来事には豪も言及していない。
 かくして、数から出発して現実へと向かう方向には、二種の抑圧が働いていることが分かる。一つは、数で表されるものしか存在してはならないという抑圧である。一つは、自然法則に従う物しか存在してはならないという抑圧である。この二種の抑圧が事から立ち現れる物に対して加えられることによって、物が規格化され、規格化された物の方から、逆に、事が構成されることによって、地上的現実が天上化されるのである。」雨宮民雄「数学と質料」 現代思想 vol.25-9
a0009919_632992.jpg

[PR]
野矢さんは独我論的傾向、つまり「私の知覚」という自我を拒否したまま他我に近づく…そこが分からない…どうせなら他我しかない…他我という文脈の中に自我はきっかり収まるんだとはっきりいえば、わかりやすかったのに…まぁ言ってるか???
でもまたその眺望&世界がまるごと、独我論的世界にぴったり収まるだけかもしれないけれど…??(客観的で他我的な独我論(笑))
いいや他我も自我も拒否する方法だってある
相手の心も、自分の心も…じつはわかっていない
「痛い」という記憶と言語だけがある……テキトー
(途中経過)
ダニエル・カーネマン: 経験と記憶の謎 | TED Talk | TED.com

哲学・航海日誌

野矢 茂樹 / 春秋社


[PR]
「ドゥルーズが機械を理性ではなく欲望に結び付け、欲望を「動物になること」に発見するのは、ドゥルーズが炸裂系ギャグの思想家であることを如実に語っており、そこに読むものが見いだすべきなのが、ものすごい速度を持った笑いであるはずなのは、いうまでもないだろ。
 外見、内容ともに現代思想界の『大法輪』と化している『現代思想』において、にもかかわらずドゥルーズがきまじめに、あまりにもきまじめに語られていたのとは対照的に、わたしはそこに猛烈なギャグを発見して、小躍りしたものだった。しかし、こうした動物/機械系のギャグは、ドゥルーズのような確信犯の書いたものよりも、それを無自覚に行っている者の方がより決定的な段階に達することが少なくない。
 わたしたちはそのような例として、モーリス・ブランショを知っている。彼が不可能なものや語りえないものについて延々と書き綴っていくとき、わたしはそこに人間の理性や節度を超えた不可能な機械を発見したい思いに駆られる。「不可能なもの」といってしまうと抽象的で哲学的な響きをもってしまうために敬遠されがぢだが、具体的に例をあげればそれは、自宅のハツカネズミが強烈な勢いで一箇所を回転しているうちに大技を次々に繰り出していつのまにかオリンピックの水泳競技の金メダルを獲得してしまったということであり、純粋な思考においてしか可能にならないものである……」(津「笑いの迷宮・猛烈な回転」(匿名時評) BUNGEI 1994 春季号)

「そうした回転系のおかしさを根源的に追及してみせたのは、おそらくはニーチェだろう。みにくいひとも熱に浮かされたサルも一緒になって永遠に回帰し続ける大いなる渦、すなわち永遠回帰ほど、ひとの笑いを誘うものはない。ずいぶんまえから、ニーチェの思想にはいかがわしさを感じ続けてきたが、ついついまじめな解釈の方に引きずられてしまい、言い出せずにいたのだ。」(同上)

a0009919_21363788.jpg

[PR]
「『論考』(独我論)にとらわれている限り、ひとは生きることができない。生きることは、生きるとは、他者とともに歩むことだからだ」(橋爪99)

しかし、『論考』はこうも言ってる
「5.64 …独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。」

[PR]