西部邁ゼミナール|TOKYO MX - アーカイブ「『知識人によって誤解されてきたdemocracy』」2017年5月6日放送

100年一日のごとき専門人批判(オルテガ)ですか
相変わらずですネェ
そのはなしをおうかがいしていると
おおむかしテレビで宮台さんが先生に言ってたことを思い出します
先生が、いつもの調子で大衆批判をはじめると
宮台さんが、いらだって
「それこそ知識人の思い上がりでしょう」
えーっ?どっちが オルテガ?

先生だけは、一側面を見てるだけの他の知識人(専門人)とは違う、
全体を見渡せる本当の「知識人」ということでしょうか?
「オルテガ」の剃刀ですネェ(笑)
全体を見渡せる そんな神のような特権
オルテガや先生みたいにエライひとにはあるんですか?
立ち位置が分かりません

残念なのは、その後、宮台さんも
「これが答えだ!」みたいに、なっちゃったことですかねぇ

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西部邁ゼミナール|TOKYO MX - アーカイブ「『知識人によって誤解されてきたdemocracy』」2017年5月6日放送
そもそもわれわれはなぜ民主主義というものを疑わないのか?
その答えは
はっきりしてます

戦争に負けて
政治で負けて
文化でも負けて
人間としても負けた
日本人は綿々と続いてきた伝統(歴史)のなかで
勝ち組に逆らっても損することを、
あたまやコトバではなく、からだ全体で知悉している
ひょっとするとDNAに書き込まれているのかもしれません(笑)
なので疑わないんじゃなくて、はじめから民主主義のミの字も信じてない
一滴も信じてない
民主主義万歳しながら からだ全体で拒否
日本人の場合、民主主義であろうが江戸幕藩体制であろうが天皇制であろうが
つねに勝ち組にやらされてるイデオロギーにしか過ぎないんです
むしろ「疑ってどうなるんですか?」って思ってるはずですよ
これこそ日本人の伝統

かんぱーい
           
なぜ、そんなことがわからないのか不思議です

「国家が国民を信じないから日本は弱い」(日下公人)
「特攻攻撃の情けないところは…
…日本軍隊の致命的な欠陥がある。それは何かというと、要するに、兵隊を信用していないということで、「もし爆弾を落として帰ってきていいということにしておいたら、みんな大した攻撃もしないで帰ってくるんじゃないか」という国民不信の思想だった。
 なんでそうなっちゃうかというと、その根本は民主主義国家じゃないからで、「戦争目的について国民の合意を得ていたい」と、戦争指導者自身がそう思っているんですよ。これは決定的に重要なことです。国家が国民を信じてないんだから、日本は根本的に弱いんです。上の人たちは、自分たちが勝手に戦争を始めたから、下が本当についてくるかどうか心配なんだ。アメリカとは、そこが違うんです。
…そうですとも。兵隊に降伏を許さなかったのも、弱さのあらわれですね。降伏病が伝染すると思っていたからです…」(348-50頁)日下公人

大東亜戦争、こうすれば勝てた (講談社プラスアルファ文庫)

小室 直樹,日下 公人/講談社

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社会的影響力のあるひと : すさまじきものにして見る人もなきブログ!



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「哲学実技」のすすめ そして誰もいなくなった・・・・・・。 (角川oneテーマ21)

中島 義道/KADOKAWA / 角川書店

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「「自分は弱いから」という理由をもってくることは、哲学の死だ。あなたは強いからアレもコレも許されないが、自分は弱いから何でも許される、というずるく汚い態度につながる。いったんこの論理を振り回しはじめたら、もう思考は堕落の坂をころがってゆくだけだ。」(p.146)中島義道「「哲学実技」のすすめ」
ネットで著名人が失言(?ワシには、失言には思えないものがほとんど)で炎上すると
かならず、
「あなたみたいに社会的影響力のあるひとが、そういうことを言ってもらっては困る」
みたいなことをいうひとがかならずいる。
それって裏を返すと、自分は影響力低いから
バッシングしようが 傷つけようが 何を言ってもいい
というずるく汚い態度を正当化して、広めてるようなもん

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本人は知らないかもしれないが、けっきょくこの本
従来の「意識の哲学」(心理学(カントやフッセルなど))とほぼ同じことを、
ちょっとだけ他の知見を交えて解説しているだけ
なにも新しくない
その部分を小人(ホムンクルス)に丸投げしてるだけ
意識作用(ノエシス/ノエマ)、超越論的統覚などの道具立てを
ニューラルネットワークや脳・コンピュータや受動的云々で、言い換えたにすぎない
たんなる言い換え

けっきょく この本 input -心- output (心理学)図式でしかないなら
「心」の定義は、もっとシンプルに…
「心」を機械(唯物論)でフォーマットしたうえで、
ロボットと人間、ゾンビとロボットの違いをみればいいだけなのに、
そうなると「意識」なんか実在しなくてもよくなるから、
そこは書かなかったかもしれないけど…(笑)
へんなこだわりがなきゃ(笑) ぜんぜん機械論モデルでもまるっとおkだしねぇ
まあ、そういう本なんだけど…

とにかく「心」なんかなくたって、前野さんの受動性云々でへっちゃらだというところだけはよくわかった。
「一度、コンピュータである脳に情報が運ばれて、そこで「赤い」とか「リンゴ」とかいった特徴が計算されて、やっと特徴が特徴として認識されるのだ」(58頁)
コンピュータだったら
「赤い」とか「リンゴ」とかの情報データを最後に認識(「赤い」とか「リンゴ」とかの意味付与)しているのはコンピュータではなく、人間だよネェ
あくまでコンピュータは、「赤い」とか「リンゴ」とかの(データを)映画を上映(計算)してるだけ
それを「赤い」とか「リンゴ」とかに読みとっているのは、外部にいる人間

パソコンには椅子に座ってるわしがいるからいいけど、脳にはそれが見あたらないってハナシが原点でしょ
それを小人だ ニューラルネットワークだ といいかえたところで堂々巡りでしょう

だからすぱっと前半の「心」図式の解説をやめればよかった 「心」は余計
(p.208)の input -black box- output のブラックボックスをとっちゃってin-outをつなげればよかった
人間とは前野さんの受動的云々で外界に対して「機械」的(ちょいとやっかいな機械だけど)に反応しているだけの存在
自我は幻想…前野さんの主張はそこじゃないの?
生態・環境 個体差 などによって引き起こされた物理的な差異であって、それはけっして私-心の神秘的な(魂)差異ではない
つまり、わたしたちは与えられたニッチのなかで受動的に反応するコンピュータに従っているだけのロボットなんです
心と呼んでいるものは、受動反応から生まれる錯覚
こうして、心は止揚され、この世から蒸発した
「心の謎が解けた!」のではなく この世から無くなった
そういうことでおk?
「「心」は存在しない」とか「「心」という蒙昧」みたいな題名だったらよかった…

「なぜわれわれはゾンビなのか」永井均 : すさまじきものにして見る人もなきブログ!



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中野剛志「国力とは何か」 : すさまじきものにして見る人もなきブログ!

国力とは何か―経済ナショナリズムの理論と政策 (講談社現代新書)

中野 剛志/講談社

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「この社会契約論的な国家理論は、歴史的にも、理論的にも間違っている、実際には、近代的個人が国家を作り出すのではなく、その反対に、国家(ステイト)が近代的個人を作り出したのである」(96頁)中野剛志

後段はわかるけど、前段はおかしい。
国家成立してはじめて個人を作っているのなら、
個人が国家を作ることは不可能である…
この手の教科書的には、そうではなく、国家を作ったのは人民 people ということだろ
(ここでは「人びと」でもいいが、人民とする 要するに単なるヒトだ)
人民が初めて国家を設立して法(文)を作り、その文(法)に従うのが国民じゃないの?
その国民も国家と癒着してしまうと、全体主義になるから個人というものが尊重され
パブリック(公的空間)というものが設定されるわけでしょう?ちがう?
もちろん、なぜ人民に最初から「主権(権利でもいい)」のようなものが付与されているかは、そうでないとなんでもないヒト=人民が国家を設立できないからで、この理論の論理的な要請にすぎないフィクションである。
そのフィクションを拒否したままでは、民主主義の理論なるものはいつまでたってもはじまらない(笑)
そもそも民主主義の理論(社会契約論など)は状況理論ではなく、規範理論であろう
現実がどうであったとか、歴史的にどうであったとかまったく関係ないとはいわないけれど
状況や歴史がどうであった、現実にはこうであったが…
むしろ、そうであるがゆえにこうでなければならぬというのが規範
またその「論理」でしょう
ほにゃらら…であるから、ほにゃらら…すべしという規範は導けない
この手の民主主義理論について 「歴史的に違う」 「現実はこうだ!」というひとは多いけれど
いってることは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」みたいなもんと大差ない

論理的にものを考える : すさまじきものにして見る人もなきブログ!
ところで、論理的に考える……というのは、どういうことか知っているだろうか?
その点について、
哲学者の永井均さんの、次の例は大変に分かり易い。
(1)「人間は動物ではない  
  犬は人間である
  それゆえ、犬は動物ではない」
(2)「魚は水中を泳ぐ
  マグロは水中を泳ぐ
  それゆえ、マグロは魚である」
(「翔太と猫のインサイトの夏休み」(158-161頁))

さあてこの二つの推論のどちらが「論理的」に正しい推論かわかるだろうか?
………
(1)である。
なぜか?
(1)は、「すべてのBはCではない
 すべてのAはBである
 それゆえ、すべてのAはCではない」
となってるが、(2)は、そうではない「非論理的で、正しくない推論」である。
論理的に考えるというのは、「正しい」前提から「正しい」結果を得ることに尽きる。
そこらへんを永井は次のように言っている。
「論理的な正しさってのはね、前提や結論の事実的正しさとは関係ないんだよ。二つの前提がもし正しいとしたら、結論もどうしても正しくなくちゃいけないっていえるかどうか、これがポイントなんだ」
by 鉄鼠 | 2005-10-04 07:13 |

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