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「『論考』(独我論)にとらわれている限り、ひとは生きることができない。生きることは、生きるとは、他者とともに歩むことだからだ」(橋爪99)

しかし、『論考』はこうも言ってる
「5.64 …独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。」

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「むしろ、言語によって「私はここに一人いる」ことが保証されているんじゃないかなぁ…」
すさまじきものにして見る人もなきブログ!

『論考』時点で、どうかはしらないが…専門家ではないので(テヘッ003.gif
「歴史が私にどんな関係があろう。私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。私は、私が世界をどのように見たか、を報告したい。
 世界の中で世界について他人が私に語ったことは、私の世界経験のとるにたらない付随的な一部にすぎない。
 私が世界を判定し、ものごとを測定しなければならない。
 哲学的自我は人間ではない。人間の体でも、心理的諸性質をそなえた人間の心でもない。それは、形而上学的主体であり、世界の(一部なのではなく)限界なのである。」(ウィトゲンシュタイン『草稿』二七一頁)

はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)

橋爪大三郎 / 講談社


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「『論考』の主張を、もう一度思い出してみよう。
 世界の言語は、一対一対応している。そして、それは独我論をいみする。……こういう主張だった。
 これは「世界は、言語があるようにあり、言語は、世界があるようにある」、ということだ。そしてそれは、「私はここに一人いる」ことで保証されている。
 これは、私が、神のような存在であることを意味している。」橋爪大三郎「はじめての言語ゲーム」

やっぱり、そういう解説になるのかなぁ??…
ちなみにワシはウィトゲンシュタインがどう考えたのか詳しいことは知らないし、
ていうか、橋爪さんの解説に意見が言いたいわけではない(そんなことできるわけないし)…

ただ、ワシが考えるに
「私はここに一人いる」ことで
「世界は、言語があるようにあり、言語は、世界があるようにある」は保証されはしないし、むしろ、言語によって「私はここに一人いる」ことが保証されているんじゃないかなぁ…まして神のような存在なんか1ミリも意味していない。
 そういう保証された後なら神のような存在になれるかもしれない?…

 ちなみに本書は、ワシのような一般人でも、たいへんためにもなる刺激的な本です。

はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)

橋爪大三郎 / 講談社


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(例えば、それは病人が自分の病気(身体)を語ることに似ている)
ワシに言わせれば、
それは「私が世界をどのように見たか」を語る(報告する)ことでもある…?W
そのように語る〈私〉は、
JLにいわせれば、…「大文字の他者」であり??
Dにいわせれば、それは ecri なんたら…?…
どっちにしても、哲学を語る〈私〉は人間ですらない(W「草稿」)。
だったら、語られている「わたし」は、人間だろうか?
JLにいわせれば、それは「対象a」?
NHなら独在なんたら…の〈私〉?……それは「この」私性以外なにもない……「魂」のようなものだろうか?(誤解を恐れずにいうならば、Lの il y a ??。GWLの顰みに倣うなら闇に蠢く半透明のモナド(世界)みたいな……??)
それもやっぱ「人間」ですらないなぁ~……
世界-外-存在……?…
人間ですらない者(私)の間で成立するものを「人間」と呼ぶか?
どうかは
読者諸賢の連想ゲームにオマケ……( ^∀^)ゲラゲラ
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すさまじきものにして見る人もなきブログ! : ホントーの「自分」探し
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内面性の全体化

「痛みを理論化するには、全体性内面化の起源を考えることになるけど、それには内包と外延の間にある質料が担う、不定性を持ち込むことが必要となる。ここで云ってる不定性ってのは、潜在するものの、あらかじめわからない、わからないさだね。」(164頁)

「だから僕たちは、全体性の内面化の起源という問題に、やっぱり二人称という問題を見ることになるのさ」(163頁)

「痛みは二人称として成立しており、本質的に一人称と三人称の間の齟齬・調停を内在するはずだ。」(174頁)郡司ペギオー幸夫「生きていることの科学」

三人称と一人称の間、
類比ができるか、いなか……。

「一人称の指定と、三人称の指定とを、無理に対応づけるってことは、集合の要素を指定することと、写像を指定することを混同すること。」(173頁)

「一人称と三人称を共立させながら、調停してるってのは、まさにその馬鹿げたことを、ぼんやりやってるんじゃないかと思う。」(172頁)(上同書)

一人称と三人称の間に二人称をおく。
ここで母と幼児の言語ゲームを考えてみる。
言語ゲームだから、
痛みの理論は、「痛み」という「原事実」が成立した後でしか、それは辿れない。
すっかり原事実が完了した後、
一人称と三人称のあいだは、
家族的類比によって、(一人称→われわれの言語の無根拠性を暴露しながら)内面化され全体化してしまう。

こういった家族的類比を「郡司二人称」論と考えてみると
(お望みなら「郡司スケルトン」論でもいい)
そういった力は、
(つまり徹底して相容れない内部と外部が)
マテリアルにおいてつながっているからこそ、生みだされている……
ということ……みたい……


鉄鼠 : 郡司ペギオー幸夫「生きていることの科学」


「生きていることの科学」
郡司 ペギオ-幸夫 / 講談社



「ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか」
入不二 基義 / 日本放送出版協会

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いうまでもないことなんだろうが…
「体験が脳のなかで整理されていくことによって意味が立ち上がり、磨き上げられていくのが私たちの「言葉」です。……一つ一つの言葉の意味を脳のなかで立ち上げていくのです」(p.13)(茂木健一郎「「脳」整理法」)
「体験が脳のなかで整理されていく……」
このとき、「脳のなかで立ち上」がっている「一つ一つの言葉の意味」とは何だろうか?
脳のなかになにがあるのだろうか?
意味だろうか?
なんだろうか?
文字、記号、……だろうか、そんな表象、イメージ、意識………クオリアだろうか
しかし、それが言葉の意味だろうか?

そもそも「逆転スペクトルの懐疑」とは、
個々人の意識-クオリアがどうあろうが
言葉の意味とは、なんの関係もない……
そういうことだろう……??(そこらへんの議論はダメットやらチャーマーズを参照してネ)

後に、意味の心象説を否定したウィトゲンシュタインによれば、
言葉の意味とは、その従い方(使用状況)でしかない……
……
だからこそ、言葉&意味には、個々人の思ってもみない弾力性(変化・極大化…)がある……のではなかろうか……

って本もろくに読まずに語るか……( ^∀^)ゲラゲラ


鉄鼠 : クオリアとイデア
鉄鼠 : 茂木さんのクオリア
鉄鼠 : 人工無脳!インチキ脳科学・クオリアファンを逮捕しちゃうぞ!
鉄鼠 : 脳内コビト ホムンクルス
鉄鼠 : 脳の自己完結性
鉄鼠 : 脳と心(なぞなぞ)
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哲学の私
(永井-カント-ウィトゲンシュタイン)

カント的世界
カント的世界には、何だってある。
見た目には、ふつうの世界となんにも変わらない。
カミナリだって聞こえているし
机やイスだってある。
精神や肉体……
意味や形式だってある。

しかし、
それは、たぶん
見えているのに、なんにも見えていない
聞こえているのに、なんにも聞こえていない
(脱落してる)ような世界かも……

なんだってあるのに、
なぜか、なんにもない世界。

それは、たとえば
心のない人物a,b,c,d…………
(あるいはきわめて精巧に作られた人間ロボットでも良い)
ばかりがいる世界に似ている。

勘違いしてはいけない
それは外見上、現実の世界となんら変わらない。

この心のない人物a(もちろん、きわめて精巧に作られた人間ロボットでも良い)に、
ある日突然「私」が生まれた(あるいは突然、「私」がロボットに乗り移ってしまった)…
そのとき、はじめて、世界がきらめき、
世界が「世界」という実質をもって、起ち上がってくる。
「世界」=「私」。

鶺鴒の花押…

画竜点睛を入れるが如き
神の所行か??

「私」……??
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「クオリアなんかイデアとおんなじじゃん」(承前)

ワシに言わせれば
ウィトゲンシュタインの言語ゲームってのは
イデア、心(像)、
あるいはクオリア…etc
みたいなもんが
結局、それについて考えてみたところで、
屁のつっぱりにもならんてことを
言ってるのね~
わかるぅ?
「屁のつっぱりにもならん」
「屁のつっぱりにもならん」
……
そんなもんがなくたって、
世の中、なあんにも困んないってこと……。
そんなもんは、学問の世界のおとぎ話にすぎないってこと。
あーあ…徒労だねぇ。
日暮れ、道遠し…ケンコウ法師だねぇ。

分かんないだろうけど……
デリダの(現前の形而上学批判とか)言いたいことにも通じてるのヨ

ほんじゃぁワシは、どうかというと
「すべての哲学は、プラトンの脚注に過ぎない」(ホワイトヘッド風)
(´∀)ゲラ(´∀`)ゲラ(∀`)

おあとがよろしいようで…
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「『論考』は語りの時間性を確信犯的に無視しようとした。しかし、語るとは時間的な営みなのである」(p.281)

たしかに、ウィトゲンシュタインは、そういった時間性を無視しようとしているように、ワシにも思える……
しかし、ワシが思うに、『論考』の願いは、ただ一つ。
「事実」を一本のエンドレスなビデオテープに抑えきってしまい「たい」
そんな感じだ(どのようにでもありえたテープ(論理空間)と考えて頂きたい)。
そこに流れている時間は、確かに時間かもしれないけれど、
それはあくまで「永遠の相の下に」(スピノザ)流れているものではないだろうか?
必然性や、確実性の問題と絡む……「いまここに」というあり方……永遠
(この比喩は音楽や芸術についても言えるだろう。)
(だれもお望みでないだろうが、ここにニーチェ的なそれを見てもいいし、トルストイのキリストをみてもいい(鬼界135))

その点を、
野矢持論の、謎=「意味の他者」から、論考を「自閉」と見るのだが……
いうまでもなく、それはこの書物の性格に過ぎない?


『論理哲学論考』を読む
野矢 茂樹 / 哲学書房
スコア選択: ★★★★★
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鉄鼠:現象学の文章

「5・6  私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
5・61 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
     従って我々は論理において、世界にはこれこれが存在するが、かのものは存在しない、等と語ることはできない。
     というのも外見上このことはある可能性を排除を前提しているが、この排除は実情ではありえないからである。というのも仮にそうすれば、論理は世界の限界を超えていなければならないからである。つまりそのようになるのは、論理が世界の限界を他の側からも考察しうる場合なのである。
     我々が考えることのできないことを、我々は考えることができない。従って我々が考えることのできないことを、我々は語ることもできない。
5・62 この見解が、独我論が、どの程度真理であるか、との問を決定するための鍵を与える。
     即ち、独我論が言わんとすることは、全く正しい。ただそのことは語られることができず、自らを示すのである。
     世界が私の世界であることは、唯一の言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに、示されている。
5・621 世界と生は一つである。
5・63 私は私の世界である。
5・631 思考し表象する主体は存在しない。……後略
5・632 主体は世界には属さない。それは世界の限界である。
5・633 世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
      ここでの事情は眼と視野との場合と全く同じである、と君は語るであろう。しかし現実には君は眼を見ないのである。
      そして視野における何物からも、それが眼によって見られていることは推論されえない。」
Wittgenstein「論考」


「ウィトゲンシュタイン」が正しいと言ったからって、
ホントに正しいわけじゃないよ(´∀)ゲラ(´∀`)ゲラ(∀`)
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