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「最近の本は……自分たちの自己正当化ばっかり……」

「ちょっとぐらい疑ったって良い……」

なにかを考えるってことは、
なにかを疑うことからはじまる…とかいわれたりする。
たとえ、なにかを肯定するためにはじまるとしても、
なにかをまったく疑うことなくして、なにかを肯定することは……なにかを考えることとは違うことだという気がする。
なんにも考えずに、やみくもに自己正当化……。
良く言えば信念の強い人だが……
ふつーに言えば、思い込みが強いだけのアホ(戦前の精神主義とか)。
勢古浩爾風にいうと、「自分から1ミリも出ようとしないバカ」

多分、ワシみたいに自己正当化だけになってしまうひとたちは、
真実よりも、自分をもっと良い人間に見(誤解さ)せたい。あるいは、
もっと立派(幸福)な人間であるはずだと思い込みたい、自己愛の強い、強すぎる、欲張りで傲慢でガンコな人(ジコチュー)なのだろう(要するに、ちっとも立派でもなく、禍々しく、卑しく、疚しく、貧しく、暗く、弱く、小さく、悪い人でもある)。

カントが道徳的善と幸福を截然と分けたのは、結局、そういうことだと思う。
「この世では、幸福はいつも真実を食い尽くす。真実を呑み込み、胃袋に入れて消化しようとする。幸福な人の眼は真実を見ていない。彼は真実を見ることをあきらめて虚偽を見ている。虚偽を見ながら、「これでいいのだ」と自己催眠をかけている。」(11頁)
「……普通の人は、死にものぐるいで幸福を求めたがる。みずからをだましても求めたがる。うちひしがれながらも「おれ(わたし)はほんとうは幸福なんだ」と思い込みたがる。まわりの人々も、彼(彼女)が無理にでもそう思い込むように、必死の思いで手助けする。紋切り型の甘い言葉を彼(女)の耳に流し込むのである。
 みんな、じつは王様が裸であると知っていても「きれいな着物ですねえ!と賛美するゲームを歯を食いしばって続けているのである。」(9頁)
「幸福は、盲目であること、怠惰であること、狭量であること、傲慢であることによって成立している……」(50頁)
「社会的に幸福ゲームを強要し、それに乗らない人を排斥し、真実を見ようとする眼を曇らせる。思考力を弱らせ、感受性を鈍らせる。こうした暴力が、まさに「幸福」という美名のもとに遂行されるから、ますますタチが悪い。美しい薄絹を幾重にもまとって貧弱な身体を覆い隠し、ひとを徹底的にだますから、ますます悪質である……」(88頁)中島義道「不幸論」
盲目、怠惰、狭量、傲慢であることによって成立している……
わかった!
だから、追い求めていないのに、ワシは幸福なのか!


それにしてもさぁ、
日本には、自分から一ミリも出ないで、
愛とか平和とか人生だとか年がら年中、説教したがるヤツ(ただの説教でしかないものを哲学だとかいいやがるものもいる)とか
ま、ミギとかヒダリとか、
自己正当化してるだけの(「これでいいのだ」という自己催眠でしかない)ものばかりだよなぁ……
いうまでもないけど、そういう自己正当化(天才バカボン的「これでいいのだ」という自己催眠)は、
盲目、怠惰、狭量、傲慢であることによって成立している
真実ではない
真実を見ようとしていない
のかも……( ^∀^)ゲラゲラ

中島義道:不幸論
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哲学の私
(永井-カント-ウィトゲンシュタイン)

カント的世界
カント的世界には、何だってある。
見た目には、ふつうの世界となんにも変わらない。
カミナリだって聞こえているし
机やイスだってある。
精神や肉体……
意味や形式だってある。

しかし、
それは、たぶん
見えているのに、なんにも見えていない
聞こえているのに、なんにも聞こえていない
(脱落してる)ような世界かも……

なんだってあるのに、
なぜか、なんにもない世界。

それは、たとえば
心のない人物a,b,c,d…………
(あるいはきわめて精巧に作られた人間ロボットでも良い)
ばかりがいる世界に似ている。

勘違いしてはいけない
それは外見上、現実の世界となんら変わらない。

この心のない人物a(もちろん、きわめて精巧に作られた人間ロボットでも良い)に、
ある日突然「私」が生まれた(あるいは突然、「私」がロボットに乗り移ってしまった)…
そのとき、はじめて、世界がきらめき、
世界が「世界」という実質をもって、起ち上がってくる。
「世界」=「私」。

鶺鴒の花押…

画竜点睛を入れるが如き
神の所行か??

「私」……??
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せんじつは、
哲学をすると…つまり
真実を愛(追究)すると
必然的に世の中では悪人になる可能性…みたいなことを書きましたが

この時の悪人の「悪」は、
世間的な「善・悪」の観点からいって
「悪」と呼べるもので
もちろん
たとえばカントみたいな厳格な道徳的格律を持っている人から見れば
まったく逆に
そういった世間的「悪」こそが、道徳的なホントーの「善」というかもしれません。
わかりませんが、カントに言わせれば、
世間人は、世間的に生きるだけで、必然的に悪に陥ってしまわざるをえない「大悪人」です。
それにひきかえ、真理(真実)を愛して、それを免れている哲学者だけが、真実のヒト…ホントーの善人ということかもしれません……がそれは、そこで書いたように、世間的には悪人と誹られる可能性が大という気がします。

世間に「悪人」と誹られて、
哲学的な真実の世界のみに生きることが……
はたして「ホントーの善人」の生き方なのか??
どうかはしりません……が

こういった思考形式というのは、
古い哲学に典型的なもので…
ことばのルールを変更して、
まったくちがうものを善(x)としよう
ということですが……

しかし、煎じつめると、
多数派のことばの使い方が正しいのか
有能な哲学者のひとり(あるいは少数者)の使い方が正しいのか
になりそうです~

現在の社会は、ひろく民主主義的な社会なので
多数派の使い方が正しいように思えますが…
真善美のプラトンなんかは
そういう世俗にまみれた民主主義(多数派)的価値を否定して、
(形而上学的価値を説く)哲人(少数者)政治を説いたわけですねぇ

ことほど左様に、
彼が真実を愛(追究)し
「ホントーの善人」(哲学者)として生きたからか
どうかはしりませんが……
高名な哲学者ほど…
世俗的には悪人とされたようです……
ソクラテス、セネカ、トマス・モア、
ジョルダーノ・ブルーノ……世俗人たちによって断罪、処刑され
などなど…
そのソクラテスの弟子のプラトン&アリストテレスも
追放になったり、逃亡したり、奴隷になったり……
大変な人生をおくったようです……
まあ、それほどでなくとも
名だたる哲学者のなかには……
女癖が悪かったり、隠し子つくったり、変態だったり、梅毒&狂気のうちに死んだり、冷酷無比だったり
わけても「変人」は……
哲学者の代名詞ですよね~



世の中には、
> 哲学がないと地検特捜部の厄介になってしまう
なんていうひともいるが……
たぶんなんか誤解してるのでしょう?
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カントと同じく、
生涯結婚することはなかったが(衆道だったかどうかはしらない)、

さすがテンサイ、大哲学者といわれるようなひとたちは
なんでも、マルッとお見通しなのか?……
どうかはしらないけれど……
次のような一節がある

「規則に従っているとき、私は選択しない。
 私は規則に盲目的に従っている」


なるほど!

ワシは、最初、読んだとき、思わず膝を叩いてしまった。
それまで、ウィトというと近づきがたいイメージだったが、
この一節を読んで、彼をずっと身近に感じるようになった。

ワシは分かった。

彼は大哲学者だから、
ワシだったら、「妻(あるいはオンナ)」と書くところを、
「規則」と書いただけなのだ。
(ったく、哲学者ってのは、恥ずかしがり屋さんなんだから……(笑))

天才と何とかは紙一重というが、
その紙一重の差が、
もちろん雲泥万里なのであるが……

それでも
なんだかかってに
うれしくなってきたところで……
酒でも飲むとする……
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「ロックが〈神と自然の法〉から原初契約を補強するのに対し、カントは、自然に寄ってではなく、純粋理性によって与えられる正の原理からそれを補強する。」(p.194)サンデル「自由主義と正義の限界」

「カントにとって、原初契約を是認するのに役立つ原理は、財産を維持するという「大きな、主たる目的」とか、幸福を追求することではなく、それ自体、義務であり、「他のすべての外的な義務を成立させる、最高の形式的条件であり、公的な強制法のもとにある人間の権利であって、その法によって、各人には自らの保有物が規定され、また他者から加えられるすべての侵害に対しても保証されうる」(1973:73[141])。しかも、この義務は、自然から由来するのではなく、「ア・プリオリに立法にする純粋理性によって要請されるものであり、いかなる経験的目的(幸福という一般的名称のもとに包括されるような)も顧慮しない」。幸福という経験的目的や、それが何から構成されるかに関しては、人によって異なる見解があるので、幸福によって、すべての者の自由と調和する外的な法則のともに、人々の意志を従わせることはできない。このように、市民国家は、ア・プリオリに与えられる「人間の外的な権利の根拠となる、純粋な理性原理」に従うときにのみ確立できる。それがア・プリオリな原理に基礎づけられねばならないのは、自然も、経験も、何が権利であるのかの知識を提供できないからである(Kant 1793:73-4,86[142,156])」(p.193-4)サンデル「自由主義と正義の限界」

「どのような立法の原理も、幸福によって基礎づけられえない。というのも、変遷する環境からや、何が幸福であるかに関して(幸福がいかに獲得されるべきかについては、誰も他者に指示できない)、たがいに著しく矛盾し、変化している主観的想念からは、確固とした原理はすべて不可能になるので、幸福のみでは適切な立法の原理となることは決してないからである。」(Kant 1793:73-4,86[142,156])(p.194)サンデル「自由主義と正義の限界」

「彼(筆者註:カント)によれば、人間は「自然本性からして」悪である。どんな善人も悪である。この思想の背景としてキリスト教の「原罪」の思想が認められるが、カントの「根本悪」ははるかに人間的である。人間は、みずからより完全になろうと刻苦精励し、他人の幸福を望み他人に親切すればするほど、必然的に悪に陥る。学校や病院を建設し、文化を発展させ、つまり社会を改良すればするほど、悪はすべての人のからだにまといつくのである。悪はすべての人の「善くあろう」という意志の中に溶け込み、社会を「善くしよう」という欲求の中に紛れ込む。」v 中島義道「悪について」

「カントは幸福をそれだけとして直接的に肯定することは、生涯にわたってなかった。幸福を肯定するのは、あくまでも、幸福が道徳的善さの実現を促進するからである。幸福を直接的に(道徳的善さの実現と切り離して)それ自体として求めると、自己愛が前面に押し出されて、われわれは道徳的善さにそむく行為を実現してしまうのだ。」(p.68)中島義道「悪について」

「カントとは後の『宗教論』に至って、「幸福追求が道徳的善さを条件付ける」というアンチノミーの定立を「道徳秩序の転倒(Umkehrung)と名づけ、われわれ人間はこの転倒へと陥る「性癖(Hang)」を「自然本性上(von Natur)」有していると言う。実践理性のロジックでは「絶対的に虚偽である」と断定されたものを、われわれ人間は常にその自然本性においてなしていると言う。これが、とりもなおさず「根本悪」なのである。」(p.70)中島義道「悪について」

「……純粋実践理性は、「われわれは幸福に対する要求を放棄すべきである」と主張するのではなくて、義務が問題であるかぎり「われわれは幸福をまったく顧慮すべきでない主張するだけである」(『実践理性批判』)(p.71)中島義道「悪について」

「幸福への欲求が道徳的善さへの欲求以上にのし上がることによって、悪が発芽するのだ。」(p.73)中島義道「悪について」

「理性的存在者としての人間は、本来道徳法則に対する尊敬にもとづく動機を第一にして、それが自己愛に基づく幸福追求の動機を条件づけるべきであるのに、「最も善い人間でも」これを転倒して、自己愛に基づく幸福追求を第一にして、それが道徳法則に対する尊敬に基づく動機を条件づけてしまう。道徳法則を尊敬するという条件のもとで幸福を求めるべきであるのに、これを転倒して幸福を求める条件もとで、道徳法則を尊敬してしまうのだ。」(p.195)中島義道「悪について」

「カントの視線は、一点のごまかしを見逃さない。われわれ人間が生きていくとは、転倒して生きていくことなのだ。転倒せずには生きていけないのだ。幸福を確保できるかぎりで、道徳的な善さを求めるのだ。ふたたび『嘘論文』の事例を思い起こしてみよう。常に無条件に真実を語ることを格律にしている者がいたら、彼はいかなる友人も恋人もできないであろう。いかなる職業にもつけないであろう。誰からも信用をえられないであろう。つまり、社会において生きていけないであろう。」(p.196-7)中島義道「悪について」

ロールズの
「善に対する正の優先」
カント道徳のいうところの幸福に対する道徳法則-真実性の原則に共鳴するのかもしれないが、
カントの世界は、あまりにも遠い。

ちなみに、ぼくはロールズの主体(主観)が、カントの超越論的な嫌疑から免れているとは思っていない。
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アニキ:Excite エキサイト : スポーツニュース

子どもだましの美談ばかり

兄弟仲が悪くて、喧嘩するのは、ぜんぜんかまわん。
けど、
あの一々世間べったりのアニキの態度だけは鼻につく
ガマンならん
高校野球のへたくそな選手宣誓みたいな、あの喪主挨拶。
「プライベートなことなのでコメントしない」……
やることなすこと、一々
「わたしは、あなたがた世間のミナサンの考える道徳的善さに
 こんなにも忠実な下僕です。
 ワンと言えと言われれば、ワンと言います。
 わかってください~世間のミナサン……~ワンワンワーン」
そのイヤらしさが、たまらない。
世間の価値でしかものがいえないのか?
(そういう人間に限って、裏に回ると、世間に不平タラタラなヤツだったりする)
また、この国には、いまだ、そーいうイヤらしさを褒めそやす気持ちの悪いヤツ(新手の隠れファシスト)が大勢居たりするから、余計にゾッとする。

「俺の相撲には基本がない……と貴乃花が批判されたとき、僕は思った。よし、これで俺の勝ちだな。これからは、俺のファンが増えるぞ!」花田勝「独白」

中島義道「悪について」

「カントがもっぱら矛先を向けたのは、外形的に適法的行為=義務に適った行為を完全に成し遂げながら、同時に自己愛という動機に支配されている人間である。彼らは、社会的に「賢い」からこそ、より危険なのであり、社会的に報われているからこそ、より悪いのである」(pp.34)

「カントにとって、嘘と欺瞞で固めた卑劣漢も、放火常習犯も、強姦常習犯も、狡猾な日和見主義者も、弱者を足蹴にしてのし上がる冷酷無比の企業家も、権力に安住している官僚も、悪徳政治家も、悪のモデルではない。
 そうではないのだ。常に外形的に善いことをなし、如才なく、弱者を助け、刻苦精励これ努め、約束はきちんと守り、あらゆる法律を守り、そして賢明に穏やかに生きつづける善良な市民こそが悪のモデルなのである。彼(女)がもっとも悪いのである。外形的に善いことをしながら、内部には巧妙な自己愛の水路が築かれている、その巧みなしたたかさが悪の典型なのである。」(pp.34-5)

「非適法的行為を斥け、適法的行為を実現している人々のほとんどは、自己愛という動機を発動させて外見を維持しているだけである。彼らは、おうおうにしてみずからを道徳的にも善いと信じているからこそ、いっそうその正体は悪なのである。」(pp.55)

「むしろ共同体の利益を賢く考量し、自他の幸福に対するこまごまとした配慮があり、しかも同時にみずからの名誉欲を満足させるような態度、りっぱな市民の信条である。これは、容易には「たたきのめされない」。社会的には称賛され、みずからも道徳的なことをなしていると勘違いし、幸福感は倍増されるがゆえに、「たたきのめされない」」(pp.42)

「ほとんどの人間は、ほとんどのときに、適法的行為を実現しようとしている。しかし、それを強く欲すれば欲するほど、実現された結果は自己愛の臭気をまとった悪として彼(女)のもとに届くのだ。適法性に向かおうとする人間の意志そのもののうちに、悪の源が隠されている」(pp.64-5)

「他人に親切にすることは……自己陶酔の混じった「同情や思いやりの感情」から出ている……その外形が適法的で(いわゆる)人道的であるからこそ、その背後のセンチメンタルな自己満足(自己愛)が透けて見え、臭気は強烈で思わず鼻をつまみたくなるのだ。
 ……そこには本人がほとんど自覚していなくても、見返りの要求がある。「あなたがただ喜んでくださるだけでいいのです」という言葉が、どんなに多大な見返りを要求しているか自覚していない鈍感さがある。」(pp.78)



世間知らず
「親方、見苦しい」が見苦しい
どんどんつまらない人間になっていく。」
世の中の善人について
少年老い易く学成り難し
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中島義道「悪について」

「カントがもっぱら矛先を向けたのは、外形的に適法的行為=義務に適った行為を完全に成し遂げながら、同時に自己愛という動機に支配されている人間である。彼らは、社会的に「賢い」からこそ、より危険なのであり、社会的に報われているからこそ、より悪いのである」(pp.34)

「カントにとって、嘘と欺瞞で固めた卑劣漢も、放火常習犯も、強姦常習犯も、狡猾な日和見主義者も、弱者を足蹴にしてのし上がる冷酷無比の企業家も、権力に安住している官僚も、悪徳政治家も、悪のモデルではない。
 そうではないのだ。常に外形的に善いことをなし、如才なく、弱者を助け、刻苦精励これ努め、約束はきちんと守り、あらゆる法律を守り、そして賢明に穏やかに生きつづける善良な市民こそが悪のモデルなのである。彼(女)がもっとも悪いのである。外形的に善いことをしながら、内部には巧妙な自己愛の水路が築かれている、その巧みなしたたかさが悪の典型なのである。」(pp.34-5)

「非適法的行為を斥け、適法的行為を実現している人々のほとんどは、自己愛という動機を発動させて外見を維持しているだけである。彼らは、おうおうにしてみずからを道徳的にも善いと信じているからこそ、いっそうその正体は悪なのである。」(pp.55)

「むしろ共同体の利益を賢く考量し、自他の幸福に対するこまごまとした配慮があり、しかも同時にみずからの名誉欲を満足させるような態度、りっぱな市民の信条である。これは、容易には「たたきのめされない」。社会的には称賛され、みずからも道徳的なことをなしていると勘違いし、幸福感は倍増されるがゆえに、「たたきのめされない」」(pp.42)

「ほとんどの人間は、ほとんどのときに、適法的行為を実現しようとしている。しかし、それを強く欲すれば欲するほど、実現された結果は自己愛の臭気をまとった悪として彼(女)のもとに届くのだ。適法性に向かおうとする人間の意志そのもののうちに、悪の源が隠されている」(pp.64-5)

「他人に親切にすることは……自己陶酔の混じった「同情や思いやりの感情」から出ている……その外形が適法的で(いわゆる)人道的であるからこそ、その背後のセンチメンタルな自己満足(自己愛)が透けて見え、臭気は強烈で思わず鼻をつまみたくなるのだ。
 ……そこには本人がほとんど自覚していなくても、見返りの要求がある。「あなたがただ喜んでくださるだけでいいのです」という言葉が、どんなに多大な見返りを要求しているか自覚していない鈍感さがある。」(pp.78)

Excite エキサイト : スポーツニュース

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これはよく自分自身が書いたものに
おもうんだけど

「……われわれは自己を偽り思い上がって、自分の行為はもっと高尚な動因によっているのだとうぬぼれたがる……」カント

やっぱり謙虚なカントのことだ、自分に対しても、そう思っていたのではなかろうか?
だからって、どうしようもないんだけどねぇ~プゲラ

(引用は↓)
悪について
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カントの名高き定言命法

「私は、私の格率が普遍的法則となるべきことを私はまた意欲することができる、という仕方でのみふるまうべきである」(道徳形而上学の基礎づけ( 50頁))

「行為の道徳性は、その格率の普遍化に存する」というわけだ。

格率というのは、哲学を知らないひとにはなんのことだか分からない言葉だが、
早い話が、自分で勝手に決めている原則(理窟)のようなもんだ。

だから、ごく雑駁に言ってしまえば、カントが言わんとしていることは
「自分で勝手に決めている原則を、道徳として通用させるには、普遍的に通用するもんじゃないといけないぞ」
約めて命法にすると
「自分で勝手に決めている原則は、普遍的に通用するものにすべきである」
これが、カント道徳の神髄と言われているものだ。

じつは橋本治は、このカントの格率を、もうちょっと積極的に展開したひとである。
橋本治が、いかに正義の人で、道徳的な人か分かって貰えるだろう。


「今の世の中っていうのは、どこまで自分の個人的な不幸を一般化できるかってことにかかっています。」橋本治「青空人生相談所」( 23頁)


この提言から、つぎのような命法が導かれると思う。
「自分の個人的な不幸を一般化するようにすべきである」
上のカントは、
「自分で勝手に決めている原則は、普遍的に通用するものにすべきである」
と言っていた。
「原則」と「不幸」、「一般化」と「普遍的」という言葉の違いはあれ、
これは同じことを言っているのではないか?
「今の世の中っていうのは、どこまで自分の個人的な不幸を一般化できるかってことにかかっています。どういうことかというと、「僕がこんなにも不幸だなんてことは、あまりにもひどすぎるじゃないか!」ってことを言い出して、ある程度以上の人に「なるほど」って、言ってもらえたら勝ちだってことです。今のきみは、少なくとも十分に不幸な訳ね。で、その不幸なきみが「僕はこんなに不幸だ!」って言っても、誰にも聞いてもらえないってとこに、きみの不幸がある訳ね」(23頁)

カントは、かなり不幸だったのだろう(笑)。

Note------------------------------------------------------
道徳形而上学原論
カント Immanuel Kant 篠田 英雄 / 岩波書店
スコア選択: ★★★★★



青空人生相談所
橋本 治 / 筑摩書房
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この前、ボクの書いているものが
モノマネとハッタリであることは書いたが
結論を先に言ってしまうと
これも……然り。
(別に言うまでもなく、読めば分かると思う)
遠吠えとも言う……

他の人はどうかは知らないが……
このブログは負け組中年男の言い訳を書いているのである。

言い訳というと、
ふつうは自分のミスを隠し、不当に良い人間として認めてもらうためにするが、
もうこの歳になると野心ってもんが微塵もない。
このブログは、若い人やまだ勝ちたい正常なヒトには、
ちょっと遠慮してもらったほうが良いと思ってる。

実際、ボクは負け犬がどうにもしょうに合っているというか
気楽というか
楽しいというか
充実しているというか
そういう自分に決して満足しているワケではないが
それが楽しいというか……

「そんないい歳をして負け犬の言い訳など書いて、恥ずかしくないか?」
と問われれば、
正直、
「恥ずかしいかなぁ」
しかし、だからといって、他人や世間の目を気にして、
それに合わせることは、もうヤめた。
ウソッパチだろうが、キショク悪かろうが、なんだろうが……
否、今度は、ボクの方に、みんなが合わせる番だと、勝手に思っている。
少なくとも、そういう合わせ方ってあると思う。

ていうか~ボクには、名だたる哲学やブンガクも、最初、そういう「『負け犬』の言い訳」ではなかったかとすら思っている。
成功した人は、たまたま、そいつが認められて、あとは苦し紛れに、次から次へとついた言い訳が、これまた、何か知らないけど、たまたま(類い希な創造力とかアイデアだとか)評価されて、
大哲学者や大文豪なんて言われているだけのような気もする。

ボクにしてみれば、それらが、どこまで言い訳ができるか?
ウソッパチ(空想)をつき続けられるか
ってところも大事な点のように思っている。
いわば彼らは言い訳の天才、ウソッパチの天才。

こういうと
「いいやそんなはずはない。いい加減なウソッパチばかりいうな」
という世間のひともいるだろうけど
以前、「ハシモチの定言命法」でも書いたように、
ひょっとしたら、まんざらウソッパチばかりではないかも??LOL
橋本治テーゼを再度引用しておこう。

「今の世の中っていうのは、どこまで自分の個人的な不幸を一般化できるかってことにかかっています。どういうことかというと、「僕がこんなにも不幸だなんてことは、あまりにもひどすぎるじゃないか!」ってことを言い出して、ある程度以上の人に「なるほど」って、言ってもらえたら勝ちだってことです。今のきみは、少なくとも十分に不幸な訳ね。で、その不幸なきみが「僕はこんなに不幸だ!」って言っても、誰にも聞いてもらえないってとこに、きみの不幸がある訳ね」(23頁)

つまり、自分の勝手な不幸の言い訳をみんなに聞いて貰って、
「ある程度以上の人に「なるほど」って、言ってもらえたら勝ち」
個人的な不幸の一般化……言い訳の一般化…できたら…哲学者も文学者も「成功」ということになる
その記事にも書いてるように、カントの定言命法も、そう読めないことはないし、
ヘーゲルにおいても権利が認められていく(特殊を普遍へと高めていく)過程で、そんなくだりが出てくる(法哲学)。
言い訳の天才、ウソッパチの天才。
そう読んでいくと
ニーチェもフッサールもハイデガーも、ウィトゲンシュタインも
そう読めないことはないLOL

詐欺的創造力!コレ!
sour grapes!

あーこれもイイワケ~ウソッパチ~ハハハ

note………
世間の悪口を言う

人間とは何か
哲学することはカッコイイか
哲学をするとことはカッコイイか
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