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マスコミが、「民の声」「民意」「民意」……と
金科玉条のごとく煽り、
それから一ミリでも反することは国民への裏切りだと言わんばかり
国会議員も平身低頭
「有権者の声を国政に」「民意を反映する内閣」……

国会議員は、たしかに民意の反映として選ばれる。
だからといって、支持選挙民の民意を、かならずしも反映する必要はない。
だいたいただの代弁者に過ぎないなら、
今の時代、国民の全員(ネット&電話)投票(直接制)にすればいいのである。

そうしないのは直接制に、ある種の問題があるからだろう。

欧米の民主主義はギリシアの民主主義を祖としていることはよく知られている。
しかし、ギリシア民主主義は、いわゆる原始的な直接制民主主義で、
有能な者を次から次に追放した…いわゆるオストラシズム(陶片追放)→衆愚政治化を招いた(ちなみにナチス・ドイツの直接制回帰は有名)。
しかも、ソクラテスの弁明が、それに…つまり民主主義に対する徹底的な反論であったことなど、ほとんどしられていない(それどころか哲学の徒ですら、それをわざとぼかすために単独者めいた議論をするひとがいるぐらい…だからタチが悪い)。
ソクラテスの主張は、ただ一点、
「なぜ、多数派は正しいのか?」
だから、その弟子のプラトンは彼の衣鉢を継いで(?)哲人(賢者による少数派の)政治を説いたわけである…
しかし、賢者も民衆(多数派)も
人間であるかぎり、誤りうるわけで
100%信用はできない。
それで、折衷して、代議(間接)制を採用しているわけで…(むろん折衷したからって100%信用できるわけではないけど…)
賢者と民衆の両方の意見を折衷して、悪いところを補おうというものだろう。
つまり、国会議員を賢者と見なすならば、単なる国民の代弁者(民意の反映)であってはならず、
賢者的判断(国民(民意)と国家(全体利益)のバランス)こそが求められると思う…
米大統領なんかのあり方(権限など)なんか、そういうもんだと思う…
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「…近代民主主義社会には、
神の国のように、絶対に正しいことなんてない。
……
絶対に正しい事なんてないから、
裁判(議会)を開き、
相手の主張を訊き
多数決で決める(国会だって、最高裁だって、最後は多数決(頭数)で決める)。
(もちろん、そこに神学的な戦いが全くないと言うつもりはないが)…」すさまじきものにして見る人もなきブログ! : お天道様が、マルッとお見通しでい
上の記事の前後を読めば、
「絶対」的に正しいものはない……
というよりも「絶対」的に正しいものがあるとかなり困ったことになる
ということに近い。
だからといって、正しいもの(正義)がまったくない社会というのも、
また、困るだろう。

ヒトには神様のような絶対的に正しいものは分からないが、
異なる正しさ(主張)を持つ者の言い分を訊き…調整した結果を…多数決によって決める…ことで、正しさを形成(人々の利害の調整を)することは出来るのではないか?
そういった近代・民主主義的手続きを経たものであれば、
私たちは、事後的に、ひとまず、正しいと言わざるを得ない??ように思える。
もちろん、神ならぬヒトが(妥協で)決めたものであるがゆえに、間違いも起こりうるだろう。
だから、この「正しさ」は、最初の絶対的な正しさとは、根底的に意味が変わってしまっている。
そこに気づかないと、またもや誰が正しくない/正しいの宗教論争が始まる。

すくなくとも、現代の日本人には、快適に生活を営んでいく上では、そういった「正しさ」のほうが、より適切なものである……と思われているような気がする……

ま、あとはこれでも読んでねぇ

ちなみに哲学は絶対的に正しいものがあるっていう思い込みで始まっています。
いまは哲学も社会(世間)に飼い馴らされて、公共の哲学、社会の哲学…政治哲学…なんて言って民主主義の優等生を気どったりしてますが……
もともと、哲学は反民主主義!
「ソクラテスの弁明」などは
ギリシア民主主義に真っ向から反旗を翻し、
「多数(民主主義)が、なんぼのもんじゃい!」(問いにするなら「多数はなんで正しいのか?」ってことでしかない…多数派の価値など木っ端微塵!)
悪く言えば、世間にまつろわぬDQN犯罪者、ヤクザ、アウトロー……。
よく言えば、草分け的な衆愚政治批判者……かな…
だから弟子のプラトンが、それを受け継いで哲人(少数)政治を説くわけ。
プラトンたちにすれば、
「絶対正しいものがある。
 しかし、それは賢いワシみたいなもんにしかわからん
 だから賢いワシが天皇になって政治をやるべき」
ということでしかない。
ま、簡単に言うと、そういうことが長い間の哲学の伝統みたいな……( ^∀^)ゲラゲラ
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承前

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「これらが、アテナイ人諸君、あなた方にとって真実であり、私は大にも小にも隠し立てせず、躊躇いもせずに語っています。しかしながら、私は、私がまさにこのことによって憎まれるということをだいたい知っており、そのことがまさに、私が真実を語っていること、ならびに、これが私への中傷でありその原因がこれらであることの、証拠でもあるのです」(ソク弁明)

「まさにこの死刑判決こそが、ソクラテスが「私が憎まれること」と呼んだ事態の最後で最大の生起であり、それ自体が「私が真実を語っていることの証拠」となるのである。ソクラテスは「真実を語ることで人々に憎まれる」という真実を、法廷に現出させる」(p.187)

哲学をするには、
まず、多くの人に憎まれなきゃダメみたい(笑)

少なくとも、多くのヒトにちやほやされるような哲学者は、
ダメだなぁ(笑)
真実を現出させていない?(笑)

立派な哲学者になりたいひとは
他人にもっと憎まれる・嫌われるためのシュギョーを積もう~

アーワシ?
だまっていても、ちやほやされるからな~
カンケーねえよ~


それにしても
ヒトは変わらずにふるい
いつの時代も変わらない……


それがなによりです。


哲学をすること  ~2
正直なことは
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死からもっとも遠い人間に限って
死にロマンを感じて、
美化・伝説化したがる…もの…。
逆にいうと
死に近い
老齢を重ねたものは、そうしたロマンから、どんどん遠くなる。

死にそうしたロマンを感じるものは、
まだくちばしの青い”しあわせうさぎ”である。


結局、ソクラテスにまつわる”ブンガク”は
少女マンガか、あるいは質の悪いタブロイドであった(笑)。


アルキビアデスとソクラテス
まるで
藤原王朝絶頂を思わせる
凪の一時の……スキャンダル


無知の知×

「知らないことを知っている」×
「知らないものを知らないと思う」○

どうでもいいか~
そんなこと~

無駄だなぁ~(^Д^)


いつか
塩野七海タッチになるかな~
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せんじつは、
哲学をすると…つまり
真実を愛(追究)すると
必然的に世の中では悪人になる可能性…みたいなことを書きましたが

この時の悪人の「悪」は、
世間的な「善・悪」の観点からいって
「悪」と呼べるもので
もちろん
たとえばカントみたいな厳格な道徳的格律を持っている人から見れば
まったく逆に
そういった世間的「悪」こそが、道徳的なホントーの「善」というかもしれません。
わかりませんが、カントに言わせれば、
世間人は、世間的に生きるだけで、必然的に悪に陥ってしまわざるをえない「大悪人」です。
それにひきかえ、真理(真実)を愛して、それを免れている哲学者だけが、真実のヒト…ホントーの善人ということかもしれません……がそれは、そこで書いたように、世間的には悪人と誹られる可能性が大という気がします。

世間に「悪人」と誹られて、
哲学的な真実の世界のみに生きることが……
はたして「ホントーの善人」の生き方なのか??
どうかはしりません……が

こういった思考形式というのは、
古い哲学に典型的なもので…
ことばのルールを変更して、
まったくちがうものを善(x)としよう
ということですが……

しかし、煎じつめると、
多数派のことばの使い方が正しいのか
有能な哲学者のひとり(あるいは少数者)の使い方が正しいのか
になりそうです~

現在の社会は、ひろく民主主義的な社会なので
多数派の使い方が正しいように思えますが…
真善美のプラトンなんかは
そういう世俗にまみれた民主主義(多数派)的価値を否定して、
(形而上学的価値を説く)哲人(少数者)政治を説いたわけですねぇ

ことほど左様に、
彼が真実を愛(追究)し
「ホントーの善人」(哲学者)として生きたからか
どうかはしりませんが……
高名な哲学者ほど…
世俗的には悪人とされたようです……
ソクラテス、セネカ、トマス・モア、
ジョルダーノ・ブルーノ……世俗人たちによって断罪、処刑され
などなど…
そのソクラテスの弟子のプラトン&アリストテレスも
追放になったり、逃亡したり、奴隷になったり……
大変な人生をおくったようです……
まあ、それほどでなくとも
名だたる哲学者のなかには……
女癖が悪かったり、隠し子つくったり、変態だったり、梅毒&狂気のうちに死んだり、冷酷無比だったり
わけても「変人」は……
哲学者の代名詞ですよね~



世の中には、
> 哲学がないと地検特捜部の厄介になってしまう
なんていうひともいるが……
たぶんなんか誤解してるのでしょう?
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「…前略…そうそう、若い時は、たいがい誰で(ワシ)もそうだけど、
そういうカッコヨク、オイシイ生き方(あるいは「思想」なんぞ)
を、(世間がダメだったら、小さなサークルのなかでも)とりあえず求める…ところってあるよなぁ~
~中略~
サヨクだろうが、プチなしょだろうが
そこのあなた!、そんなかったるいもんに~
高度資本主義が産み出す以上の快楽があると思えます?~」鉄鼠


以下は大庭からの引用

「前略~やはり昔あぁたが卒業論文で主張したように、”大学という形で制度化された近代の《知》こそが、根源的な《権力》である”ということになりますかナ。」
「──それは、そうですヨ。当然でしょうがァ。いまの学生たちがフーコーをどう読んでいるのかは知りませんよ。だけど、真理を追求する知の〈主体 sujet〉であるということは、真の知にかしづく sujet[=臣下]であることを自他に強制することだ、と。フーコーの、この認識は、大変な真理ですよ。まさに、知は隷属を強いる力なんですナ。」
「しかし、あぁたも、新入社員を迎えて社内教育でけっこう苦労している。そのときに、いくらなんでも”これから私は、真理の名において、君たちの生を寸断し調教して、知に隷属化させる権力を行使します”と括るわけにもいかないでしょう?」
「──ところが、それで済んじゃうんですよ。知識が、ここまで権力として浸透してしまうとネ、逆に、誰だってミニ権力者にはなれるじゃん、みたいな発想が強くなるんスね。なんせ今の若い連中ときた日には、”知識って、持っていれば、それだけ人に使われないで済むじゃん。だからアタシも知識を身につけて、おいしい生活をするんだわァ”。これで済んじゃうんスよ。いい、先生? ガッコ出たての女の子がですヨ、『世界経済なんたらかんたら』みた本を読みながら、赤鉛筆もって新聞の株式欄を読むんですよ。」
「まさしく「真」なる知とは、「強者の益にかなう」ものだ、と。しかし、それじゃあ、この社会の中で、”強い者になるために有用なら、何でもいい[anythinggoes]”っていうデカダンの世界ではないか。」
「──ところが先生、違うんだな、全く。彼女たちの「おいしい生活」への貪欲さは、絶対に先生たちの書斎の中みたいに、ニヒルっぽいデカダンに行かないのよ。いや分かりますよ、先生たちからすれば、”そのような「知恵」がはびこる世の中だからこそ、ホントの意味での「知をないがしろにしない」姿勢、つまり「哲学」が必要なのだ!”と言うんでしょ? 今年だって多分、教養の哲学の授業は、ソフィストの「知恵」対ソクラテスの「無知」の話からはじめてるんだ。でも全然ちがうんですよ、それは。「正義とは強者の利益」、「知識とは、そういう世の中でうまく生きる道具」。これでいいんですよ。でも、いい? だからと言ってデカダンになりはしないのよ。自ずとおいしい生活に向かう力への意志は、もっと生き生きとしてるんですよ。」
「おいおい、フーコー青年のニーチェ詣で、か? あぁたみたいな言いかたはは、下手すると、近代知を批判する言説をみんな束ねたあげくにだナ、”自ずから”成り行く”力”万歳、”ハイル・ヤーパン、ユーバー・アレス[世界に冠たる日本万歳]”の音頭取りになりかねないぜ。」
「──だから先生は、インポな「知の臣下」だっていうの。「知識とは、おいしい生活をうまく追求する道具だ」って言うと、すぐデカダンな頽廃と反発するし、「おいしく生きようとする力」と言うと、ニーチェすなわちナチという話に持っていって、紙魚だらけの抹香臭い部屋に他人までをも拘束しようとするのネ。そういう感性が狂っているとは言わないけど、カビの生えた《哲学》の世界での内輪話にしかならないよ。それじゃあ、あの娘たちの「おいしさ」志向には全然太刀打ちできないのよねぇ」(p4-6)大庭健「はじめての分析哲学」

全然太刀打ちできないのよねぇ~


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結局、「教養」が目指したものって
コミュニケーションなんだよねぇ(「学問」と混同して良いかどうかは読者の想像に「オマケ」する)
あくまで、コミュニケーションのための「教養」だったわけ。
ここんとこ大事。
たしかに、マスコミもテレビもネットもなかった時代の「教養」といえば、
いわゆる「教養」だった。
しかし、現在のような高度な情報化社会-高度なコミュニケーション社会では
テレビ、マスコミ、ネットこそが「教養」になる。
ていうか、じっさいになっている。
そこで「みんな一緒」、「「われ」を忘れる世界」→「教養の世界」が実現された社会。

「ブタとソクラテス」問題でいうと、
教養としては、問題を取り違えていたということになろうか?

だから、
むかし(大正時代)のように、難解な本を片手に、「他者とは……」、「コミュニケーションとは……」(出会い系恋人募集広告風に単純化すると「ボクはこんなに「教養」があるんです?どうですか?話しませんか?」)などとエラそうな顔をして語る必要なくなったの。
いまや、クリックひとつで、世界の他人と一瞬でコネクトしてしまう世界。
あるいは、「「サッカーワールドカップなど」のメディア誘導型のイベント」(内田樹)で
「みんな一緒」になるなんて……すっごく簡単になっちゃった社会!。

そうすると、
純粋まっすぐ教養クンみたいなひとたちは、「教養の終焉」を嘆くというオシャベリを始めるけど、
そうじゃないのヨ。
「教養」の時代が終わったのではなくて、
「教養」の記述内容(中身)が決定的に変わってしまっただけなのねぇ。
つまり、いまさらまっすぐクンみたいなひとが、
昔の、いわゆる(人-文としての)「人間」を引っ張り出してきて、「いわゆる教養」を復活させる必要なんて………ぜんぜん、ないわけよ!。
分かる?。
そんなの本末転倒も甚だしい……プンプン(`へ´)フンッ。

まっすぐクンたちも、
世間の人たちに負けないくらい、
二言目には、他者だ!、弱者だ!、労働者だ!、権力者の横暴だ!…平和、愛、コミュニケーションが大事だ…というけれど、
そんなにそれが大事なら、いまは、目の前のひと(弱者や……)に……話しかければすむハナシじゃん。
……じっさい、そういう世界が広がっているんだもの…
すくなくとも、そういうものとすぐに繋ぐことができる環境にある…にも関わらず、
まっすぐクンたちは、そういうことには、ていよくスルーして、反対向いて、お仲間同士で、種族語をつかったオシャベリを続けてるだけ……否、続けたいだけ……(そういう意味で、いまはテレビもインターネットもない大正時代とは決定的に違うのよ?わかるぅ?)
ていうか、そんなもんよりホントはお仲間(似た者(同じ階層))同士の評価(コミュニケーション)のほうが大事~?
(だいたい、リアルでは、そんな「他者」が現れると、卒倒するか、たいがい思いっきり嫌悪の(ディスコミュニケーションな)態度をおとりになるまっすぐクンが多いみたい~)
…弱者や社会を助けたいんじゃなくて、そういったオシャベリを通じて、自分を助けたかっただけじゃぁ…
否々、オレは、そんなあんたたちを「オナカマ社会-タコツボ型社会の日本」なんつって、告発路線に乗って、批判したいわけじゃないのよ。勘違いしないでねぇ
そうじゃなくて、
そういったまっすぐクンたちの教養ってものも、結局、
それらから差別化して頭一つ抜け出す(優越化)ためのもの(コミュニケーションゲーム)でしかなかったわけじゃん。
そういった、いわゆる付きの「教養」は、無知で無教養で、非理性的で、暴力的な奴らと比べて、自分たちは上品で教養があり、理論・理性的で、才能があり、
なにより寛容でコミュニケーションスキルが高い……
と一方的に宣言するための権威化-排除の論理にすぎなかったということに、
いいかげん気づかない?
いやいや、この際、権威化も排除も悪くない
とにかく、いま現実に
「コミュニケーションとしての教養」としては、
ヨコナラビに、「いわゆる教養のジャーゴン」、世間語、2ちゃん語、……語のコミュニケーション(パーティライン)が並んでいるんだよ……各々、そのなかで頭一つだし(もぐら叩き)ゲームにうち興じているわけ……
すくなくとも、「いわゆる教養のジャーゴン」の決定的特権性は消えてなくなったというわけ……
(はじめから、そんなものはなかったんだけどねぇ~)
教養にとって、大事なのはコミュニケーションなんだもん。

しかし、それでは「教養としての学問」は、どうなってしまうのであろうか?

「テレビが今日してくれる常識を信じずに生きるにあたって、世界の中のあらましを把握したり、歴史を意義づけたり、いろいろ自覚的にものを考えるにあたって、考え方のモデルがたくさん詰まっているカタログとして活用できる。」(pp.246)浅羽通明「大学で何を学ぶか」

「「みんな一緒」という空間が崩壊して、孤独になったとき、他人との相互の馴れ合いにより自己を肯定できなくなったとき………孤独な逆境の精神の支えとできる」(pp.250)浅羽通明「大学で何を学ぶか」


要するに、孤独になるための技法としての「教養としての学問」

以上」
と読んだ。
(上のようなハナシは、現象学(フッサールにとっての「他者」)を俎上にあげて、読むと面白いかもしれない)


♪michael jackson, Black or White.

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「自分のことを棚に上げて、他人のことを言ってんじゃねぇ~」
っていう気もするが……

しかし、問題にしているひとは意外と多い。
「バカにつける薬」呉智英
「二代目のバカにつける薬」山田桜丸
「専門バカにつける薬」三好春樹
などの「つける薬」シリーズ
「まれに見るバカ」勢古浩爾
にはじまる
「まれに見る」シリーズも根強い。
ほかにも
「バカのための読書術」小谷野敦、「バカゲット」酒井冬雪……などのバカ(あるいはサル)ハウツー本など、いろんなバカ本が数多くある。
わけても
養老大先生の「バカの壁」はベストセラー
バカを400万部も売ったバカ本中のバカ本!
「これでいいのだ!」

しかし、こうも誰も彼も
勝手なバカ定義をぶちあげて
自分の気にくわない奴らを片っ端からバカ呼ばわりすると
ほとんどの人間をバカ呼ばわりする状態に陥っている(オレを含めて)バカがほとんどということになる。

こう見ていくと、
幼少の頃のよく聞いた、あの麗しきホボさんの警句が思い浮かぶに違いない。
曰く
「バカっていうヒトがバカ」
たしかに、それはそうに違いない。
ただ、
そういったところで、バカは、どんどん増殖する
「悪貨が良貨を駆逐する」(グレシャム)のみ……
大衆社会、民主主義の世の中……vib……ChoU。
おなじく
ほとんどのアテーナイの大(民)衆をバカ呼ばわりした
ソクラテスのように
アテーナイ最大のバカ一代として、
陶片追放(オストラシズム)にされるのが関の山。
(そういうことでいうと、哲学は、万世一系のバカ一族の嫡子である)



「日本の大学生の大半は知への憧れも畏れも皆無である。さらに言うならば、自分がものを知らないことを恥じる気配がまるでない。しかし、エゴだけは肥大しているから、意見は一応エラそうに言う。こういう人たちを指して、バカという言葉以外に言うべき言葉をさしあたって私は知らない。はっきり言って、現在の日本の大学生の八割は、大学に来てはいけなかった人たちなのである。」(132頁)池田清彦「やぶにらみ科学論」

ここでもバカ登場!
しかし、
このガッコのセンコーの
「大学っていうのは知への憧れや畏れををもっていく」ところっていう定義は、どうなんだろうか?
すでに破綻して久しいのではないか??
ていうか、世の中の大学に対する、ホンネは、単に「おいしいからいく」
いつだって、そんな風なもんではなかっただろうか……。
大学を出れば、出てないより、さしあたって「おいしいから」行く(それで、さしあたって悪いとは思わないが)。
だから、そういう計算高い、(あえて「まっとう」という言葉を使わせていただく)まっとうな考えの若ものたちが、果してバカなのだろうか?という疑問がある。
逆に若者たちからしてみれば、いまどき「大学は知への憧れや畏れををもっていく」ところと思っているガッコのセンコーのほうがバカにみえるかも?

否々、「バカっていうヤツがバカ?」(笑)
ってオメーがいうなって……

バカの再生産!
不可触賎民!
タッチ鬼!
バカバトン誰に渡そうかなぁ……
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「史上に名高い悪妻だって、結構な評判さ、失礼しちゃうね。あたしはね、理屈こねる人間が大嫌いだよ。理屈屋のソクラテスは、あたしが理屈聞く耳なんか持ってないもんだから、それであたしに頭が上がらないのさ、それ以外のことであるもんか」
「理屈屋ってのは例外なしに、あたしみたいなのが一番恐いものなのさ、あたしは知ってるよ。理屈を言うのは頭が悪いせいだからだよ。だって、あたしなんか、なぁんにも考えてやしないけど、ぜぇんぶわかってるもの。考えないのはわかってるからで、考えるのはわかっていないからでしかないじゃないか、そうじゃないか。」
「男はね、仕事だよ。四の五の言わずに、やってみせることだよ。できないことの言い訳で理屈をいじくってるようなやつは、男を名のるの、やめちまいな」池田晶子「悪妻に訊け」

「はい、やめることに致します。」
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・分かること~ピ~ンとくること

野矢さんにとって「考える」ってことは、まるで微弱なレーダーのようなものだ
当らぬも八卦的にチューニング~
何かをキャッチすると、だんだん加圧されて
そいつが……ピ~ンとあってくる
野矢さん的にいうと、それは「過敏な楽器」らしい。
「過敏な楽器」
ボクなら
2サイクルのオートバイ(コンペティションマシン)って言いたいところ……
過敏で過激だよ。

でもやっぱり、どちらかというと
トランジスタラジオ
うーんトランジスタというと
「うーん……授業をさぼって……ええっ
日の当たる場所にいたんだよぉ~
寝転んでたのさぁ
屋上でぇ~ タバコの煙とても青くて
内ポケットにいつもトランジスタ・ラジオ
彼女 教科書 開いてる時
ホットなナンバー 空に溶けてったぁ~
うーん こんなカンジ うまく言えたことがない
ベイエリアから リバプールから
このアンテナがキャッチしたナンバー
彼女
教科書
開いてる時 いえぇ~
ホットなナンバー 空に溶けてった~ぁ」(RCサクセション)
と口ずさんしまうあなた
トランジスタラジオのトランジスタラジオでした。
ハハハ
「我が輩は耳を澄ましているトランジスタラジオである。
 名前はまだない……」

それでもやっぱ、野矢さんのいう「楽器」ってところわかるなぁ
哲学者って楽器みたいなところってあるもん
奏者によって変幻自在に変わるところがある
偉大な哲学者ほど……そうだと思う
ソクラテスってヌエみたいだ
名奏者を訪ね歩く……ひと

またまた、だいぶ脱線したぞぉ
その調子……その調子……

・コップと飲み物の関係

「コップを見るとき、飲み物のことを考える」
レヴィナスみたくに
ニンゲンの「顔」を見るとき 命のことを考えることかなぁ~
あーわかんな~い
憎しみしか沸かない人もいるし
笑うしかない人もいる。

コップを見て、とりあえず投げてみたくなる時だってあるし
国会のセンセみたいに、その水を、あたまからかけてやりたいと思うときだってある。
あーそれが「関係」ってやつか……?

でも、そういう「関係」って言ったって、
もうわかんないくらいあるんだよなぁ……~人間さまの世界には
それはもう「習慣」とか、ひょっとしたら「無意識&暗黙知」になってるから
わかんない。

野矢さん的には
「考える」ってのは、
そういった「習慣の縄」を引きちぎることらしい。
ふむ?
たとえば、
「ボクには、野矢さんのようには思えないなぁ~」
っていってみる。
そう思えない?
そう思わないボクの習慣かも
否、なんでも疑って反論したくなる人間の宿痾かも。
あっそうか。
そうやって「考える」ってことか~。

・哲学者の姿

「ある町に高名な哲学者がいた。私はその人に教えを乞いたいと思い、はるばるその土地に赴いた。ようやくその人の扉を叩き、小さな書斎に通された。もっと万巻の書物が積まれてあるのかと思ったが、その書斎には机と椅子のほかは何もなく、少し意外だった。本を読まないのだろうか。だとしたら、この方は何を研究されているのだろう。私は思いきって尋ねた。
「先生は、何をご研究なさってらっしゃるのですか」
その人は目しばしばさせ、ちょっと困ったような顔をして、言った。
「うん。それをな、研究しておるのじゃ」(37頁)


・問いの逆説

学校で出会う問題は
名前が書いてあるし、答えが保証されている。
しかし、ボクたちがホントに出会う問題
には名前なんか書いてないし、答えなんてないかも知れない。
すくなくともなんの保証もない。


・「考えることは新しい結びつきを探していくこと」(野矢)

でも、そんなことは、簡単に行くことじゃないんだ。

もし、自分の哲学は
ホニャララすることだと分かっちゃったひとがいたら
それは、もう哲学が終了しちゃった人だ。
哲学がシソウというものに、変質しちゃったひとだ。

哲学的に「考える」ってことは、問題(スタンス)そのものを問うことなんだから
「結んだ」と思った瞬間に、なんどもほどかれる。


・「あるがままに受け入れることの困難」(野矢)

それってほんとだろうか?
「あるがまま」っていうからおかしいんだよ
ヘーゲルみたく「思ったまま」に受け入れれば。
そうワガママ
みんなチョーワガママで
クラクション鳴らしっぱなしで………


・「論理は考えないためにある」(野矢)
するとウィトの「論理哲学論考」なんか
「考えないための哲学的思考」となり
言い得て妙!
論理は考えない……一本道
考えるってのはその「別れの一本杉」


・サイコロを見る

観察と推論
をどのようにつなげるか、それはもう論理の仕事じゃない。
そういうところから
そこに「考える」ってことが現れてくる(91頁)。


・「論理に不可能な文字はない。」
野矢さんに言わせれば、夢だって論理的。
野矢さん的に言えば、
ほとんどのひとが論理的に考えるってことを誤解して
この言葉を使っている。
特に政治的な話題なんかそう。

政治に「論理」なんか使っちゃいけないんだ。
キケンだもん。

イヤ!ちょっと待て!

論理的に考えるってのは、可能性を考えるってことだ。
論理的に考えるってのは、コトバさえあれば足りる。
ほんじゃぁコトバがなければ可能性もない。
可能性がなければ否定もない。
あーどうすりゃぁいいんだ。
と思ったところで、

論理の神様=ロボットが登場。
可能性(論理)の鬼っ子。

しかし、論理の神さまは、
フレームで足を引っ張られて、あっけなく自爆。

な~ぁんだ

「人間は現実べったりの動物でもないし
 超人的な論理的視力をもった神様でもない」(122頁)


・「一頭のブタに出会うとき、ボクらは必ず世界全体と出会っている。」野矢さん

そういうこと。

・ちなみに「フレーム」では

「無視」って
ことが問題になる。

ふむふむ
柴田正良さんの本では、それは人間の「感情」だったね。
論理には「感情」ってもんがないんだ。
あーあ

逆に言えば、人間には
感情ってもんがあって
「無視」が起こる。

ほとんど無意識に
無視できる友達と無視できない友達がいる。

野矢さんのいう
「常識」や「習慣」っていうフィルターは、
やっぱ広義には「感情」の問題だったりする。

うーん
それってさぁ~
論理的には世界平和は可能でも、
そういう世界って、すんごく冷たい世界になっちまうってことでしょ
ありゃぁりゃぁ
たいへんなことになっちゃったよ。

ボクたちの社会は原理的に問題を抱えこんでんだ。
フフフ(笑)

話は飛ぶ。


・「夢は局地的にしかありえない」って
野矢さんが言うのは(144頁)
言い得て妙だなぁと思う
野矢さんが言うように
疑う足場とか、考える足場とか
大事だと思う。
大事だと思うけど、
だからって
今目覚めているって、やっぱり言えないんじゃないかなぁ~。
そう思うよ。

たしかに、それは自爆的ではあっても
もしかしたら、それが「考える」ってことの本質なんじゃないかって思ってる。
ホントは足場なんて、最初からないからこそ
考えてるんじゃないかなぁ~
デカルトなんて、そんなもんないからでっち上げたんでしょう?
いまだって、結局は知識なんてもんは
チャリティー原理なしには考えられないもん?
しかも「論理」は、「頭ごなし」だしさぁ(*1)

人間なんて、なんにも分かっちゃいない言える。
(「えっ!」なんで、そんなこと言えるか?って……うーん分かんないけど、それぐらいは言える)
「そんなことを問いかけること自体が人間的因習に囚われている」
「ナンセンスだって……」
うーんそうかもしんないけど
やっぱり、それって「なぜっ?」て思うわけ
自爆。
大爆発。
さらば地球よ!
G線上のアリア……


・変なヒト、本に出会う

それが哲学を広げること


・考えるってのは

足場を変えること
軽やかに踊ってみせること(146頁)
なんだって

おしまい。
じゃぁまた
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(*1) ルイス・キャロルの「アキレスと亀のパラドクス」 What The Tortoise Said To Achilles.

はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内
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5 ロジカルとかクリティカルとか本のタイトルが多い中、ぜひ一読をお薦めします。
4 考えることに行き詰まっていたら
4 考えるとは何か


(初出:2002)
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