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隣国のそれも
戦後民主主義だよね

「日本の軍国主義者という抑圧者から、あなたたち市民を解放した」
それが隣国に行けば日本国(人)になるだけで
結局アメリカが正義のヒーローでした…という大きなストーリー=反日
(いまの日本ではそれが「権力者ガー」「ジミンガー」「ミンシュガー」「カンリョーガー」…云々に推移しただけで構図は一緒だもんね。結局、「ワシら人民(笑)は何の罪もない無知無辜の弱者…それらに騙されてた善意の第三者」っていう立ち位置を、原発問題でも繰り返してたよな)
まー日本人(国)も…それに乗っかってるほうが楽だったから
戦後何十年とそれにまつわる言説を増産してきたわけだけど…

子どものけんかなら、正しいか正しくないかに関係なく、ただ腕力が強かったから勝ったと、すぐにわかるのに
こと戦争(オトナのケンカ)になると、正しいほうが勝ったと…いや、正しいから勝ったと思い込む…あるいは思い込まされるのはなぜなんだろうか?…逆に言うとそれは、負けたほうは正しくなく間違っていたから負けた…「あやまちは二度とくりかえしましぇ~ん」となる…
(きわめつけは、戦後、戦前から米国追随だった日本の政治家たちを先見の明があったと誉めそやすひとたちとか…なんなの?…バカなの?)

勝利=正義主義

もちろん、そんなもん政治だろうが国家だろうが歴史だろうが自分のためになるんなら
肥やしになるうちは肥やしにしといたらいいとワシも思うけど…

いうまでもないけど…娑婆の状況によってコロコロ変わる「正義(まして政治や歴史なぞ)」なんかに永遠普遍の真理を求めるほうがおかしいだろ~

そういう永遠普遍の真理としての歴史や道徳(善悪)なんぞを祭り上げて、自分たちの感覚を麻痺させてないと、なんか困ることでもあるみたい?

高尚な理念や理想さえ掲げれば、自分の目の前でどんな(悲惨な)ことが繰り広げられようが許されるみたいな…

むしろ大事なのは自分のいまの「感覚」だろうよ
「感覚」でだめなら人間しょうがない…(笑)


※もちろん人間の「真理への偏愛」は終わらないだろうし、そもそもその「人間の感覚」ってやつが一番あて(頼り)にならないということが出発点(デカルト)じゃなかったのか?という疑問は…読者の諸賢の想像にオマケします
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っていう気はないけど
若いときに比べれば、わしなんかずいぶん気楽なもんだ。
ひとかどのオッサン~初老ともなれば大人の自信、威厳……風格とかそういうものが具わってくるんだろうが、
ワシには、そんなもん微塵もない。
そんなもんだったら、そこらへんの30代のオニイサンのほうが、ワシよりよっぽどそなわっていると思う。
気楽といっても、ワシの場合、そんな社会的自信・余裕のようなもんじゃゼンゼンない。

これでも若いときはひとかどの目標や希望・夢というものを持っていた事もあったが、
烏兎匆々……
さすがにこの年になると……若いときの夢みたいもんは笑い話…跡形もない。
いまじゃ
「生きてるだけでOK!」みたいな(YouTube - 怒髪天/全人類肯定曲)
そのぶんなんか自由になったような気がするから…不思議である。
「大人は自由である。習慣や慣行に服従して大人しく生活することは楽しくて快い。動機はどうであれ、既成のライフ・スタイルに乗ることが一番良い生き方なのだ。確かに大人は、そんな生き方が最善のほんとうの生き方でないことは弁えている。しかし大人は、人生において最善のほんとうの価値を求めても仕方ないと割り切っている。それが大人というものだ。だから大人は気楽なのである。
 そして大人はデカルトに言うだろう。自分の人生を囚人生活に喩えられてもかまわないが、わざわざ苦労して脱獄する積極的理由があるだろうか。家庭や会社や社会を捨てるのは大人げないやり方だし、それは一部の変わり者の特権にすぎない。捨てたい者は捨てればよいが、自分は持ち場を離れるわけにはいかないし、そこで満足するしかない。脱獄こそが最善の道だと言いたい者には言わせておけばよい。悩みつつ牢獄に甘んじる大人の心情を、デカルトは分かっていないのだ。〈目覚めよと呼ばう声〉は音楽会の時だけの話だ。」(76頁)
小泉義之:「デカルト=哲学のすすめ」


小泉義之「デカルト=哲学のすすめ」

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あるツィッターで
M大先生が…
「国民がいまだにトップを変えるだけで
世の中が変わると思っていること自体がダメ」

「誰かにお任せ」じゃなくて、国民一人一人が「引き受ける」覚悟を持たなきゃ……云々みたいなことを見たような…
…御高説ごもっとも。
そうそう誰が首相やろうが、どの党が政権与党になろうが
ワシらボンクラ庶民の現実なんか1ミリも変わらない?
そんなことわかっている。
だけど、ワシらボンクラ庶民の大半は、そんなカッタルイこと望んでない…たぶん…??。
(橋本治が以前書いてたように…)ワシラらボンクラ庶民は、いつもぶらさがる対象をもとめているだけ…
「「答はエラい誰かが持ってきてくれるもんで、そんなことを考えるのはメンドくさいから、おとなしく待ってる」と、まるで渋谷駅の忠犬ハチ公のようになっている」(87頁)。
「自分たちはなにもしないが、誰かがなんとかするべきだ」というかんじ…。
ワシラボンクラにとって、その誰かで、「重要なのは、その改革が適切かどうかではなく、それを言っている人たちが勝ち組かどうか?」(p.91)
まったくもってそのとおり…pgr

だいたいワシラボンクラは目の前の仕事をするだけで目一杯。忙しい。
そのうえワシラ所詮動物(アニマル)なんだし愉しい事気持ちいい事は繰り返し何度も味わいたいし…そんなことしてたら…難しい事考えている時間ねえし…カネほしいし…だいたい能力ネエし……pgr
ことほど左様に…以上のようなことを
大昔に民主国家の宿命とか言った偉人がおられます…
「民主的諸国に暇な人はほとんどいない。生活はそこでは運動と喧噪に満ち、人々は行動に追われて、考える余裕がほとんどない。とりわけ指摘したいのは、彼らはただ仕事に忙しいだけでなく、仕事に熱中しているということである。彼らは恒久的に行動の中にあり、行動の一つ一つに魂を奪われている。事業に夢中であることが思想に心を燃やす妨げになる。」(松本礼二訳『アメリカのデモクラシー』トクヴィル)

似たようなことを、他の哲学者なら
「埋没」、「非本来的……」、「耽落」、「das Man」、「忘却」、「惑溺」…
とかっていうかもしれない…

とにかく国民は毎日の快楽生活に忙しい。ていうか、もっと快楽を味わいたい。いきているかぎり味わい尽くしたい。
それで国家国民の税金から大枚貰っている要路のひと=政治家がいるんじゃ?という考えでok?…

まぁワシたちボンクラは
「放下」、「約束の拒絶」、
「極端な思想」よりも「不決断」
「慣習」「伝統」
デカルトの格率みたいなもんでok?

デカルト的保守主義でok!
心身二元論なんかぜんぜん恐くないもん(^Д^)

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「だから、「悪い社会」を暴き立て、社会を良くしようという思想(理論)が、あれこれ雨後の筍のように作られる。」
(鉄鼠:政治(社会)決定論)


「わが生命線は満蒙にあり!」なんて口角泡飛ばした結果、

あの戦争に、「社会の変革」思想が、大きな影響を及ぼしていたことが、あまり注意を向けられていないような気がする。
あの頃の哲学者、教育者は、みんな、まじで西洋を乗り越えていたと思っていた。
いまきくと、キチガイじみて聞こえるかもしれないけれど、
戦前にあった「近代の超克論」(京都学派)の「近代」とは、「西洋」であり、
「近代の超克論」とは、「西洋」の乗り越え論のことに他ならない。
陸軍参謀の石原完爾の「最終戦争論」なども、けっして無関係ではない。

森羅万象の変化が、だれにも止められないように、
人間の社会も変わっていくものなのだろう~
しかし、
「社会変革(改革)の思想」は、多くの人を殺してきた……

「デカルトも当初は参加した三十年戦争は、ハプスブルク家とローマ教皇が支配する政治的宗教的秩序を破壊して、ブルボン家とプロテスタント諸国が連合する政治的秩序を創出することを目標として始まった。これに呼応したのが薔薇十字運動という政治的文化運動であった。この運動は、友愛に基づく新秩序を熱望するあまり、旧秩序を一挙に破壊し尽くす大殺戮(ハルマゲドン)を待ち望みさえした。そしてドイツ三十年戦争は、結果としては、ウエストファリア条約によって近代領域国家間の新秩序を実現することになる。
 では、ヨーロッパの秩序は変わったのだろうか。国名、支配者名、国境が変わった。それだけのことである。歴史家は、大きな変化として、近代国家の基礎となる常備軍や官僚制や税制が整備された事実を挙げるかもしれない。つまらぬ変化である。しかもその程度の変化のために、あれだけの血を流したのだとしたら。まったく愚かなことである。要するに、「世界の秩序を変える」という理念そのものが、どこか過っているのだ」(pp.37)小泉義之「デカルト 哲学のすすめ」

すこしは、あたまの片隅においておきたい。
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「戦闘や震災などの悲惨な体験が、精神や身体に悪い影響を及ぼすことは誰でも知っている。悲惨な体験が悪夢という様態で反復体験されることも、誰でも知っているし、少なくとも誰でも予想はできる。それが人間の〈自然〉だからである。悲惨な体験をした人間は、自然に心身が不調になるし、自然に悪夢を体験するようになっている。だから、悲惨な体験をしたのに、不調にもならず悪夢も見ないような人間がいるとすれば、その人間の方がどこか不自然である。悩み苦しまない方がどうかしているのだ。
 ところが専門家は、自然に悩み苦しむ人間を異常であり病んでいると判定する。さらには「心的外傷後ストレス障害」(PTSD)なる病名をこしらえて、行政権力を介して調査を実施し、病人を発掘し、治療の需要を創出し、専門家の養成と各機関への配属を進言する。こんな「精神の子役人」(ミシェル・フーコー)の後には、さらに別の実学専門家が続く。報告書、論文、評論が生産される。予算、ポストが確保される。こんな風にして専門家はますます自信を深めていく。
 他人の精神的な不幸によって稼ぐ「虚偽の資格」とはこのようなものなのである」
 (小泉義之「デカルト=哲学のすすめ」(13頁))

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ずボり!哲学とはなにか?



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オレみたいなチンポ哲学者が、
ゴニョゴニョゴニョゴニョいうようなことではないが、
哲学と思想
意外と勘違いされていると思う。

そういう勘違いしているヒトには、
ズボリ
小泉義之の「デカルト=哲学のすすめ」が、お薦めだ!
なんてったって
a0009919_893677.jpg序章「思想を捨てる」
のっけからしてこれだもの。
あらゆる世俗の思想を捨てる。
それが哲学だ!
「論争すること自体がよいことであるという」思想16
「学校を終えなければ幸せになれないという思想」
「現在の教育内容が必要だとする思想」
人間「集団が人格を磨くとする思想」17
それら「思想を根こそぎにしたのでは」人々が困るという思想
それら「思想を根こそぎにしたのでは」人々が困るという、それにまつわる「カガク」的な思想をも、
根こそぎにする。
根絶やしにする。
離脱する。

哲学は思想を捨て去るためにこそある。

もちろん、哲学が思想を持ちうることはあり得る。
それ以上考えることができない=思考停止せざるを得なくなったとき、
哲学も思想に陥る。
終わってしまった哲学こそ、思想に他ならないからだ。
世間のヒトは、どうも「終わってしまった思想」を、
哲学だと思っているような気がする。
哲学者といえば、たいがい頑固者でイメージされている。

構造主義だとか
脱構築主義だとか
なんだとか、あれらはみんな
動きを止めてしまった哲学=思想である。

それは動きを止めたがゆえに人々に「……主義」、「……思想」、「……哲学」という名前で呼ばれ、利用され得る。
哲学にとって、思想は残骸であり、排泄物である。

当然、哲学を思想と勘違いしている人は、
この汚物にまみれることこそが哲学だと勘違いして、
汚物を拾い集めることになる。

そういうひとと話していると、
何々思想(主義)から、何々思想(主義)へ
何々解釈から、何々解釈へ
果てしなく思想のハナシ(循環)が続く。

一方は、それらを捨て去ろうとしているのに、
他方は、拾い集めようとしている。
話が噛み合うわけがない。
もちろん、
掃き溜めに鶴
ということもあるが
汚物集めに走っている(哲学を思想と勘違いしている)人のほとんどは、
最新・流行・権威(のつもり)の言葉(思想)だけをヒッシになって継ぎ足しているだけだから、
しまいにはたいがい、なんだか分からないグロなハナシになっている。

そういうヒトには
「哲学は、そういう思想こそ捨て去るためにある。」
といっても、なんのことだか分からないだろう。
流行思想を継ぎ足したり、他の学問の成果を循環させたりするのがエライと思っているのだから。

**********

ウィトゲンシュタインは自身の哲学を、潜水艦に喩えていたらしい。
どんな意味かは知らないが、
重いものをどんどん捨て去って、浮上する潜水艦は……そういう哲学のイメージに合ってるような気もする。

もしかすると、それはちょっと世の中に馴染みにくい人間の呼吸法みたいなもんじゃないかと、ボクは思っている。
捨て去って捨て去って、日常に浮上する……
言っておくと、その日常が一段高いか低いか(豊かかそうじゃないか)なんて、どうでもいいハナシなのだ。
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「大人は自由である。習慣や慣行に服従して大人しく生活することは楽しくて快い。動機はどうであれ、既成のライフ・スタイルに乗ることが一番良い生き方なのだ。確かに大人は、そんな生き方が最善のほんとうの生き方でないことは弁えている。しかし大人は、人生において最善のほんとうの価値を求めても仕方ないと割り切っている。それが大人というものだ。だから大人は気楽なのである。
 そして大人はデカルトに言うだろう。自分の人生を囚人生活に喩えられてもかまわないが、わざわざ苦労して脱獄する積極的理由があるだろうか。家庭や会社や社会を捨てるのは大人げないやり方だし、それは一部の変わり者の特権にすぎない。捨てたい者は捨てればよいが、自分は持ち場を離れるわけにはいかないし、そこで満足するしかない。脱獄こそが最善の道だと言いたい者には言わせておけばよい。悩みつつ牢獄に甘んじる大人の心情を、デカルトは分かっていないのだ。〈目覚めよと呼ばう声〉は音楽会の時だけの話だ。」(小泉義之:76頁「デカルト=哲学のすすめ」)

流行に乗れないボクみたいなどんくさいオッサンでも
流行を褒め称えることがぐらいはできる~
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a0009919_192725.jpgデカルトの思索とは、早い話が、
人間廃業、「人間失格宣言」。
目を閉じ、耳をふさぎ、手をもぎ、足をもぎ、カラダをもぎ、アタマ(夢の疑いから、幾何学への疑い、欺く神の疑いへと行く…)をもぎ……あらゆる「人間の感覚」を斥ける…そういうことだ。
小泉義之は「デカルトの私」を「死にゆく者の「私」」(ボクは、これを「キレゆく者」としても大過ないと思う)として、こう書いてる。
「デカルトが〈私は存在する〉という言明によって言い当てようとした真実とは、死にゆく者が徹底的に独りで生きているということであるし、死にゆく者が共同性や社会性から完全に離脱しているということである」(97頁)
「私は人間精神をもってはいるが、私は人間精神とは区別されるということである。人間精神の働きとは、無限に多様なものの中から、他ならぬこの物を構成することにあるが、死にゆく私は、他ならぬこの物を解体して、無限に多様に変化するものへと還元していくからである。この意味において、死にゆく私は、人間精神さえも捨てている」(107頁)

なぜ、そんなことをしたか
デカルトは、すべてを失ったあと、その後に残るものを知りたかった。
「知りたかった」と書いたが、ボクのデカルトは「見たかった」のだと思う。

古代ギリシアの哲人達は、「「考える」という言葉のかわりに、しばしば「見る」という言葉を使った」(左近司祥子「哲学するネコ」)
有名な「イデア」というプラトンの言葉も、語源は、辿れば「見る」という意味にたどり着く。しばしば「観念」と和訳されず「観想」とされる時もある。もともとすごく視覚的な言葉だそうだ。

インドの瞑想や禅にも似たところがあるかもしれない。

もちろん、デカルトを近代思想の権化として、主客分離を目指した孤独な「考える」ひとで、それがために、われわれに断絶を引き起こさせたひとということもできる。
しかし、デカルトの「考える(思惟)」は、いま思うよりずっと「観る(観想)」に近かったのではないかと思っている。
つうか、デカルトも「観て」楽しみたかったと思う。
少なくとも「観」れば、ボクとあなたがいることが分かる。
ただ「観る」って、大切なことだ。
たいがいは、我慢できずに、その手前で、コジャレタ言葉と結びつけたがる……
それで分かったつもりになる。

ブログに「鉄鼠」と名前を付けたのも他でもない
京極夏彦さんの「鉄鼠の檻」に次のような文章を読んだからである。

「そう檻だ。堅く堅く閉ざされた檻だ。見ず、聞かず、語らず、考えず、己も捨てて、何もかも捨てて、凡てを捨てて伽藍堂になって、それでも檻が残りおった。檻の中からは何も逃げ出してはおらず、おまけにそこにおったのは鼠だったのだ」(9頁)

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