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「ドゥルーズが機械を理性ではなく欲望に結び付け、欲望を「動物になること」に発見するのは、ドゥルーズが炸裂系ギャグの思想家であることを如実に語っており、そこに読むものが見いだすべきなのが、ものすごい速度を持った笑いであるはずなのは、いうまでもないだろ。
 外見、内容ともに現代思想界の『大法輪』と化している『現代思想』において、にもかかわらずドゥルーズがきまじめに、あまりにもきまじめに語られていたのとは対照的に、わたしはそこに猛烈なギャグを発見して、小躍りしたものだった。しかし、こうした動物/機械系のギャグは、ドゥルーズのような確信犯の書いたものよりも、それを無自覚に行っている者の方がより決定的な段階に達することが少なくない。
 わたしたちはそのような例として、モーリス・ブランショを知っている。彼が不可能なものや語りえないものについて延々と書き綴っていくとき、わたしはそこに人間の理性や節度を超えた不可能な機械を発見したい思いに駆られる。「不可能なもの」といってしまうと抽象的で哲学的な響きをもってしまうために敬遠されがぢだが、具体的に例をあげればそれは、自宅のハツカネズミが強烈な勢いで一箇所を回転しているうちに大技を次々に繰り出していつのまにかオリンピックの水泳競技の金メダルを獲得してしまったということであり、純粋な思考においてしか可能にならないものである……」(津「笑いの迷宮・猛烈な回転」(匿名時評) BUNGEI 1994 春季号)

「そうした回転系のおかしさを根源的に追及してみせたのは、おそらくはニーチェだろう。みにくいひとも熱に浮かされたサルも一緒になって永遠に回帰し続ける大いなる渦、すなわち永遠回帰ほど、ひとの笑いを誘うものはない。ずいぶんまえから、ニーチェの思想にはいかがわしさを感じ続けてきたが、ついついまじめな解釈の方に引きずられてしまい、言い出せずにいたのだ。」(同上)

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40代自殺の増加幅最大=20~30代は過去最悪-12年連続3万人超・警察庁(時事通信)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース

40代
もうすこし自分のみじめな人生を残念がる余裕が欲しい。

それにしても、やっぱツァラトストラは
死にたい40代には必読の書物だな(笑)

これを読むと
なんか屁が出た(笑)


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そういった近代・民主主義的手続きを経たものであれば、
私たちは、事後的に、ひとまず、正しいと言わざるを得ない??ように思える
「そんなもん、『近代民主主義は正しいから正しい』と言ってるだけじゃないか?」
っていうひともいるかもしれない。
たしかに。
「じゃああ。「正しい」ってどういうこと?」
そういうひとは、そこで「正しい」という言葉のホントーの(正しい)意味を探してしまうしかない。
あるだろうか?
例えば「犬」という言葉、
セント・バナードからチワワ……など
人間界では、どうみても同じ仲間とは思えないものまで「犬」と呼ぶ。
そこでプラトンは(例えば犬の)イデアがあるんだと主張した。
目には見えないけど、
ホントー(真実)の世界があるんだと
と考えた。
人間に、それが「犬」だと分かるのは、神の国(真実(イデア)の世界)にいた記憶(想起)があるからだという。
またもや、絶対、真実、ホントー……の世界…が……(そういう思想が、いつなんどき抹殺の思想に転化するかわからないというのが最初の記事だった)…
とにかく、プラトンだけが、どうして真実の世界にたどり着けたのか?、についてはかなり疑問の余地があるし、
(しかも、結局、「犬」という言葉の意味は分からず(神の世界に丸投げしただけで)、使い方だけが分かっているだけである)
分からないからって、いきなり神の世界(イデア界)へ行って探すより、
もうちょっと落ちついて人間界で(使い方の特性から)探したほうが得策だという気がする。

……例えば、人間界では、
「天気が良い」とか「悪い」とか
「頭が良い」とか「悪い」とか
言う。
それで
上の例が、どんな時に、「良い」という言葉がそれぞれ使われているかというと
……だいたい
空が晴れている時に、天気が良い、と言い、
学校のテストで高い点数が取れる人に、頭が良い、と言うと思う……
天気が良い、頭が良い……
「良い」という言葉にホントーの意味があるのなら、なにか共通点があっても良さそうなのだが…どうもそういうものは見あたらないような気がする…(他の例(快楽殺人者が他人を惨殺して気持ちが「良い」と道徳的に「良い」とか)を考え合わせるなら、もっとそうだという気がする……そういう比較を無限に書ける自信があるが(笑)だるいので割愛する)
「良い」という言葉が、いったい、どういう意味なのか、だんだん分からなくなる。
ならば、なぜ、それを「良い」と言うのか?
プラトンみたいにやっぱり神様が決めたことにしてしまうか?
否、ホントーの意味なんか無いんじゃないか?
ホントーの意味……そういう作り話に長い間、騙されてきただけじゃないか?
そういうホントーの意味が、最初からあるんじゃなくて
ある言葉を、みんなが使っている事実のウチにしか「意味」は存在しないんじゃないか?
(これだと、同じ言葉の意味の変化(たとえば「すさまじき」、「どんだけ」(ギャル語)など)も説明できる……)
使い方が、最初にあって……意味が形成される
使い方が変われば……意味も変わる
しかし、こうなってくると、民主主義的手続きであれ、どんな手続きであれ、みんなが「正しい」と言えば「正しい」し、
「間違っている」と言えば「間違っている」ことになる(笑)。
結局、(人間である)みんなが民主主義的手続きを「正しい」と決めた……から「正しい」ということになる。


人間が決めたか?
神が決めたか?
どちらが、正しいか……究極的には分からない……というだろうか?
「神が決めた」ことすら、みんなが「正しい」と決めた……から「正しい」
とすれば
みごとに「神が決めた」論も「人が決めた」論になる……
「人が決めた」論=人間原理
人間原理でこそ、じつはプラトン主義(イデア界)が復活しているか
どうかは、読者諸賢の想像にオマケ……

「善と悪とに与えられた名称のすべては比喩である」(ニーチェ「ツァラ」(与える徳))
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「じゃぁオトウサンたちが、会社(社会・国家)に従属していることを、すっかり忘れてしまうのは、
なぜか?
それはねぇ
たぶん、
自分から服従しているからなのよ。……」(「自由ということ」)

「節制、自制が共同体の維持のためにではなく各人の自己にとって価値あるものになるところには、新たな「公共体」の統治という力の関係の出現があった。この参加者による共同体の場合には、市民は自分が支配の地位に立ちうると同時に被支配の地位にも立ちうる。だから、支配しうるだけでなく、ちゃんと服従もできなければいけない。この面からも、節制というのは価値を持つことになる。つまり、自分を統御できるということが、他者に対して服従しうることの前提になる。要するに、他者に服従するよう自分自身を統御できるということが。そのような力の関係のあり方、いわば可逆性の権力の関係に分節するかたちで自制とか節制が価値を持ちえた。また、キリスト教の場合には教会という司牧体制それ自体がまさに生存条件なわけだから、それを存立させ、機能させるために自己を放棄すること、謙虚さを実践することとして自制、節制が役立つから、それらは価値を持ちうるということだ。」(158頁)榎並重行「ニーチェって何?」



榎並重行「ニーチェって何?」

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はっきりいって、洋泉社のこの手の新書にはロクなのはないが、
ひさびさにヒット!
ドゥルーズ、永井均以来の
最良のニーチェ入門書だ(太鼓判!)。
(フーコーも読んでねぇ)
わかりもしない、つまんない本を読んでないで
キミら、こういう本を読まなくちゃ~

といっても、
まったくのビギナーには、
つぎつぎに繰り出されるパンチに、
面食らって、理解できず、反感しかもたないかも
so!
問題は、君の、その反感さ……
それこそが、君の真の問題?
本書で、それをクリアーできるか?
あー無理かな?
無理かどうか、読んでみて
(´∀)ゲラ(´∀`)ゲラ(∀`)

解説は要らない。
読め!。
これぐらい理解できなくて
なにが哲学だ!
ボケッ!

「真理──反駁できない誤謬」

榎並重行:ニーチェって何?
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(生きる意味、生きている価値とは何か?)

ニヒリズム……

ニーチェとかで、よく使われるコトバ。
「神が死んだ」
というわけだ。

そういう意味で言えば
はじめから神(キリスト…)なんていない日本、および日本人は、
すでにしてニヒリストだということになる……
いやいや、
日本だって
神道だって、
ホトケだってあるじゃないかというひとがいるが
現世は、なにもかも空だ!と説いたブッダは、ニヒリズムの極致だし、
「触らぬ神祟り無し」、「捨てる神あれば……」の八百万の神なんて、なんでもあり anything goes……(殺戮、近親相姦……)、
なかなかポモ的!
ファンキーな神だ!

それにしても
天皇(カミ)だって人間宣言する日本人からすると
なぜ、西洋人が神が死んだくらいで、ニヒリストだとかと云って、
大騒ぎするのか
わからない???(日本だったら、さっさと黄泉の国に行って連れて帰ってくる)
ま、いろんな事情があるだろうし、
多くは知らないが
ごく雑ぱくに云ってしまえば、
生きる意義(意味)とか価値とかを(それを究極的な価値と考えている人もいる)
西洋では、神(キリスト等)を、リファーして
決めてきたから?
神=評価基準……
換言すれば、
神が死んだ→評価する価値基準が無くなった
つまり
生きる意義(意味)や価値は死んだ
生きる意義(意味)や価値がなくなった(なんでもあり-ニヒリズム状態)
ということでしょうか?

じゃ神(キリスト等)のいなかった日本じゃ~
生きる意義(意味)や価値はなかったのでしょうか?
あるいは、日本人は、そういうことは問わずにきたのでしょうか?
たしかに日本には神(キリスト等)はいなかったし、
日本の神や仏は、ベタなニヒリストだったけど…
そのかわりといっちゃなんだけど、日本には「世間」というものが存在する。
日本人の生きる意義(意味)や価値は、
キリスト教社会などの神のように、人間離れした形而上学的愛は説かないけれども、
世間で、どういうふうに評価されるか、
あるいは、
仲間内に、どういうふうに思われるか、
生きる意義(意味)や価値は、人と「人」の「間(関係)」で決まる。
世間で決まる
世間が決める
実在論(プラト二ズム)に対し反実在論
娑婆界(世間)の掟は娑婆界(世間)で……ということ
日本には、神はいないけど、世間がある。
だから、「世間をお騒がせした」といって自殺していく人たちがいる。
日本人がオタク的なのも、そのせいだと、ボクは思っています。

生きる意義(意味)や価値は、人と「人」の「間」で決まるとすると
ひとまず神は要りません。
神がいないから、そういうことでいうと、
日本人は、生きる意義(意味)や価値を失い、みんなニヒリストになってないといけない……
しかし、ぜんぜんそんなことはない。
世間があって、ヒトがいて、仲間がいて、その中で
生きる意義(意味)や価値も「ないことはない」…。
当たり前ですが、
神(キリスト……)の国(信じている人)からみると
そんなもんが生きる意義(意味)や価値にはなるはずがありません。
彼らが求めているのは、絶対(超越)的な、それであって、「ないことはない」ようなものではないからです。
だから、不思議のクニ「ニッポン」というひともいるわけですが、
結局、それは「日本人の大半はキリスト教徒でない」ということだけでしょう。
もっと換言すれば
キリスト教徒でない=ニヒリスト
もっといえば
神を信じてない=ニヒリストでしかなく、
そんな(超越的)立場(立ち位置)からすれば、
どんな現代社会もニヒリズムが蔓延しているといえる。
まったく勝手な言い草なんですねぇ?
(一方的に高みからものを云ってるだけなんです……日本のインテリ青年のよう)
だから、
「ニヒリズムだ!」と云われたら
「あっそう!
 それがどうした
 神がひとり死んだぐらいで
 おたおたすんなよ」
という程度のことではないでしょうか?。



ところで
生きる意義(意味)や価値を問う時って、どういう時でしょうか?
会社に行って仕事しているとき、
あるいは野球をして打球を追いかけているとき、
リズムに合わせてダンスをしているとき、
ギター弾きながら唄を唄うとき
大好きな彼女とSEXしているとき、
ウンコ(我を忘れるほどの見事な一本グソを)しているとき
……
そんなとき、生きる意義(意味)や価値を問いかけながら、やっているひとは、むしろまれでしょう?。
なんでも
思想史家によると「いかに生きるべきか」という問いが、人々につよく意識されるようになったのは、
職業選択の自由というものを契機としているらしいですが。
つまり、人間に、ある程度、余裕が出てきてからなんですねぇ。
「何かを考える」ということ自体そうかもしれません……。
そう考えると、
日本の場合、
生きる意義(意味)や価値を問う枠組自体が神の国(西洋)から輸入(転移)されたものだという可能性もあるとすると、
やっぱり、それは、我を忘れるほどの見事な一本グソ(ウンコ)やSEXをすることに比べれば、
一つの余裕、オマケみたいなもん(「分離したジツゾン」レヴィナス)だといえないこともない。
ウンコやSEXをしたあとに(功利(実用)的な反省によって)、
見出されたオマケみたいなものでしかないかもしれません。

西洋(キリスト教)では、真理というものは、いつも隠れている(潜在的)という一種の信仰&伝統のようなものがあるそうですが…(隠れたる真理)
大切なものが、目に見えない遠いところにあるものなのか、
それとも、逆に
どこにでも見つけることができるものなのか?
ボクは
神じゃないから分かりませんが、
日本的な感覚からすると、それは、
どこにでも見つけることができるもの
のようです……
はたして…どこにあるのか…???

note……

神なき世界を生きていく……ために
日本人の生き方も……、ひとつの生き方であるように思われますが、
日本の「世間」も、
たやすく形而上(超越)的、天上化され(つまり、神になってしまう(前述した、それがために自殺していくひととか(あるいはそれに追い込む大衆とか)))
ファシズム(全体)化してしまう傾向があります……


もちろん、西洋でも
(絶対主義者による血で血を洗う宗教戦争のあげく)
神なき世界を生きていく……ために
いろんな試みがなされてきた訳で
それがときに、共産主義による革命だったり、資本主義だったり、自由主義だったり……
したわけですが……
ま、それらを総じていえば、
nation(「民族」-国民国家)による民主主義政治(近代国家)というものが(宗教(絶対)的権威(魔術)からの解放)一つの解答だったと思えます。
そう考えると、西洋は、いまのところ、ひとまず
絶対的立ち位置と、相対的立ち位置を混淆するという形を採っているといえそうな気がします……

・コジェーブが云ったように
世界はだんだん日本(的スノビズム(世間))化へ……してるかも…わかんないけど( ^∀^)ゲラゲラ

・文中の「西洋」なる言葉で一括りにするのは無理があるが…いちいち限定するのはめんどーなので…斟酌くだされたし

鉄鼠 : 対米追随を批判している皆さんへ……ニーチェのニヒリズムとは(コメント欄を参照)…

鉄鼠 : 雨宮民雄 「複雑系の科学と現実」(「現代思想 vol.25-13」青土社)
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「どんな理由があろうと、いかなる暴力も許すことはできない」
とか、まともな大人(オジサン)がいい歳こいて真顔で言ってるのをみると、
ドンビキする~

そんなオジサンたちは
たとえば、
じぶんがSEXしているときや、食物を食べるとき…
衝動的に動き回る我が子を所定の場所に、じっと座らせようとするとき……とか
自分の内に、ちっともソレを感じないのだろうか?……
ワシは、そんな大人(オジサン、オバサンたち)の内面の無感覚こそ
正直、コワい。

内田樹の(「『自分の外にある悪と闘う』という話型よってしか正義を考想できない人間たち」という)顰みに倣っていえば、
そういう人たちは、
「『自分の外にある暴力と闘う』という話型よってしか正義を考想できない人間たち」。
いつも自分たちは、無垢で健全で正しい…
いつも人より高い位置に立ってものを云えるというわけだ……
(ついでに、かりにそれが小市民だとすると、弱く、貧しく、多数者も…いつも無垢で健全で正しいことになる…おみやげ付き)

こんなことになっちゃうのは、
たぶんに
道徳オジサン・オバサン(若年寄も含む)たちが
(公権「力」……の)道徳の規律訓練によって、ソレを、あっさりと内面化…して…麻痺しちゃってるから……。

ワシなんか、
世の凶悪犯の犯行より
むしろ、こういう人たちの「善意」-「暴力」のほうがコワい。
凶悪犯の犯行は、ごく限定的だけど
こういう世の善人たちの「暴力」は、全体的で、直接的だから……。



たとえば
ワシが「人類愛に溢れる地球市民であるキミ」から100万円借りて、
一銭たりとも返さなかったとする。
「人類愛に溢れる地球市民であるキミ」は、
「人類愛」で返してくれと懇願したが、
ワシは一銭たりとも返さなかった。
そのうえに
「悔しかったら、「愛」だけで取り返してみろ!」
と悪態をつく始末なので、アタマにきた「人類愛に溢れる地球市民であるキミ」は、
ワシを訴えた。
当たり前だろう。
公権力は直ちに……
ワシを逮捕-行政執行という「形」の強制力によって、
捕縛され、身柄を拘束された。
もちろん、こういう出来事を、社会や学校では、行政執行、逮捕、身柄の保護(確保)…etc(あるいは社会正義…)と呼び、「暴力」と呼ばないように、人々を訓練していることは知っているが、
起こった事だけを見れば、殺傷能力を持つ武器を携帯した人物たちによる物理的な力で、
他人の行動の自由を奪うことを「暴力」と呼ばないのは、ちょっと無理があるのではなかろうか?。
もし、ワシのような一般市民が、おんなじことをしたら、どんな理由があれ、ほとんどのひとは「暴力」と呼ぶ(呼びたい)のではないだろうか…?



公権力が、ワシのようなルール逸脱行為(抜けがけ(者))に対して、
口頭による注意(説諭)だけで、そういう「強制力-暴力」を執行しないでいると、
治安はおろか、オカネ(クレジット、ファイナンス他含)の価値すら維持できない…?たぶん(ワシより凶悪なやろうはいくらでもいるような気がするから)。

だから
一律に「暴力」を否定することはできない
という気がする。

世の中には、
正当なる暴力(正当防衛含む)と
不当なる暴力があるというのなら、まだ分かる。
「正当なる暴力」のことを公権力、公権力による強制力というのならまだ分かる。

これからも公権力は、ワシのような逸脱者が跋扈しないように、
取り締まり…「秩序」…という名の下に…強制力(暴力)をふるい続ける…だろう
あまりにもひどい逸脱には、殺害をもってことにあたるだろう。


国内においては、自国の警察機構が、その秩序維持(強制力-執行)を担当していることには……意外とみんな、簡単に許容している(内面化している)のに、
自衛隊や米軍などの軍事力に反感を持つ人が多い。
ていうか、それがもう社会的に公認された安全な反感になってるからだろうが…
国際通貨体制時代……
国内においては、警察機構が、その秩序維持を担当しているように……
海外においては軍事機構、つまり防衛機構が、それにあたっているのかもしれない。
日本のオカネ(クレジット、ファイナンス…)の場合、
特に米国の軍事力(プレゼンス)が大きな背景と考えられる。
多額の国際援助も「米国の軍事力=正当なる暴力」のおかげ……ということになるか…??。

もちろん、
外交努力、国際交流を否定するものではない。
ただ、寛容な立場に立つと言っても、
無限に寛容な人が存在しないように(それは多分、人ですらないだろう)、
無限に寛容な外交も存在しない。
それ(外交努力(寛容))が、尽きたところで、
力と力のぶつかり合いになる…
それが「戦争」とか呼ばれているものだろうか……??



唯名論的な立場に立つと、
世界には「名前」と「暴力」だけがある。
「国際社会」「国際秩序」という「名前」があり、
それを守らせようとする「暴力」だけがある。

ニーチェ的な立場に立つと
すべては「力」であり、
「名前(認識)」とは、その解釈のことであり、その誤謬である。

だから、ニーチェに云わせれば、
政治も、経済も、野球も、民主主義も、弱者保護の声も、平和主義も、お金も、芸能界も、教育も学校も、人間も、人間関係も、学問も、科学も、言葉も、認識も…
すべては「誤謬」ではあるが、すべては「力」である……
だからこそ、
われわれは自分自身を高く見積もるための不遜な解釈(うぬぼれ)によらず
「力」にこそ「目」を向け……
なにより自分のウチ(生存)の暴「力」をこそ、感得すべき……
ということになるか…?(^∀^)


鉄鼠 :愛について
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鉄鼠 : 「秋は夕暮れねッ」
いやいや、そのままでは、読み解けない。
まがりなりに「近代の社会」を志向する橋本治と、
その「近代」を批判するニーチェ
一見すると
まったく正反対の主張のように聞こえる。

ところが橋本さんが志向する
「個の調和による非制度社会」は、
ちょっと言葉を換えるだけで、ホルクハイマー-アドルノとか、特にニーチェの芸術に関する心情と……非常に似通っている…ていうか…(ワシには)ほとんど、そのままじゃないかと思えるのです(たぶんにそういうふうに読んでいる読者もいるのではないかな~)。

「そもそも橋本治がいう「非制度社会」とはなんだ!」
「制度がない社会なんて社会っていえるか?」
って理屈をいうひともいるでしょう?
たとえば…それを…原始社会、動物の社会……といっても、
まだ「それが社会といえるか?」
といえます…
百歩譲って、それが「社会」だったとしても
習慣(好悪)や習性みたいなものを、どこまで「制度」として扱うかで争うと、なかなかややこしくなります(否、ほとんどいい加減なものになるでしょう)。
はっきりいって見通しも暗い。
「個の調和による非制度社会」へはほど遠いです

そこで、「社会」というややこしい言葉を、ニーチェの「自由」に読み変えてみるということをします。
「非制度社会」と「制度社会(おやじ社会)」という橋本さんの対比を
制度以前の自由(ニーチェ-非制度社会)」と「制度以後の自由(リベラリズム-オヤジ制度社会)」(三島憲一)
こうしてみると、ぐっーとハナシがわかりやすい。
簡単に云うと、近代(制度・効率性)に対して古典(非制度・非経済性)を対置させる(ちょっとこのパラフレーズには、問題ありですが…)。
用語の違いはあるにしても…
古典から橋本「近代」を語る橋本さんと似てないかなぁ…( ^∀^)ゲラゲラ
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カメダ問題
livedoor ニュース - 亀田父VSやく ネットは父の「判定負け」
「なぜオトコはオトコをこわがるのか」(橋本治)

バッシング報道というのは、
(プロ野球界再編の時も、そうだったけど)
すでに(「コイツが悪い」という)結論が決まっていて、
それにとって都合の良い事例(データ(ネタ))だけをかき集めて並べる手法を取る。
いわばジャーナリズム的帰納法である。
(この手法なら、たいがいのひとは悪人になるだろう)

バッシングのバンドワゴン……
マスコミも心得たもので、そういうニーズに応えるべく
そういうネタばっかりを提供する。
アホの循環が始まる。

マスコミネタの場合、
ほとんどのひとは、実際には逢ったことも話したこともない人物が対象であるから、
「コイツが悪い」「良い」とか言ったって、
マスコミネタ(風説、伝聞、ウワサの類を含む)による、個人的なイメージだけで
判断してるだけ、
ほとんどの場合、
単に、対象を生理的に嫌いというだけのことを、
上述したジャーナリズム的帰納法でもって(恭しく修飾して)繰り返しているだけ。
もちろん、そんなもんにリクツなんかない(理性的でも論理的でもない)。


様々な八百長根拠を読んだが、具体的な証拠を提示しているものはない。
そもそもことの発端が、そういった
決定的な証拠(盗撮(盗聴)テープや、関係者(ジャッジ)の内部告発等によるものではなく、
多くのシロウトが、お茶の間で見ていたら、クロウトのジャッジ(判定)に、満足できないところからきている。
「自分が満足できない(受け入れることができない)」から、八百長をやっていると類推しているものが、ほとんどであった。
シロウトの個人的な見方、印象(*1)を核にしている。
早い話、「自分が八百長だと思うから、八百長だ」
「シロウトの意見は、ゼッタイに正しい」
「自分が「思う」ことは、ゼッタイに正しい」
と言ってるに過ぎないから、
必然、八百長の具体的な証拠の提示は、そっちのけで、
対象(カメダ)、あるいは対象の家族について
そのパフォーマンスや、生活態度、礼節、はては子育て……などの
八百長とは関係のないバッシングばかり
いったい何のハナシなのか……
暗然とする……
あーあ。

「自分が「思う」ことは、ゼッタイに正しい」
頑迷固陋か、クレタ島人のうそつきか

どうよく見積もっても
この次元では、
ジャッジ(判定)に満足できない、不満だという程度のものだろう……
しかし、
ここまで執拗に、カメダバッシングしてきた人達は
単にジャッジ(判定)に満足できないという程度を越えている。
「自分が「思う」ことは、ゼッタイに正しい」
から
「カメダを嫌う自分は、ゼッタイに正しい」……
絶対的な強さを誇示(パフォーマンス)するカメダに対して、
凡庸な弱者が、カメダ(強者)を否定すること(ルサンチマン)で、自分を肯定する(イソップ物語のように違った価値軸に引きずり込み、勝とうとする…その意味でも凡庸な…奴隷一揆)
また、ある種の防衛機制(去勢不安→自己愛・自己全能感)
エディプス・コンプレックス(思春期)的な要素を内蔵していることは見易い。

要は、自分(ネットオタク的(*2))の脆弱さと不安
だからこそ、
執拗な攻撃が続く……

関係のない態度(「洗練された無関心」)が取れない……でいる。


そんな事態になってしまう原因として
ごく雑ぱくに言って、二つあるような気がする。

・戦後教育と個性
・戦後民主主義
(以下は、大雑把な覚え書き)


・戦後教育と個性
ガキの頃、ガッコのセンコーが
日本人は、外国人に比べると
批判精神が足りない
個性が足りない
と、
さかんに言った。
(たしかに、そういうところがあるのは、ワシも認める)

ガッコのセンコーだけではない。
進歩的文化人などの、ほとんどは、口を揃えて、そんなことを言ってたように記憶する。

それでか、
どうだかはしらないが
いまでは、
一億総評論家といわれて
何かというと批判する。反対する。
左といえば右
右といえば左
賛成なら反対
反対なら賛成
国家対市民
という具合に……
批判し、反対してたひとたちにすら、
批判し、反対する(プチなしょは戦後民主主義と同型のアンチ形式…)
まるで批判しなければ、遅れをとるとでもいわんばかり
それが自分の個性だとでも思っているような観すら感じる。

しかし、当人の意識とは裏腹に、
気がついてみたら、
みんな同じような
批判したり
反対したり
してるだけ。
それどころか、徒党を組んで、
ちょっとでも違う考えの者たち(少数派)を、
「気持ち悪い」、「態度が悪い」…と
バッシング、仲間はずれ、村八分……プチファシズム。
どこにも主体的な若者も、個性もない。
(同じ穴のムジナは)バカの一つおぼえの二項対立を再生産して
仲間内でまぐわっているうちに…だんだん誇大妄想に陥っている…現状。

livedoor ニュース - 亀田擁護カキコミは 「プロ工作員」の仕業?
とうとう陰謀妄想か……( ^∀^)ゲラゲラ

・戦後民主主義

ニーチェによれば
民主主義とは、弱者(多数)が徒党を組んで、強者(少数)の寝首を襲って樹立されたシステムに過ぎない。
だから、それは徹底的に弱者の政治であり、
弱者の政治であるがゆえに、
決定的に病んでいる(「弱いが強い」というデカダン)システムである。

民主主義は、原理的に機能すれば機能するほど、
「脆弱さ」を善良とし、
「弱さ」は、どんどん膨張してしまう(病気(デカダン)を深めてしまう)。
歯止めが利かない。
無垢な「強さ」「勇気」……強い者に憧れるという自然な傾向(ギリシア性)は否定され、
それに対する恐怖症が反復される。

ボクらが、有史以来、
きわめて知的なものに偏重した(いまもしている)社会に生きているのも、それと無関係ではない。

もちろん現代のような知的に偏重した社会、民主主義社会の原理(弱者の原理)からすれば、
ヒトを殴り倒して、その上に起つようなスポーツ(強者の原理)は、なんであれ、不道徳であり、禁止すべきであろう。
実際に欧米では、ボクシング廃止論は、重要なテーマになっている(他人を殴るという、他者危害の原則からの著しい逸脱)。

知的に偏重した社会が、ボクら凡庸な人間にとって、ホントに居心地の良い社会なのか、どうかは、まだ、これからの課題である。


・(美)徳の問題、
・闘争の倫理の問題
・中世的倫理と現代民主主義の倫理
・マッキンタイアー(認識主義)的美徳の限界と乗り越え


鉄鼠 :「 おマイラ、他に楽しみがねえんか?」
鉄鼠 : ドラゴンザクロ
鉄鼠 : エディプスと阿闍世が、こんがらがってワールドカップ!
鉄鼠 : 人間が人間を愛する原理…セクス
鉄鼠 : アンチバカ序説

note-------------------
(*1)だいたい、シロウト目だけでは
地球が丸いってことも
地球が動いているってことも
受け入れられるものではないだろう。

(*2) 小学校の時、逆上がりを出来なかった組的ルサンチマンとか…
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「『論考』は語りの時間性を確信犯的に無視しようとした。しかし、語るとは時間的な営みなのである」(p.281)

たしかに、ウィトゲンシュタインは、そういった時間性を無視しようとしているように、ワシにも思える……
しかし、ワシが思うに、『論考』の願いは、ただ一つ。
「事実」を一本のエンドレスなビデオテープに抑えきってしまい「たい」
そんな感じだ(どのようにでもありえたテープ(論理空間)と考えて頂きたい)。
そこに流れている時間は、確かに時間かもしれないけれど、
それはあくまで「永遠の相の下に」(スピノザ)流れているものではないだろうか?
必然性や、確実性の問題と絡む……「いまここに」というあり方……永遠
(この比喩は音楽や芸術についても言えるだろう。)
(だれもお望みでないだろうが、ここにニーチェ的なそれを見てもいいし、トルストイのキリストをみてもいい(鬼界135))

その点を、
野矢持論の、謎=「意味の他者」から、論考を「自閉」と見るのだが……
いうまでもなく、それはこの書物の性格に過ぎない?


『論理哲学論考』を読む
野矢 茂樹 / 哲学書房
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