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「前略~やはり昔あぁたが卒業論文で主張したように、”大学という形で制度化された近代の《知》こそが、根源的な《権力》である”ということになりますかナ。」
「──それは、そうですヨ。当然でしょうがァ。いまの学生たちがフーコーをどう読んでいるのかは知りませんよ。だけど、真理を追求する知の〈主体 sujet〉であるということは、真の知にかしづく sujet[=臣下]であることを自他に強制することだ、と。フーコーの、この認識は、大変な真理ですよ。まさに、知は隷属を強いる力なんですナ。」」(p.4)大庭健「はじめての分析哲学」


知は隷属を強いる力

「勉強」=勉(つと)めを強いる

「ちょっと、おっちゃん
このオタンコな~す
二本でなんぼ?」
「ほんならこんだけ!
 勉強しときますわ」
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「…前略…そうそう、若い時は、たいがい誰で(ワシ)もそうだけど、
そういうカッコヨク、オイシイ生き方(あるいは「思想」なんぞ)
を、(世間がダメだったら、小さなサークルのなかでも)とりあえず求める…ところってあるよなぁ~
~中略~
サヨクだろうが、プチなしょだろうが
そこのあなた!、そんなかったるいもんに~
高度資本主義が産み出す以上の快楽があると思えます?~」鉄鼠


以下は大庭からの引用

「前略~やはり昔あぁたが卒業論文で主張したように、”大学という形で制度化された近代の《知》こそが、根源的な《権力》である”ということになりますかナ。」
「──それは、そうですヨ。当然でしょうがァ。いまの学生たちがフーコーをどう読んでいるのかは知りませんよ。だけど、真理を追求する知の〈主体 sujet〉であるということは、真の知にかしづく sujet[=臣下]であることを自他に強制することだ、と。フーコーの、この認識は、大変な真理ですよ。まさに、知は隷属を強いる力なんですナ。」
「しかし、あぁたも、新入社員を迎えて社内教育でけっこう苦労している。そのときに、いくらなんでも”これから私は、真理の名において、君たちの生を寸断し調教して、知に隷属化させる権力を行使します”と括るわけにもいかないでしょう?」
「──ところが、それで済んじゃうんですよ。知識が、ここまで権力として浸透してしまうとネ、逆に、誰だってミニ権力者にはなれるじゃん、みたいな発想が強くなるんスね。なんせ今の若い連中ときた日には、”知識って、持っていれば、それだけ人に使われないで済むじゃん。だからアタシも知識を身につけて、おいしい生活をするんだわァ”。これで済んじゃうんスよ。いい、先生? ガッコ出たての女の子がですヨ、『世界経済なんたらかんたら』みた本を読みながら、赤鉛筆もって新聞の株式欄を読むんですよ。」
「まさしく「真」なる知とは、「強者の益にかなう」ものだ、と。しかし、それじゃあ、この社会の中で、”強い者になるために有用なら、何でもいい[anythinggoes]”っていうデカダンの世界ではないか。」
「──ところが先生、違うんだな、全く。彼女たちの「おいしい生活」への貪欲さは、絶対に先生たちの書斎の中みたいに、ニヒルっぽいデカダンに行かないのよ。いや分かりますよ、先生たちからすれば、”そのような「知恵」がはびこる世の中だからこそ、ホントの意味での「知をないがしろにしない」姿勢、つまり「哲学」が必要なのだ!”と言うんでしょ? 今年だって多分、教養の哲学の授業は、ソフィストの「知恵」対ソクラテスの「無知」の話からはじめてるんだ。でも全然ちがうんですよ、それは。「正義とは強者の利益」、「知識とは、そういう世の中でうまく生きる道具」。これでいいんですよ。でも、いい? だからと言ってデカダンになりはしないのよ。自ずとおいしい生活に向かう力への意志は、もっと生き生きとしてるんですよ。」
「おいおい、フーコー青年のニーチェ詣で、か? あぁたみたいな言いかたはは、下手すると、近代知を批判する言説をみんな束ねたあげくにだナ、”自ずから”成り行く”力”万歳、”ハイル・ヤーパン、ユーバー・アレス[世界に冠たる日本万歳]”の音頭取りになりかねないぜ。」
「──だから先生は、インポな「知の臣下」だっていうの。「知識とは、おいしい生活をうまく追求する道具だ」って言うと、すぐデカダンな頽廃と反発するし、「おいしく生きようとする力」と言うと、ニーチェすなわちナチという話に持っていって、紙魚だらけの抹香臭い部屋に他人までをも拘束しようとするのネ。そういう感性が狂っているとは言わないけど、カビの生えた《哲学》の世界での内輪話にしかならないよ。それじゃあ、あの娘たちの「おいしさ」志向には全然太刀打ちできないのよねぇ」(p4-6)大庭健「はじめての分析哲学」

全然太刀打ちできないのよねぇ~


はじめての分析哲学
はじめての分析哲学
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大庭 健
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いろいろいわれてるけど
あんまりカンケーないことが
多いようなぁ~

ぼくらが考えるべきは
そんなどうでもいいハナシではなくて
フーコーの批判図式そのものが、
フーコーの図式を否定すること……

さあて権力批判をはじめますか?



包丁ばっかり研いでもしょうがない

車を磨いてるだけで、満足しちゃうオタ

クルマは走らせて楽しむもんだし、
音楽は聴くもんで
アソコは見るもんじゃなく……もんだ(というのは冗談だけど)
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「北田先生的な言い方をすると、2ちゃん系のウヨオタ(プチナショ系も含む)、あるいは逆に、ストップザコイズミとか言って政治モードで(とってもジツゾンモードで、なんだか楽しそうに)テンパってるオタどもはみんな、宮台が言う「まったり」路線では生きられずに、無意味に耐えられなかったからということになる(永井的に言うと「上げ底せざるをえなかった」とでもなるかなぁ~ホントの意味でのニヒリスト(価値捏造-贋金作り)→北田-ロマン主義-ゾンビ-スノッブ-アイロニスト)。」」
「嗤う北田のナショナリズム」鉄鼠


もっと
ざっくばらんにいってしまえば、
一時代前の市民(サヨク)的批判精神にはよく通じてきたけど、
(しかし、それは結局「二項対立」にすぎない批判)
まだまだニーチェ/フーコーには達していない~(;´Д`)
というだけではないか……(笑)

太宰は
「十歳の民主派、二十歳の共産派、三十歳の純粋派、四十歳の保守派。
そうして、やはり歴史は繰り返すのであろうか。私は、歴史は繰り返してはならぬものだと思っている。」
と言ったが……
わしは…

思春期(共産主義/全体(みんな一緒!(民主))主義)的兆候

大人的兆候(保守)

老齢的兆候(アナーキズム)
と逝きたいところだねぇ~

えー
逝ってよーしー!!!!!
って……(笑)
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フーコーの「ノルム化」批判はなんだったのか?
と思う今日この頃。
結局、消化不良なまま
(ノーマライゼイションみたいな手ぬるいところで終わってるからなぁゲラ)
政治(社会)的議論ばかり大手振っていく

そういう悲観的なところでいくと
アーレントって、やっぱ大事
だけど
やっぱ「身体」っていうところがどうも弱い。

アーレントの
ビオス/ゾーエーにも納得できない(まだハイデガーのほうがわかる)。
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悪の温床ていうか、バカの温床を防止

それにしても
こういうニュースの記事を書く人って
どれもこれも
国家(権力)対「民」みたいなぁさぁ
いまはもう賞味期限切れの
20~30年前のゲンダイシーソー図式(オサレ路線)ばっかなんだよねぇ
「権力」は「権力」で、「オレは、か弱き民」
「だからオレ、権力とは関係ないもんね」説(ここに日本伝統の「お上」思想(奴隷思想)を見るのは見易い道理…あるいは、内田樹の「自分は無垢で」「悪いことはみんな外からやってくる」話型の典型)
権力によって、一方的に何かされる→「オレは、か弱き民」(受動的)
か弱き民=性善説
か弱き民=無垢説
がシフトして
か弱き民=自分
自分=性善
自分=無垢
……(要するに、自分は「いいひと」なわけよ……笑っちゃうでしょう?)
結局、ぜえーんぶ、同じ調子なんだよねぇ
いいかげん、そんなふやけて無効になっちゃった(薄められたヒダリ的)図式捨てちゃったら~と思う~
ニーチェ-フーコー以降の現代で、
はっきりいって、今どき、バカみたい~
(たしかに、いまでも、不勉強な(あるいは作為的に)知識人が、そういう図式を、アオリで利用してるのは充分知ってるけど、結局、それって、あんたたちを食い物にしてるだけ……)
そういうニセの問題で、ホントの問題を隠している(あなた自身がねぇ)ことに気づくべきだと思う。

まぁどうせ、ただの流行りすたりだから
あと、もう何年かすれば、そういう人たちもコロッと変わってしまうのかも
しれないけれど……

諸行無常……だねぇ~
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ときたま
2ちゃんとか読んで笑ってしまうのは、
このコトバである(笑)。

特にテレビに出ている話題の有名人など、
自分より強く、エラそうな人には、
二言目には、このコトバで批判してる。

2ちゃんなんかに、そんなことを書き込むようなやからが、
そんなに世間を知ってるとは、とうてい思えないが(笑)

要するに、言ってることは
「世間が許さない」
「世間を知って、みんなおとなしくしましょう」
「世間を知らん」
「世間の恐ろしさを知らん」
「おらぁが村のオキテを守れ!」
早い話、おらぁがムラの論理(強迫観念)なわけよ。
おらぁがムラの論理でみんなを抑圧!
(その名前が、「社会」や「世間」となるか、その上に「民主主義」「市民の権利」「正義」…「愛」とか…くっつけるかの、程度の問題)
イナカモンは隠せないネ
ネットでイナカモンの夜郎自大大爆発!
武勇伝!武勇伝!ブユウ・デンデンデデンデーン レッツゴー!
もろイナカモン丸だし~出血大放出!
つうか世の中、変わった!変わった!って言われてるけど
そんなにヒトだって社会だって、その下部(底辺(通奏低音))構造ってのは、簡単に右から左に変わるもんじゃないんだよねぇ
日本なんか、とくに、そういう人の出方ばっかり窺って、なんにもしない(公儀隠密(秘密警察))社会を何百年もかかって作ってきたんだから、
そうそう、ちょっとやそっとで変わるもんではないんだよねぇ~(それが人間の本性だと思うヒトもいるだろうけど)
その結果、世間(や社会(オナカマ))の同調圧力&抑圧だけで人格ができあがってしまう、
そういうひとよく見かける~
そういうひとが、こういうことを呼びかけてる
(ネットのあの「ナレアイ」コメントのいやらしさ~気持ち悪さ~……嘔吐)。
規律・訓練!(Discipline(フーコー))
規律・訓練!
規律・訓練!
精神的構造はオウマーと同じだと思う
もっと気楽に生きたらどないやねん~

「世間というのは君じゃないか」
(太宰「人間失格」)

嘔吐!
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「戦闘や震災などの悲惨な体験が、精神や身体に悪い影響を及ぼすことは誰でも知っている。悲惨な体験が悪夢という様態で反復体験されることも、誰でも知っているし、少なくとも誰でも予想はできる。それが人間の〈自然〉だからである。悲惨な体験をした人間は、自然に心身が不調になるし、自然に悪夢を体験するようになっている。だから、悲惨な体験をしたのに、不調にもならず悪夢も見ないような人間がいるとすれば、その人間の方がどこか不自然である。悩み苦しまない方がどうかしているのだ。
 ところが専門家は、自然に悩み苦しむ人間を異常であり病んでいると判定する。さらには「心的外傷後ストレス障害」(PTSD)なる病名をこしらえて、行政権力を介して調査を実施し、病人を発掘し、治療の需要を創出し、専門家の養成と各機関への配属を進言する。こんな「精神の子役人」(ミシェル・フーコー)の後には、さらに別の実学専門家が続く。報告書、論文、評論が生産される。予算、ポストが確保される。こんな風にして専門家はますます自信を深めていく。
 他人の精神的な不幸によって稼ぐ「虚偽の資格」とはこのようなものなのである」
 (小泉義之「デカルト=哲学のすすめ」(13頁))

デカルト=哲学のすすめ
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ボクみたいなハンパもんが
世俗から離脱した哲学的自我……云々などと大言荘語したりすると

いったいそんなものがなんになるのか?
そんな世捨て人みたいなことを云って、楽隠居で仙人ヅラしたって、
たかだかオマエは中卒の肉体労働者ではないか!
オマエの失敗した人生の負け惜しみや弁解めいた作り話を、
哲学の名を騙って、もっともらしいことをいうな~アホ
分をわきまえろ!


大方のひとたちが、そんな反応するんじゃないだろうか?プゲラ

大庭健さんなんかも、哲学的自我であっても
社会的(自我)な関係によって成り立っているのであって
そんな純粋自我のような設定は、フッサール的困難とおんなじものだ。
マルクス主義者廣松渉さんのお弟子さんらしいことをいう。

「言葉」からアプローチする分析哲学も、全体主義(クワイン)と呼ばれる
一種の関係主義という見方が有力だ……自己組織システム(オートポイエイシス)論が、一時期、さかんに喧伝されたりもした。
実際、ボクもその手の本をかなり読んだ。

なるほど、「私」に社会的な側面があることは分かるし、社会的な「私」の社会での諸関係が大事なのも分かる。
しかしである。
それは「社会」、あるいは「社会的自我」の側から、見ればそうなのであって、
まったく逆のアプローチもあっては良いのではないか?
少なくとも、考えるぐらいはしては良いと思う。

じっさいに私は「社会」を見たこともなければ、触ったこともない。
じっさいに私が見ている世界を、「マッハ的光景だ!」というひともいれば、
「「ウィトゲンシュタインの目」のようだ」というひと人もいる。……色々だ。
たとえ、それが、どのようなものであるにしろ、
「社会」そのものを、触ることも、見ることもできない。
「社会」とは、(色々なプラグマティックな想定があるにしろ)それぞれ「私」に思念されるものであって、
それどころか、そんな「私」たちのそういう「社会」に対する「一般的信頼(共同幻想)」なくしては(ちなみに「一般的信頼」という言葉は、非情に重要な術語です)、
一時も成立しない。

ならば、私が「社会」と思っているものも、「私の中の社会」にすぎない……
ということができる。
「できる」というのは、しなくてもいいということだ。
ここら辺は、「私」のリアリティの問題でしかない。

だから、ここでの「私」は、社会的自我を包摂するとか、優位だとか、語られるような次元ではない。
しょせん、それぞれのリアリティを追求すればいいだけなのだ。
(もっともここで「「私」のリアリティの問題でしかない」と考えた人は、すでにボクの土俵に乗ってしまっているんですけど……)

とにかく、個人的には、いまの社会的自我説を、あまり真に受けすぎるのは、よくないと思う。
だいたい、社会的自我論者の大半は、そういう「私」の複数の側面を認めていない。
マルクス主義的な決定論をはじめとして、「エセ」フーコー的系譜学の手法……
特に社会構成主義からこっちの思想には、著しい偏向がある。
「社会的な自我」は、社会の諸関係の動的総体で「私」が成り立っていると教える。
たしかに、失業、リストラ、倒産、自殺、殺人、戦争……などの原因を、社会的な問題とすることができるかもしれない。
ところがこういう考え方を推し進めていくと、原理的に、やがて、個人の行為のすべては社会(歴史と経済)的にすべて決定されるという、一種の決定論に陥るだろう。
「この統計をみたまえ、社会的「文化資本」(ブルデュー)というものは相続されるものなんだよ」
そういう社会学者は多い。
なるほど、ボクの周りを見渡してみれば、みんな低学歴。
一部の例外を除いた、「学歴アパルトヘイト」(小田嶋隆)社会と言えないこともない。
(ファノンなんかは、中卒の肉体労働者が読むべきもの)
一種の社会・経済決定論が成り立つ。
その原理からいくと、
ハシをあげるのも、どの女を好きになり、セックスするかも
私のすることは、あれもこれも
社会によって決定されるということになる。
当然、そういう論者は
「哲学する私」であろうが、「絵を描く私」であろうが、「歌を唄う私」であろうが
それらはすべて社会的行為であり、社会的な「私」でしかないと考える。
だから、「悪い社会」を暴き立て、社会を良くしようという思想が、あれこれ雨後の筍のように作られるというわけだ。
当然、こういう社会(科)学帝国(中心)主義者みたいなひとたちは、世間のひとたちに上記のような社会決定論にリアリティを持つように、「社会」という言葉に対する一般的信頼づくりのための説教(防衛思想)を垂れながす(要するにマッチポンプなわけよ)。
往々にして、このような抑圧的な説教は、抑圧的な世間、あるいは人間であるほど支持されやすい(丸山真男の「抑圧移譲」を思い浮かべてもらってもいい)。
早い話が、そういう抑圧的な世間人の「世間のオキテに従え!」という説教を、もっともらしく語る常套手段である場合が多い。
とにかくそういう循環によって、「私」は「社会」に馴染んでいく。

「私」は社会の網の目に、からめ取られ、管理され、使役される
社会が設定されると、自我が設定され、
自我が設定されると、社会が設定される。
もうそうなると、「私」は社会からも社会的な自我からも抜けられない。
このように、社会的自我説を推し進めていくと
自己決定の身体論みたいに、「身体を切り売りしていく「私」は、いったいどこまで「私」といえるのか?」という問題にみたいに…
アイデンティティの政治やゲームとやらにすっかりからめ取られて
だんだん離脱できなくなる~
しかし、抜けられないのは社会のせいでも、社会の「私」のせいでもない。
そうやって設定した「私」の自縄自縛、自作自演でしかない?。
そして、すっかり離脱できなくなったところで、
居直って世間人となり、社会がどうの、人間がどうの、良識がどうの、政治がどうの、デモだ!運動だ!という「おじさん」的思考にはまって…抑圧的となった「私」になる。
弱いがゆえに、世間に対し過剰対応する……「私」
社会に合わせ過ぎた結果としての社会的自我=「私」。

考えてもらいたい。
ボクが、そばにいる愚かな女性を愛したのは社会の構造が決定させたのだろうか?
愛しているのはボクの社会的な自我なのだろうか?
このできの悪い我が子を、すこしでも健やかなれと思うのは社会の構造のせいなのだろうか?
社会構造的な自我なのか?
それも社会構成主義のせいか?
社会構成主義的な自我のおかげか?
すべては歴史的系譜のせいか
やっぱりすべて社会権力のせいか?

結局、社会的自我は、「わたしは社会という権力構造のなかだけで働くロボットです……はたまた世間のドレイです~?」と言ってるにすぎない…(もしかしたら、そういうひとは自分だけは自由(な裁量)があり、あとの他人たちはロボットか奴隷だと思っているのかもしれない……それはなかなか魅力的な想定ではあるが……LOL)…。

それから、逃れていく考え方は、
もし、たとえ「私」が社会のロボットであったとしても、
そういう考え方を豊富にすることができるかも知れない。



あらゆる仮設される自我(わたし)は、目に見えない。
証明することすら出来ない。
まさに自己撞着的だ。
哲学的、社会的、心理学的……自我、……自我、自我……
「考えを豊かにする?」
「いったいそんなもんなんになるのか?」
そんな問いが聞こえてきそう……
「なんにも~」
と答えよう。
その点は、社会学だって同等だ!
不用といったら、すべてが不用なのだ!
「四則演算にしても、四則演算をする以外の何かの役に立つことがあるのだろうか」(澤野雅樹)
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マイケル・ボーダッシュ著
(上田敦子+榊原理智訳)【現代思想】Jul,'97.(青土社)
「」内太字は引用。

98.03.08(Sun).初出

薬害以来、医療関係が熱い。特に、衛生学や優生学に関するものは、内外で注目すべき業績を上げている。日本では、小俣和一郎をはじめとして、医療技術の爆発的な進歩にともなった応用的な倫理学まで百花繚乱といった感じである。
わけても、最近(といっても、もう随分たつが)、の市野川容孝の注目すべき仕事は周知のことであろう(「死の社会学序説」ソシオロゴス'91、「生-権力論批判」【現代思想'93青土社】、「超越と他者」imago'94青土社、「ナチズムの安楽死をどう〈理解〉すべきか」imago'96、ドゥルナー、シンガー他訳……しかし、なぜか斉藤光氏などの日本の優生学研究はあんまり注目されないのは何故なのだろう?。この他にも立岩氏、鈴木義次氏などの仕事がある)。
しかし、断るまでもないが、
ボク自身は(シロウトらしく)、
この手のものにミーハーな興味が多少あるにすぎず、
しかも、
日頃、ブンガクと聞いただけでトリハダが立つボクにとって、
この論文のような、いわゆる「ガイジン」による『破戒』という島崎藤村のテクスト、つまり、日本の近代文学の読解という、きわめて、文学的な営為自体はたいして興味を惹くものではないし、くわえて、このボーダッシュのことも甚だ不案内であることは、先に断っておく。

さて、この論文、
『破戒』のテクスト読解をとおして、明治の国民国家体制が、いったいどのように人々に「感染」していったかということを明るみにだそうというのである。
となると、まず問題となるのは、『破戒』という作品の出生についてであろう。
その点については、
「自分もまた筆を携えて從軍したいと考へたが、ついにその志は果たされなかった。そこで予は『破戒』の稿を起こした」という日露戦争勃発後の藤村自身の告白を引用することで、簡潔に解答している。
そして、それは「『破戒』において成し遂げた文学的勝利を、アジア大陸において日本軍がおさめた国民国家の勝利という、より大きな物語の中の一事件として再構成しているのである」と指摘する。
この時点では、何がなんだか、よくはわからないが、なんとなくその企図はほのめかされている。

近代国民国家、日本の勝利

じつはその真の勝因は、「『衛生』という名の普遍的な帝国の勝利だった」という元アメリカ軍の軍医シーマンの『日本の真の勝利』の指摘を受けて、
論文は、このテーゼを基本線として、日本の近代黎明の衛生学を【フーコー-渡部(直巳)】の視座から読解する。
『破戒』というテクストを「スピーチ・ジャンルをもって~中略~遡及的に解体する」ことを通して、(ボーダッシュのいう)「イデオロギー的批評」に接合するというものである(といっても、ボクには著者のスピーチ・ジャンル(バフチンとの差異)など理解できないことをお断りしておく)。
国民国家が「人」の「間」の調停にやってくるとき、国民国家は、いつしか、人々の主体を僭称するようになる。それは、いつも、どんなときも、正義(正しさ)という仮面に覆い隠されて(善人面して)やってくるものである。
もちろん、それは単にイデオロギーや意識の問題だけではない。
「この時期の日本において(また他のどの場所ででも)人間の身体にある驚くべきシフトが起きていた。新しい産業や軍隊、教育、医学のもとで、以前には存在しなかった新しい肉体的な生活形態を、自らの身体に組み込むことが要求されたのである」
こうして人々の身体は領土(領属)化されて、
「個々の人間の身体は幾度となく国民国家全体の健康と結合されてい」く
わけても「特に衛生学と体育という新しい科目」によって、「国民 Nation 」の感染は、「人」々の「間」で猛威をふるっていくのである。
このことは人々の特徴(病気)を根絶し、
「国民=健康」を制作(ポイエーシス)する一方で、新たなる病気を制作して「細菌」(というイデオロギー)によって、新しい患者(=被差別)を創り出すという、両義的な動きをした。
この対応的な動きは、無数の二項対立群(健康/不健康、純全/不純等々)の叢生をもたらし、
そのダイコトミーは、顕微鏡の進歩、つまり、テクノロジーの進歩/効率化によって「人」々の「間」-関係の微視的境界にまで侵犯し、
微細な「相互監視」のシステムへと変貌していくことになる。

「衛生学はもともと軍隊における医学の一形態として発達」した。
人々の主体に感染し、寄生(パラサイト)した衛生学としての国民国家主体は
「細菌という新たに確認された敵に対して全面戦争を繰り広げるためには社会は統一に向けて進まねばならない」と人々に号令をかける。
近代・国民・国家・軍隊=衛生学→戦争遂行!
と読める。

戦争遂行!
論文は、そこから、鴎外や北里、あるいは後藤新平等のおこなった仕事を仔細に検証するものではないが、そこにおけるふたつのスピーチジャンルに注目していくことになる。が、そのような点は、割愛させていただいくことにして、
本論の藤村読解に戻ろう。
本論は、藤村を、そんなイデオロギーとしての「衛生学」が猛威をふるう近代黎明の日本で、
丑松、つまり、部落民における細菌理論イデオロギーの欠落を確認していく。
日本という国民国家が世界に船出する同時に、必然的に「1871年の解放令に続いて法的制限が緩和され、部落民の他の徴(服装や住居や職業)がなくな」っていったのであるが、また、一方では「あたかも個人としての私どもの身体が病み、その痛みを忘れることが出来ないのに似ている」という藤村の告白が示すように、部落民は、自らの内面に、そんなスティグマータを捺印していくのである。
「結果的には部落民と『普通の』日本人を視覚的に区別することができなくな」り、「この境界線が一見ぼやけはじめたことによってもたらされた不安」によって、この差別は内面化し、さらに拍車がかかることになる。
「この構築された可視性」を、渡部直巳の言を借りて、「表象・支配(マスター)」「『学問分野=規律・訓練(ディシプリン)』の一つである」と主張をする。
さらにこの論文は、丑松の内面をフロイト的な分析(エディプス)を用いて心理の側面から論じて、内外両面からの「均一性」に圧殺されていく過程を見ていくのだが、この部分に関しては、さしあたってボクが触れるべき点はない。
結局、この一節では、丑松の衛生学(細菌)イデオロギーの克服を見ることはないのである。
丑松に、一時的に解決(治療)をもたらすのは、「丑松が部落出身者だという告白をしてテキサスへ移住する」という話の結末によってなのである。
外国に行くことによって、はじめて部落差別から解放され、逆説的に、「真の日本人」になれるのである。
もちろんそこに「検疫のイデオロギーが再生されていることが読み取れる」
「検疫という衛生学的思考は、健全な者と不健全な者とを分け、健康な身体から病に冒されている身体を隔離する」というイデオロギーであり、「『殆ど吾々と變る所はない』血統を主張していても、病人は隔離され検疫」されるということである
もちろん、このようなイデオロギーは世界的なものであった。テキサスにも、アメリカにも黄禍論の高まりと、ゴールトンらなどの優生学スペンサーなどの社会進化論などが、さらに輪をかけて、彼らを「封じ込め contain 」たのである。
つまり、結果的に、そこも、丑松のほんとうの解決はなかったのである。
ただし、前述したようにこの「封じ込め」は、両義的なものであり、容易に反転してしまう。
「彼はヘゲモニックな衛生学の任務を忠実に遂行する臣民なのである」。
ここでこの論文の言う『破戒』という物語の最大の核心が登場することになる。
つまり、丑松は、その地方の共同体の一員になることに成功することによって、この作品に「革命的」な転倒をもたらしたのである。

「飯山という共同体とその特徴は『破戒』において細部にいたるまで描き出されている。田舎町である飯山(とその伝統)とそこに侵入してくる中央政府(とその官僚)とのあいだに起こる中心・周縁の葛藤を通して、共同体のアイデンティティは形成されている。境界線のすぐむこうに見えているこの外部によって見据えられながら、共同体を構成されているのである。」
そこで丑松は共同体の一員となり、「丑松は逆に地方の庶民を味方につけ、社会を支配するものに対して戦うのである」が、丑松は結局、その共同体の「境界線の設定するために」、ひとつの「パルマコス」=貨幣として、「飯山という共同体の内部と外部に同時に属している。彼は飯山にとって異分子的な存在でありながらその共同体に帰属するものであり」丑松の存在こそ、共同体の自己同一性を駆動(再生産)させているそのものにほかならならない。そうなると、「もはや暴力的な儀式は必要としない。パルマコスが自ら出ていくからである」。そして「飯山を去ることによって初めて、丑松はやっと故郷に帰ったと感じられるのである」
もちろん、この場合の共同体は国民国家の共同体であり、「飯山という共同体は確かに中央政府に対して抵抗しているが」、結局、それは周縁化現象に過ぎず、自己同一化的な運動であり、「国民国家共同体なかに吸収される」ことは予定調和的といってもよい。
そもそも、共同体化現象やムラ化現象といわれるものは、上記のような近代主義によって、よりはっきりとした形をとる(レゾリューションを高める)のであり、この点は特に留意されてよいところである。
さて、それからの細菌イデオロギーは、検疫(隔離)から予防注射(同化)へとシフトし、一見それはこの病の解決策として導入されたかのようであったが、じつは、氏が指摘するように「(ホミ・)バーバにならえば予防注射は vaccination は vacciNation 」であったことを歴史が如実に物語っていた。この「予防注射」こそが、帝国の境界のレゾリューションを高め、さらにその境界の拡張を可能にするものであったことを明らかにするのである。
つまり、それは、「熱帯病の微細な寄生者」であるインド人にとって、次のようなことだったのである。
「植民地政府は、予防注射を全インド人に受けさせようとする『慈悲深い』キャンペーンを打ち出した。健康なヨーロッパ人を病気であるアジア人から隔離するかわりに、この新しい薬は植民地空間の危険を中和し、植民者のさらなる侵攻を可能にしたのである。」
論文は、『破戒』に、そのような新しい薬としての歴史的な役目をもっていたことを指摘する。
「偏見に満ちた言葉がこの共同体から他の部落民を排除するような差異を喚起したという理由で非難され~中略~1929年に藤村は、この作品を一時絶版にしなければならなかった」。それにも拘わらず、「1930年代の後半までに、日本が総力戦に向かって動きだすと、藤村は再び戦略を変え~中略~1939年藤村は『破戒』を再出版したのである」。こうやって「1906年予防注射」歴史的な成功を収める。「部落民は病に冒されない存在として国民国家に同化され」ていったのである。
このような「処方箋」によって、はじめて、丑松(部落民)は、治療(解決)されたのである。

さて、その治療法の核心部分に関しては、本稿を読んでもらうことにしよう。

ボクが思うに、この論文の主題は、『破戒』という、文字通り転倒した「暴力」の企図を通して、「国民国家」=衛生学という「細菌」が猛威をふるうさまを、現代日本と共鳴させることにあったのかもしれない。
最後に、こう指摘する。
「ここで重要なのは、『破戒』を読み解くことではなく~中略~暴力の多様な形態を識別し、それらの相互関係を明確にすることである。」
然り!。

「~前略~日本人が歐米人に輕んぜられるのも人種的偏見に依るのです。日本人が若しそれを憤るならば、先づ自己の同じ偏見を棄てねばなりません。即ち支那人、朝鮮人に對する輕侮心を去らねばなりません。況や國内における新平民族に對する輕侮心の如きは、實に謂れなきの極みであります。それで我々は諸君が此小説を「破戒」を讀んで、人種的偏見を去るの一助とせられん事を希望するものです~後略」(家庭雑誌四:五、1906年三月五十一号)筆者不詳
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