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「私」は、エクリ(文・字)という光「源」に照らし出された海を泥船で航海するしかない…
みたいなことを言いたかったのか??
どうかはしらない……

Lは、
そんな「存在」の世界(ひかりのくに)から離脱して、ほの暗い海の底から
否、闇あってこその光(ひかりのくに)??
その不気味な闇こそが根源(生命「力」(主客未分かつ自他未分))…
そんなことを言いたかった
のか??
どうかはしらない……

結局、
ふたりとも
プラトンの脚注か?
(例えば、どうやってDが、
そこまでたどり着けたのか?
よく考えてみよう)
どうかは
読者諸賢の想像にオマケ……
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(生きる意味、生きている価値とは何か?)

ニヒリズム……

ニーチェとかで、よく使われるコトバ。
「神が死んだ」
というわけだ。

そういう意味で言えば
はじめから神(キリスト…)なんていない日本、および日本人は、
すでにしてニヒリストだということになる……
いやいや、
日本だって
神道だって、
ホトケだってあるじゃないかというひとがいるが
現世は、なにもかも空だ!と説いたブッダは、ニヒリズムの極致だし、
「触らぬ神祟り無し」、「捨てる神あれば……」の八百万の神なんて、なんでもあり anything goes……(殺戮、近親相姦……)、
なかなかポモ的!
ファンキーな神だ!

それにしても
天皇(カミ)だって人間宣言する日本人からすると
なぜ、西洋人が神が死んだくらいで、ニヒリストだとかと云って、
大騒ぎするのか
わからない???(日本だったら、さっさと黄泉の国に行って連れて帰ってくる)
ま、いろんな事情があるだろうし、
多くは知らないが
ごく雑ぱくに云ってしまえば、
生きる意義(意味)とか価値とかを(それを究極的な価値と考えている人もいる)
西洋では、神(キリスト等)を、リファーして
決めてきたから?
神=評価基準……
換言すれば、
神が死んだ→評価する価値基準が無くなった
つまり
生きる意義(意味)や価値は死んだ
生きる意義(意味)や価値がなくなった(なんでもあり-ニヒリズム状態)
ということでしょうか?

じゃ神(キリスト等)のいなかった日本じゃ~
生きる意義(意味)や価値はなかったのでしょうか?
あるいは、日本人は、そういうことは問わずにきたのでしょうか?
たしかに日本には神(キリスト等)はいなかったし、
日本の神や仏は、ベタなニヒリストだったけど…
そのかわりといっちゃなんだけど、日本には「世間」というものが存在する。
日本人の生きる意義(意味)や価値は、
キリスト教社会などの神のように、人間離れした形而上学的愛は説かないけれども、
世間で、どういうふうに評価されるか、
あるいは、
仲間内に、どういうふうに思われるか、
生きる意義(意味)や価値は、人と「人」の「間(関係)」で決まる。
世間で決まる
世間が決める
実在論(プラト二ズム)に対し反実在論
娑婆界(世間)の掟は娑婆界(世間)で……ということ
日本には、神はいないけど、世間がある。
だから、「世間をお騒がせした」といって自殺していく人たちがいる。
日本人がオタク的なのも、そのせいだと、ボクは思っています。

生きる意義(意味)や価値は、人と「人」の「間」で決まるとすると
ひとまず神は要りません。
神がいないから、そういうことでいうと、
日本人は、生きる意義(意味)や価値を失い、みんなニヒリストになってないといけない……
しかし、ぜんぜんそんなことはない。
世間があって、ヒトがいて、仲間がいて、その中で
生きる意義(意味)や価値も「ないことはない」…。
当たり前ですが、
神(キリスト……)の国(信じている人)からみると
そんなもんが生きる意義(意味)や価値にはなるはずがありません。
彼らが求めているのは、絶対(超越)的な、それであって、「ないことはない」ようなものではないからです。
だから、不思議のクニ「ニッポン」というひともいるわけですが、
結局、それは「日本人の大半はキリスト教徒でない」ということだけでしょう。
もっと換言すれば
キリスト教徒でない=ニヒリスト
もっといえば
神を信じてない=ニヒリストでしかなく、
そんな(超越的)立場(立ち位置)からすれば、
どんな現代社会もニヒリズムが蔓延しているといえる。
まったく勝手な言い草なんですねぇ?
(一方的に高みからものを云ってるだけなんです……日本のインテリ青年のよう)
だから、
「ニヒリズムだ!」と云われたら
「あっそう!
 それがどうした
 神がひとり死んだぐらいで
 おたおたすんなよ」
という程度のことではないでしょうか?。



ところで
生きる意義(意味)や価値を問う時って、どういう時でしょうか?
会社に行って仕事しているとき、
あるいは野球をして打球を追いかけているとき、
リズムに合わせてダンスをしているとき、
ギター弾きながら唄を唄うとき
大好きな彼女とSEXしているとき、
ウンコ(我を忘れるほどの見事な一本グソを)しているとき
……
そんなとき、生きる意義(意味)や価値を問いかけながら、やっているひとは、むしろまれでしょう?。
なんでも
思想史家によると「いかに生きるべきか」という問いが、人々につよく意識されるようになったのは、
職業選択の自由というものを契機としているらしいですが。
つまり、人間に、ある程度、余裕が出てきてからなんですねぇ。
「何かを考える」ということ自体そうかもしれません……。
そう考えると、
日本の場合、
生きる意義(意味)や価値を問う枠組自体が神の国(西洋)から輸入(転移)されたものだという可能性もあるとすると、
やっぱり、それは、我を忘れるほどの見事な一本グソ(ウンコ)やSEXをすることに比べれば、
一つの余裕、オマケみたいなもん(「分離したジツゾン」レヴィナス)だといえないこともない。
ウンコやSEXをしたあとに(功利(実用)的な反省によって)、
見出されたオマケみたいなものでしかないかもしれません。

西洋(キリスト教)では、真理というものは、いつも隠れている(潜在的)という一種の信仰&伝統のようなものがあるそうですが…(隠れたる真理)
大切なものが、目に見えない遠いところにあるものなのか、
それとも、逆に
どこにでも見つけることができるものなのか?
ボクは
神じゃないから分かりませんが、
日本的な感覚からすると、それは、
どこにでも見つけることができるもの
のようです……
はたして…どこにあるのか…???

note……

神なき世界を生きていく……ために
日本人の生き方も……、ひとつの生き方であるように思われますが、
日本の「世間」も、
たやすく形而上(超越)的、天上化され(つまり、神になってしまう(前述した、それがために自殺していくひととか(あるいはそれに追い込む大衆とか)))
ファシズム(全体)化してしまう傾向があります……


もちろん、西洋でも
(絶対主義者による血で血を洗う宗教戦争のあげく)
神なき世界を生きていく……ために
いろんな試みがなされてきた訳で
それがときに、共産主義による革命だったり、資本主義だったり、自由主義だったり……
したわけですが……
ま、それらを総じていえば、
nation(「民族」-国民国家)による民主主義政治(近代国家)というものが(宗教(絶対)的権威(魔術)からの解放)一つの解答だったと思えます。
そう考えると、西洋は、いまのところ、ひとまず
絶対的立ち位置と、相対的立ち位置を混淆するという形を採っているといえそうな気がします……

・コジェーブが云ったように
世界はだんだん日本(的スノビズム(世間))化へ……してるかも…わかんないけど( ^∀^)ゲラゲラ

・文中の「西洋」なる言葉で一括りにするのは無理があるが…いちいち限定するのはめんどーなので…斟酌くだされたし

鉄鼠 : 対米追随を批判している皆さんへ……ニーチェのニヒリズムとは(コメント欄を参照)…

鉄鼠 : 雨宮民雄 「複雑系の科学と現実」(「現代思想 vol.25-13」青土社)
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・分かること~ピ~ンとくること

野矢さんにとって「考える」ってことは、まるで微弱なレーダーのようなものだ
当らぬも八卦的にチューニング~
何かをキャッチすると、だんだん加圧されて
そいつが……ピ~ンとあってくる
野矢さん的にいうと、それは「過敏な楽器」らしい。
「過敏な楽器」
ボクなら
2サイクルのオートバイ(コンペティションマシン)って言いたいところ……
過敏で過激だよ。

でもやっぱり、どちらかというと
トランジスタラジオ
うーんトランジスタというと
「うーん……授業をさぼって……ええっ
日の当たる場所にいたんだよぉ~
寝転んでたのさぁ
屋上でぇ~ タバコの煙とても青くて
内ポケットにいつもトランジスタ・ラジオ
彼女 教科書 開いてる時
ホットなナンバー 空に溶けてったぁ~
うーん こんなカンジ うまく言えたことがない
ベイエリアから リバプールから
このアンテナがキャッチしたナンバー
彼女
教科書
開いてる時 いえぇ~
ホットなナンバー 空に溶けてった~ぁ」(RCサクセション)
と口ずさんしまうあなた
トランジスタラジオのトランジスタラジオでした。
ハハハ
「我が輩は耳を澄ましているトランジスタラジオである。
 名前はまだない……」

それでもやっぱ、野矢さんのいう「楽器」ってところわかるなぁ
哲学者って楽器みたいなところってあるもん
奏者によって変幻自在に変わるところがある
偉大な哲学者ほど……そうだと思う
ソクラテスってヌエみたいだ
名奏者を訪ね歩く……ひと

またまた、だいぶ脱線したぞぉ
その調子……その調子……

・コップと飲み物の関係

「コップを見るとき、飲み物のことを考える」
レヴィナスみたくに
ニンゲンの「顔」を見るとき 命のことを考えることかなぁ~
あーわかんな~い
憎しみしか沸かない人もいるし
笑うしかない人もいる。

コップを見て、とりあえず投げてみたくなる時だってあるし
国会のセンセみたいに、その水を、あたまからかけてやりたいと思うときだってある。
あーそれが「関係」ってやつか……?

でも、そういう「関係」って言ったって、
もうわかんないくらいあるんだよなぁ……~人間さまの世界には
それはもう「習慣」とか、ひょっとしたら「無意識&暗黙知」になってるから
わかんない。

野矢さん的には
「考える」ってのは、
そういった「習慣の縄」を引きちぎることらしい。
ふむ?
たとえば、
「ボクには、野矢さんのようには思えないなぁ~」
っていってみる。
そう思えない?
そう思わないボクの習慣かも
否、なんでも疑って反論したくなる人間の宿痾かも。
あっそうか。
そうやって「考える」ってことか~。

・哲学者の姿

「ある町に高名な哲学者がいた。私はその人に教えを乞いたいと思い、はるばるその土地に赴いた。ようやくその人の扉を叩き、小さな書斎に通された。もっと万巻の書物が積まれてあるのかと思ったが、その書斎には机と椅子のほかは何もなく、少し意外だった。本を読まないのだろうか。だとしたら、この方は何を研究されているのだろう。私は思いきって尋ねた。
「先生は、何をご研究なさってらっしゃるのですか」
その人は目しばしばさせ、ちょっと困ったような顔をして、言った。
「うん。それをな、研究しておるのじゃ」(37頁)


・問いの逆説

学校で出会う問題は
名前が書いてあるし、答えが保証されている。
しかし、ボクたちがホントに出会う問題
には名前なんか書いてないし、答えなんてないかも知れない。
すくなくともなんの保証もない。


・「考えることは新しい結びつきを探していくこと」(野矢)

でも、そんなことは、簡単に行くことじゃないんだ。

もし、自分の哲学は
ホニャララすることだと分かっちゃったひとがいたら
それは、もう哲学が終了しちゃった人だ。
哲学がシソウというものに、変質しちゃったひとだ。

哲学的に「考える」ってことは、問題(スタンス)そのものを問うことなんだから
「結んだ」と思った瞬間に、なんどもほどかれる。


・「あるがままに受け入れることの困難」(野矢)

それってほんとだろうか?
「あるがまま」っていうからおかしいんだよ
ヘーゲルみたく「思ったまま」に受け入れれば。
そうワガママ
みんなチョーワガママで
クラクション鳴らしっぱなしで………


・「論理は考えないためにある」(野矢)
するとウィトの「論理哲学論考」なんか
「考えないための哲学的思考」となり
言い得て妙!
論理は考えない……一本道
考えるってのはその「別れの一本杉」


・サイコロを見る

観察と推論
をどのようにつなげるか、それはもう論理の仕事じゃない。
そういうところから
そこに「考える」ってことが現れてくる(91頁)。


・「論理に不可能な文字はない。」
野矢さんに言わせれば、夢だって論理的。
野矢さん的に言えば、
ほとんどのひとが論理的に考えるってことを誤解して
この言葉を使っている。
特に政治的な話題なんかそう。

政治に「論理」なんか使っちゃいけないんだ。
キケンだもん。

イヤ!ちょっと待て!

論理的に考えるってのは、可能性を考えるってことだ。
論理的に考えるってのは、コトバさえあれば足りる。
ほんじゃぁコトバがなければ可能性もない。
可能性がなければ否定もない。
あーどうすりゃぁいいんだ。
と思ったところで、

論理の神様=ロボットが登場。
可能性(論理)の鬼っ子。

しかし、論理の神さまは、
フレームで足を引っ張られて、あっけなく自爆。

な~ぁんだ

「人間は現実べったりの動物でもないし
 超人的な論理的視力をもった神様でもない」(122頁)


・「一頭のブタに出会うとき、ボクらは必ず世界全体と出会っている。」野矢さん

そういうこと。

・ちなみに「フレーム」では

「無視」って
ことが問題になる。

ふむふむ
柴田正良さんの本では、それは人間の「感情」だったね。
論理には「感情」ってもんがないんだ。
あーあ

逆に言えば、人間には
感情ってもんがあって
「無視」が起こる。

ほとんど無意識に
無視できる友達と無視できない友達がいる。

野矢さんのいう
「常識」や「習慣」っていうフィルターは、
やっぱ広義には「感情」の問題だったりする。

うーん
それってさぁ~
論理的には世界平和は可能でも、
そういう世界って、すんごく冷たい世界になっちまうってことでしょ
ありゃぁりゃぁ
たいへんなことになっちゃったよ。

ボクたちの社会は原理的に問題を抱えこんでんだ。
フフフ(笑)

話は飛ぶ。


・「夢は局地的にしかありえない」って
野矢さんが言うのは(144頁)
言い得て妙だなぁと思う
野矢さんが言うように
疑う足場とか、考える足場とか
大事だと思う。
大事だと思うけど、
だからって
今目覚めているって、やっぱり言えないんじゃないかなぁ~。
そう思うよ。

たしかに、それは自爆的ではあっても
もしかしたら、それが「考える」ってことの本質なんじゃないかって思ってる。
ホントは足場なんて、最初からないからこそ
考えてるんじゃないかなぁ~
デカルトなんて、そんなもんないからでっち上げたんでしょう?
いまだって、結局は知識なんてもんは
チャリティー原理なしには考えられないもん?
しかも「論理」は、「頭ごなし」だしさぁ(*1)

人間なんて、なんにも分かっちゃいない言える。
(「えっ!」なんで、そんなこと言えるか?って……うーん分かんないけど、それぐらいは言える)
「そんなことを問いかけること自体が人間的因習に囚われている」
「ナンセンスだって……」
うーんそうかもしんないけど
やっぱり、それって「なぜっ?」て思うわけ
自爆。
大爆発。
さらば地球よ!
G線上のアリア……


・変なヒト、本に出会う

それが哲学を広げること


・考えるってのは

足場を変えること
軽やかに踊ってみせること(146頁)
なんだって

おしまい。
じゃぁまた
note--------------------
(*1) ルイス・キャロルの「アキレスと亀のパラドクス」 What The Tortoise Said To Achilles.

はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内
野矢 茂樹 植田 真
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おすすめ度の平均: 4.4
5 ロジカルとかクリティカルとか本のタイトルが多い中、ぜひ一読をお薦めします。
4 考えることに行き詰まっていたら
4 考えるとは何か


(初出:2002)
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ビーケーワン:レヴィナス

「何のために生きるのか?」
そんな問いが出てくるのは、どういう時だろうか?
自分が、なんとなくイヤになった時であろうか?
自分がイヤになるとは、他の誰かになりたいときだろうか?
あー(人気者)だったらいい、こー(権力者)だったらいい
ということだろうか?

しかし、どうも、そうではない
「何のために生きるのか?」
という問いには、
もしかしたら、単に、自分であることを辞めたい……
キレたい、死にたい、………飛びたい、毒ガスを撒きたい、爆破したい……殺したい……
単に、自分であることを辞めたい
「自分であることを辞めたい?」
という願望が
「何のために生きるのか?」
という問いを誘ってしてしまうのではないか?、
と本書は問いかける……

「自分であることを辞めたい?」
はてさて、いったい、そんな思いを抱いてしまうのは、どういう時だろうか?
いまの自分が「真の人生」を歩んでいないと思う時だろうか?
いまの自分が「真の自分」でないと思える時だろうか?
「真の自分」でないと思える時とは、どういう時だろうか?
「自分のため」になっていない
「自分のため」の人生になっていない
と思う時だろうか?

だけど、
人は、真に自分のためだけに生きている自分を、「真の自分」だと思えるのだろうか?

「自分であることを辞めたい?」
いったい
「何のために生きるのか?
 それがわからない?」

「何のために生きるのか?」という問いは
実は、そういう
真に「自分のためだけの人生から逃走したい」という「欲望」なのだ。
と、本書は語りかけて
「他者のために生きる」ことを説く。
「他者のために生きる」ことが、「ホントの自分」への道、「自分のため」。
つまりは、真に「自分のためだけに生きることに疲れ果て」
「他人のために自分が役に立っていない」こと=それが「真の自分ではない」
「他者の顔が善性を呼び覚ます」と読める。
それでも、それが「自分のため」=生存(エゴイズム)であることをやめないのは言うまでもない。

本書が言いたいこと
「他者のために生きる」
これであろう。

あーあ窮屈な展開だ!。

「他者のために生きる」とは言っても
人間は、やがて死ぬ。

極めつけはここだ!
「さらに再び死ぬことを通して、他者のためと人類のために死ぬ」(10頁)
「そもそも、死ぬのは、私やあなた」であっても「人間は無に帰すわけではない。人類が絶滅するわけではない」。(74頁)
人間には繁殖力がある。人間は人間を生む。
したがって
「何のために生きるのかという問いは、人間の繁殖のために生きて死ぬと答えられることになる」(96頁)
七生報国!

だけど、ボクには、どことなくかったるく聞こえる。
ボクは、ふだんそんなことはまったく考えない。
考えなければ、
ただ、そうなっていることに、なんの不思議もない。
考えないなら、
もともと世の中やボクが、そうなっていることに、なんの理由も根拠もない。
君とボクが、今ここにいるのは、偶然に、ただ、愛し合っているから……
それだけでじゅうぶん。
ほかに何にも要らないさぁ。
だいたい、理由がなきゃ生きられないの?
理由がなきゃ死ぬの?
理由がなきゃ人を愛しちゃいけないわけ?

しかし、そういうボクも、やがて死ぬ。
理由がなくても生きていけるから、
ほとんどは理由がなくて死ぬ。

確かに、理由を作ることはできる。
しかし、どんな理由があろうとなかろうと、お構いなしに死ぬ。
意味も目的も無く死ぬ。
じつをいうと、ほとんどは、そう思う間もなく死ぬ。
思っても死ぬ。
どうせ死ぬ。
間違いなく死ぬ。
理由無く死ぬ。
意味も目的も無く死ぬ。

そうやって、じゅうぶんに死から目を背けて死んでいける。
というより、死に目を向けようが背けようが
どうせ死ぬ。
意味はない。
どうせ確実に死ぬことは分かっているのだから。
間違いなく死ぬ。
確実なのだ。

ところが
ふだん、意味も目的も無く生きているくせに
意味も目的も無く死ぬことだけが耐えられない人がいる。
自然の生成と消滅。
「雲が消えるように、風が通りすぎるように、人間は死んでゆく」(82頁)
美しい。
だから、自然に救いを求め
じつは自分が死ぬことは「人間にあずかり知らぬ仕方で、超越的な意味と目的が付与されていると見なすことになる」(80頁)
と云って自然に縋りつきたくなる。
人間とは、「生まれて生んで死んでゆくものである」(82頁)と小泉のように言いたくなる。
だが、
自然にとって「人間の環境」など、取るに足らない些事である。
「自然の維持のために死ぬ」(78頁)ことは、構わないが
だからといって、「自然の維持のために死ぬ」わけではない。
ただ、ホントに理由無く死ぬ。

もともと、生きているときから
人間も人類も
社会も他者も
クソもヘッタくれもなかったのである。
そんなもんがあろうとなかろうと、
ただ、愛し合う。
理由なんかない。

つまり、男女が愛し合うのは子どもを生む(繁殖の)ためではない。
(もちろん、正義や平和のためでもない)
子どもが生まれなくても、ただ、愛し合う。
愛し合うことに、理由も根拠も要らない。
その結果として、生まれてくる場合も生まれない場合もある。
それに、なんの理由も根拠もない。
そうやって生まれたボクに、なんの理由も根拠もない。
繁殖には、なんの理由も根拠もない。

そもそも、
人間とは「生まれて生んで死んでゆくものである」なんて言い方は、
生きることからしたら、おまけみたいなもんだ。
理由も根拠もなく生きているし、
理由も根拠もなく生きるために死ぬことだってある。

ガキの頃、
テキ屋で買ってきたひよこを育てて、殺して食べた。
涙が止まらなかった。
「なんのために生まれてきたのか?」
「人間の食物になるために……」
「こんなボクの食物になるために……」
「なんのために生まれてきたのか?」
「生き物を殺して食べて生きていくために」
「こんなボクになるために……」
ほーらねぇ
はじめから、人間も人類も
社会も他者も
クソもヘッタくれもないでしょ?。
理由も根拠もなく殺し、殺され……食べられ、食べる

理由も根拠もクソもヘッタくれもないところで生きることが
「よく生きる」ことならば、
道徳的に生きることは、
理由も根拠もクソもヘッタくれもないところで生きることだということになる……。

何事もなく、過ぎていく幸福な人生。
そんな時、
生きていることが、生きていること以外、何の意味も目的も無くて
よかったと
ホッとして
シアワセな気分になる……ルンルン
そよぐ風が、ボクの髪を通りすぎる……

(初出:2004:08:06)
鉄鼠 : なんのために生きるのか!
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何のために生きるのか?
ボクには、どことなくかったるい問いに聞こえる。
ボクは、ふだんそんなことはまったく考えない。
考えなければ、
ただ、そうなっていることに、なんの不思議もない。

考えないなら、
もともと世の中やボクが、そうなっていることに、なんの理由も根拠もない。
君とボクが、今ここにいるのは、偶然に、ただ、愛し合っているから……
それだけでじゅうぶん。
ほかに何にも要らないさぁ。

だいたい、理由がなきゃ生きられないの?
理由がなきゃ死ぬの?
理由がなきゃ人を愛しちゃいけないわけ?

しかし、そういうボクも、やがて死ぬ。
理由がなくても生きていけるから、
理由がなくても死ぬ。

確かに、理由を作ることはできる。
たとえば、
ある人は、祖国ために死んでやろうと思いたって、
軍隊へ行こうと家を出たところ、偶然、カミナリが落ちて焼死……
世の中からは、たまたまタオルを首にかけていたため、
銭湯に行く途中の不幸だといわれ、
「こんな大変なときに、なんて~とんまなやろうだ」と蔑まれた……
そうかと思うと、ある人は、毛の先ほども祖国のために死ぬ気は無く
絶対安全と謳われていたところにいたにもかかわらず、
運悪く流れ弾が命中して絶命!
それがどういうわけか、たまたま、身を捨てて祖国を守った軍神・英霊と崇められることになったりする。
理由なんか、結局、あてにはならない。
(さらりと手のひらを返す……戦後日本なんか、そのお手本のようなもんだ(軍神・英霊と呼ばれてたかと思うと、ころりと犬死にと蔑まされる))

とにかく、どんな理由があろうとなかろうと、お構いなしに死ぬ。
意味も目的も無く死ぬ。
じつをいうと、ほとんどは、そう思う間もなく死ぬ。
思っても死ぬ。
どうせ死ぬ。
間違いなく死ぬ。
理由無く死ぬ。
意味も目的も無く死ぬ。

そうやって、じゅうぶんに死から目を背けて死んでいける。
というより、死に目を向けようが背けようが
どうせ死ぬ。
意味はない。
どうせ確実に死ぬことは分かっているのだから。
間違いなく死ぬ。
確実なのだ。

ところが
ふだん、意味も目的も無く生きているくせに
意味も目的も無く生きることや死ぬことだけが耐えられない人がいる。

自然の生成と消滅。
「雲が消えるように、風が通りすぎるように、人間は死んでゆく」(82頁)
美しい。
だから、自然に救いを求め
じつは自分が死ぬことは「人間にあずかり知らぬ仕方で、超越的な意味と目的が付与されていると見なすことになる」(80頁)
と云って自然に縋りつきたくなる。
人間とは、「生まれて生んで死んでゆくものである」(82頁)と言いたくなる。
だが、
自然にとって「人間の環境」など、取るに足らない些事である。
「自然の維持のために死ぬ」(78頁)ことは、構わないが
だからといって、「自然の維持のために死ぬ」わけではない。
ただ、理由無く死ぬ。

そうはいっても
「人間の環境を維持し、子孫繁栄を鼓舞し、
人間&人類を生かし続けるために死ぬこと」は構わない。

しかし
フフフ、
それが何だというのだろう?。

ここで、あのメメント・モリ・マニア中島義道風にキれてみる(笑)
「人間なんか
人類なんか
残ったって、それがどうというのか
やっぱりボクは死んでしまう。
ボクが死んでしまったら
人間も人類も
大和民族も帝国臣民も
社会も他者も
家族も恋人も
クソもヘッタくれもない。
そんなもんあろうとなかろうと、どうだっていい……
みんな消えちまえ……老人力……ロケット花火……ハルマゲドン……
ボクは死ぬ。
確実に死ぬ。
理由無く死ぬ。」
と言ってみる。

しかし
もともと、生きているときから
人間も人類も
社会も他者も
クソもヘッタくれもなかったのである。
そんなもんがあろうとなかろうと、
ただ、愛し合う。
理由なんかない。

つまり、男女が愛し合うのは子どもを生む(繁殖の)ためではない。
(もちろん、正義や平和のためでもない)
子どもが生まれなくても、ただ、愛し合う。
愛し合うことに、理由も根拠も要らない。
その結果として、生まれてくる場合も生まれない場合もある。
それに、なんの理由も根拠もない。
そうやって生まれたボクに、なんの理由も根拠もない。
繁殖には、なんの理由も根拠もない。

そもそも、
人間とは「生まれて生んで死んでゆくものである」なんて言い方は、
生きることからしたら、おまけみたいなもんだ。
理由も根拠もなく生きているし、
理由も根拠もなく生きるために死ぬことだってある。

ガキの頃、
テキ屋で買ってきたひよこを育てて、殺して食べた。
涙が止まらなかった。
「なんのために生まれてきたのか?」
「人間の食物になるために……」
「こんなボクの食物になるために……」
「なんのために生まれてきたのか?」
「生き物を殺して食べて生きていくために」
はじめから、人間も人類も
社会も他者も
クソもヘッタくれもなかったのである。
理由も根拠もなく殺し、殺され……食べられ、食べる

理由も根拠もクソもヘッタくれもないところで生きることが
「よく生きる」ことならば、
道徳的に生きることは、
理由も根拠もクソもヘッタくれもないところで生きることだということになる……ような気がする。

何事もなく、過ぎていく幸福な人生。
そんな時、
生きていることが、生きていること以外、何の意味も目的も無くて
よかったと
ホッとして
シアワセな気分になる。

もしかしたら
「人生とはウンチをすること」
かもしれない……プゲラ


(2004-06-18 20:03 初出)
レヴィナス―何のために生きるのか
小泉 義之 / 日本放送出版協会
スコア選択: ★★★★

何のために生きるのか?他者のために……自分のためだけに生きる「自分であることを辞めて」


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以前、
あるひとからの質問。

> 管理人さんはとても哲学・思想に
> 精通されているようなので、”弔
> いの哲学”の分からないところの
> 簡単な解説をしていただけないで
> しょうか?

哲学や思想に精通しているなんて
とんでもない誤解です。
単なる初心者です。
色んな人のものを読んで勉強(モノマネ)しているだけです。
指導できるような知識も能力もからきしありません。
ボクのようなデレスケデンに訊くよりも、
インターネットがあるんだから
小泉本人に訊いて下さい。
メールで投書してみたらいかがでしょうか?

> 小泉氏は日本の中世の托鉢僧侶、
> もしくはストア派の哲学者のよう
> な印象の人ですねぇ。

ですねぇ
小泉自身、この頃の思想に関しては、
そんなふうな(ストイシズムに対して)自己批判とも取れるようなことを書いていたような……。

でいまは、生命(生殖)の哲学へ
らしい~???

よくは知らないんですが……

ボクが答えられるのは、せいぜい、
そんなデレスケデンな「ボクが読んだ小泉」ぐらいで
小泉の解説(腹話術)などでは決してないということを、
最初に、おことわりしておきます。

*****

p121実行すべきこと”

難しく考える必要はないと思います。
「無垢とは言えない」世俗的生活
ようするに日常生活
この頃の小泉は、
世俗的生活を脱して、精神的生活を享受すること
精神的生活に純化すること
が哲学的態度の「はじまり」として…いたような…???

p35
"生を衰弱"
ニーチェがらみで「も」、色々なことが言えると思うんですが
ようするに
国防思想とかも~いえるというハナシじゃないですか~?

p96の身代わり
小泉の、この問題に対する出発点は、死者に関する算術(数)を根こそぎにするところから出発してると思うんです。
要するに救命艇問題やロッタリー問題における算術的解決を拒否するわけです。
倫理学でよくいわれる「好ましい犠牲=身代わり」という思想を拒否するわけですねぇ。
「生の衰弱」の件を交えていうならば
「「誰かの生を衰弱(身代わり)させることによって」大多数が生かされている」という思想を拒否する。
もうこの時点で、彼の思想は「不経済」、「反近代」、「反民主主義」なんです。
経済(近代)性によってたつ思想や価値(近代的等質空間)を、根こそぎ(破砕)にしてしまいたいというわけでしょうねぇ~(個別性や単独性やらの関連)

とはいえ、小さいことをいえば
この著作に、強引な点があることは否めないです……
それでも要は、
誰かの生と誰かの死の
徹底的な断絶を知る。
そのためだけに捧げられたものなので
結局、そこだけが、争点だと思うんですが……

まぁ取り急ぎ……そんなところでしょうが~
弔いの哲学
小泉 義之 / 河出書房新社
スコア選択: ★★★★★
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「レヴィナスは「人間は「顔」によって無限の責任がある」っていったけど」
「顔を隠してチンポだけがむき出しになっている社会を想像してみると分かる」
「チンポが顔だと思われている社会。」
「たしかに無限の責任がありそうだ。」
「「レヴィナスは「顔は言語に他ならない」とも言ったけど、それは結局、……」
「「チンポは言語に他ならない」ということ。」
「そうそう」
a0009919_7452488.jpg「「チンポは言語に他ならない」→「存在するものはチンポだけである」→「チンポには無限の責任がある」という図式」
「たしかに個人の罪の責任は個人にあるけど、だけどやっぱ、ボクたちも、チンポと無関係ではいられない。
 責めは、ボクたちにもあるんよ
 この責めは無限なんだから」
「チンポである限り。
 チンポに一切の責めがあるんよ
 チンポである限り。
 チンポである限り、ちょっと誰しもユダヤ人なんよ」
「あ!すいません
 言い過ぎました。失言です。」
「結局、チンポ仲間同士、なかよくやろうよってことで」
「え~っ?そんなことで、ごまかされないって?」
「つっつっつまり
 チンポっていう「顔」ですよ……?」
「チンポっていう「無知のヴェール」」
「そこでは大小があるでしょうが、ある意味、チンポ人間としての原初状態が保たれている
 分かるぅ?」
「チンポは、世間に晒されている。」
「晒されているから、それだけで暴力的。」
「かけることもあれば、かけられることもある。」
「だから、人間はチンポによって無限の責任があるんですよ」
「日本では、むかしから、顔とチンポは、同じように言われてきた。」
「そのでかさは男の甲斐性だった」
「レヴィナスにおいても、そのムスコ(チンポ)によって、死にさえ勝利する。」
「レヴィナスはこう言っている『死に対する勝利とは、ムスコのうちに蘇生することである。死という断絶をムスコが呑み込む』(レヴィナス)」
「ほらねぇ?」
「チンポが呑み込むってのはスゴイ哲学だなぁ~」
「でもなんでオレがチンポだからって無限に責任があるのか?」
「つっつっつまり究極的には理屈はないんです。ハイ。」
「倫理ですから(^^)。」
「壮大なチンポ歓待の哲学です~バンザーイ」
「レヴじいさんが、倫理を考えると、そこしかないっていう
 あくでも、じいさんのオハナシです。」
「経済を無視してでも、チンポと仲良くなりましょう?
 その責任がみんなにある」
「反資本主義的(反経済的)なチンポ世間のために頑張るしかない(いつだって非対称的な関係(未出のヴェール)である)〈私〉です。」
「チンポ哲学~バンザーイ」

Note------------------------------------------------------
「レヴィナス なんのために生きるのか」小泉義之著(NHK出版):鉄鼠

なんのために生きるのか!:鉄鼠

チンポ哲学シリーズ

チンポ哲学Ⅲ  ……顔射主義

チンポ哲学Ⅱ …チンポ中心主義

チンポ哲学Ⅰ  ……巨砲大鑑主義(フロイトを越えないで)

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レヴィナス―何のために生きるのか
小泉 義之 / 日本放送出版協会
スコア選択: ★★★★

何のために生きるのか?他者のために……自分のためだけに生きる「自分であることを辞めて」


レヴィナスと愛の現象学
内田 樹 / せりか書房
スコア選択: ★★★




レヴィナス―移ろいゆくものへの視線
熊野 純彦 / 岩波書店
スコア選択: ★
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a0009919_185747.jpg南さんは、ブッダのコトバのなかでももっとも根本の問題は、
人間の欲望だと……という。
もちろん、欲望といっても
南さんがいうのは、故丸山圭三郎のように
欲求-欲望と身分け・言分けの二重文節を使って言い分けている……
問題にされるのは、もちろん、「言分け」である「欲望」の方だ。

レヴィナスは、ひとが欲しがってるのは
「他人の官能」だと言ったけど
なかなか良いことをいうなぁと思った。

南さんも、
それとおなじことを述べているけれども、しかし、ブッダの場合、それも結局、自我に対する欲望へとつながっているらしい。

世間のひとたちが、それを「共有」、「同感(同情)」っていう麗しいコトバで表現しても、
ようするにひとは
「〈他人の官能〉を支配したい」
結局、社会っていうのは……
それぞれが、それぞれの他人への支配の欲望を持って支配しあうっていうことになる。
ブッダにとっては、それは自我妄想に囚われた謬見であろう……

人々が「〈他人の官能〉を支配したい」とは言わないで、
「共有」、「同感(同情)」という言葉を使うのは、
他人に対する後ろめたい気持ちもがあるからだろうか?
どっちにしても、
ボクは、支配しあうっていうことが、謬見にしろ、妄想にしろ、
けっこう気持ちいい~部分があるんだろうと思う。
少なくとも、人々(ボクも含めて)は、少しは「良いことだ」と、そう思っているのではないか……
権力者やお金持ち、有名人たち…強い者(勝ち組)たちに、嫉妬にも似た批判が集まるのも、
なんらかの価値を共有しているからだろう。

まさに共有して安心したい気持ちが、かえって不安な気持ちを増幅させるということだろうか?
「安心しても安心できない」=不安(土屋賢二)
だいたい、「共有」主義も徹底すれば、共産主義になるだろうが……
「共有」が、いかに気持ちが良いからといっても、
オンナ・オトコの共有ならともかく、
妻・夫・子ども…父母…家族の共有と……なると
なかなか、そこまでできそうにない。

ひとは、共有といっても、自分の所有物の価値が、自分の所有として、そのまま認められるかぎりであるか?
もう自分にとっては、どうでもいいものにかぎって、寛容を発揮するか?
そのどちらかにすぎないのかもしれない。

ブッダは、それを人間の出会いであり、
「苦」として説明する。
ここでいう「他人(他者)」は、サルトルのいう「他人」に近いなぁ~

南直哉「日常生活の中の禅」
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