タグ:中島義道 ( 71 ) タグの人気記事

(ちなみに本書はまだ積読…2、3日内に読む予定)

人生に生きる価値はない (新潮文庫)

中島 義道/新潮社

undefined

他人に怒りをぶつけることもなく、怒りを浴びることを極端に恐れるワタシは
人生を不誠実に生きることを選ぶことによって…
他人に怒りをぶつけることも、また他人の怒りを浴びることもないだろう

人生に生きる価値がないなら、誠実に生きる価値もない。
人生に生きる価値がないことを文字通り身を持って世界に示していることになる…か…
まぁいいかぁ それはそれ これはこれ

[PR]
各社の世論調査で内閣支持率急落 「麻生降ろし」再燃か(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

郵政反対派だったといって機嫌損ねて嫌われて、
今度は賛成派に機嫌とって嫌われて…とか
あーだ、こーだいわれてるけど、要するに、単に嫌われてんだなぁ

世間では、他人を嫌う妥当な理由(りくつ)が色々あると思われてるけど、
ホントは単に嫌いになってしまっただけのこと。
徹頭徹尾、嫌いになってしまったあと、いろいろ理由が作られるだけ。
だから嫌う理由(りくつ)は在って無いようなもん。
ネクラで無口だから嫌いとも言い、軽薄でおしゃべりだから嫌いとも言う
上品ぶってるから嫌いとも言い、下品だから嫌いとも言う
独断専横で偉そうだから嫌いとも言い、優柔不断で弱々しい(リーダーシップがない)から嫌いとも言う
太っているから嫌いとも、痩せてるから嫌いともいう
要するに、ヒトはいったん嫌いになってしまうと、理屈なんかいくらでも作ってしまう……理屈と膏薬は何処へでもつく
嫌いになってしまえば、好きだった、あのしゃべり方、あの歩き方、あの口の利き方、あの上唇、あの短い指、…身体、学歴、家柄、……存在そのもの
がイヤになるだけのこと……
ヒトは、ヒトを嫌うという、この荒ぶる不合理な感情を正当化しようと、いろいろ理屈を作るんだけど、
もともと理屈じゃない。
世間には他人を嫌いになった理由を、もっともらしく理屈を交えて滔々と語るひとがいるけど、ワシには、ただ鬱陶しいだけ…だって徹頭徹尾嫌いだから嫌いって言ってるだけなんだもん…トートロジー

ちなみに
「嫌い」がそうなら、その逆も同じ…
こちらのほうは、わかりやすい……

すさまじきものにして見る人もなきブログ! : バッシング

中島義道「ひとを〈嫌う〉ということ」
[PR]
キムタク「怒ってません」“草なぎ騒動”を謝罪(スポーツニッポン) - Yahoo!ニュース



「抱かれて   磨かれて
 輝くことで また抱かれて…
 愛されて 優しくなれて
 その優しさ故に愛されて
 君と僕が そんなメビウスの輪の上を笑いながら……」
 mr.Children「風と星とメビウスの輪」

「……成功者はまさに成功し続けることをもって、ますます人間的に豊かになっていく。そして失敗者は失敗しつづけることをもって、ますます人間的に貧しくなってゆく……。
 成功者は、ちょうど幼少から愛され続けてきた人のように気持ちがおおらかでみずからの才能をよく知っており、魅力あふれた人が多い。みずからの運命の女神の寵児であることを知ってるがゆえに、ますますこだわりのない自由人になってゆく。だが、失敗者は、ちょうど愛されないで育った人のように気持ちがさもしくみずからの才能を直視せず、魅力に欠ける人が多い。みずから運命の女神に見放されていることを知っているがゆえに、ますますひねくれた不自由を背負ってゆく。
 こうして、成功者はますます成功する要素をそのうちに育ててゆくのに対して、失敗者はますます不成功の要素をみずからのうちに沈殿させてゆく……」(80-1頁)

「……勝者は傲慢な態度に出ることもない。なぜなら、傲慢にしなくとも自然に自分は他人によって評価されているという実感を得ることができるのだから。そして、こういう人がその優位な地位にもかかわらず腰が低いと、「謙虚だ」とさらに褒められることになる。
 だが、不遇な立場にいるものが泰然としていると「なまいきだ」ということになる。愚痴を繰り返すと「うるさい」ということになる。ちょうど、美人が「私、自分のこと綺麗って思ったことないの」と言えばますます好かれるのに、不美人が「私、自分のことブスって思ったことないの」と言えばますます嫌われるように。世間の人は、その不遇がいかに偶然の結果であろうと、それを切り捨てるのである。」(90頁)
中島義道「働くことがイヤな人のための本」

ここにA子さんとB子さんという対照的な二人がいる……
「A子さんは都会的な美人でJ大学の国際部に学ぶお嬢さんである。父親は同じJ大学の文学部教授であり、兄はT大学大学院で美学を専攻している。家は東京山の手の戦前からの地味な住宅地にある。彼女は自分を特別恵まれていると思わず、幼い頃から家庭でも学校でも自然に愛情と尊敬の入り混じった扱いを受け、それに自然に慣れている。もちろん、自分が人並み以上の美人であること、人並み以上の知性の持ち主であること知らないことはないが、それは彼女にとってとりたてて問題はなく、決して高ぶらず卑下もせず、きわめて自然に自分を肯定している。
 そして、彼女は他人の不幸をわがことのように哀しみ、他人の幸福をわがことのように喜ぶ天性のようなものを具えており、それがとても自然であるので、誰でも嬉しいとき悲しいとき彼女に報告したくなってしまう。」(pp.74)それに引き替え、「B子さんにはA子さんに与えられたものがすべて与えられていない。彼女はくらい地味な顔つきでとりたてて醜くはないが、すべての造作が小さく細く寒々とした印象を与える。両親は彼女が小学生のとき離婚し、もの心ついてから耳をふさぎたくなるような醜い男女の言い争いを見てきた。これまでどんなに親を恨み、温かい家庭を羨んできたことか。暗くかじかんだ少女時代、男からも女からも好かれたという記憶がない。一年浪人し、やっとの思いでJ大学に入り、思いもかけずA子さんと親しくなり、何とA子さんを妬ましく思ったことか。そして、なんと自分のヒリヒリした僻みと妬みと羨望を醜く思ったことか。B子さんは声を大にしてA子さんに言いたいのだ。
「私もあなたのように美しく恵まれた境遇に生まれていたとしたら、あなたのように他人に存分に親切にできたでしょう。でも、この私があなたを羨まないそぶりをするだけでもう全身が崩れるほどに疲れ果ててしまう。私はそんな気持ちを知らないあなたのはれやかな笑顔や軽やかな身のこなしが憎い!」
 そして、あるときB子さんが何かの弾みでこうした内心の叫びをA子さんにぶつけたとしよう。A子さんは一瞬顔をこわばらせ、それから涙を流してB子さんをじっと見つめる。
 あるいは「あなたがそんなことを考えているなんて知らなかった」と小刻みに肩を振って両手で顔を覆う。あるいは「私はあなたのほうがずっと素晴らしいと思っているのに」とB子さんを温かくくるむように見つめる……。
 ああ、いかに対応してもA子さんは負けないのである。」(pp.76)
「「そんな筈はない」A子さんを支持するような人たちは、そんなA子さんでも「想像力を働かせることによって、実際に自分が不幸にならなくとも「あたかも不幸になったかのような」態度で他人に接することはできるのではないか。自分が美しくなかったとしたら、裕福でなかったとしたら、望む大学に入れなかったとしたら………と次々に想像してゆけば、A子さんは当然B子さんの気持ちもわかるはずではないか、と。
 冗談を言ってはいけない。およそ幸福な人に不幸な人の気持ちが分かるのは、この世で最も難しいことなのである。そのうえ、「気持ちがわかる」こととその不幸を生きることとは厳然と異なる。失明した人の「気持ちがわかる」ことと、失明して生きつづけることとは天と地ほど違うのである。」(p.78)
 中島義道「カントの人間学」

まぁ要するに
可能性のあるひとはより開かれ、ない人はより塞がれる
可能性も無限大…不可能性も無限大
っていうシンプルなもんだったんだ……とか


[PR]
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 私的言語の可能性
「酸っぱさの例でいえば、梅干しや夏みかんを食べた時に酸っぱそうな顔をするとき感じているとされるものを、酸っぱさの「第一次内包」と呼びます。何も酸っぱいものを食べていなくても、なぜだか酸っぱく感じられることが可能になった段階の酸っぱさの間隔そのものを、酸っぱさの「第0次内包」と呼びます」永井(13頁)

明日も仕事だと考えると、
憂鬱な気分になる……とか…

不思議なことに
「他人の痛み」…「彼女の痛み」……という言葉を習得(理解)する過程で
中島が言うような)消されるべき「彼女(他人)の痛み」は、ホントは一度として登場しない(必要でない?)。
よく「他人の哀しみを哀しむことはできない」なんていうけど…
「私にとってだけの痛み」を放棄することは、
原理的にありえないのでは……?
かどうかは読者諸賢の想像にオマケする…

永井均「なぜ意識は実在しないのか」
[PR]
「われわれが言語を習得するとは、すなわち自分と他人との差異性を消去する世界(ラカンの言う「象徴界」)に生きることなのです。言語を学んでしまったとき、私は私固有の体験ですら「大文字の他者」である公共の言語を使って表現するしかないのであり、これを逆に言えば、私の体験だけを記述しうるような「私的言語」はありえないのです。」中島(70頁)

「われわれが言語を習得したとたんに、言葉自身が有する同一性への要求(強制)を確認しておくと、私が「痛い」という言葉を習得するとは、多様な刺激に対して同一の「痛い」という言葉を適用することであり(「痛い」という言葉を学んだものはごく自然に「心の痛み」にまで至る)、同時に「私にとってだけの痛み」を放棄することであり、言いかえれば、自分の痛みを他人の痛みと同じ「痛い」という言葉で表現できるものとして理解することであり、この意味で自分と他人との差異性を消し去ることを学ぶことなのです。」中島(97頁)
言語と意識(中島と永井の場合)

たしかに、そうなのだが、
習得することぐらいでホントに差異性を消し去ってるのかなぁ~???
もっと単純に、彼女の「痛み」は……つねに
私の「痛み」……じゃないの?
つまり、みんな
気づかないうちに、
「私的言語」だけを語っている……
可能性がある……??(笑)
少なくとも、ワシは…( ^∀^)ゲラゲラ

中島義道「「死」を哲学する」
[PR]
・言語

「なぜそれ自体としてあるもの」が「無」という名の無と重なり合うのか? ここに、他者のあり方の秘密のすべてが隠されています。しかも、その秘密は存在論的秘密(?)ではなく、むしろ純粋に言葉の秘密なのです。私が言語を学ぶとは、自分と他者との溝を越えること、その無という溝を無視することだと言うことを思い起こしてください。サルトルの言うように、無は人間存在の「うち」に故郷をもつのではなく、無は人間存在が他者との差異性を抹消して言語を学ぶところに故郷をもつのです。いったん言語を習得してしまえば、こうした差異性は見えなくなる。しかし、じつは至るところで口を開けている。他人の苦悩や他人の死に遭遇することによって、私はその溝に気づき、足を止めるのですが、いざそれを語ろうと試みるや、どうしても語れない。」中島(135頁)

「われわれが言語を習得するとは、すなわち自分と他人との差異性を消去する世界(ラカンの言う「象徴界」)に生きることなのです。言語を学んでしまったとき、私は私固有の体験ですら「大文字の他者」である公共の言語を使って表現するしかないのであり、これを逆に言えば、私の体験だけを記述しうるような「私的言語」はありえないのです。
 だから、類推説はすべて逆転されなければならない。言語習得以前のナマの体験などありません。むしろ、われわれは言語を習得することによってはじめて、それによっては表現できないナマの体験があることに気づくのです。言語を習得しているわれわれは、そのかぎり自他の区別のない言語世界(象徴界)に生きている。そして、そうした自他の区別のない世界に生きているただなかで、各人は言語以前の自分固有の体験を発見し、同時にその対極に他人固有の体験を発見するのです。
 例えば、「食べる」という記述の場合、私は自分が食べる場合、そのつど異なった食べ方であるにもかかわらず、ヴィトゲンシュタインの言葉を使えば)「家族的類似性」をもつ行為として同じ「食べる」という言葉を使いますが、他人が食べる場合でも自分が食べる場合と「家族的類似性」をもつ行為として、ごく自然に同じ「食べる」という言葉を使うことができるのです。
 言いかえれば、もしわれわれが言語を学ばなければ、誰も(動物のように、幼児のように)自分固有の体験を発見できず、同時に、他人固有の体験も発見できないにちがいない。」中島(70頁)

「…言葉の習得とともにすでに自分と他人との差異性を消去する機能が作動してしまう。自分と他人とが「無」という名の同一の何かを体験していると思い込んでしまうのです。
……
……われわれが言語を習得したとたんに、言葉自身が有する同一性への要求(強制)を確認しておくと、私が「痛い」という言葉を習得するとは、多様な刺激に対して同一の「痛い」という言葉を適用することであり(「痛い」という言葉を学んだものはごく自然に「心の痛み」にまで至る)、同時に「私にとってだけの痛み」を放棄することであり、言いかえれば、自分の痛みを他人の痛みと同じ「痛い」という言葉で表現できるものとして理解することであり、この意味で自分と他人との差異性を消し去ることを学ぶことなのです。そして、まさにこうした強引な他人の痛みへの越境を遂行することによって、逆方向において私はこうした同一性には解消されない自分固有の痛みを知るようになる。自分の痛みと他人の痛みとのあいだに開かれる絶対的差異性を自覚するようになる。何しろ眼前の他人がどんなに「痛い!」と叫んでいても、その「痛い」という言葉の意味を理解しながら、私はまったく痛くないのですから。しかし、このことをあらためて言語によって表現しようとしても、それができないのを自覚するのです。「ぼくのこの固有の痛み」という同じ言葉をもって表現できる同一な何かになってしまう。
…言語を持って語ろうとするかぎり、私は私と他人との共通の磁場に引き寄せられてしまい、自分固有の領域を確保することはできなくなるのです。
 しかも、ここに重要なことは、私は自分の体験ではなく、他人の体験を基準にしてそれぞれの言葉を学ぶということです。ラカン的に言えば、私は鏡に映った頭部のある像を通じて、すなわち他人の視線を通じて、私の身体の同一性を学ぶのです。……
…私は他人に対しても私と同様に他人の身体との絶対的差異性を越境して、自分の身体を「私の身体」と語ることを要求する。そこには、恐ろしいほどの差異性が口を開けているのに、あたかもそれが見えないかのように同一の「身体」という言葉を適用する。このことに躓かない者だけが言語を習得することができるのです。」中島(95頁)
「言葉を習得するとは、第一に私の観点からでなく、他者の視点から見ること、記述することを学ぶこと、すなわち私の視点を無理やり(不特定の)他人の視点に合わせていくことです。」中島(97頁)


「神が私において想起する」中島(105頁)

すさまじきものにして見る人もなきブログ! : ポモとイッショ!
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : Dは、
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 哲学を語る〈私〉
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : ディアルガVSパルキアVSダークライ
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 他者とは誰か?
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 「みんな一緒」原理 2
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 引用……自分の言葉で書け!

「ウィトゲンシュタインという哲学者は「私的言語」というものが可能か否かを論じて、不可能であるという結論を出したのですが、あの議論ははっきりと誤りで、私的言語が可能でなければ言語は不可能です。私的言語の可能性が言語にとって不可欠なものに転じることによって言語は成立するのですが、ただそうであるということを通常の公的言語で語ろうとすると、そのこと自体は公的言語の意味の働き方に乗らなければ語れないので、言わんとすることが言えない──言わんとしていることとは別の「正しい」ことが言われてしまう──ということが起こるのです。」永井(36頁)

「私が「私には他の誰にもない何かがある。私の私的経験には最も重要な意味で隣人というものがいない。それどころか、私だけ表裏が逆になっている」と言ったとしましょう。今度の相手はこう答えます。「その通りだ! 確かに、私には他の誰にもない何かがある。私の私的経験には最も重要な意味で隣人というものがいない。それどころか、私だけ表裏が逆になっている!」と。わたしはこう応答するでしょう。「違います。他の誰にもない何かがあると言わざるをえないのは私です。その私的経験に最も重要な意味で隣人というものがいないのは私です。表裏が逆なのは私です。あなたではありません」。私は、そもそも二人が同じことを言っているということ自体を認めないのです。
………問題の本質は、この「私」のような応答の見地に立つかぎり、およそ言語が成立しない、ということにあるのです。しかも、その言語を成立させない見地にも、十分な合理性があるのです。世界は事実そのようにできているからです。……出発点は、「世界は、事実として、なぜか、私の目からしか見えない」でもよければ、「身体を殴られると本当に痛いのは私の身体だけだ」でもいいし、「自由に動かせる体はこれだけだ」でもいいのです。これは、疑う余地のない、端的な事実です。あたりまえでしょう? だって、その否認こそが最初の発言の趣旨だったわけですから。」永井(119頁)

「言語とは、世界を人称的かつ時制的に把握する力なんですね。そのことによって、客観的世界というものがはじめて成立する。」永井(109頁)


・意識

「意識は「私」をほかのもろもろのものと同じく世界の内に構成するのであり、言い換えれば「私」は意識の活動にはじめから伴っているものではなく、意識によって構成されるものなのです。」中島(111頁)


「脳が意識を生みだしているにしても、その脳をどんなによく観察しても、その脳がやっている仕事は決して見えません。世の中の他のあらゆるものは、それをよくよく観察すれば、それが宿しているものや、それがやっている仕事が次第に明らかになってくるのに、ここにはそのような普通のつながりがまったくないのです。胃のやっている仕事は胃をよく観察すればわかるのに、脳がしている仕事は、そういうやり方では決してわかりません。脳がしている仕事を見るには、脳を観察しないで、脳自身に注意を向けないで、むしろ世界を見なければならない。」永井(7頁)

「感じられる「痛み」や「酸っぱさ」や「不安」や「憂鬱」は、感覚的・実質的要素こそが本質的な役割を演じており、見られる「家」や「空」や「酸っぱい顔」や「他人の脳」の場合は、逆に知覚的・機能的要素が本質的であって、感覚的・実質的要素は(もちろん存在するでしょうけど)本質的な役割を演じていない…」永井(28頁)

「意識とは、言語を初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られるとうのものの名でもあるのです。」永井(40頁)


とにかく意識は、石ころや木片のように実在するのではない。
それこそがほんとうの問題……
逆転の逆転の逆転の…走り出す…累進構造…

「一般的なゾンビの想定が可能になることによって、一般的な「意識」もまた成立します。」永井(84頁)


すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 人工無脳!インチキ脳科学・クオリアファンを逮捕しちゃうぞ!

永井均「なぜ意識は実在しないのか」

中島義道「「死」を哲学する」
[PR]
今週の本棚・励まされ展望が開ける『イマジン9 想像してごらん 戦争のない世界を。』

平和ボケのワシからすると、そもそも戦争のある世界を想像でけへん~
たしかに争いや競争やったら、日本にも日常茶飯事「吐」いて捨てるほどあるけど……。
それでも、人間がなんかようわからん妄想のために国家ゴッコして武器持って殺し合ってるのって、
想像すらでけへんなぁ~
こういうのも相手に対する想像力の欠如っていうのかなぁ??……。
想像力の欠如が戦争(殺し合い)につながってるのなら、
平和ボケも戦争(殺し合い)に多いに加担してるのかも……??。
誤解せんといてほしいのは、ワシのような「想像力の欠如者」は、想像しないわけじゃない。
想像しても、十分に想像できない、十分に理解の足りない人間である。
いわゆる「バカ」と言ってもいい。
だから、そういうふうに理解の足りないおつむの弱い人間は、じぶんの「バカ」を覆い隠すために、
伝統的に「みんな一緒(同じ)」という、ちっぽけな百姓ブラクのような幻想(アイデンティティ)にすがって、
それを脅かす理解できない相手を排除、排斥という形で処理して
天才バカボン的に「これでいいのだ!」としてきたわけやけど……。
いまでは、百姓ブラクも近代化して、
理解の足りないワシのようなバカをわんさか集めて
システマティティックに国家規模、国際規模、社会規模の排除や排斥に拡大して
「これでいいのだ!」
ってやってるだけって見方もできる……
「だから、バカじゃいかん」
「想像力を…」
「想像してごらん」とか
なるのかもしれないけれど……
はっきりいって、
生まれながらのバカには通じないよなぁ(^Д^)
っていうか、そのバカの生まれながらの足らない想像力こそが問題だから
どうしようもない
だから、ワシが思うに、
あんなことになるんなら、
ワシのようななんの能力もないバカは、
むしろ、じぶんのこと(自己利益(快感))以外の世の中にまつわる妄想を捨て、
徹底的にジコチューでものを考えた方が良いような気が……。
それが一番平和につながるんとちゃうかな~??。
平和のために、社会についての妄想をすべて捨て去る……
つまり、相手に対する想像(妄想)を一切やめる。
相手に対する想像を一切やめれば、
国家のために死のうというひとも居なくなろうし、
国家規模の敵対の想像も(防衛)思想もなくなる。
すくなくとも国家規模の「戦争」は避けられるんとちゃうかなぁ
ていうかそういう考えもあっていい

想像するのをやめてごらん!
想像するのをやめてごらん!
想像するのをやめてごらん!
………
ほら、「戦争」のない世界が…
でも
「想像するのをやめてごらん」ってのは、
人間にとって、結局は、「無になってごらん」ということだから
大半のひとは
生きながらホトケにはなれんから
「社会」というか「世界」というか、「人間」というか、そういう妄想にすがって、そのなかで楽しく生きるしかないか?
むしろ、なぜだか知らんけど会社(ゴッコ)や国家(ゴッコ)みたいなもんに命をはるひとがいてくれるから、
ワシみたいなもんが気楽に楽しく暮らせるちゅうわけやなぁ
いかん!いかん!それがいかんのや!
想像するのをやめてごらん!
想像するのをやめてごらん!
想像するのをやめてごらん!
………(´∀)ゲラ(´∀`)ゲラ(∀`)

「世の「もののわかった」人は「相手の気持ちを考えろよ」と軽薄にものたまいますが……私が気に入らないのは、こう語る人はみずからに口に出した「言葉」をよく反省していないこと。相手の気持ちを考えることは、じつはたいへん過酷なことです。いじめられる者は、相手の気持ちを考えるのならいじめる者の「楽しさ」も考えねばならない。暴走族に睡眠を妨害される者は相手の気持ちを考えるのなら、暴走族の「愉快さ」も考えねばならない。わが子が誘拐されて殺害された者、妻を目の前で強姦されたあげく殺された者が、相手の気持ちを「考える」とはどういうことか?
 ただただ憎悪と後悔で充たされ、もはや考えることもできないはず。そこを無理に考えようとすれば、反吐が出てきてまともな精神状態を保てないはず。相手の気持ちを考えるとは、これほど過酷な要求なのです。」(13-5頁)中島義道「私の嫌いな10の言葉」

「想像力を働かせることによって、実際に自分が不幸にならなくとも「あたかも不幸になったかのような」態度で他人に接することはできるのではないか。自分が美しくなかったとしたら、裕福でなかったとしたら、望む大学に入れなかったとしたら………と次々に想像してゆけば、A子さんは当然B子さんの気持ちもわかるはずではないか、と。
 冗談を言ってはいけない。およそ幸福な人に不幸な人の気持ちが分かるのは、この世で最も難しいことなのである。そのうえ、「気持ちがわかる」こととその不幸を生きることとは厳然と異なる。失明した人の「気持ちがわかる」ことと、失明して生きつづけることとは天と地ほど違うのである。」(78頁)中島義道「カントの人間学」


「戦争を回避する究極の方法」
[PR]
中島義道の「ひとを〈嫌う〉ということ」という本を読んだ。
中島さんによると「ひとを〈嫌う〉ということ」は
理不尽で、不条理なものである。
「太っているから嫌いとも、痩せているから嫌いとも言い、卑屈だから嫌いとも、尊大だから嫌いとも言い、貧乏くさいから嫌いとも、成り金的だから嫌いとも言う……」(p.68)
たしかに。
理屈なんかあってない。
なんでも嫌いの原因、理由になりうる。
嫌いになってしまえば、あのしゃべり方、あの歩き方、あの口の利き方、あの上唇、あの短い指、…身体、学歴、家柄、……存在そのもの
嫌いになった理由や原因が縷々述べられるが、
すべての原因と理由は、「嫌いになった」……その一事に尽きる…と中島は言う。
嫌いになってしまってから、さももっともらしい原因や合理的な理由が作られ続けるだけのこと。
〈嫌い〉だから〈嫌い〉。
それだけ。
中島は、これが
〈好き〉、つまり〈好き〉だから〈好き〉ということだったら
誰も文句を言わないのに、
人を〈嫌う〉ときだけ、ことさら自己正当化のような理由をみんなが紡ぎ出したがるのはなぜか?論じている。
そういえば、
バッシングも、誰か特定の人物をみんなして〈嫌う〉。
(時には非人道的とも思えるような)批難と一緒に、かならずと言っていいほど、道徳主義的理由…(秩序や礼節、社会、国家、品格、本人……のためという理屈)が並べられる(「正しいことのために私はやってるんだ」という論理…しかも、正しいことのためには、何をやっても許されると思ってるところがある…)。
先にも言ったように、中島によれば、ひとを〈好き〉ということも、〈嫌う〉ということも、まったく理不尽(自分の身勝手)なことである。
ただし、人を〈嫌う〉ということは、〈好き〉と違って「不快な感情」である。〈嫌う〉理由が述べられる時、人には「その不快感から解放されたい。こういう企みがある」(p.67)と指摘する。
「相手が好きであることに不安がなければ、他人の承認はどうでも良くなる。ただの呟きであり、ただ言いたいから言っているだけなのです。…
…しかし、〈嫌い〉の場合は「よくわかる」という態度ではいけない。正面から同意してもらいたい。立ち入って、親身になって同意してもらいたいのです。」(p.71)
「いつでも嫌う人はほかの人にその賛同を求めようとする。わかってもらおうとする。」(p.69)

要するに、自分がひとを〈嫌う〉ときの不快な罪責感(身勝手さ)を、「ほかの人にその賛同を求め、わかってもらう」ことで「自分は正しかったのだと思い、自責の念から解放される」(p.69)とでも思い込もうとしているかのようである(バッシングをやってるひとが道徳主義的理屈を提示しているにもかかわらず、まったく道徳的に見えないのもそのせいかもしれない)。
なあるほど、
そうなふうに考えれば、
あんなネット憲兵隊のようなバッシングがなんで続くのか……
なんとなくわかったような気もしないではない……
が…
うーん、しかし、どうみても、あの執拗さは、それだけじゃないような…
…気もする。
中島は、言わなかったが、
嫌いになったひとを批判、否定、バッシングすることは、それ自体楽しく嬉しく、気持ちいいからじゃないだろうか?
それがきっかけとなった言葉や行動は、すでにどうでも良くて
人を嫌うこと、バッシング自体が、楽しい(こういう人たちにとってみれば、たとえば亀田バッシングなら、ボクシングなんか見てるより、バッシングの方がずっーと楽しい。)
それはたぶんイジメが楽しいのと同質であるような気がする。

それにしても
ふだん電車の中や街中で見かける若者は、
道徳の欠片もないような者を見つけることも少なくないのに(大人にはいないということではない)、
(ていうか、むしろ、若者って、ファッションでも、なんでも、そういったものからずれるような格好(嗜好)をしたがるものだという気がする…)
ネット上の炎上バッシングとなると、なぜか道徳主義的批判(品格路線的)を展開する…これは不思議というより異様な光景である。

「同じ若者がやってない」というかもしれないが、
どう考えても、若者の大多数が、ふだんから、他人に教訓を垂れるような道徳主義者には見えない。
それならば、
「ネット上で道徳的にバッシングしている大多数は若者ではない」かもしれない。
この点は、大いにありうる。
オッサン、オバハンの道徳主義的繰り言。
道徳主義は、一種のサディズム(倒錯)であり、
習慣化した快楽だから……
悪罵を投げつけ、道徳主義的言辞を吐く
バッシングは楽しいのである。
その点は、オッサン、オバハン予備軍の若者にとってもおなじかもしれない

彼らにとって
「バッシングが面白いからやってます」
というのはタブーになる…
じぶんたちのうちに秘めた楽しさ、嬉しさ、面白さ、快楽が増せば増すほどそれを隠蔽するための……
誇大な(社会のため、その人のため、品がない、バカ…)道徳主義的批難(言辞)が必要になる……

かどうかは、読者諸賢の想像にオマケ(´∀)ゲラ(´∀`)ゲラ(∀`)


[PR]
「あまり一般には知られていない職種の人を訪ね、レポーター役のタレントやアナウンサーがその技を挑戦してみる、といった類の番組がままある。その種の番組で、決まり文句と化しているのが、「やってみたら意外と難しいんですねえ!」というフレーズである。
 私はこのフレーズが嫌いだ。
……
「おまえ今までやったことないんやろうがあっ!?やったこともないくせに、なんで「そんなに難しいわけがない」なんて決めつけるんや!?
 とまあ、こんな気分になってしまい、腹が立ってくるのである。……
「自分がやったことがないこと」=「自分にとって未知なこと」、こういったことに関しては、「漠然とした不安」を抱くべきである。にもかかわらず、こういった感情が欠落したまま成人してしまった世代がいる。」荷宮(137-8頁)
どんな世界(仕事)でも
他人がやってるのをただ見るのと、
自分がやるのとでは、かなり大きな差(ギャップ)がある。
たこ焼きだって、焼鳥だって、そんなに簡単には焼けない。
荷宮がこのフレーズに腹が立っているのは、どこか「ワシはちょっと見ただけで、なんでも分かる」というような、ひそかな傲慢(認識主義)が混入しているところが許せないのでないか?
もちろん、だからといって「やれば、なんでもわかる」というものではないだろう。
ただ、あたまのなかで知識(認識)で分かることと、やってみて「身体(感覚)」で分かることには、絶対的な差がある?とワシには思える。

なかでもスポーツは、頭(想像)と身体(現実)のギャップが大きい世界である…
特に、プロ化されているものは、
見た目の華やかさと違い、それだけ大きなギャップがある。
やったことがない者は見た目で勝手な幻想を持ちやすい。
さらに多くのスポーツ記事や番組が、そういったファンタジーを増幅させる。
おおくのひとは、そんな甘っちょろい幻想(ファンタジー)をもって入ってくる(かくいうワシもそのひとりだったが(笑))。
しかし、ちょっとやってみれば、そんな甘い幻想は、すぐにずたずたに叩きのめされ、
そんなもんがなんの役にも立たないことを思い知らされる。
見た目と実際自分がやってみるのとでは、天と地ほどの差がある
つらい、苦しい、恐い、…もうやめたい…の連続
(ワシのような)大半の凡人は、この絶対的なギャップに挫折する(ついて行けない)。
そこから這い上がれるやつは、ほんの一握りの…ひとたち…プロレヴェル
いわば、ホンモノのイかれたヤツラ…super freaks!…の世界

それでも、見ているだけもの(認識主義者)は、それをあたまのなか(知識)だけで分かろうとする…分かった気になろうとする…のだが…??

青山兄:シーズン2勝目The Official MotoGP Website
わろた!わろた!
カリオ、青山兄のために(笑)
旧日本軍顔負けの特攻攻撃!人間魚雷「回天」!
明らかなオーバースピード&突っ込みすぎ!(あの絵は何度見ても笑える)
ヒットされたドビかわいそうだったけど(笑)

去年のペドロサ、思い出した。
あれはチームメイトで、それもニッキー、チャンピオン争いしてたから、シャレにならんかったなぁ~
チャンピオン争いといえば原田に突っ込んだカピとか…あれも笑うに笑えんかったが
レジェンド的名シーン…
なんかおもしろかった…
「「皆『スポーツマンシップに欠けてる』って言うけど、(ボクシングには)ないと思う。キレイごと言っているだけ。(選手は)相手を殺すつもりでリングに上がっていると思う」」
ナイナイ岡村、亀田を擁護「マスコミが追い詰めてる・・・」 ニュース-ORICON STYLE-
「相手を殺すつもりでリングに上がっている」
そうでなかったら…なにがおもろいんやあんなもん(笑)
デイリースポーツonline/悪うない!赤井&雅が“亀田擁護”/芸能・社会

MotoGP 速報ニュースサイト インテリマーク - アルベルト・プーチ「最近では……競争のレベルは非常に過酷なものになりました。どのようなスポーツでも、まるで本当に戦争をしているような状況です。冗談でもなんでもなく、自分の目標を目指して真剣に戦うのですから、この世界は誰にとっても非常に高いレベルの争いなんです」
「本当に戦争をしている」
Just do it!
「想像力を働かせることによって、実際に自分が不幸にならなくとも「あたかも不幸になったかのような」態度で他人に接することはできるのではないか。自分が美しくなかったとしたら、裕福でなかったとしたら、望む大学に入れなかったとしたら………と次々に想像してゆけば、A子さんは当然B子さんの気持ちもわかるはずではないか、と。
 冗談を言ってはいけない。およそ幸福な人に不幸な人の気持ちが分かるのは、この世で最も難しいことなのである。そのうえ、「気持ちがわかる」こととその不幸を生きることとは厳然と異なる。失明した人の「気持ちがわかる」ことと、失明して生きつづけることとは天と地ほど違うのである。」(78頁)中島義道「カントの人間学」


荷宮和子「若者はなぜ怒らなくなったのか」
中島義道「カントの人間学」
三島由紀夫「行動学入門」

「行動者」というタームからいくと
野村秋介「群青」とか
右翼・行動の論理
あと
宮崎学「突破者(上)」
を読んでみるのもいい…
[PR]
「この本が出版される少し前頃だと思うが、私は見知らぬ人から一本の電話を受け、ある会への出席を誘われた。私に電話をかけてきたのは中島義道、誘われた会は「大森荘蔵先生を囲む会」であった。そこで私は初めて、中島義道に会い、大森荘蔵に会い、野矢茂樹や飯田隆や奥雅博といった哲学者たちに会った。……
……私は当初、適当に議論をした後で、結局は偉い大先生の御高説をみんなで拝聴する会だと思っていたが、それはとんだ見当違いであった。
 大体は大森荘蔵の最新作について議論をすることが多いのだが、出席者の多くは大森さんの論考のあら探しをして大森さんを攻撃し、……これでは……「大森先生をいじめる会」ではないかと私は思ったものだ。時に大森さんはやり込められ、しばし考え込み、「あなたのおっしゃることのほうが正しいかも知れません」などと言った。……
 この会を仕切っていたのが中島義道だったのだ。人生を半分降りる以前の中島さんはなかなかこまめで、二次会の手配なんかもてきぱきやっていたような気がする。私は、横浜の海の見える公園の一角にあった文学館(?)での会の後の二次会の写真を持っている。たぶん中島義道にもらったのだ。バーコードの大森荘蔵の後頭部を前景に、野矢茂樹や田島正樹などの会の面々と一緒に私も写っている。
 ……「ウィーン愛憎」に一貫して流れるのは、真面目さ、律儀さ、論理性への過度の嗜好、非妥協性などである。こういう傾向をもっている人は少なくない。学者と名のつくほどの人は多少ともそうであると言ってよい。しかし、たいていの場合、それは本や論文の中だけの話である。「大森先生を囲む会」の人々だって研究会の席上ではみんな中島義道と同じであるが、一たび二次会に移れば論理性などなくなってしまう。ひとり中島義道だけが研究会と同じスタンスなのであった。
 ……〔そういう意味で、その頃までの〕中島さんは人生を一瞬たりとも降りようとしない人ではないか……
 ……
 社会的に偉くなった人というのは、本当のところは人生を半分降りた人だと私は思う。
 中島義道が五十歳になり、「人生を〈半分〉降りる」と言い出したのは、中島さんも人並みに疲れたからであろう。中島さんはご存じないかもしれないが、しかし、ほとんどの日本人はものごころついた時から、人生を半分降りているのである。それはむしろ日本人の定義といってよい。そして、多くの日本人は人生を半分降りたにもかかわらず、社会的にも偉くなれなかっただけなのだ。」池田清彦(中島義道「ウィーン愛憎」解説」注:〔〕内はワシ)
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 「もう疲れました。」



中島義道「ウィーン愛憎」

[PR]