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蓮舫さんの場合「鬼の首でも取ったように他人の失敗を叩く」風儀を助長するような政治家だったので、
このようなことになったのかもしれませんねぇ。
ま、蓮舫さんのことはともかく、やっぱり内田さんがおっしゃるように
「失敗を認めない…失敗を叩く」風儀が蔓延してる社会はたしかによくないとわたしも思います。
よく日本社会は、一度落ちこぼれると、二度と這い上がれない社会だと言われます。
大手企業(採用状況)を見ても、そういう状況の一端を伺い知れます。
ただ、こういう状況になったのは、急速なドラスティックな変化でなったというよりも、もっと長い年月をかけてそうなってきたという気がします。
かつて堺屋太一さんが古来日本は「物不足-人余り文化」だったとかおっしゃっておられました。
人間過剰、人間使い捨て社会
武士の社会もせんじ詰めれば一種のドレイ文化だというひとがいます。
人間も物件のように扱う(カントは怒るでしょうが)…
物件のように扱われても、常に主人に忠と義で尽くすのが日本人=ドレイの務め…
一つの伝統文化と言って良いかもしれません。
むかしは、それでだれも疑問を持つ人がいなかった。
しかしいまは物は過剰だし、情報化社会…
どうしても欧米と比較してしまう。
向こうはキリスト教、みんな原罪で赦しの文化ですネェ
ごくざっぱくいうと
愛の文化VS忠義文化

まったく根本から人間観が違う…

まったく根本から人間観が違うのに
まったく根本からちがう人間・人生観で作られた経済制度や社会制度で、
日本人は、毎日のしのぎをしているわけですねぇ…
そりゃぁまぁいろんな齟齬が出ると思います…

たとえば自由主義(リベラリズム)…我が国の諸制度は米国のそれから強い影響を受けていることは確かです…これは失敗を認める制度です。
自由競争によって格差はできるけど全体の(経済の)パイが大きくなって、
結果的にみんなにとっていいんだ…
それによる格差も徴税によって再分配して、国民(負け組)の再競争を促し、さらに発展…
だからみんな失敗を恐れずにじゃんじゃんチャレンジして…競争しよう…
ところが日本では、なかなかそういうふうにはならない…
むしろ、この制度のせいで(再分配で(世代間他)格差が広がるという)…事態まで起こってしまっている
これはひとつは日本人がリベラリズムの大きな柱である「公正な競争」より、安定的な人間の関係性のほうを重視するからですねぇ…
人間観 人生観の違いから…うまくいかないんです
安定的な関係だから煮詰まってしまうんですネェ
ま 自縄自縛なんですが…ここら辺は差別心理と似てますねぇ
だからちょっとした失敗でも叩いて憂さを晴らしたくなる
のかもしれません…

日本の自生的な人間観、人生観をかなぐり捨てでも、
あちらの諸制度に適合的な人間観・人生観を持つか…
それとも日本独自のシステムを構築するか…
もっと他のオルトがあるか
ワシのような凡庸な老人にはわかりません…

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鉄鼠 : 「自分から1ミリも出ようとしないバカ」

「メディアはメディア自身の没落ついては決して報道しない。
私たちはメディアの没落の進捗をメディアが「何を報道しないのか」を吟味することを通じて推察するしかない。」
”納豆疑獄とメディアの凋落 ”(内田樹の研究室)
テレビ局は、他局の不祥事については、しつこく取り上げるけど、
身内のことになると、あんまり報道しない。
要するに、自分にとって不都合なことは、報道しない。
ワシも自分にとって不都合なことは無視するもんなぁ…

内田の論理を、ちょっと言い換えると
「自分のこと(没落)は、「自分が何を考えないか」(自分にとって不都合なこと)を吟味すれば分かる」
ってことだろう……

このブログは、ヘタレなワシが、
ちょっとだけ自分にとって不都合なことを考えるためのものといえる……
そして、自分にとって不都合なことを考えるとは……
ワシなりに自分から1ミリぐらい出ようということである…(もちろん、ホントに出ているかどうかはさだかではないが)…
また、内田の論理から言えば、自分にとって不都合なことを考えるとは、自分の真実の姿(没落)に向き合うことだろう
自分の真実(没落)と向き合うのは、自分の弱(悪)さと向き合うことだから、
ワシと同じぐらい(あるいはそれ以下)バカで弱くて傲慢な悪人だと、
ワシをバカで弱くて傲慢な悪人だと思えて( ^∀^)ゲラゲラ、読むのが、しんどいだろう。
ちなみに、もしワシより賢ければ、当然、
ワシをバカで弱くて傲慢な悪人だと思うだろう……。
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「どんな理由があろうと、いかなる暴力も許すことはできない」
とか、まともな大人(オジサン)がいい歳こいて真顔で言ってるのをみると、
ドンビキする~

そんなオジサンたちは
たとえば、
じぶんがSEXしているときや、食物を食べるとき…
衝動的に動き回る我が子を所定の場所に、じっと座らせようとするとき……とか
自分の内に、ちっともソレを感じないのだろうか?……
ワシは、そんな大人(オジサン、オバサンたち)の内面の無感覚こそ
正直、コワい。

内田樹の(「『自分の外にある悪と闘う』という話型よってしか正義を考想できない人間たち」という)顰みに倣っていえば、
そういう人たちは、
「『自分の外にある暴力と闘う』という話型よってしか正義を考想できない人間たち」。
いつも自分たちは、無垢で健全で正しい…
いつも人より高い位置に立ってものを云えるというわけだ……
(ついでに、かりにそれが小市民だとすると、弱く、貧しく、多数者も…いつも無垢で健全で正しいことになる…おみやげ付き)

こんなことになっちゃうのは、
たぶんに
道徳オジサン・オバサン(若年寄も含む)たちが
(公権「力」……の)道徳の規律訓練によって、ソレを、あっさりと内面化…して…麻痺しちゃってるから……。

ワシなんか、
世の凶悪犯の犯行より
むしろ、こういう人たちの「善意」-「暴力」のほうがコワい。
凶悪犯の犯行は、ごく限定的だけど
こういう世の善人たちの「暴力」は、全体的で、直接的だから……。



たとえば
ワシが「人類愛に溢れる地球市民であるキミ」から100万円借りて、
一銭たりとも返さなかったとする。
「人類愛に溢れる地球市民であるキミ」は、
「人類愛」で返してくれと懇願したが、
ワシは一銭たりとも返さなかった。
そのうえに
「悔しかったら、「愛」だけで取り返してみろ!」
と悪態をつく始末なので、アタマにきた「人類愛に溢れる地球市民であるキミ」は、
ワシを訴えた。
当たり前だろう。
公権力は直ちに……
ワシを逮捕-行政執行という「形」の強制力によって、
捕縛され、身柄を拘束された。
もちろん、こういう出来事を、社会や学校では、行政執行、逮捕、身柄の保護(確保)…etc(あるいは社会正義…)と呼び、「暴力」と呼ばないように、人々を訓練していることは知っているが、
起こった事だけを見れば、殺傷能力を持つ武器を携帯した人物たちによる物理的な力で、
他人の行動の自由を奪うことを「暴力」と呼ばないのは、ちょっと無理があるのではなかろうか?。
もし、ワシのような一般市民が、おんなじことをしたら、どんな理由があれ、ほとんどのひとは「暴力」と呼ぶ(呼びたい)のではないだろうか…?



公権力が、ワシのようなルール逸脱行為(抜けがけ(者))に対して、
口頭による注意(説諭)だけで、そういう「強制力-暴力」を執行しないでいると、
治安はおろか、オカネ(クレジット、ファイナンス他含)の価値すら維持できない…?たぶん(ワシより凶悪なやろうはいくらでもいるような気がするから)。

だから
一律に「暴力」を否定することはできない
という気がする。

世の中には、
正当なる暴力(正当防衛含む)と
不当なる暴力があるというのなら、まだ分かる。
「正当なる暴力」のことを公権力、公権力による強制力というのならまだ分かる。

これからも公権力は、ワシのような逸脱者が跋扈しないように、
取り締まり…「秩序」…という名の下に…強制力(暴力)をふるい続ける…だろう
あまりにもひどい逸脱には、殺害をもってことにあたるだろう。


国内においては、自国の警察機構が、その秩序維持(強制力-執行)を担当していることには……意外とみんな、簡単に許容している(内面化している)のに、
自衛隊や米軍などの軍事力に反感を持つ人が多い。
ていうか、それがもう社会的に公認された安全な反感になってるからだろうが…
国際通貨体制時代……
国内においては、警察機構が、その秩序維持を担当しているように……
海外においては軍事機構、つまり防衛機構が、それにあたっているのかもしれない。
日本のオカネ(クレジット、ファイナンス…)の場合、
特に米国の軍事力(プレゼンス)が大きな背景と考えられる。
多額の国際援助も「米国の軍事力=正当なる暴力」のおかげ……ということになるか…??。

もちろん、
外交努力、国際交流を否定するものではない。
ただ、寛容な立場に立つと言っても、
無限に寛容な人が存在しないように(それは多分、人ですらないだろう)、
無限に寛容な外交も存在しない。
それ(外交努力(寛容))が、尽きたところで、
力と力のぶつかり合いになる…
それが「戦争」とか呼ばれているものだろうか……??



唯名論的な立場に立つと、
世界には「名前」と「暴力」だけがある。
「国際社会」「国際秩序」という「名前」があり、
それを守らせようとする「暴力」だけがある。

ニーチェ的な立場に立つと
すべては「力」であり、
「名前(認識)」とは、その解釈のことであり、その誤謬である。

だから、ニーチェに云わせれば、
政治も、経済も、野球も、民主主義も、弱者保護の声も、平和主義も、お金も、芸能界も、教育も学校も、人間も、人間関係も、学問も、科学も、言葉も、認識も…
すべては「誤謬」ではあるが、すべては「力」である……
だからこそ、
われわれは自分自身を高く見積もるための不遜な解釈(うぬぼれ)によらず
「力」にこそ「目」を向け……
なにより自分のウチ(生存)の暴「力」をこそ、感得すべき……
ということになるか…?(^∀^)


鉄鼠 :愛について
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唱える人たちって
ほとんど、ボッチャンだよね。

鉄鼠 : バカは死んでも治らない

けっきょくさ~あ
そのボッチャンが、世の悪人&バカ&小人を相手に
その悪人&バカ&小人…社会悪…を糾弾することを通じて、自分の公正さや賢さ…人間性や道徳性の高さのアピールになっているだけだったりするよな…(まあ、そういうところに気づかないところがボッチャンのボッチャンたるゆえん)
そういう「大きい(天下国家)」ことがいえる自分……そういう憧れや高揚感に酔っているだけの若い人やACは、じつに多い(内田の「『自分の外にある悪と闘う』という話型によってしか正義を考想できない人間たち」に似ている)。
言ってることは、単純で
「ぬあんでワシみたいな、
 賢くて、優しくて、良い人間を見倣わんのか…ぼけぇ!」

要は、自分に酔っているだけだから
いきおい、遅れてきた思春期性少年→ボンチャン版珍走団になる~(暴走族の場合、うえの文言が「強くて、ワルな人間」になるだけ)。

とにかく、こういうひとたち(ボッチャンサヨク)は
世の悪人&バカ&小人の糾弾だけで終わってしまうというか、
満足というか、
世の悪人&バカ&小人の頭を押さえつけて、
自分だけ頭一つ出すこと(差別化(芸))こそが真の目的で……
へたすると、世の悪人&バカ&小人も、どうでも良かったりする。

なんでも、小泉義之さんや宮台さんら
…(詳しいことは知らないが)…エライ人たちから言わせれば、
どんなにワシのような世の悪人&バカ&小人に、怒っても、嫌っても、
結局、皆殺しにするわけにはいかない……、
世の悪人&バカ&小人を糾弾(による教化)だけでは、限界がある……
そこで
問題は、世の悪人&バカ&小人「を」、どうするかであり、
どうやって世の悪人&バカ&小人と、イヤだけど、ガマンして、やっていくか、こそが大事だというわけね。
だから、最低限、他の人に、その「バカ」がうつんないように、
(ワシのような)バカを、学歴(アパルトヘイト)社会だとか、
競争社会だとかで管理して、
悪人&バカ&小人を厳密に隔離する仕組みを作るべきだ。
(モロ社会防衛の思想なのよ)
あるいは、
隔離した上で、自然死を待ったほうがいい……。
(実際、少なからず、そうなってるかもね)

まあ、それもいたしかたないかもしれない。
諸行無常じゃ~といっても、問題は終わらない。
そんじゃ~世の悪人で、バカで、小人「は」、どうすればいいのか?
世の(エライヒトは除く)悪人&バカ&小人は、
世の悪人&バカ&小人、どうするかではなく
悪人で、バカで、小人、どうすればいいのか?
世の悪人で、バカで、小人は、そういう立ち位置に立たなきゃ
おかしいのである。
もっと簡単にいえば
ワシのようなバカは、どうすりゃあいいんだ?
っていうこと。
バカ扱いされて、
隔離されて、自然死する……
バカは、いつだって孤立無援だ。

社会学者は、社会さえまともだったら、それで良いかもしれないけれど……
ワシは違う。
ワシは、ちょうど社会学者とは逆で、
どんなにひどい社会であろうと、
ワシが幸福なら、それでいい(*1)。

逆に、どんなに他人が良い社会であると宣おうと、
ワシがサイテーなら、
それはサイテーな社会だ。

民主主義社会では、
良い社会か?悪い社会か?
なんて
結局、それを支持する頭数の多さでしかないか?
は、
読者諸賢の想像にオマケ!

note---------------------
(*1)「ワシが幸福なら、それでいい。」
というと怒るひともいるかもしれないが
たとえば、パニック映画とか
大災害が起こって、
主人公やその家族だけが助かったとき、
ふと安堵してしまうことは、誰にでもあると思う。
(決して、その安堵は他人へのものではない)
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「新たなナショナリズムの担い手はつねに「弱者」である。
彼らは「弱者」であるという定義からして、
「国民的統合が果たされないと、
現在得ている利益を逸する階層」ではない。」
内田樹「ナショナリズムと集団性」

わしが、何年も前に
ここで言うておるじゃないか!(笑)

「「あなたの才能は、あなただけに利益をもたらすように排他的に使用しなさい」と子どもたちは教えられている。」(同:内田)

そうかなぁ
いくら若者だって
面と向かって、そんなことをいうヤツは、むしろ少数派じゃないかなぁ(ネット見ても年がら年中、やれ自民だ!民主だ!…ウヨだ!サヨだ!…嫌韓だ!…うんぬんだって、社会の皆さんのために、やってるんじゃないの~?(まぁ全体から見れば少数派だけどねえ))。
内田のいうナショナリズムだって、
彼らにとっては集団(お仲間)のため、社会の為、日本国家の為のつもりなんじゃないかなぁ。
(ワシなんか、若者のそういう(ほとんど抜きがたい)世間主義(教条主義的ドグマ)には嫌気がするんだけど)

彼らにしてみれば、
社会のため、国家(世間(お仲間)(彼らの国家ってのは、たぶんこの言葉に近いものだと思うよ))のためといわなきゃ、ぬあ~んかカッコつかないとでも思ってるんじゃないかなぁ~(そういうノリだと思うんだけど…)

問題は、上辺では、みんなのため、社会のため……ため……といいながら、本質的には(ホンネのところでは)自分の「おいしさ(自己利益追求)」路線(の偽装)でしかない!(ニーチェで言うと、一粒で二度おいしい路線……「でっちあげられたルサンチマン」(「二重の勝利」っていうやつ)、レヴィナスでいえば「分離した実存」……しかし、そういうことでいうなら、ガッコのセンコー(あるいは知識人文化人含む)なんかその(アネハ的)嫌疑充分なんだけど(笑))
ってところだろうが、
でも、そんなことは誰にも批判できることじゃないと思うな(特に(内田の論理を使っても)勝ち組は(笑))~自己利益追求ok!
どっちにしろ、それは負け組(弱者?)の問題じゃないだろうな~
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結局、「教養」が目指したものって
コミュニケーションなんだよねぇ(「学問」と混同して良いかどうかは読者の想像に「オマケ」する)
あくまで、コミュニケーションのための「教養」だったわけ。
ここんとこ大事。
たしかに、マスコミもテレビもネットもなかった時代の「教養」といえば、
いわゆる「教養」だった。
しかし、現在のような高度な情報化社会-高度なコミュニケーション社会では
テレビ、マスコミ、ネットこそが「教養」になる。
ていうか、じっさいになっている。
そこで「みんな一緒」、「「われ」を忘れる世界」→「教養の世界」が実現された社会。

「ブタとソクラテス」問題でいうと、
教養としては、問題を取り違えていたということになろうか?

だから、
むかし(大正時代)のように、難解な本を片手に、「他者とは……」、「コミュニケーションとは……」(出会い系恋人募集広告風に単純化すると「ボクはこんなに「教養」があるんです?どうですか?話しませんか?」)などとエラそうな顔をして語る必要なくなったの。
いまや、クリックひとつで、世界の他人と一瞬でコネクトしてしまう世界。
あるいは、「「サッカーワールドカップなど」のメディア誘導型のイベント」(内田樹)で
「みんな一緒」になるなんて……すっごく簡単になっちゃった社会!。

そうすると、
純粋まっすぐ教養クンみたいなひとたちは、「教養の終焉」を嘆くというオシャベリを始めるけど、
そうじゃないのヨ。
「教養」の時代が終わったのではなくて、
「教養」の記述内容(中身)が決定的に変わってしまっただけなのねぇ。
つまり、いまさらまっすぐクンみたいなひとが、
昔の、いわゆる(人-文としての)「人間」を引っ張り出してきて、「いわゆる教養」を復活させる必要なんて………ぜんぜん、ないわけよ!。
分かる?。
そんなの本末転倒も甚だしい……プンプン(`へ´)フンッ。

まっすぐクンたちも、
世間の人たちに負けないくらい、
二言目には、他者だ!、弱者だ!、労働者だ!、権力者の横暴だ!…平和、愛、コミュニケーションが大事だ…というけれど、
そんなにそれが大事なら、いまは、目の前のひと(弱者や……)に……話しかければすむハナシじゃん。
……じっさい、そういう世界が広がっているんだもの…
すくなくとも、そういうものとすぐに繋ぐことができる環境にある…にも関わらず、
まっすぐクンたちは、そういうことには、ていよくスルーして、反対向いて、お仲間同士で、種族語をつかったオシャベリを続けてるだけ……否、続けたいだけ……(そういう意味で、いまはテレビもインターネットもない大正時代とは決定的に違うのよ?わかるぅ?)
ていうか、そんなもんよりホントはお仲間(似た者(同じ階層))同士の評価(コミュニケーション)のほうが大事~?
(だいたい、リアルでは、そんな「他者」が現れると、卒倒するか、たいがい思いっきり嫌悪の(ディスコミュニケーションな)態度をおとりになるまっすぐクンが多いみたい~)
…弱者や社会を助けたいんじゃなくて、そういったオシャベリを通じて、自分を助けたかっただけじゃぁ…
否々、オレは、そんなあんたたちを「オナカマ社会-タコツボ型社会の日本」なんつって、告発路線に乗って、批判したいわけじゃないのよ。勘違いしないでねぇ
そうじゃなくて、
そういったまっすぐクンたちの教養ってものも、結局、
それらから差別化して頭一つ抜け出す(優越化)ためのもの(コミュニケーションゲーム)でしかなかったわけじゃん。
そういった、いわゆる付きの「教養」は、無知で無教養で、非理性的で、暴力的な奴らと比べて、自分たちは上品で教養があり、理論・理性的で、才能があり、
なにより寛容でコミュニケーションスキルが高い……
と一方的に宣言するための権威化-排除の論理にすぎなかったということに、
いいかげん気づかない?
いやいや、この際、権威化も排除も悪くない
とにかく、いま現実に
「コミュニケーションとしての教養」としては、
ヨコナラビに、「いわゆる教養のジャーゴン」、世間語、2ちゃん語、……語のコミュニケーション(パーティライン)が並んでいるんだよ……各々、そのなかで頭一つだし(もぐら叩き)ゲームにうち興じているわけ……
すくなくとも、「いわゆる教養のジャーゴン」の決定的特権性は消えてなくなったというわけ……
(はじめから、そんなものはなかったんだけどねぇ~)
教養にとって、大事なのはコミュニケーションなんだもん。

しかし、それでは「教養としての学問」は、どうなってしまうのであろうか?

「テレビが今日してくれる常識を信じずに生きるにあたって、世界の中のあらましを把握したり、歴史を意義づけたり、いろいろ自覚的にものを考えるにあたって、考え方のモデルがたくさん詰まっているカタログとして活用できる。」(pp.246)浅羽通明「大学で何を学ぶか」

「「みんな一緒」という空間が崩壊して、孤独になったとき、他人との相互の馴れ合いにより自己を肯定できなくなったとき………孤独な逆境の精神の支えとできる」(pp.250)浅羽通明「大学で何を学ぶか」


要するに、孤独になるための技法としての「教養としての学問」

以上」
と読んだ。
(上のようなハナシは、現象学(フッサールにとっての「他者」)を俎上にあげて、読むと面白いかもしれない)


♪michael jackson, Black or White.

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「レヴィナスは「人間は「顔」によって無限の責任がある」っていったけど」
「顔を隠してチンポだけがむき出しになっている社会を想像してみると分かる」
「チンポが顔だと思われている社会。」
「たしかに無限の責任がありそうだ。」
「「レヴィナスは「顔は言語に他ならない」とも言ったけど、それは結局、……」
「「チンポは言語に他ならない」ということ。」
「そうそう」
a0009919_7452488.jpg「「チンポは言語に他ならない」→「存在するものはチンポだけである」→「チンポには無限の責任がある」という図式」
「たしかに個人の罪の責任は個人にあるけど、だけどやっぱ、ボクたちも、チンポと無関係ではいられない。
 責めは、ボクたちにもあるんよ
 この責めは無限なんだから」
「チンポである限り。
 チンポに一切の責めがあるんよ
 チンポである限り。
 チンポである限り、ちょっと誰しもユダヤ人なんよ」
「あ!すいません
 言い過ぎました。失言です。」
「結局、チンポ仲間同士、なかよくやろうよってことで」
「え~っ?そんなことで、ごまかされないって?」
「つっつっつまり
 チンポっていう「顔」ですよ……?」
「チンポっていう「無知のヴェール」」
「そこでは大小があるでしょうが、ある意味、チンポ人間としての原初状態が保たれている
 分かるぅ?」
「チンポは、世間に晒されている。」
「晒されているから、それだけで暴力的。」
「かけることもあれば、かけられることもある。」
「だから、人間はチンポによって無限の責任があるんですよ」
「日本では、むかしから、顔とチンポは、同じように言われてきた。」
「そのでかさは男の甲斐性だった」
「レヴィナスにおいても、そのムスコ(チンポ)によって、死にさえ勝利する。」
「レヴィナスはこう言っている『死に対する勝利とは、ムスコのうちに蘇生することである。死という断絶をムスコが呑み込む』(レヴィナス)」
「ほらねぇ?」
「チンポが呑み込むってのはスゴイ哲学だなぁ~」
「でもなんでオレがチンポだからって無限に責任があるのか?」
「つっつっつまり究極的には理屈はないんです。ハイ。」
「倫理ですから(^^)。」
「壮大なチンポ歓待の哲学です~バンザーイ」
「レヴじいさんが、倫理を考えると、そこしかないっていう
 あくでも、じいさんのオハナシです。」
「経済を無視してでも、チンポと仲良くなりましょう?
 その責任がみんなにある」
「反資本主義的(反経済的)なチンポ世間のために頑張るしかない(いつだって非対称的な関係(未出のヴェール)である)〈私〉です。」
「チンポ哲学~バンザーイ」

Note------------------------------------------------------
「レヴィナス なんのために生きるのか」小泉義之著(NHK出版):鉄鼠

なんのために生きるのか!:鉄鼠

チンポ哲学シリーズ

チンポ哲学Ⅲ  ……顔射主義

チンポ哲学Ⅱ …チンポ中心主義

チンポ哲学Ⅰ  ……巨砲大鑑主義(フロイトを越えないで)

------------------------------------------------------
レヴィナス―何のために生きるのか
小泉 義之 / 日本放送出版協会
スコア選択: ★★★★

何のために生きるのか?他者のために……自分のためだけに生きる「自分であることを辞めて」


レヴィナスと愛の現象学
内田 樹 / せりか書房
スコア選択: ★★★




レヴィナス―移ろいゆくものへの視線
熊野 純彦 / 岩波書店
スコア選択: ★
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a0009919_55710.jpg「「おじさん」的思考」内田樹

由緒正しい「おじさん」のわがままな言い分。
注意して欲しいのは、この言い分は「おじさん」の言い分であって、
けっして、折り目正しい「オヤジ」の言い分ではないこと……

「日の本さんちのおじさん」評論家としての最も高名な橋本治は、
”おじさん”について、次のような厳密な定義をしている(笑)

「”おじさん”というのは、”世の中”という、”社会”というものをもう少し曖昧にしたものの中で、ある種の力関係を背景として成立している役割のこと」

おーシュトレンゲ・ヴィッセンシャフト!
これだけ厳密!的確に!おじさんを定義したひとはいないと思う。
「”おじさん”は無理している……だから”おじさん”は、他人にも我慢することを強制する。」
「”おじさん”は、はじめから敬称がついていることを、当然のこととして相手に強制する。”おじさん”は強迫観念を辺りに一面に撒き散らしている。
だから、”おじさん”の周りにいる人はちっとも面白くない。だから、素直な人は”おじさん”に同化して、一生懸命抑圧的な人間になろうとする。だから、”おじさん”の息子は、簡単に”おじさん”になれる」
なんでハシモチが、こんな「だから」文章で綴ってるのかというと、こりゃぁ世の中に”おじさん”化している(抑圧的な)ひとが一杯いるってことだと思う(笑)
むかしから、少年老いやすく学成り難しというように
”おじさん”化は、年齢とか、性別とか、そんなことはぜんぜん関係ない。

こういう「おじさん」に必要以上コミットしている特徴として、政治的関心が上げられるだろうなぁ。
だって”おじさん”は例外なく政治好きなんだもん。
”おじさん”化の過程として、ほとんど絶対的に歩む道が……
政治的関心……
軍国(愛国)ショーネンショージョ:地球市民、運動太郎・花子
あれって、全部”おじさん化”進行形
だって、政治なんか、しょせん、法を作ることが商売だから、どっちにしたって人を縛ることにしかならないでしょう。要するに、他人を抑圧することに期待をかけてるってこと…言葉(用語)の違いこそあれ…基本的に「縛る」のが好きなのよ……こういう人たちは……逆さ吊り天上亀甲縛り

だから、内田は絶滅の危機に瀕した日本の”おじさん”を元気づけるために本書を上梓したと書いているけど、そこらへんは、ちょっとサギっぽい。
どうサギっぽいかというと、
絶滅の危機に瀕しているのは、内田みたいな”おじさん”じゃなくて、
似て非なる「オヤジ」の方なんだもん~
逆に、内田みたくな”おじさん”は、老若男女問わず、どんどん増殖している。
(オレに言わせれば、各種凶悪児童も、”おじさん”化のなれの果てだと思う……カワイソー)
内田は、都合よく、似て非なる「オヤジ」を”おじさん”と合成させて、同情を誘っているだけ……。

内田は、
「「おじさん」の正しい思想的態度」として、次のように云う。
「憲法九条と自衛隊が矛盾した存在であるのは、「矛盾していること」こそがそもそものはじめから両者に託された政治機能」と規定する(30頁)。
「二者択一しかないのは子どもの論理」(26頁)

どっちにしても、つまんないハナシ~
オヤジなら、フツー
「つまらん……お前の話はつまらん
 つまらん……」(by 大滝秀治)
と一喝でしょう!
(キンチョーのあのCMに出てくる会話こそが、典型的な”おじさん”とオヤジの会話)
だいたい憲法があろうがなかろうが、理不尽に他国人が攻めてくれば、憲法も、自衛隊もへったくれもなかろうに……
と、そう思うのがオヤジである。
”おじさん”は、そういうわけにはいかない。蘊蓄を垂れて、「敬称がついていることを、当然のこととして相手に強制する」。

もとより、矛盾も、二者択一もない。
そんなもの最初からアウトオブ眼中!
それが、日本の折り目正しいオヤジである。
オヤジは、目に見えないリクツより、
目に見える力しか信じない。
だから、小賢しい”おじさん(弱いヤツ)”たちから、いつも恨まれている。
気楽に生きてるから、オヤジは、敬称で呼ばれない。
社会的地位も、オジサンたちに比べると格段に低いから…
女子どもにも人気がない。
だから、絶滅の危機に瀕している……

いっぽう、”おじさん”は、正しい知識、最新の知識、おふらんすの知識を並べ立てて、
麗しい社会、正しき平和を語り、どこまでも「敬称がついていることを、当然のこととして相手に強制する。」
だけど、”おじさん”は最初から無理している……
橋本が言うように、”おじさん”化ってのは、オヤジへの恐怖なんだよねぇ。
オヤジを乗り越えられないまま、つまり、知性だけが思春期のまま大人になることを”おじさん”化というわけ

だから”おじさん”のハナシは、ストレスフルを気にするわりには
ホントはストレスフルなハナシばかり
一生懸命”おじさん”してる……
なにかに勝ちたがってる……オヤジに……コンプレックス…
憲法だろうが、平和だろうが、防衛ラインだろうが
二者択一だろうがなんだろうが、
そんなハナシは、人を殺すことが前提になる、そもそもが抑圧的なハナシ。
それは変奏されたオヤジかもしれない……
結果、”おじさん”が、どんなに麗しい平和社会を説こうとも、
これらに関する強迫観念を、あたり一面に撒き散らし、
みんなを抑圧することには変わりない。
政治ショーネン、ショージョ、シュフ、じじぃ、ばばあ、……
平和ショーネン、ショージョ、シュフ、じじぃ、ばばあ、……
軍国・愛国ショーネン、ショージョ、シュフ、じじぃ、ばばあ、……
「我慢している人は、相手にも我慢するように強制する。」
こうして、み~んなこのひとりの”おじさん”のせいで、どんどん他人に対して、抑圧的になって、ねずみ講みたいに抑圧仲間が増えていく。

とはいえ、
内田も良い意味で、オヤジのところもある。
父として語っているところは、なかなか感心した。

なんのかんの云っても、ボクが内田を
”おじさん”として、尊敬するのは……
話型そのものを、問題にする哲学者だからだ。

ただ、ときとして、人間は、自分だけは例外になるところがある。
それがまた”おじさん”の”おじさん”たるユエンかもしれないけど…
それが内田の云う彼のトホホッなところかも~知れないけれど(笑)

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「おじさん」的思考
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