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「わたしが『正しい生き方を発見した』といったとしたら、キミはその通りに生きるでしょうか。たとえば、わたしが『朝六時起床、ラジオ体操の後、マザーテレサのような奉仕活動をし、よる九時に就寝する。日曜日も休日もなく、酒、タバコ、ギャンブル、女とは無縁な生活を一生守る』のが、正しい生き方だといったとして、その通りの生活をなさるでしょうか」(93頁)
「このような生き方が、かりに正しい生き方、最善の生き方を知ったとして、はたして、その通りにするでしょうか。おそらく多くの人は、最善の生き方というのが、あらゆる点から見てどんなに自分のためになることだと分かっても、最善の生き方を避けるような生活をするのではないでしょうか。
人間は最善の正しい生き方が分かっても、その通りにはしないのだとしたら、何のために最善の正しい生き方を知る必要があるのでしょうか。正しい生き方を避けるために知るぐらいがオチではないでしょうか。それなら、はじめから何も知らない方がまだましな生き方ができるのではないでしょうか。」(94頁)
「人間はその結論に従って生きるしかないとしたら「人間はロボットに等しくなってしまいます。どんな目標を立てるべきかが決まっていて、それを達成する方法も決まっているのですから、われわれには選択の余地はなくなります。~中略~自由もなくなります。決められたとおりに行動するだけで一生を終えるしかなくなるのです。でも、多くの人は、ロボットになるのを嫌がると思います。」(80頁)
「かりに、研究の結果、どんな目標を立てるべきかが人類に知られたとします。その成果にわれわれは無条件に従うでしょうか。たとえばラーメンを毎日十杯食べ続けるべきだということが分かったとします。あるいは、東京のすべての公園の砂粒の数を数え上げることが人類最大の優先課題だということが分かったとします。そういうことが判明したら、その通りに行動するでしょうか。」(pp.78)
「こういうと、「そんな馬鹿な目標を立てろという結論が出るはずがない」といわれるかもしれません。しかし、専門的な研究の結果、どんな結論が出るかは素人には分からないのが普通です。地球が丸いとか地球が動いているといった研究結果は、どんな常識から馬鹿馬鹿しく思えても、受け入れなくてはなりません。ラーメンを食べたり、砂粒を数えたりするのは馬鹿らしくて従うつもりがない、というなら、その人は、専門的知識を無視して、「自分の気に入ったことしかしない」と宣言しているに等しいと思います。」(p.79)
以上、土屋賢二「哲学を疑え!」
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「この先、どういう目標にすべきかについては専門的な知識が成り立たないように思う。」
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 政治家の仕事

「悩みには二種類あります。
 ①一つは、何か目標が決まっていて、その目標を達成するためにはどうしたらいいか、という悩みです。たとえば、どうすれば健康になるか、とか、どうすれば禁煙できるか、どうすればお金が儲かるか、どうすれば女にもてるか、などです。これらの問題については、それぞれ専門家というものが存在しています。専門家というのは、普通の人よりも知識を持っている人です……。これらの問題については、知識というものがありえます。そして、正しい答えと誤った答えの区別があります。
 ②もう一つのタイプの悩みは、そもそもどんな目標を目指したらいいか、という悩みです。これは、特定の目標を達成するもっとも効率的な方法を求めているのではなく、その目標を立てるべきかと言うことを問題にしているのです。たとえば、そもそも健康になることを目指すべきか、禁煙を目指すべきか、お金を儲けるべきか、女にもてようとすべきか、ということが問題になる場合です。こういう問題を解決する専門家はいません。医者は、どうすれば健康になるかを一般人よりも知っていますが、健康を目指すべきかどうかについては、一般人と同じ程度の漠然とした信念しかもっていません。こういう問題については、「知識」と呼べるものが存在するかどうか、正しい答えと間違った答えの区別が成り立つのかは疑問です。少なくとも専門家がいないことはたしかです。」74-5頁「哲学を疑え!」土屋賢二

「でも政治には、国民を幸福にするという立派な目標があるではないか?」という疑問をお持ちのみなさん…
国家の政治が国民個人の幸福を常に優先してるかどうかは、この際問いませんが…(政治談義ではないので)
そもそも、幸福って(政治的)目標として成り立つのでしょうか?
ていうか、幸福っていったいなんでしょうか?
知識として成り立つのでしょうか?
成り立つとして、正しい幸福と誤った幸福というものが明確にあるんでしょうか?
とうぜんこれは不幸論にもつながっていくわけですが…
幸福については、またいずれ…

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哲学を疑え!笑う哲学往復書簡
土屋 賢二 石原 壮一郎
飛鳥新社
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「ブルース・オールマイティー」の続編の「エバン・オールマイティ」ーを見た。
案外、おもしろかった。
映画を見ていて、哲学者土屋賢二さんの書いていたことを、ふと思いだした。
「かりに、研究の結果、どんな目標を立てるべきかが人類に知られたとします。その成果にわれわれは無条件に従うでしょうか。たとえばラーメンを毎日十杯食べ続けるべきだということが分かったとします。あるいは、東京のすべての公園の砂粒の数を数え上げることが人類最大の優先課題だということが分かったとします。そういうことが判明したら、その通りに行動するでしょうか。」(p.78)
「こういうと、「そんな馬鹿な目標を立てろという結論が出るはずがない」といわれるかもしれません。しかし、専門的な研究の結果、どんな結論が出るかは素人には分からないのが普通です。地球が丸いとか地球が動いているといった研究結果は、どんな常識から馬鹿馬鹿しく思えても、受け入れなくてはなりません。ラーメンを食べたり、砂粒を数えたりするのは馬鹿らしくて従うつもりがない、というなら、その人は、専門的知識を無視して、「自分の気に入ったことしかしない」と宣言しているに等しいと思います。」(p.79)土屋賢二「哲学を疑え」

馬鹿な目標。
それがエバンの場合、神に命じられた方舟作りだったわけで…
神様の尺度は途方もなく、フツーの人間には、馬鹿げてみえる。
舟を造り始めた彼は、そのせいで、まわりのひとはおろか、妻にすら、頭がイかれたと思われ、見捨てられそうになる。

映画は神の尺度世界で予定調和的に、
ハッピーエンドになってしまうからいいが……
現実の社会が、この映画のように、
どこぞの唯一の神の尺度によって、なにをすべきか(どんな目標を持つべきか)、なにをするのが正しいか、良いか、悪いか、なんでもかんでもホントに決められていたら…と考えると…
それはそれで、やっかいな問題を引き起こす…(たぶんに神が計算的理性であっても…おなじ…)…と思う
「(承前)ラーメンや砂粒の計算といった、一見して馬鹿馬鹿しく思えるような結論でなく、もっともらしい結論が出たとしても同じです。もしその結論が正しい結論だとすると、それに従うしかありません(そうでないと、われわれは「明らかにこれこれをすべきだとわかっているのに、それを実行する気がない」ことになってしまいます)。しかし、もしその結論に従うと、人間はロボットに等しくなってしまいます。どんな目標を立てるべきかが決まっていて、それを達成する方法も決まっているのですから、われわれには選択の余地はなくなります。~中略~自由もなくなります。決められたとおりに行動するだけで一生を終えるしかなくなるのです。でも、多くの人は、ロボットになるのを嫌がると思います。」(80頁)土屋賢二「哲学を疑え」

多くの人は、ロボットになるのを嫌がっているにも関わらず、
なぜか唯一正しい尺度の存在を信じ、求めているような気がする…???(^Д^)

映画 エバン・オールマイティ - allcinema#1



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言い換え論法


清水義範「行儀よくしろ。」


先に紹介したように、
清水さんは、巷間騒がれた「学力」低下問題を取り上げるが、
しかし、巷間言われてるように学力低下自体が本質的な問題じゃなく、
まして学校批判や教師批判は的はずれ…
ホントに大事なのは、学力よりも、「知力」、「頭が良い」というような総合力であり
それを支える社会(の荒廃)、文化(の破壊)…こそが問題だと指摘するのだが……
なにをかいわんやである。
そもそも、「学力」を「知力」と言い換えたところで、なんか言ったつもりになっているところがオソマツ。
「学力低下」問題は、文字通り「学力低下」を問題にしているのであって、
誰もそんな清水のように「知力」の低下なんか嘆いていないのなら問題がないというのが一点。
また、
知力という言葉の意味が、学力という言葉の意味に含まれる
あるいは逆に、学力が知力の中に含まれているとしたら(清水氏の場合、「知力」を「総合力」にした時点でこちらにはいると思う)、
知力と学力はなんらかの相関関係にあるわけで…学力低下問題なしですませるわけにはいくまいというのがもう一点。
(ていうか学力があって知力もある子のほうが多いと思う。)

ちなみに…こういう言い換え論法は
哲学者や思想家も使ってるから、
なんか高尚な方法だと思ってるひともいるかもしれないけど……そうじゃない。
哲学や思想は、日常われわれが使っている言葉の意味に疑いをかけ(エポケーし)、
ホントーの言葉の意味
ホントーの時間…とか…ホントーの愛…とか…ホントーのxxx…etc…真なる文…真理を教えてくれるものと…言われていたが…本当だろうか?
「結局それは、われわれのことばづかいを解明しているだけです。われわれのことばづかいをいくら明らかにしても、この世界に成り立っている深遠な真理を解き明かしたことになりません。」土屋賢二


すさまじきものにして見る人もなきブログ! : ツチヤ「の」ウィトゲンシュタイン

Note---------------------------------
※しばしば、ネット上で哲学的議論といわれるものに、完全に相手無視で上のオジサン的論法で勝手に言い換えたり、定義(意味)付け足しで反論(あるいは再反論…)した気になっている自動クルクルパーを時々見かけるが、
そんなことをすれば「1+1」すら、まともに答えられない(クルクルパーになる)のは誰にでもわかりそうなもので…orz…

土屋賢二「ツチヤ教授の哲学講義」
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悪いことは、前もって決まっているのか?

山口・母子殺害 死刑の適用焦点 24日に差し戻し審初公判(産経新聞) - goo ニュース

弁護団を批判する人は多い。
イデオロギーでやってるだの、時間かせぎの言い逃れだの…
最も多いのが
加害者の人権ばかりで、被害者・遺族が蔑ろにされている……
といったもの。
鬼畜にも劣る犯行からいえば、
そういった被害者・遺族の訴えはもっともなものだし、
まったくの無関係者でも、それに同情したい気持ちも、分からないでもない。

なかには
「そんな明らかな凶悪な犯罪者の場合、裁判など開かず、さっさと死刑にすればいいじゃないか?」
「なぜ、税金を使ってまで、わざわざ犯罪者の言い分など訊いてやる場(裁判)を作らなきゃならないのか?」
というひともいる。
そういうひとに、一度、
「「何が正しいか?」
 そう簡単にはいえないからだよ」……
と軽口を叩いたら、血相を変えて
「いや、そんなことはない!
人を殺すことは絶対に悪いことだ!
そんなことはあれこれ議論するまえに、前もって決まっているんだ!」

と怒鳴られたことがある( ^∀^)ゲラゲラ。
ネットを見ても、そういうようなことを書いているひとは意外に多い。
しかし、戦争では、たくさんの敵兵を殺すことは良いことだし、そもそも「人を殺すことは絶対に悪いことだ!」と言いながら、凶悪犯を「死刑にしろ」「死刑制度は必要だ」と考えている人もまた人を殺すことを「絶対」に悪いとは思っていないのではないか?。また、正当防衛や緊急避難(相手を殺さなくては生きていけない場合)などの違法性阻却論をあたまから否定することは、なかなか難しいだろう。
つまり、
人間は「一律にヒトを殺すことを悪いとは思っていない」(小泉義之)
そういうことになるだろう。

逆に、前もって何が正しいか悪いか完全に決まっている社会を考えてみよう。
例えば神のオキテで前もって決まっていたりする社会は、ほとんどの現代日本人には、とてもたまんない社会になるんじゃないかと思う……
例えば、マザーテレサのような生活をするのが正しいと決まっていて、そういう生活するように決まっていたりする社会はどうだろう……『朝六時起床、ラジオ体操の後、マザーテレサのような奉仕活動をし、よる九時に就寝する。日曜日も休日もなく、酒、タバコ、ギャンブル、女とは無縁な生活を一生守る』(*1)…なんて…たまんないんじゃないだろうか?……
つまり、前もって何が正しいか悪いか完全に決まっている社会は、宗教国家、絶対主義……SF的にいうなら、ロボット国家である。
ま、前もって何が正しいか決まっている宗教国家&生活でもマザーテレサのような生活ならば罪もないかもしれないが……例えば、「神A」を信奉する人たちが居て、「神A」の信者からすれば、神B、C……は前もって間違っていて悪い神と決まっている。そして、「神A」の信者は、前もって正しいと決まっている「神A」に帰依せぬ異教徒(神B、C……に帰依する信者)を殺すことが、「絶対100%正義だ」と決めて、戦争や残虐行為を行う……
そんなことが、現実に(いわゆる宗教戦争)が幾度も行われてきたのは周知の事だと思う。
そこでB信者に犯人を代入すると、
B信者のやったことに対して、前もって完全に間違っていて悪いことだというひとたちは、
A信者と極めて類比的なところがあると思う。
神Aが見えない物言わぬ神とは限らない。
例えば、現人神(ヒロヒト、ヒトラーなど)から、マルクスの書物、社会や世間の価値(空気)でも充分にそれにかわりうると思う。
そういった思考形式という点だけからいくと、オウマーと反オウマーに違いはないように思える。神Aと神Bの戦いでしかない。


例のコムスン事件で和歌山県知事が「厚労省が許しても、お天道様が許さない。このままじゃ正義が成り立たない」みたいなことをテレビで言っていたが、
日本人の場合、まさに、それが象徴的なように……
お天道様=正義。
言い方の違いはあるにしろ
そういうことをいう日本人は、非常に多いような気がする。
正しいこと……それは空の上にあって、不可侵であり、絶対(神)!
アナロジーとしては、
お天道様は、天の声として、隠された「ホントーの声」……それは隠された「民の声(世間の「空気」)」を「聞こしめす」ことかもしれないが……
しかし、それを聞くのは神Aであり、娑婆のA信者(日本人)たちでしかない(だから、この宗教劇はA信者たちだけの自作自演のように見える)。
要するに、神学(宗教)でしかないのではないか?。

明治の日本(福沢諭吉)は、ヨーロッパの近代民主主義を模倣したが、「抵抗権」という思想だけは欠落させたままだったと指摘したのは丸山真男たが。
まさに、この抵抗権や革命権の思想のなかでこそ、
「ホントは「何が正しいか?」」が論じられると思う。
「いや、そんなことはない!
人を殺すことは絶対に悪いことだ!
そんなことはあれこれ議論するまえに、前もって決まっているんだ!」
そういうだろうか?
それにしても、誰が、どうやって「前もって決めた」のだろうか?
例えば、武家諸法度や、明治憲法、戦後憲法などの人々同士のトリキメは
支配者が前もって決めただろう。
あるいは、
聖書、コーラン、仏典…なら
神、アラー、仏、天子、天皇……それともやっぱりお天道様だろうか……
なんでも「前もって決まっているんだ!」という思想を堅持している人は、
単に支配的なイデオロギーの主張か宗教的な主張をしているだけではないだろうか?
とにかく、なんでも「前もって決まっているんだ!」
という思想が堅持される限り、抵抗の思想は出てこないであろう?。
また、抵抗の思想がないところに
本質的な「何が正しいか?」という問いもまた生まれてこないであろう……?……。

抵抗の思想は、今「前もって決まっている」価値(法)に疑いを向けることである。
それは、逆にA信者としては、
「疑いを向けられる」ことであり……
A信者は、信じる神Aが疑われ否定されると受け取るだろう
(マンセー国家やオウマー国家とか……は、その現人神版で…マンセー国家を目指していた日本で、そういう抵抗権が無視されたのは見易い道理だろう…神のいない国と言われている日本に、いまでも意外に、前もって悪いことは決まっていると考えるひとが多いのは、たぶんにその残滓((現人神やオカミの)思考習慣)であるような気がする)。
ことほど左様に、そういう考えの枠組にいる限り、それが抹殺の思想を生みだす、不毛な宗教(神学)論争になるのは目に見えている。

西洋では、そういう宗教対立の血で血を洗う争いの後、
政治から宗教(「前もって決まっている」(天上の)価値)の分離が説かれ、
人々によって行う近代民主主義が、それに取って代わった。

しかし、神ならぬ人の誰に「絶対」に正しいことなんて分かるのだろうか?
ヒトラーか、スターリンか、マオか、ヒロヒトか、キムか……
(これらの人々は人間でありながら神の顔をして多くの人々を塵芥のように殺した)
近代民主主義社会には、
神の国のように、絶対に正しいことなんてない。
否、その方がいい。
絶対に正しい事なんてないから、
裁判(議会)を開き、
相手の主張を訊き
多数決で決める(国会だって、最高裁だって、最後は多数決(頭数)で決める)。
(もちろん、そこに神学的な戦いが全くないと言うつもりはないが)

日本には、古来から、「盗人にも三分の理」ということが言われる。
いろんな解釈が可能だと思うが、神ではない人には、どっちが100%正しいなんて、誰も決められないということにもとれる。
盗人(あるいは負け組、社会的弱者)にだって、いろんな事情があったかもしれないし、
もしかしたら、その社会のほうに問題があったかもしれない。それは分からない。
少なくとも100%正しい良い完全な社会なんてありそうにない……と思うのだが……。

死刑制度については
また今度

……Note
(*1)土屋賢二「哲学を疑え」

すさブロ! : 初夜権
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「この世は悪人とバカと小人で一杯です」
(イナバ)http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20051111#c1132304413
なるなる

悪人で、バカで、小人。
アハハハッ…ワシやワシや…

そうねぇ
バカは死んでも治らないというし…
どうしようもないね…

せめて、
(このあいだの自殺女児もそうだけど…)
もっとゆっくり残念がる思考習慣が欲しい( ^∀^)ゲラゲラ
日本人は、性急すぎる。


悪人で、バカで、小人が
役所の隠蔽体質を批判する……
戦犯だって批判できたら、あんたはエラいよ~( ^∀^)ゲラゲラ


鉄鼠の性急すぎるエントリー1

「人間は『すべては自分に都合よく起こるはずだ』という信念をもって生まれてくるため、本来、楽観的である、だが、ちょっとしたきっかけで簡単に悲観的になる。金を落とした、失恋した、大学入試に落ちた、競馬に五百回連続で負け続けたなど、都合の悪いことがちょっと重なると、それを基に「すべては自分に都合悪く起こっている」と性急に結論を下してしまう。
 楽観主義も悲観主義も、性急すぎる」(土屋賢二「棚から哲学」)


鉄鼠 : 年金問題に答える ~これで老後も安心だ:鉄鼠の人生相談
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「一見ナンセンスに見えないものを、明らかにナンセンスなものへとその姿をあばくこと、これが私の示したいことなのだ。」探究464ウィト

誰も突っ込まないので
ひとりツッコミです。
ノートにボールペンで
大きく「我」と書いてみる。
そのノートを持って大きな等身大の鏡の前に立つ。
そこに映ったノートの字と「自分」を見比べてみる。

似ても似つかない。
(「「我」とは何か」)
哲学とはなにか?
……
ツチヤさん的にいうと、
「哲学は、新しい事実を発見することによって問題を解く学問ではありません。
哲学の研究は、頭の中で考えることでしかないんですね。頭の中で考えて、ことばとことばの関係だとか、論理的な関係とか、そういうことを分析することしかできない」(p.222)
それは、「哲学的問題を解決できるかどうかということです。あるいは哲学的なことを知ることができるかどうかということです。哲学的なことを知ることができるかどうかを調べるために、「知る」とはどういうことか考えるんですね。それは真なる文を作ること」(p.189)
です。

しかし、いままで、哲学的な文として、つまり、「真なる文」として、いままで語られてきた話型というのは、
「真の……」、「ホントーの……」という話型でしかありませんでした。
たとえば、(ツチヤさんが上げる)ベルグソンの「時間」。
「ベルクソンという人は、われわれが「時間」と呼んでいるものとは違うものを、真の時間だと主張」するものにすぎません(p.224)。
要するに、みなさん達がベルクソンの哲学なるものといっているものは……
「ベルクソンは、新しい発見をしたわけではなくて、われわれが使っている「時間」という言葉の規則を変更しようという提案」でしかないんです(p.224)。
これはベルクソンだけではなく、
ほとんどの哲学の…「真の(哲学体系とか)」…「真の……」、「ホントーの……」という文は、そういうものなんです(…ちなみに…「真の平和」とか、「ホントーの民主主義」って言葉も、新しい事実を発見することによって解くタイプの問題でない場合、その疑いがあります)。

だから、そんなツチヤ-ウィト説によると
いままでの哲学の問題は、すべからく言語上の誤解にすぎません(あるいはもうちょっとカッコヨクいうと「思考の限界を超えている」)。
言語上の誤解……
言葉の使用における誤解、逸脱、侵犯……

ウィト以降、
言語上の誤解を解くことが(言語論的転回)、
哲学の仕事になったと、よく言われますが……
言語上の誤解を解く……などの言語の探究というと、
だからこそ、真なる言葉を探究する哲学の言葉こそが、価値ある言葉だと…
いまだに、そう思ってるひとがいるようですが、
そうではありません。
それどころか、まったくの逆コースです。
現代哲学が、
必然的に反哲学にならざるをえない
とよく言われるのは、そこにあります……

そもそも哲学や科学の論理(言葉)といえど、
自然言語、日常使っているコトバ(話型)に寄生する形でしかありえず、
つまり、問題の始源は自然言語の使用段階にあったはずです(これにはクワインなどを参照して下さい(*1))。
しかし、哲学がいままでやってきたことは、結局、日常使っているコトバの規則を変更してしまうだけの提案(メタ言語)にすぎないとすると、どんなにコトバの規則に変更しようが、
あるいは「われわれのことばづかいをいくら明らかにしても、この世界に成り立っている深遠な真理を解き明かしたことにはなりません」。(p.225)

問題なのは、あくまでボクらが「X」と呼んでいるもののことです。
ベルクソンがなんと言おうが
時間とは、われわれが「時間」と呼んでいるもののことです。
そこで、ボクらの日常の言語使用(コミュニケーション)こそが問題になる。
ウィト(-ツチヤ)は、その日常の言語使用(コミュニケーション)を、
言語ゲームという着想を基に、
「真なる文」、言葉の意味について考察しているわけですが、
ゲームの規則(ルール)の問題なのか、それへの従い方なのか
これは非常に問題ですが……
いずれにしろ、こういう言語観に立つと、
言葉の意味、文(問題)の意味は、
その真の意味が、最初から、どこかに、あるわけではなく、
われわれの使い方の規則と、その(盲目的な)従い方(逸脱することも含む)によって、作られていくということが言えそうなんです。
つまり、いままでの哲学の主張(真理)が、その規則を変更してしまう提案(手続き)に過ぎないことが分かってくるわけです。

こうなってしまえば、事実を確認する(新しい事実を追加する)ことによって問題を解くたぐいの学問であればいざ知らず、
哲学のようにじぶんのあたまのなかで終わってしまうような真理の主張(営為)は、
単なる言葉の誤用、ナンセンスにすぎないわけで……
こうやって哲学の問題はすべて解消する……
哲学株式会社、ご破算!
ということでしょうか?……(実際、ほとんどそうなんですが…)

こういった言語観は、一見、
いわば「生きた言語使用」、もっと標語的にいえば、
「みんなで決める生きた意味論」、(反実在論)、
「意味の民主主義(多数決主義)」……等々
一見、、たいへん社会的で、コミュニケーティブで、現代(民主主義)的な言語観にも思えます。
しかし、これは逆にいうと、
従来の哲学………「単に通用しているだけの知」を批判して、「真の知」……いわんや「真の……」「ホントーの……」で語り出す話型の従来の哲学(や思想…その手の知…などなど)は、すべて無効になってしまうことを意味します?。
拙速にいけば、すべては事実任せになってしまうことであり、
言葉の意味、つまり、「知」は「力」であり、すべて権力者や、力の持っている人たち(強者(勝ち組))の「利」に適うものでしかない……少なくとも単に哲学が社会論へと吸収されてしまう……そうなってしまう可能性(デカダン)すらあるわけです(ボクはそのことを認めますが……もちろん、ウィトの説は、微妙にニュアンスが違うんですが……割愛します)。

そろそろ、ボクのような凡庸な者には手に負えない問題になってきたので、
このあたりでやめときますが、

そのような哲学の破産ついては、
ツチヤさんは楽天的で
たしかに哲学の問題は誤解に基づくものだけど、
人間というのは、「言葉」を使っているかぎり、どうしても、そういう誤解に基づく問題にぶち当たってしまう。そのかぎりにおいて、哲学の問題はなくならない。
そういうことらしいです……
お後がよろしいようで…ふんじゃぁ

名状しがたい肥沃な(ザラザラした)大地へ


(*1)
もともとこれは
ラッセルの
「日常言語-自然言語は、進化の過程で、場当たり的に作られてきた不完全な言語である」という言語観からきているもので…(カルナップもおなじようなアプローチがあるよね)…
ラッセルの場合、それから独立した理想言語へと探究を続けたのに対して、
ウィトは、哲学の問題は不完全な日常言語(言葉)の誤用であり、それを避ける形で、哲学的問題を解消することへ……
クワインも、おなじくラッセルから、ホーリズム(全体論)へ……ホーリズムから、認識論の自然化(自然科学的な心理学)
……みたいな~


ラッセルの還元公理ってのは人気がないけど、
それはそれで見方の違いでしかない(笑)。


とにかく哲学者ってのは、みんな、無意味とか、ナンセンスとか
コワイみたいだけど、
ワシのようなバカは、ちっともコワくない(笑)
まぁそこらへんは自分で勉強してねぇ(^Д^)


「ハエにハエとり壷からの出口を示してやること」ウィト「探究」

意外にウィトゲンシュタインというのは
お節介なひとなんだなぁ~

その点に関してだけは
ワシは、どっちかというとニーチェ派だ(笑)。

「のがれよ、君の孤独のなかへ。君は、ちっぽけな者たち、みじめな者たちの、あまりに近くに生きていた。目に見えぬかれらの復讐からのがれよ。君にたいしてかれらは復讐心以外の何物でもないのだ。
 かれらにむかって、もはや腕はあげるな。かれらの数は限りない。蠅たたきになることは君の運命でない。」(pp.113)
「かれらはまた賞賛のうなり声をあげて、君の周囲にむらがることがある。押しつけがましくつきまとうのが、かれらの賞賛である。かれらは、君の皮膚と血に近寄ろうとするのだ」(pp.114)(ニーチェ「ツァラ」)

(といっても、オレはニーチェのようにエラいからではないからなぁ)


また、
「あくまでボクらが「X」と呼んでいるもののことです。」というと
またぞろ、
それこそが「ボクの心の中のホントーの「X」」、つまり、ホントーの意味→観念-「心」こそを探究する哲学と勘違いして堂々めぐりしておいて、それなのに
ホントーのコミュニケーションとは!ホントーの言語行為とは!……etc
と堂々めぐりをはじめてしまうクルクルパーなひとをみかけますが、
本末転倒です。
いうまでもなく、そういったホントーの意味→観念-「心」……伝統的哲学-「意味の心理学主義」こそを、そもそも問題にしたわけです。
カルナップ-クワインあたりを、自分で調べて下さい。


↑心理学批判というと、鬼の首をとったみたいに心理学一般を攻撃する人がいますが(どういう意義があるのか分からないのですが)、ここでは、あくまでも伝統的哲学=「意味の心理学」への批判です。言語学についても同じ事が言えます。


クワインの「自然主義的人間観」は、ニーチェ-フロイト-進化論(チカラ思想と読めば)の焼き直しとして読めてしまうところが面白い~

ツチヤ教授の哲学講義
土屋 賢二
岩波書店 (2005/12)

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って言葉を、若い人や純粋正義まっすぐクンみたいなひとは
すごく嫌う……
口さがないマスコミも、
何かというと「……による妥協の産物に過ぎない」とか、すまし顔でいう。

それじゃぁ
そういうこというひとたちは、
妥協の産物じゃなくて、
なにか、神仏(アラーなど)か……天上で決めれた(現人神、将軍様なども含む)絶対の正義かなんかに従うことが良いとでも思ってるのかなぁ~
(多くの場合は、天上の価値は偽装で、よく訊いてみると、ほとんどは自分勝手な独断であったりするからコワイ!)

人びとが決めたものは、すべて妥協の産物!

鉄鼠 : 政治の理想ってなんだろうか?
鉄鼠 : 政治の問題が分かりにくいのは2

「わたしが『正しい生き方を発見した』といったとしたら、キミはその通りに生きるでしょうか。たとえば、わたしが『朝六時起床、ラジオ体操の後、マザーテレサのような奉仕活動をし、よる九時に就寝する。日曜日も休日もなく、酒、タバコ、ギャンブル、女とは無縁な生活を一生守る』のが、正しい生き方だといったとして、その通りの生活をなさるでしょうか」(93頁)

「このような生き方が、かりに正しい生き方、最善の生き方を知ったとして、はたして、その通りにするでしょうか。おそらく多くの人は、最善の生き方というのが、あらゆる点から見てどんなに自分のためになることだと分かっても、最善の生き方を避けるような生活をするのではないでしょうか。
人間は最善の正しい生き方が分かっても、その通りにはしないのだとしたら、何のために最善の正しい生き方を知る必要があるのでしょうか。正しい生き方を避けるために知るぐらいがオチではないでしょうか。それなら、はじめから何も知らない方がまだましな生き方ができるのではないでしょうか。」(94頁)

「人間はその結論に従って生きるしかないとしたら「人間はロボットに等しくなってしまいます。どんな目標を立てるべきかが決まっていて、それを達成する方法も決まっているのですから、われわれには選択の余地はなくなります。~中略~自由もなくなります。決められたとおりに行動するだけで一生を終えるしかなくなるのです。でも、多くの人は、ロボットになるのを嫌がると思います。」(80頁)

「かりに、研究の結果、どんな目標を立てるべきかが人類に知られたとします。その成果にわれわれは無条件に従うでしょうか。たとえばラーメンを毎日十杯食べ続けるべきだということが分かったとします。あるいは、東京のすべての公園の砂粒の数を数え上げることが人類最大の優先課題だということが分かったとします。そういうことが判明したら、その通りに行動するでしょうか。」(pp.78)
「こういうと、「そんな馬鹿な目標を立てろという結論が出るはずがない」といわれるかもしれません。しかし、専門的な研究の結果、どんな結論が出るかは素人には分からないのが普通です。地球が丸いとか地球が動いているといった研究結果は、どんな常識から馬鹿馬鹿しく思えても、受け入れなくてはなりません。ラーメンを食べたり、砂粒を数えたりするのは馬鹿らしくて従うつもりがない、というなら、その人は、専門的知識を無視して、「自分の気に入ったことしかしない」と宣言しているに等しいと思います。」(p.79)
以上、土屋賢二「哲学を疑え」

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リーダー(指導者)不在を嘆く人が多い。
強い指導力!
改革の新しいリーダー等々
嘆くぐらいなら自分がリーダーになればいいだけなのだが
そういうひとははなからそういうことは考えにないようだ。

それにしても、他人からなんでそんなに指導されたがるのか?
ワシには、その神経が、どうにも分からない。
(八切止夫なら、それを日本の奴隷文化のせいにするだろう(実際、ワシはその説にかなりシンパシーを感じる))
強い指導といえば、…織田信長、天皇陛下、麻原尊氏、○×組組長、キムジョンイル、スターリン……
しかし、どうもそんな強い指導を、みんなが求めているとは思えない。

じっさい、(いくらそれが正しい思われる目標のためだとはいえ)そんな強い指導者の下では、
ほとんどひとは軍隊やロボットのように命令に従うのみだろう。
たいがいのひとは、学校のセンコの弱い指導にだって、カッとするぐらいである。
いくら正しいと言われている指導でも、他人に言われると、なんの抵抗も感じないひとのほうが、むしろ少数派のような気がする。
ワシが見る限り、リーダー(指導者)不在を嘆く人たちが、
リーダー(主君)の理不尽な命令(強い指導)にも黙って武士のように切腹(自殺)したり、
はたまた、ロボットや奴隷みたいな身分に甘んじるようなひとには、とてもとても思えない。
いや、むしろ、そんな事態になったら、「こんなはずじゃなかった」と、真っ先にぶちキレるようなひとにかぎって、
そんなことを言ってるような気がするぐらいである。
(たとえばどちらかというと改革賛成(シンパ)だった人が、
 だんだん自分にはなんの得にもなりそうにもない(もしくは損をする)とわかると、急転してストップザコイズミを叫んだりするような)
だから、リーダー待望論者というのは、
そんな深刻な事態を考えることとは無縁で楽観的なひとに違いないと思う。
ワシのカンだが、そういうことをいう人たちは、
たとえば、学校の級長(クラス委員)を選ぶみたいな~
面倒なことはやってくれて……
いつも、自分にだけは、おいしい、楽なところだけを、まわしてくれる……そんな存在……
ようするに自分にとって、都合の良いひとが現れないかな~って
待望しているだけのような気がする。
(これは女性の白馬の王子様願望に似ている)
じつに楽観的である。

それだったら、
ワシもリーダー待望論者になってもいい(笑)。

※以下もリーダー待望論を念頭において読むと面白いかも。

「わたしが『正しい生き方を発見した』といったとしたら、キミはその通りに生きるでしょうか。たとえば、わたしが『朝六時起床、ラジオ体操の後、マザーテレサのような奉仕活動をし、よる九時に就寝する。日曜日も休日もなく、酒、タバコ、ギャンブル、女とは無縁な生活を一生守る』のが、正しい生き方だといったとして、その通りの生活をなさるでしょうか」(93頁)
「このような生き方が、かりに正しい生き方、最善の生き方を知ったとして、はたして、その通りにするでしょうか。おそらく多くの人は、最善の生き方というのが、あらゆる点から見てどんなに自分のためになることだと分かっても、最善の生き方を避けるような生活をするのではないでしょうか。
 人間は最善の正しい生き方が分かっても、その通りにはしないのだとしたら、何のために最善の正しい生き方を知る必要があるのでしょうか。正しい生き方を避けるために知るぐらいがオチではないでしょうか。それなら、はじめから何も知らない方がまだましな生き方ができるのではないでしょうか。」(94頁)

「人間はその結論に従って生きるしかないとしたら「人間はロボットに等しくなってしまいます。どんな目標を立てるべきかが決まっていて、それを達成する方法も決まっているのですから、われわれには選択の余地はなくなります。~中略~自由もなくなります。決められたとおりに行動するだけで一生を終えるしかなくなるのです。でも、多くの人は、ロボットになるのを嫌がると思います。」(80頁)

「かりに、研究の結果、どんな目標を立てるべきかが人類に知られたとします。その成果にわれわれは無条件に従うでしょうか。たとえばラーメンを毎日十杯食べ続けるべきだということが分かったとします。あるいは、東京のすべての公園の砂粒の数を数え上げることが人類最大の優先課題だということが分かったとします。そういうことが判明したら、その通りに行動するでしょうか。」(pp.78)
「こういうと、「そんな馬鹿な目標を立てろという結論が出るはずがない」といわれるかもしれません。しかし、専門的な研究の結果、どんな結論が出るかは素人には分からないのが普通です。地球が丸いとか地球が動いているといった研究結果は、どんな常識から馬鹿馬鹿しく思えても、受け入れなくてはなりません。ラーメンを食べたり、砂粒を数えたりするのは馬鹿らしくて従うつもりがない、というなら、その人は、専門的知識を無視して、「自分の気に入ったことしかしない」と宣言しているに等しいと思います。」(pp.79)
土屋賢二「哲学を疑え」

「人間は『すべては自分に都合よく起こるはずだ』という信念をもって生まれてくるため、本来、楽観的である、だが、ちょっとしたきっかけで簡単に悲観的になる。金を落とした、失恋した、大学入試に落ちた、競馬に五百回連続で負け続けたなど、都合の悪いことがちょっと重なると、それを基に「すべては自分に都合悪く起こっている」と性急に結論を下してしまう。
楽観主義も悲観主義も、性急すぎる」(土屋賢二「棚から哲学」)

哲学を疑え!笑う哲学往復書簡
土屋 賢二 石原 壮一郎
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「善人とは、自分たちの価値観以外のものがこの世にあることを絶対に分かろうとしないアホな輩です。涙をため相手の肩をゆすって、万引きをくり返す少女やオヤジ狩りに精出す少年たちに、「ねえ、どうしてわかってくれいないの?」と訴える。
 じつは、彼らの真意は、私たちのように生きればもっとずっと得なのに、という一点に絞られる。自分たちは、人々を助け合い、共感し合い、そして慰め合い、喜び合って生きてきた。みんな不完全なのだ。だが、だからこそ、お互いを必要としているのだ……。お説教は留まるところを知らない。何と言っても得だからです。
 さらに、彼らが傲慢なのは、これが「よい」と確信していることのみならず、人間として「自然」だと確信していること。心をほぐしてもっと自然にしていれば、他人に対する同情とか共感とかが生まれるはずなのに、それを無理に押し殺して、かわいそうな子!という視線をぐれた子に注ぐ。
 もっとすなおになってごらん、ほら、きみは愛されたいんだろう?、ほら、きみは愛されたいんだろう?そうだろう?とぐれた子の顔をのぞき込む。そう告白することを条件に。いや、そう告白しなくても、絶対にそうなんだから、みんなでやさしくきみを見守ってやろう、そしていつか心の氷が溶けるまで気長に待ってやろう。こういう勝手な図式をあてがって平然としている。
 こうした善人どもの策略にひっかかる者は意志の弱い者であり、根性が腐っているのだから、そんな奴は早々と白旗を振ってこの世の何十億も生息しているフツーの善人たちの軍門に降り、彼らの生暖かい吐息をふんだんに浴びて、小心翼々と・右顧左眄し・ひたすら失点のないように生き・そして「これでよかった」と呟いて死ねばいいのです。」(pp.40-1)中島義道「ぐれる!」

「社会(世間(他人))」に対する(これから出て行く)漠然とした不安ちゅうのが、
すなおに口に出せんから
そんな(クソ面白くもない)ものに走(頼)ってしまう~」(鉄鼠)
だいたい
ワシもそうだけど
人間は、自分を不当に善良な人間だと思い(あるいは誤解し)たい、
あるいは他人に誤解(思わ)させたがる傾向にあるようで
(自己愛と恋愛)
(ワシの経験から言っても)若い時は、特に
自分が暗くネチネチして嫉妬深い性格だと
素直に認めない人って、案外多いから
そういうクソ面白くもないもの(正しき社会理論や正しい生き方、幸福になる方法……)にはまりやすいような……

「わしゃぁ、案外
 暗くネチネチして嫉妬深い性格だ」
という前提からはじめると、意外に素直な自分になれるかも……(笑…無理する必要はぜんぜんないけど)
ただ、注意しなければいけないのは、
素直になったからといって、
あなたが暗くネチネチして嫉妬深い性格だということには、なんのかわりがないということ……。
ワシが素直になれないのも、
素直になると、
それがみんなにバレそうでコワいから……
かもしれない。
ひょっとしたら、社会には、ワシみたいな(暗くネチネチして嫉妬深い)性格のひとが大多数で……
それで、自分を他人に善良な人間だと見せかけるために、
平等だ!平和だ!思いやりだ!これが正義だ!これが公正な社会だ!……
と声高に叫ばずにはおれないのかもしれない。

もしそうだとすると、
「人間」は、社会においては素直になれない。
あるいは、素直にならない方がいい!
かどうかは、ワシには分からない。
読者諸賢の想像にオマケする。

ぐれる!
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中島 義道
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