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安保賛成派を慶大名誉教授・小林氏が一刀両断! 「まず憲法改正しろ。数の力で通すから反対される」 - 政経ch

「生きるために殺すことだけを取り出して、それを「自然権」「生存権」「正当防衛」「緊急避難」と命名し、法的に正当化したがる人が多い。法の実効性の果てるアウト・ロー状態をも、法的に意味づけようとするわけだ。アウト・ロー状態においては法権力も無能であることがあからさまになるから、その恥ずかしさを隠蔽したいがために、法的に命名しておくのである。しかし法的に正当か不当かと問う余裕すらない状況について、法的に正当か不当かを問うこと自体無意味である。アウト・ロー状態とは法的な問いを遮断してしまうような状態であるし、法的な問いを立てるための前提となる生の存続が問われている状態である。そこで為されることも起こることも、為されるがままに起こるがままに肯定するしかない。正当でも不当でもないという意味において肯定するしかない。」(p,106-7)「なぜ人を殺してはいけないか」小泉義之

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悪いことは、前もって決まっているのか?

山口・母子殺害 死刑の適用焦点 24日に差し戻し審初公判(産経新聞) - goo ニュース

弁護団を批判する人は多い。
イデオロギーでやってるだの、時間かせぎの言い逃れだの…
最も多いのが
加害者の人権ばかりで、被害者・遺族が蔑ろにされている……
といったもの。
鬼畜にも劣る犯行からいえば、
そういった被害者・遺族の訴えはもっともなものだし、
まったくの無関係者でも、それに同情したい気持ちも、分からないでもない。

なかには
「そんな明らかな凶悪な犯罪者の場合、裁判など開かず、さっさと死刑にすればいいじゃないか?」
「なぜ、税金を使ってまで、わざわざ犯罪者の言い分など訊いてやる場(裁判)を作らなきゃならないのか?」
というひともいる。
そういうひとに、一度、
「「何が正しいか?」
 そう簡単にはいえないからだよ」……
と軽口を叩いたら、血相を変えて
「いや、そんなことはない!
人を殺すことは絶対に悪いことだ!
そんなことはあれこれ議論するまえに、前もって決まっているんだ!」

と怒鳴られたことがある( ^∀^)ゲラゲラ。
ネットを見ても、そういうようなことを書いているひとは意外に多い。
しかし、戦争では、たくさんの敵兵を殺すことは良いことだし、そもそも「人を殺すことは絶対に悪いことだ!」と言いながら、凶悪犯を「死刑にしろ」「死刑制度は必要だ」と考えている人もまた人を殺すことを「絶対」に悪いとは思っていないのではないか?。また、正当防衛や緊急避難(相手を殺さなくては生きていけない場合)などの違法性阻却論をあたまから否定することは、なかなか難しいだろう。
つまり、
人間は「一律にヒトを殺すことを悪いとは思っていない」(小泉義之)
そういうことになるだろう。

逆に、前もって何が正しいか悪いか完全に決まっている社会を考えてみよう。
例えば神のオキテで前もって決まっていたりする社会は、ほとんどの現代日本人には、とてもたまんない社会になるんじゃないかと思う……
例えば、マザーテレサのような生活をするのが正しいと決まっていて、そういう生活するように決まっていたりする社会はどうだろう……『朝六時起床、ラジオ体操の後、マザーテレサのような奉仕活動をし、よる九時に就寝する。日曜日も休日もなく、酒、タバコ、ギャンブル、女とは無縁な生活を一生守る』(*1)…なんて…たまんないんじゃないだろうか?……
つまり、前もって何が正しいか悪いか完全に決まっている社会は、宗教国家、絶対主義……SF的にいうなら、ロボット国家である。
ま、前もって何が正しいか決まっている宗教国家&生活でもマザーテレサのような生活ならば罪もないかもしれないが……例えば、「神A」を信奉する人たちが居て、「神A」の信者からすれば、神B、C……は前もって間違っていて悪い神と決まっている。そして、「神A」の信者は、前もって正しいと決まっている「神A」に帰依せぬ異教徒(神B、C……に帰依する信者)を殺すことが、「絶対100%正義だ」と決めて、戦争や残虐行為を行う……
そんなことが、現実に(いわゆる宗教戦争)が幾度も行われてきたのは周知の事だと思う。
そこでB信者に犯人を代入すると、
B信者のやったことに対して、前もって完全に間違っていて悪いことだというひとたちは、
A信者と極めて類比的なところがあると思う。
神Aが見えない物言わぬ神とは限らない。
例えば、現人神(ヒロヒト、ヒトラーなど)から、マルクスの書物、社会や世間の価値(空気)でも充分にそれにかわりうると思う。
そういった思考形式という点だけからいくと、オウマーと反オウマーに違いはないように思える。神Aと神Bの戦いでしかない。


例のコムスン事件で和歌山県知事が「厚労省が許しても、お天道様が許さない。このままじゃ正義が成り立たない」みたいなことをテレビで言っていたが、
日本人の場合、まさに、それが象徴的なように……
お天道様=正義。
言い方の違いはあるにしろ
そういうことをいう日本人は、非常に多いような気がする。
正しいこと……それは空の上にあって、不可侵であり、絶対(神)!
アナロジーとしては、
お天道様は、天の声として、隠された「ホントーの声」……それは隠された「民の声(世間の「空気」)」を「聞こしめす」ことかもしれないが……
しかし、それを聞くのは神Aであり、娑婆のA信者(日本人)たちでしかない(だから、この宗教劇はA信者たちだけの自作自演のように見える)。
要するに、神学(宗教)でしかないのではないか?。

明治の日本(福沢諭吉)は、ヨーロッパの近代民主主義を模倣したが、「抵抗権」という思想だけは欠落させたままだったと指摘したのは丸山真男たが。
まさに、この抵抗権や革命権の思想のなかでこそ、
「ホントは「何が正しいか?」」が論じられると思う。
「いや、そんなことはない!
人を殺すことは絶対に悪いことだ!
そんなことはあれこれ議論するまえに、前もって決まっているんだ!」
そういうだろうか?
それにしても、誰が、どうやって「前もって決めた」のだろうか?
例えば、武家諸法度や、明治憲法、戦後憲法などの人々同士のトリキメは
支配者が前もって決めただろう。
あるいは、
聖書、コーラン、仏典…なら
神、アラー、仏、天子、天皇……それともやっぱりお天道様だろうか……
なんでも「前もって決まっているんだ!」という思想を堅持している人は、
単に支配的なイデオロギーの主張か宗教的な主張をしているだけではないだろうか?
とにかく、なんでも「前もって決まっているんだ!」
という思想が堅持される限り、抵抗の思想は出てこないであろう?。
また、抵抗の思想がないところに
本質的な「何が正しいか?」という問いもまた生まれてこないであろう……?……。

抵抗の思想は、今「前もって決まっている」価値(法)に疑いを向けることである。
それは、逆にA信者としては、
「疑いを向けられる」ことであり……
A信者は、信じる神Aが疑われ否定されると受け取るだろう
(マンセー国家やオウマー国家とか……は、その現人神版で…マンセー国家を目指していた日本で、そういう抵抗権が無視されたのは見易い道理だろう…神のいない国と言われている日本に、いまでも意外に、前もって悪いことは決まっていると考えるひとが多いのは、たぶんにその残滓((現人神やオカミの)思考習慣)であるような気がする)。
ことほど左様に、そういう考えの枠組にいる限り、それが抹殺の思想を生みだす、不毛な宗教(神学)論争になるのは目に見えている。

西洋では、そういう宗教対立の血で血を洗う争いの後、
政治から宗教(「前もって決まっている」(天上の)価値)の分離が説かれ、
人々によって行う近代民主主義が、それに取って代わった。

しかし、神ならぬ人の誰に「絶対」に正しいことなんて分かるのだろうか?
ヒトラーか、スターリンか、マオか、ヒロヒトか、キムか……
(これらの人々は人間でありながら神の顔をして多くの人々を塵芥のように殺した)
近代民主主義社会には、
神の国のように、絶対に正しいことなんてない。
否、その方がいい。
絶対に正しい事なんてないから、
裁判(議会)を開き、
相手の主張を訊き
多数決で決める(国会だって、最高裁だって、最後は多数決(頭数)で決める)。
(もちろん、そこに神学的な戦いが全くないと言うつもりはないが)

日本には、古来から、「盗人にも三分の理」ということが言われる。
いろんな解釈が可能だと思うが、神ではない人には、どっちが100%正しいなんて、誰も決められないということにもとれる。
盗人(あるいは負け組、社会的弱者)にだって、いろんな事情があったかもしれないし、
もしかしたら、その社会のほうに問題があったかもしれない。それは分からない。
少なくとも100%正しい良い完全な社会なんてありそうにない……と思うのだが……。

死刑制度については
また今度

……Note
(*1)土屋賢二「哲学を疑え」

すさブロ! : 初夜権
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ってことがよく言われる
中途半端な反米&平和主義者にかぎって
特にそういうことを声高にいうひとが多い。

古くは漱石のような文学者が、
明治国家を「内発的ではない」と批判したことが、広く知られている(じつはもっと昔から、そんなことばかり言われてきたのだが…)。
そのせいかどうかはしらないが、それから、似たようなことが
独立国家論として、繰り返し言われてきたわけで……
現代ならさしずめ、敗戦後、米国に属国のように従属し続ける日本国家に対して、
真の独立国家、つまり、内発的な思想で自立した国家を目指すべきだと訴える「品格」論調がそれ。

中途半端な平和主義者は、
中途半端な反米主義者であることが多い。
なぜか?
「平和国家「日本」を戦争へと加担させる米国には反対(大国の横暴)だ」というわけである。
そうやって中途半端な平和主義者は、中途半端な反米路線を経由しているうちに、
次第に独立国・自立路線に流れて、右派的な路線に、吸収されてしまってることが少なくない(しかも、気づいてないところが、タチが悪い)。
戦争の負担を強いる世界国家「アメリカ」に毅然とした態度を示せない日本国家を批判し、
どんな関係(もの)にも従属しない、内発的な思想を持つ、唯我独尊、自立した国家であるべきだという。
(なかには、そうでなければ、「大嘘の平和憲法国家」だとか言い出すひとまでいるから、ちょっとしたプチナショみたい!(笑))

しかし、そもそも日本人の場合、反米みたいな、弱きを助け強きをくじく……巨悪に立ち向かう個人みたいな
(青臭い)知的スタンス(批判的精神)自体が、そこから輸入されたものだろうし(もともと日本ではオカミにお仕えして死ぬことぐらい(諫言、諫死とか)しかなかったからな…)、
それこそ欧米的な近代的個人(いちばん身近なのはハリウッド映画のヒーロー)への憧れと俗流の知的ファッションからのものがほとんどと思う(要するに、ちょい反米ちょい反体制を気どってるのが、知的にカッコイイと思っているだけ)。
少なくとも、反米思想自体は、内発的で自立した知的スタンスとは思えない。
ていうか、そもそも、なんの関係も影響も受けていない知的スタンスなんてありえるのだろうか?(これはずいぶん昔に柄谷から学んだことなんだけど)?

なんの関係にもとらわれず自分の内発的な信じた道(知的スタンス)を行く唯我独尊・自立国家といえば、オツムの弱い人には、なんとなく威勢が良くて、聞こえが良いのかもしれないが、
ごまかされてはいけない、そんな文句は、自分勝手なリクツで、相手(関係)無視で、国際社会で振る舞って良いと言ってるのとなんらかわるところはない。
かつての侵略国家(大日本帝国や第三帝国など)の行動原理と、さして変わらないのである?。
もしかしたら、そういうことを言う人たちは、「私たちは平和を愛する良い人間であり、その理性と良心に則って行動するからノープロブレム」とか思っていないだろうか……。
そういう人間の理性や良心だけをあてにすることが、
いかにあてにならないものかを思い知ったのが、あの二つの世界戦争だったのではなかろうか?

ワシなんか
大嘘の平和憲法国家かもしれないけれど
とりあえず、いま平和だからいいじゃん
自前で軍隊持ったり
自前で核開発するより
ラクでいいじゃん。
とか思うけど……
彼らは、そうは思ってはいないのだろうか?。

それにしても、どうして彼らが、
そんなに自立国家にこだわるのか?
たぶんに、それは戦後個人主義の(自立)思想をかいかぶってるような気がする。
個人が大人になって自立(核家族)するように、日本国も自立しなければならない。
自立する、一人前になる…
なんとなく、そんなふうに思ってるような気がする。
自立論をとっているひとに、いい大人が多いのは、そのせいかもしれない。
しかし、近代になって個人(国民)が自立したとはいっても、
なにもかも完全に自立しているわけではあるまい。
結局、イヤでも会社に行かなければ
暮らしてもいけない。
日本の男なんか会社から完全に自立してやってるひとは、そんなにいないのではなかろうか?。
その会社だって、商売だって、芸能だって、……
社会(国家や国家間)の掟や通貨を無視して、じぶん勝手にやっていいわけではないし、やれるわけでもない。
結局、近代的個人(国民)の自立と言ったって、そういった力関係の差異(強弱)のなかで従属して生きているわけで、それとは、まったく無関係に、個人が自立しているわけではない。
それなら国家だって国際社会という社会にいる以上同じことではないのか?。
アメリカという巨大な世界国家の力関係のなかで、うまく生きていく以外にないのではないか?
そう考えれば、日本がアメリカに従属するのも、お父さんが会社に行くのも、同じようなものではないのか?
かえって、完全に自立し、手前勝手なリクツでなんでもできる、唯我独尊国家のほうが、危険なのではないか?(個人レヴェルでいうと、そういう(戦国武将のような)人間ばかりが社会にじっさいにいたら困るように)
「敗戦と占領を経て、法的に国家主権を回復したとはいえ、軍事的にはほぼ完全に、外交的にはかなりに、経済的文化的にも一定程度は、アメリカ合衆国に従属しつづけてきたのが、日本国家だった。この状況下でナショナリズムを自覚し、正面から掲げたならば、軍事と外交におけるアメリカからの完全自立を目標とする長く困難な闘争へと邁進するほかなくなるだろう
 だが、アメリカが珠に軍事的に世界国家化した戦後、ことに冷戦後の世界情勢下で、これは日本、いやほとんどの国家にとってあまりに現実性を欠いたプログラムである。
 そんないかんともしがたい屈辱的状況をまえに、日本人、特に知識人の多くは当初、ソ連・中共をうしろ盾としたマルクス主義革命を夢見て、日本民族が社会主義を掲げてアメリカ帝国主義から民主的独立を果たす路線を信じた。そして、革命の可能性が遠ざかるにつれ、彼らのほとんどは現実直視から逃げ、戦争放棄で世界の先駆となった日本という観念的なナショナリズムへと退嬰的にも閉じこもっていった。」(26頁)
浅羽通明「ナショナリズム」
「たしかに、すべてから「完全自立」する…
それは大変、高尚なことであるのかもしれない。
それからみれば、今の生活は、いかんともしがたい屈辱的状況(囚人生活)だと喩えられてもしかたない…
しかし、この生活だって、それなりにいいところもある……
この生活を捨てて(会社を辞めて)まで、そんな困難な(ユートピア)プログラムに参加しようとは思えない……云々」
そんなふうに大半の大人は思えるのではないか?
自分のことについては、そう思っている大人たちが……
なぜに…国家の完全自立にこだわるのか?
わからない…?
お父さんたちが会社を辞めないように、国家も完全自立を求めない
大事なのは自立ではなく、
自分の幸福(ごきらく)な生活ではないのか?( ^∀^)ゲラゲラ
「大人は自由である。習慣や慣行に服従して大人しく生活することは楽しくて快い。動機はどうであれ、既成のライフ・スタイルに乗ることが一番良い生き方なのだ。確かに大人は、そんな生き方が最善のほんとうの生き方でないことは弁えている。しかし大人は、人生において最善のほんとうの価値を求めても仕方ないと割り切っている。それが大人というものだ。だから大人は気楽なのである。
 そして大人はデカルトに言うだろう。自分の人生を囚人生活に喩えられてもかまわないが、わざわざ苦労して脱獄する積極的理由があるだろうか。家庭や会社や社会を捨てるのは大人げないやり方だし、それは一部の変わり者の特権にすぎない。捨てたい者は捨てればよいが、自分は持ち場を離れるわけにはいかないし、そこで満足するしかない。脱獄こそが最善の道だと言いたい者には言わせておけばよい。悩みつつ牢獄に甘んじる大人の心情を、デカルトは分かっていないのだ。〈目覚めよと呼ばう声〉は音楽会の時だけの話だ。」(76頁)
小泉義之:「デカルト=哲学のすすめ」


浅羽通明「ナショナリズム」



小泉義之「デカルト=哲学のすすめ」

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「基本的に、自分より下だと思っている人間のいうことなんか、
だれも聞きたくない。不愉快。…たとえば、このブログなんか…」

鉄鼠 : オジサンのいちばん欲しいもの

ひとは、基本的にじぶんより上からの承認が欲しい……
のか??

それで、小泉義之のような勝ち組が、自分たちの(政治)目標に適合した時だけ出てきて、なり代わって(負け組代表として)、朝から気前の良いダイベンをしちゃう??~(´∀)ゲラ(´∀`)ゲラ(∀`)
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小泉義之「「負け組」の哲学」:人文書院


「無力な者に(代わって)訴える」(25頁)

ほらねぇ
「実質、負け組には、社会での発言権はないと言っていい」でしょう?( ^∀^)ゲラゲラ


「われわれが願っているのは奇跡である。車椅子がスポーツカーよりも速く移動すること、医療機器がポータブルになること、指先の動きだけで意志が伝わること、目蓋の動きだけで武器を破壊できること、受肉の奇跡を肉体のいたるところで引き起こすこと、要するに、無力な者に力を賦与することである。われわれが為すべきは、こんな奇跡のために、政治経済を本気で変更することなのだ。」(54頁)
なんにもいいたくはないが
ちょっとだけ……

・「われわれが願っているのは奇跡である。」
カネ(力)である…

・「車椅子がスポーツカーよりも速く移動すること」
だったらスポーツカーに乗ればいいじゃん
なんだって車いすなわけ?
転けたら、あぶないじゃないか!
病人だって、利用するんだから…

・「指先の動きだけで意志が伝わること」
a0009919_634864.jpg
なんだ伝わるじゃないか!

・「目蓋の動きだけで武器を破壊できたら」
武器を破壊する前に、
まずは邪魔な人間のほうが消(破壊)されると思う!
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今日は、
朝から、橋本治さんの「人はなぜ「美しい」がわかるのか」を読みました。
朝から、こんな本を読むとは、なんと不健康な!と
お嘆きのゴキ系、もとい御貴兄もおられると思いますが
最後の方の、ハシモチさんの近代-孤独論だけは、なかなか刺激的でしたので、そこんところだけ。

さて、いつものように甚だしく混乱したハシモチさんのハナシぶりですが、
近代-孤独論に関してだけは、かなりしっかりしたハナシです(これは何回かこのブログでも紹介しましたが)。
「「孤独」というルートが、途中でUターンして、前近代の制度社会へともどることを「ゴール」としてしまったからです」(255頁)
本人に訊いた訳ではないので、よくわかりませんが、これは最近のプチナショなど(もちろん、それだけじゃない)…一連の世の傾向の比喩としても読める気がします。
ハシモチさんによると、人は、近代によって(自立を要請され)孤独を自覚し、「だから」自立へと向かい、個人となる。
そもそも高度情報化社会&ツールも、孤独を要請された近代の「孤独な人-個人」のためのものでしかありません。
孤独を自覚し、自立へと目覚める……個人-近代人
ということでしょうか?

そこで、ハシモチさんのハナシをワシなりに敷衍すると、
世の中には、
二種類のやっかいな人たちが居ることになるんじゃないかと思います。
ひとつ目は
「孤独になってるのに、全然、それに気づかない人」
これはやっかいです。
俗にこれは「バカには勝てない」「バカは死んでも治らない」と言われる所以です。
バカだから、自分のバカに気づかない。
自分のバカに気づかないのがバカ。
こりゃあ他人からは、どうしようもないことです。
こういうひとのなかでも、特にやっかいなのが、
「ニッポン」や「ニッポンジン」、「シャカイ」、「ミンナ」なる音声だけで、手足が条件反応してしまうバカでしょう。
ハシモチさんがいう「制度社会」の中で、いわば部品として埋没…「無難に埋没している中年男(ワシ)」とか
…ハシモチさんの色分けでは前近代人になるでしょう……
ふたつめは、前段でも言ったような、もうちょっとすすんで
「確かに孤独は自覚するんだけど、やっぱり、孤独になるのが恐くて、中途はんぱなところでUターンしてしまう人」
ネットでもいます。
若いのに政治家が悪い、社会が悪い…
なにがどう悪いか、ホントは何も分かってなんかいない。
ほとんどは、社会に対する漠然とした不安…若い人の場合は、そんな「社会(世間)」へ出る漠然とした不安が…
「社会から仲間はずれにされたくない」不安が……
そうさせているだけってことが多い……
そりゃあ、もうガキの頃から、学校で、そんな「世間」の刷り込みだけで生きているから(だから仲間はずれにされただけで自殺してしまうガキまでいる)、
世論とか、ジャーナリズムとか、流行とか、etc…なにがなんでも仲間になってまぐわるしかなくなる。
ハシモチさんの言葉を借りれば、「仲間になれば、生活の保障をしてくれるシステム」があるはずだと、たぶんに信じられているからでしょう。
もうそうなると、ほとんどの場合、仲間になるために、
自分の頭をとりたい人が続出します。
なぜなら、自分の頭があると、自分の頭でものを考えるということをしてしまいます。でも、自分の頭でものを考えるということは、「オレの考え」を持つことだから、必然、仲間とズレます。
それじゃ仲間になれません。
ズレていると、キショクの悪いヤツだといわれて、仲間はずれにされます(このような事態は、日本人がもっとも恐れている事態です)。
「孤独に転落したくなかったら、この制度に従順であれ」(257頁)
頭をとりたい。
WCのサポーターだ!、嫌韓だ!プチナショだ!……みたいなもんにひよって、ニッポン!ニッポン!ニッポンジン!…「ミンナ一緒!」とか叫びたくなります……
「孤独になるのが恐くて、中途はんぱなところでUターンしてしまう人」
仲間はずれが恐くて「前近代オヤジ(制度)社会」へUターンしてしまう……
ホントは頭をとってるくせに…自分の頭でものを考えたフリができるようになると…
まわりから、仲間=大人(オヤジ)になったと認められます。
こうして…典型的な「無難に埋没した中年男」が作られていきます。

ハシモチさんによると、
こんなUターン現象を生んでしまったのは、
せっかく、がんばって、近代になったのに
「「近代になってもまだ近代国家を作る」という矛盾」
みんなが簡単にスルーしちゃったから……だと言います。
うーん。なるほどぉ
ここまでは、「なるほどなぁ~」
という感じはします。
そして、
ゴールは、そっち(Uターン「前近代オヤジ(制度)社会」)の方向ではなく、こっちのほう……
というのも分からないでもない。
方向性は分かるけど……
「近代の非制度社会」
「個の調和」

というのは、どうなんだろう……??
と思います。
ハシモチさんは、
「それは、まだないから、さっぱり分からない」といいますが、
そうではないと思います。
二つのキーワードを、ワシなりに、整理すると
ハシモチさんの言いたいことは、
こうなります。
「個の調和による制度のない社会」
しかし、それって
それが出来たら、苦労なんかするかっていうハナシじゃないですか?
ここらへんで極端にファンタジーユートピアです。

整理しなおすと……
「前近代オヤジ((制度)社会)」は、近代に出会って、確かに、人は自立のために、一旦、バラバラに孤独にされたんですが、いざなってみると、やっぱり孤独はさみしくて、恐い……まぐわって、甘えていたい…
孤独→自立とはいかないで、
孤独=仲間はずれ→転落(悪)の図式から、またもや「前近代オヤジ(制度)社会」へUターン。
やがて、その「前近代オヤジ(制度)社会」のなかで「個」は埋没して、孤独-自立は、「許された時間の囚人」へと変質してしまう……

要するに、
ハシモチさんが言いたいのは
民よ目覚めよ!
wake up!
wake up!
立て!
立て!
立つんだ!じょー!
ということでしょうか~

すっかり教養小説です。
ワシのような無能な「許された時間の囚人」でも
ビルトウングスすべきでしょうか?
(ここらあたりで、ありきたりな進歩史観バッシングはやめときます)

「無能な許された時間の囚人」
「無難に埋没している中年男」……といわれても
けっこう気楽なんですが……いけないかなぁ~( ^∀^)ゲラゲラ

「大人は自由である。習慣や慣行に服従して大人しく生活することは楽しくて快い。動機はどうであれ、既成のライフ・スタイルに乗ることが一番良い生き方なのだ。確かに大人は、そんな生き方が最善のほんとうの生き方でないことは弁えている。しかし大人は、人生において最善のほんとうの価値を求めても仕方ないと割り切っている。それが大人というものだ。だから大人は気楽なのである。
 そして大人はデカルトに言うだろう。自分の人生を囚人生活に喩えられてもかまわないが、わざわざ苦労して脱獄する積極的理由があるだろうか。家庭や会社や社会を捨てるのは大人げないやり方だし、それは一部の変わり者の特権にすぎない。捨てたい者は捨てればよいが、自分は持ち場を離れるわけにはいかないし、そこで満足するしかない。脱獄こそが最善の道だと言いたい者には言わせておけばよい。悩みつつ牢獄に甘んじる大人の心情を、デカルトは分かっていないのだ。〈目覚めよと呼ばう声〉は音楽会の時だけの話だ。」(小泉義之:76頁「デカルト=哲学のすすめ」)

さてはて
どっちが気楽な人生かなぁ~( ^∀^)ゲラゲラ

と…チェインギャングは歌い出す…


鉄鼠 : ニーチェで読み解く橋本治(笑)


ビーケーワン:人はなぜ「美しい」がわかるのか

人はなぜ「美しい」がわかるのか
橋本 治 / 筑摩書房
ISBN : 4480059776
スコア選択: ※※※



デカルト=哲学のすすめ
小泉 義之 / 講談社
スコア選択: ★★★★★
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Excite エキサイト : 国際ニュース
livedoor ニュース - 【核開発】北朝鮮「全世界がわれらの敵」

「おおばくち もともこもなく すってんてん」(甘粕大尉)
になるかどうかはしらないが…

「笑うしかないねぇ」
とかいうと、
「不謹慎!」
「わたしたち一般市民で、他になにかやれることがあるんじゃないか?」
とか叱れるかもしれないが、
誰がバカだの、あの国はあほだのって、評論家ヅラしてぼやいたって
実際、空からミサイルや核兵器が降ってきたら……
平和憲法をかざそうが、手をかざそうが
文字通り、徒手空「憲」
一瞬で丸焼け!
北京ダック!
なにができますか…いまの日本国民!
もしかして「竹槍でB29撃墜」なんて考えてます?
かわってませんね~( ^∀^)ゲラゲラ



「そういう殺すか、殺されるしかない状況になったら
どうするんだ!
もっとおまえ
真剣に考えろよ!」

と、心配性のひとはいうかもしれない…
だけど、ワシみたいな一般奴隷(一般市民ともいう)は、「殺すか、殺されるしかない状況」になったら、腹をくくって「殺すか、殺されるしかない」じゃん。
ほかになにがある?
「殺すか、殺されるしかない状況」を想定し、
「「殺すか、殺されるしかない状況」になったらどうしよう?いやん!」とか言って、
中途はんぱなところで逃げ出そうとするから、
左に行けば平和憲法、世界市民……、右に行けば「日本人の誇り」とか言い訳にして防衛構想云々、そういう思想みたいなもんをどんどん膨らまして頼りたくなる?
逆にいえば、あーだこーだほざくのは、平和憲法も「日本人としての誇り」も、ちっとも信じてないから…自信の無さのあらわれ…かも?。

どっちにしてもそんなもんは、ワシのような一般奴隷レヴェルでは、なんの役にも立ちそうにない。
「日本人」も憲法も要らない。
長ったらしいなんとか理論も要らない。
気どった言い回しも要らない。
何の思想も要らない。
「殺すか、殺されるしかない」
覚悟ひとつあれば、足りるじゃん。

「汗かくぞ 歩こう 明日も楽勝!」ケツメイシ
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唱える人たちって
ほとんど、ボッチャンだよね。

鉄鼠 : バカは死んでも治らない

けっきょくさ~あ
そのボッチャンが、世の悪人&バカ&小人を相手に
その悪人&バカ&小人…社会悪…を糾弾することを通じて、自分の公正さや賢さ…人間性や道徳性の高さのアピールになっているだけだったりするよな…(まあ、そういうところに気づかないところがボッチャンのボッチャンたるゆえん)
そういう「大きい(天下国家)」ことがいえる自分……そういう憧れや高揚感に酔っているだけの若い人やACは、じつに多い(内田の「『自分の外にある悪と闘う』という話型によってしか正義を考想できない人間たち」に似ている)。
言ってることは、単純で
「ぬあんでワシみたいな、
 賢くて、優しくて、良い人間を見倣わんのか…ぼけぇ!」

要は、自分に酔っているだけだから
いきおい、遅れてきた思春期性少年→ボンチャン版珍走団になる~(暴走族の場合、うえの文言が「強くて、ワルな人間」になるだけ)。

とにかく、こういうひとたち(ボッチャンサヨク)は
世の悪人&バカ&小人の糾弾だけで終わってしまうというか、
満足というか、
世の悪人&バカ&小人の頭を押さえつけて、
自分だけ頭一つ出すこと(差別化(芸))こそが真の目的で……
へたすると、世の悪人&バカ&小人も、どうでも良かったりする。

なんでも、小泉義之さんや宮台さんら
…(詳しいことは知らないが)…エライ人たちから言わせれば、
どんなにワシのような世の悪人&バカ&小人に、怒っても、嫌っても、
結局、皆殺しにするわけにはいかない……、
世の悪人&バカ&小人を糾弾(による教化)だけでは、限界がある……
そこで
問題は、世の悪人&バカ&小人「を」、どうするかであり、
どうやって世の悪人&バカ&小人と、イヤだけど、ガマンして、やっていくか、こそが大事だというわけね。
だから、最低限、他の人に、その「バカ」がうつんないように、
(ワシのような)バカを、学歴(アパルトヘイト)社会だとか、
競争社会だとかで管理して、
悪人&バカ&小人を厳密に隔離する仕組みを作るべきだ。
(モロ社会防衛の思想なのよ)
あるいは、
隔離した上で、自然死を待ったほうがいい……。
(実際、少なからず、そうなってるかもね)

まあ、それもいたしかたないかもしれない。
諸行無常じゃ~といっても、問題は終わらない。
そんじゃ~世の悪人で、バカで、小人「は」、どうすればいいのか?
世の(エライヒトは除く)悪人&バカ&小人は、
世の悪人&バカ&小人、どうするかではなく
悪人で、バカで、小人、どうすればいいのか?
世の悪人で、バカで、小人は、そういう立ち位置に立たなきゃ
おかしいのである。
もっと簡単にいえば
ワシのようなバカは、どうすりゃあいいんだ?
っていうこと。
バカ扱いされて、
隔離されて、自然死する……
バカは、いつだって孤立無援だ。

社会学者は、社会さえまともだったら、それで良いかもしれないけれど……
ワシは違う。
ワシは、ちょうど社会学者とは逆で、
どんなにひどい社会であろうと、
ワシが幸福なら、それでいい(*1)。

逆に、どんなに他人が良い社会であると宣おうと、
ワシがサイテーなら、
それはサイテーな社会だ。

民主主義社会では、
良い社会か?悪い社会か?
なんて
結局、それを支持する頭数の多さでしかないか?
は、
読者諸賢の想像にオマケ!

note---------------------
(*1)「ワシが幸福なら、それでいい。」
というと怒るひともいるかもしれないが
たとえば、パニック映画とか
大災害が起こって、
主人公やその家族だけが助かったとき、
ふと安堵してしまうことは、誰にでもあると思う。
(決して、その安堵は他人へのものではない)
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「頬骨が出て、
 唇が厚くて、
 眼が三角で、
 名人三五郎の彫った根付の様な顔をして
 魂をぬかれた様にぽかんとして
 自分を知らない、こせこせとした
 命のやすい
 見栄坊な
 小さく固まって、納まり返った
 猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、
 だぼはぜの様な、めだかの様な、鬼瓦の様な、
 茶碗のかけらの様な日本人」高村光太郎「根付の国」

「人は、「私は日本人である」と言う。私はこの意味が分からない。なぜなら、日本人であるところの「私」がなんであるのかがわからないからである。百歩譲って、人は「私」のなんであるかがわからないからこそ、そのアイデンティティを国家なり民族なりに求めるのだという主張を認めるとして、それなら、その何であるかわからない「私」によってアイデンティティを求められる国家なるものは、そもそれが何であるかわからない「私」たちの共同体であったはずだから、やはり何ものでもないはずではないのか、何ものでもないそんなもののために、なぜ人は戦い、血を流すことができるのか、全くもって私には理解できない。これを妄想と呼ばずに、人類における他に何を妄想と呼ぶべきか」池田晶子「睥睨するヘーゲル」新潮社

「好き嫌いで言えば、私はもちろん道徳などよりは死刑や国家のほうがはるかに好きである。それらははっきりした権力行使であり権力機構であるから、そのぶん神ではなく、したがって存在しない価値を信じるという意味での「ニヒリズム」とは無縁だからである」(p.67)永井均「なぜ人を殺してはいけないのか?」河出書房新社

「一般に人は人を殺してはいけない、したがって人は私を殺してもいけないが、自分だけは人を殺してよい」(p.80)永井均「なぜ人を殺してはいけないのか?」

「私や私の愛する人が殺されるのは嫌だが、だからといってそれがどうして私が他人を殺してはいけない理由になるのかがわからない」(23頁)永井均「これがニーチェだ!」講談社現代新書

「これほど多くの人が殺されても、世間全体はいささかも損失を被ってはいないし、私も何ら損失を被っていない。誰かの死は、誰かの生と断絶しているだけではない。殆どの場合、誰かの死は、誰かの生活とも断絶しているのだ」(123頁)小泉義之「なぜ人を殺してはいけないのか?」

「生きるために何をやっても構わない。殺さないと生き延びられないなら、殺して生き残るか、殺さないで死ぬしかない。殺しても構わないし、死んでも構わない。どちらでも構わない。
 ところが、生きるために殺すことだけを取り出して、それを「自然権」「生存権」「正当防衛」「緊急避難」と命名し、法的に正当化したがる人が多い。法の実効性の果てるアウト・ロー状態をも、法的に意味づけようとするわけだ。アウト・ロー状態においては法権力も無能であることがあからさまになるから、その恥ずかしさを隠蔽したいがために、法的に命名しておくのである。しかし法的に正当か不当かと問う余裕すらない状況について、法的に正当か不当かを問うこと自体無意味である。」(106頁)小泉義之「なぜ人を殺してはいけないのか?」

日本国民に檄す

日本国民よ!
a0009919_81358.jpg刻下の祖国日本を直視せよ。
政治、外交、経済、教育、思想、軍事!
何処に皇国日本の姿ありや。
政権、党利の盲ひたる政党と之に結託した民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧制日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育、腐敗せる軍部と、悪化せる思想と、塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と!
日本は今や斯くの如き錯綜せる堕落の淵に既に死なんとしてゐる。
革新の時機! 今にして立たずんば日本は亡滅せんのみ
国民諸君よ
武器を執って! 今や邦家救済の道は唯一つ「直接行動」以外の何物もない。
国民よ! 天皇の御名に於て君側の奸を屠れ
国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ!
奸賊、特権階級を抹殺せよ!
農民よ、労働者よ、全国民よ!
祖国日本を守れ
而して
陛下聖明の下、建国の精神に帰り、国民自治の大精神に徹して人材を登用し、朗らかな維新日本を建設せよ。
民衆よ!
この建設を念頭しつつ先づ破壊だ! 凡ての現存する醜悪な制度をぶち壊せ!
偉大なる建設の前には徹底的な破壊を要す、吾等は日本の現状を哭して、赤手、世に魁けて諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの
素より現存する右傾左傾、何れの団体にも属せぬ。
日本の興亡は吾等(国民前衛党)決行の成否に非ずして吾等の精神を持して、続起する国民諸軍の実行如何に懸る。
起て!
起って、真の日本を建設せよ

陸海軍青年将校
農民同志
五・一五事件「日本国民に檄す」より


「しかも日本の場合の特徴は成す術もなくやられたということです。私たち日本人は、激しく抵抗したとか、あるいは対等に戦った思い込んでいるし、思いたがる。神州皇軍不敗ですから、そう思いたがるのは無理もないが、じつはほとんど敵に損害を与えていない。緒戦は不意打ちで、しかも向こうが無力な植民地支配のための警察に毛のはえたような軍隊だから勝てたが、いざ来いとなって、正規軍がやってきたら、ほとんど問題にならなかった。
 戦争に行った人間は、勇戦奮闘したといいたがります。一兵卒として戦った私でも、弱くてやられたとは言いにくい、ですが、ほとんど敵に損害を与えていないのです。敵さんは頑強に抵抗しているとは思っていなかったのではないですか。」(p.10)会田雄次「日本人は敗戦を認めよ」月刊【発言者】Aug.'95.(西部邁事務所)

「本土空襲のさい、日本は一生懸命に高射砲を射ちました。しかし、B29は八千メートル上空を飛んでくる。あの高射砲は三千メートルぐらいにしか届かないから本当は意味がない。向こうははるか下方に花火かなにかが光っているように見えただけだったと思う。前線の戦いでも、そのほとんどは戦いではないのですね。私はなぶり殺しにされたようなものだったと思います。」(上同書)
 日本は戦争をして負けたことは確かですが、ドイツのように正面切って互角の大相撲といった戦闘をして負けたのではないのです。アメリカは、硫黄島などの例外を除けば、自分たちの作戦には一日の狂いも生じなかったという。」(p.11同書)
「あの戦争では無条件降伏、全国を占領され、しかも、永遠に旧敵国の支配を受け入れるという憲法を押しつけられても何もできないという、およそ世界の歴史に類例がない悲惨さです。経済だけは一応繁栄した奴隷社会といってよい。まだその後臥薪嘗胆で復讐を企てるとか、どこかに亡命政権をつくって抵抗するとかは聞いたことがありますが、日本の場合ゲリラ戦の一つもなかった。」(p.11)
「敗戦を隠した無名の人々」「煽ったのは特に教育者、教育学者ですね。『戦争へ行ってこい、御国のために死んでこい』といい続けていた。」
「その代表は、東京帝国大学教育学部の連中だったと思います。その中心人物の海後宗臣など戦前は、徴兵不合格者は罪人だから罰せよと書いていたのを私ははっきり覚えています。不合格になるような奴は身体が弱くてお国の役に立たないから処罰せよと主張した。そんな連中が、梅根悟、宗像誠也等以下そのようなことを書いた人物が、戦後は急転直下、侵略主義の権化天皇の排撃ですよ。一言の弁解もなしにね。立場が変わったので有名なのは歴史学者の家永三郎ですが、彼の場合には変わった理由はっきりしている。戦前は皇国史観を説いていましたが、戦後は百八十度転向した。ただし終戦直後に変わったのではなくて、自分が東大の教授になれないと知って急転直下左翼になった。彼はまだいいと思う。というのは、あれは彼の個人的恨みだということが、人から見てよくわかるからです。」(同書)

「彼(ビルマの最高司令官・木村兵太郎)大将は気分としてどうしても許すことができない。あの男は片腕を失った兵隊でも除隊を許さず敵にかみついて死ねと前線に送りだした。だが英軍が来るとラングーンに何万という日本の婦女子、看護婦、一般市民、それから軍隊を置いて逃げ帰ってしまった。卑劣とも何ともいいようがない敗戦責任者です。だから戦犯で処刑するのではなくて、敗戦責任で殺すべきだったと思う。部下をおいて逃げて帰ってしまった司令官はそうされてしかるべきです。しかも彼らは逃げて帰る時の飛行機のなかで辞令によって昇進している」(p.13同書)

「私は少なくとも戦争中に将官になっていた人々は、天皇陛下の命令で任務についたわけですから、全員切腹するのかと思った。昔の武士のように腹を切るのだと思った。ところが阿南陸相など四、五人が腹を切っただけでした。それどころか、日本人はその人たちを戦後持ち上げた。なかでも辻参謀というとんでもない破廉恥男を、参議院でトップ当選させた。この男は単なる人殺しです。こんな男を選挙で当選させるから、ますますわけがわからなくなった。
 一方B、C級戦犯の場合のように明らかに無実の男が残虐行為だといってどんどん絞首刑になっているにもかかわらず私たちは反抗もしなかった。けしからんともいわなかった。」(p.13-14 同書)

「占領軍の政策によって形成された(と江藤淳がいう)制度的な「言語空間」は、事実上、占領軍による強制とは思われず、むしろ当然のこととして受け入れられた。それは占領軍の「作戦」の”隠微”さのせいであろうか? 少なくとも柳田国男に関して、あるいは「文学」に関していえば、敗戦や占領下の経験が本質的にはなんら影響を与えないような「言語空間」がすでに形成されていたのである。」柄谷行人「検閲と近代・日本・文学」(110頁)

「中学二年のとき、娯楽の少ない当時、映画館を生徒たちのために借り切り教師が引率して映画鑑賞をするという催しが年に一、二度あった。それが生徒たちにとって結構な楽しみになっていた。上映されるのは、もちろん文部省や日教組の推薦したものだったのであろうが、ともかくそのときみせられたのは『硫黄島の砂』というアメリカ映画であった。あとで知ったのだが、アメリカ軍の記録写真をふんだんに使って、硫黄島で日本軍が玉砕していく過程(アメリカ側からいえば硫黄島を解放する過程)を描いたものである。
 日本兵が塹壕から火炎放射器で焼け出され、火だるまになって草むらを転がっていく場面などが映し出される陰惨な映画であった。摺鉢山という名前もこの映画で知ったのであるが、その摺鉢山をめぐる攻防のなかで何万人もの日本兵が殺され、 ついに摺鉢山の頂上に星条旗が立つという形で映画はクライマックスを迎えた。そのとき、
 驚くなかれ、館内のたぶん五百名はいた私の同級生たちが一斉に拍手喝采をするのである」西部邁「人間論」(202頁)

「占領軍の総司令部に寄せられた日本人からの投書がいまアメリカの国務省の一室に保管されているのだが、それは三十万通の多きにのぼるという。そのほとんどは、「占領軍の皆様、戦争中に悪いことをしたあの日本人をぜひ逮捕してください」という類の密告である。これが何十通とか何百通にとどまっているのであれば、この世には変な人間がいるものだですむのであるが、三十万通ともなると、これは日本の国民性についての資料なのではないかといわざるをえない。
 ついでにいっておくと、そのうちの一割つまり三万通ぐらいは、女性たちのマッカーサー元帥にたいするファンレターなのだという。「マッカーサー様、あなたは何と恰好いい方なんでしょう」というわけだ。
 こうした日本人の奴隷根性ぶりについては、戦記物を読む前に、すでに薄々感じていたことではあった。約していえば、六歳の子供である私の眼に映った日本人の姿、つまり昨日まで「鬼畜米英」と叫んでいたものが「アメリカ万歳」と叫ぶ光景が、確かな資料で確認されたというだけのことではある。」(18頁)西部邁「戦争論」日本文芸社

「市川房枝は日中戦争勃発後の一九三七年、婦選獲得同盟その他の八団体を擁する「日本婦人団体連盟」を結成し、「国家総動員」体制に対して「銃後の護りを固からしめん」と協力体制を作る。同年には「国民精神総動員中央連盟」の委員に就任する。三九年には「国民精神総動員委員会」幹事、四〇年には「国民精神総動員中央本部」参与、四二年には大日本婦人会の審議員、同年に大日本言論報国会の理事になる。以上の「翼賛協力」に対して市川は戦後占領軍によって公職追放を受けた。」上野千鶴子「『国民国家』と『ジェンダー』」現代思想

「ところで、これより先市谷法廷開廷の直後に、清瀬一郎博士は、まず裁判所の管轄権に対する動議を提出して、真正面からこの法廷の非合法性を論証しようとした。昭和二十一年五月十三日、第三回の法廷においてであった。
 この日、兵隊靴をはいて弊衣をものともせず、老書生然たる老躯の清瀬一郎弁護士は、開口一番、
 「それでは、かねて提出いたしておきました当裁判所の管轄に関する動議に説明をいたさせていただきます」
 という言葉によって、この法廷の構成の根本に関わる陳述を開始した。
 「その第一は、当裁判所においては、平和に対する罪、また人道に対する罪につきお裁きになる権限がないということであります。いうまでもなく、当裁判所は連合国が1945年七月二十六日ポツダムにおいて発しました降伏勧告の宣言、その中に連合国の俘虜に対して残虐行為をなしたるものを含むすべての戦争犯罪者に対しては峻厳なる裁判が行われるべし、という条規が根源であります。このポツダム宣言は同年九月二日東京湾において調印された降伏文書によって確認受諾されたのであります。それ故に、ポツダム宣言の条項は我が国を拘束するのみならず、ある意味においては連合国もまたその拘束を受けるものでありまして、すなわちこの裁判所は、ポツダム条項において戦争犯罪人と称する者に対する起訴は受けることができますが、同条項で戦争犯罪人と称せざる者の裁判を行う権限はないのであります。
 本法廷の憲章においては、平和に対する罪乃至人道に対する罪という明文はありますけれども、連合国においてかくの如き罪に対する起訴を為す権限がなければ連合国から権限を移譲された最高司令官はやはりその権限はないのであります。自己の有せざる権限は他人に与うること能わず法律上の格言は国際条規の解釈の上でにおいてもまた同様であります。それ故に我々はここに冷静に厳格にポツダム宣言において戦争犯罪人と称するものの意義、限度を決めてかからねばなりませぬ。しかも、この意味は、今日われわれが考えている言葉ではなくて、1945年七月二十六日を限度としてその日を境としてこの宣言を発したところの国、この宣言を受けたところの国、において戦争犯罪とは何を考えられていたか、ということを決めなければなりませぬ。
 その当時まで世界各国において知られておった戦争犯罪ということの意味は、結局戦争の法規、関連を犯した罪という意味であります。その実例として多く挙げられておるものは、交戦者の戦争法規の違反が一つ、非交戦者の戦争行為が一つ、掠奪が一つ、間諜および戦時叛逆この四つが戦争犯罪の典型的なものであります。この法廷にはイギリスの裁判官もおいでになりますが、イギリスの戦争法規提要第四四一条には明らかにワー・クライムと戦争犯罪の定義を掲げております。
 また次の条には戦争犯罪の種類をあげておりまして、この種類は今あげた四つであります。ひとり、イギリスの戦争法規提要だけではありませぬ。他の国において通用する言葉はすべて今申す通りのようでありまして、平和に対する罪、すなわちその戦争の性質が如何でありましても、戦争自体を計画すること、プラン、準備すること、プレパレーション、始めること、イニシエーティングおよび戦争それ自体、すなわちウェイジ・オブ・ウォーそれ自体を罪とするということは1945年七月当時の文明国共通の観念ではないのであります。
 学識豊富なる裁判官各位は、国際公法の著書についてはすでに充分ご検討相成ったことと存じます。世間によく読まれているかの有名なオッペンハイムの著書でも、またホールの著書でも、戦争犯罪に戦争を始めること、これを戦争犯罪とはいっておりませぬ。我が国の立作太郎博士、信夫淳平博士の著書でも、戦争犯罪はことごとく戦争の法規慣例これに違反しているものであると申しまして、その例証も分け方によって五つに分けているのもありますが、実際において英国のマニュアルと同一であります。
 本法廷憲章の発布された一月十九日、マックアーサー元帥の特別命令のなかに、連合国は随時戦争犯罪者を罰する旨を宣言したということが載っております。この宣言もやはり我が国に対する宣言と解釈するの他ありませぬ。しかしドイツに対する宣言、ヨーロッパ枢軸国に対する宣言を日本に当てはめるわけには行きませぬ。ドイツに対し、モスコー、あるいはヤルタ、これらの会議でどう宣言せられようとも我が日本に対しその宣言を適用するという理由は断じてありませぬ。裁判長、ここが私は非常に大切なことと思います。ドイツと我が国とは、降伏の仕方がちがっている。ドイツは最後まで抵抗してヒットラーも戦死し、ゲーリングも戦列を離れ、ついに崩壊して全く文字通りの無条件降伏をしました。それ故に、ドイツの戦争犯罪人に対しては、連合国はもし極端にいうことを許されるならば、裁判をしないで処罰することまでもなし得たかもわかりませぬ。
 我が国においては、まだ連合国が日本本土に上陸しないあいだにポツダム宣言が発せられ、その第五条には、連合国政府はわれわれもまたこれを守るであろうという条件で………この条件は連合軍も守るであろうということで、我が国に対して宣言を発し、我が国はこれを受諾したのであります。それゆえに、ニュールンベルグにおける裁判で、平和に対する罪、人道に対する罪を起訴しているからといって、それを直ちに類推して極東に持ってゆくということは、絶対の間違いであります。
 我が国においては、今申した来歴でポツダム宣言という一つの条件付、かりに民事法の言葉を借りますれば、一つの申込、オッファーについた条件であるのであります。それを受諾したのでありますから、連合国といえどもこれらを守らなければならぬ。連合国におかれては、今回の戦争の目的の一つが国際法の尊重であることをいわれております。
 されば国際公法の上から見て、ワー・クライム、というものの範囲を超越せられるというようなことはまさか無かろうと、われわれは固く信じておったのであります。日本国民も左様に信じ、その受諾を決しました。当時の鈴木貫太郎内閣においても、この条件の一つである戦争犯罪人の処罰というものは、世界共通の言葉、よく決まった熟語、それで罰せられたものだ、と思って受諾している。受諾してしまうと、当時とはちがう他の罪を持ち出してこれを起訴するということは、いかがなものでありましょう。(下略)」

 さらにつづけて、清瀬博士は、異議の第二点として、ポツダム宣言のいわゆる「戦争」とは、昭和二十年七月二十六日現在、「連合国と我が国との間に存在しておった戦争」で「当時大東亜戦争」と唱えられた戦争に他ならず、満州事変、張鼓峰事件およびノモンハン事件を含み得ないと指摘し、第三点として、「我が国とタイ国との間には当時戦争はなかった」という事実に、裁判所の注意を喚起しようとした。
 この動議説明のあいだ、清瀬弁護人は、ときに右腕を振り、ときには卓上の草稿を叩いて声を励しながら熱弁をふるいつづけ、「まことここに一法律家存す、の思いを感ぜしめた」という。「あの混乱のさなかにおける弁論の準備、論理の組み立て、そして誰憚らず喝破するその勇気には、廷内にいる者誰もが感銘を受けたことである」と、朝日新聞法廷記者団著の『東京裁判』上巻は記している。
 清瀬動議は、キーナン、コミンズ・カー両検事の反論とブレークニー弁護人の支持弁論のあと、ウエッブ裁判長から五月十七日、第七回の法廷で却下されたが、その理由は、「将来に宣告する」というのみで当時開示されなかった。しかし、清瀬動議は、占領中公表を禁じられたパル判決とともに、極東国際軍事裁判の合法性に対し、真正面から根本的な疑義を提出した歴史的な文書として、永く人々に記憶されるようになったのである。」

江藤淳「閉ざされた言語空間 ──占領軍の検閲と戦後日本」文藝春秋社(文春文庫)
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小泉の「日常業務」と善意志と

「他人の立場に立つなら、問う者が殺さないことを期待するのは当たり前のことだ。しかしレヴィナスは、そんな期待を書き付けはしなかったし、書き付けることができなかった。それも当然だ。問う者に一体何を期待できようか。慈悲か寛大か。ヒューマニズムや人権意識か。遵法精神や政治性か、しかしそんなことにはお構いなしに、問う者は殺してきた。それとも、問う者が他人の立場に立って、その被害や恐怖や苦痛を思いやることか。他人の悲痛な訴えに耳を傾けることか。しかしそんなことにもお構いなしに、奴らは殺してきた。むしろ、他人の心が分かるからこそ、他人の訴えを聴取して諒解する力をもつからこそ、奴らは殺してきたのだ。奴らにとっては、殺し合うことは退屈な日常業務にすぎない。奴らが殺したいのは、殺されないことを願い、殺されないために最後の力をふりしぼる人間だ。他人を他我として認識して、その気持ちを理解するからこそ、奴らは殺すのだ。」(*1)99-102頁(小泉義之「なぜ、人を殺してはいけないのか?」)

「ニューヨークへ行ったところ、偶然の機会から、「戦後三〇年のアメリカ」というビデオを、ある宗教団体で見せてもらった。トルーマンからアイク、ケネディ、ニクソンと移り行くうちに、社会がどのように変化し、悪化し、崩壊していったかを克明にたどっているビデオである。少年ギャング、麻酔患者、児童虐待、少女売春等々が、これでもか、これでもかといった調子で登場し、同時にベトナム反戦運動、公民権運動、徴兵令状焼却、「人殺し」とホワイトハウスに向かって叫ぶデモ隊、警察官の弾圧、ケネディの暗殺、キング牧師の暗殺、ニクソンの辞任等々の場面が入ってくる。
 そしてそれを見ていると、少々不思議な気持ちになる。というのはだれ一人、社会を悪くしようと努力しているわけではなく、人々の叫ぶスローガンはすべて立派であり、平和、人道、博愛、反戦、人間の権利、差別撤廃、最低賃金制の確立、社会保障の充実が常に口にされ、しかもある意味では確かにその一つ一つが達成されながら、一方ではぐんぐんと社会を悪化していくのである。なぜであろうか。ビデオはそれを問いかけながら、何一つ解答は提示されていない。」
(「常識の研究」p.31-32 山本七平著 日本経済新聞社)

「彼(カント)によれば、人間は「自然本性からして」悪である。どんな善人も悪である。~中略~人間は、みずからより完全になろうと刻苦精励し、他人の幸福を望み他人に親切にすればするほど、必然的に悪に陥る。学校や病院を建設し、法律を整備し、文化を発展させ、つまり社会を改良すればするほど、悪はすべての人のからだにまといつくのである。悪はすべての人の「善くあろう」という意志の中に溶け込み、社会を「善くしよう」という欲求の中に紛れ込む。」(pp.V)中島義道「悪について」

「殺す前に、ホソキ先生に相談しなさい!」

「奴らにとって、殺すことは退屈な日常業務にすぎない。」
ていうか
「ぼくらにとって、他人を殺すことは退屈な日常業務にすぎない」??

「退屈な日常業務」
   ↓
「不意に虻を叩き殺す牛のしっぽ」(太宰治「人間失格)


鉄鼠 : なんのために生きるのか!
鉄鼠 : 「レヴィナス なんのために生きるのか」小泉義之著(NHK出版)

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