タグ:永井均 ( 65 ) タグの人気記事

1「私たちはみんなゾンビだから…ホントーは、なにも感じていない…感覚していない…意識経験は存在しない」
2「ゾンビなんて存在しない、意識(経験)は存在する」
3「ゾンビもいないけど、意識も実在しない」

4 「じゃぁけっきょく、わしらゾンビなんじゃねえか」って?

「意識」はないけど「心」だけあるゾンビ 
といえば、なにを言ってるのか分からないと言われそうだが 
要するに「意識」はないけど いろいろな信号(差異)だけは識別できる機械があるゾンビ

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▶ 経験と記憶の謎 ダニエル・カーネマン - YouTube
「意識とは、言語を初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られるとうのものの名でもあるのです。」永井均「意識はなぜ実在しないのか」(40頁)

ここで永井が言ってるのは、おおよそ世間では意識とはいえないようなアニミズム(汎心論)的な意識であって
そんなもんに「私」なんかありません
「私」は言語であって…<意識>はそれを裏切る
逆にいえば「言語」は、カーネマンがいような「記憶」であって
<意識>を騙したり裏切ったりする…
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すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 私的言語の可能性
「酸っぱさの例でいえば、梅干しや夏みかんを食べた時に酸っぱそうな顔をするとき感じているとされるものを、酸っぱさの「第一次内包」と呼びます。何も酸っぱいものを食べていなくても、なぜだか酸っぱく感じられることが可能になった段階の酸っぱさの間隔そのものを、酸っぱさの「第0次内包」と呼びます」永井(13頁)

明日も仕事だと考えると、
憂鬱な気分になる……とか…

不思議なことに
「他人の痛み」…「彼女の痛み」……という言葉を習得(理解)する過程で
中島が言うような)消されるべき「彼女(他人)の痛み」は、ホントは一度として登場しない(必要でない?)。
よく「他人の哀しみを哀しむことはできない」なんていうけど…
「私にとってだけの痛み」を放棄することは、
原理的にありえないのでは……?
かどうかは読者諸賢の想像にオマケする…

永井均「なぜ意識は実在しないのか」
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・言語

「なぜそれ自体としてあるもの」が「無」という名の無と重なり合うのか? ここに、他者のあり方の秘密のすべてが隠されています。しかも、その秘密は存在論的秘密(?)ではなく、むしろ純粋に言葉の秘密なのです。私が言語を学ぶとは、自分と他者との溝を越えること、その無という溝を無視することだと言うことを思い起こしてください。サルトルの言うように、無は人間存在の「うち」に故郷をもつのではなく、無は人間存在が他者との差異性を抹消して言語を学ぶところに故郷をもつのです。いったん言語を習得してしまえば、こうした差異性は見えなくなる。しかし、じつは至るところで口を開けている。他人の苦悩や他人の死に遭遇することによって、私はその溝に気づき、足を止めるのですが、いざそれを語ろうと試みるや、どうしても語れない。」中島(135頁)

「われわれが言語を習得するとは、すなわち自分と他人との差異性を消去する世界(ラカンの言う「象徴界」)に生きることなのです。言語を学んでしまったとき、私は私固有の体験ですら「大文字の他者」である公共の言語を使って表現するしかないのであり、これを逆に言えば、私の体験だけを記述しうるような「私的言語」はありえないのです。
 だから、類推説はすべて逆転されなければならない。言語習得以前のナマの体験などありません。むしろ、われわれは言語を習得することによってはじめて、それによっては表現できないナマの体験があることに気づくのです。言語を習得しているわれわれは、そのかぎり自他の区別のない言語世界(象徴界)に生きている。そして、そうした自他の区別のない世界に生きているただなかで、各人は言語以前の自分固有の体験を発見し、同時にその対極に他人固有の体験を発見するのです。
 例えば、「食べる」という記述の場合、私は自分が食べる場合、そのつど異なった食べ方であるにもかかわらず、ヴィトゲンシュタインの言葉を使えば)「家族的類似性」をもつ行為として同じ「食べる」という言葉を使いますが、他人が食べる場合でも自分が食べる場合と「家族的類似性」をもつ行為として、ごく自然に同じ「食べる」という言葉を使うことができるのです。
 言いかえれば、もしわれわれが言語を学ばなければ、誰も(動物のように、幼児のように)自分固有の体験を発見できず、同時に、他人固有の体験も発見できないにちがいない。」中島(70頁)

「…言葉の習得とともにすでに自分と他人との差異性を消去する機能が作動してしまう。自分と他人とが「無」という名の同一の何かを体験していると思い込んでしまうのです。
……
……われわれが言語を習得したとたんに、言葉自身が有する同一性への要求(強制)を確認しておくと、私が「痛い」という言葉を習得するとは、多様な刺激に対して同一の「痛い」という言葉を適用することであり(「痛い」という言葉を学んだものはごく自然に「心の痛み」にまで至る)、同時に「私にとってだけの痛み」を放棄することであり、言いかえれば、自分の痛みを他人の痛みと同じ「痛い」という言葉で表現できるものとして理解することであり、この意味で自分と他人との差異性を消し去ることを学ぶことなのです。そして、まさにこうした強引な他人の痛みへの越境を遂行することによって、逆方向において私はこうした同一性には解消されない自分固有の痛みを知るようになる。自分の痛みと他人の痛みとのあいだに開かれる絶対的差異性を自覚するようになる。何しろ眼前の他人がどんなに「痛い!」と叫んでいても、その「痛い」という言葉の意味を理解しながら、私はまったく痛くないのですから。しかし、このことをあらためて言語によって表現しようとしても、それができないのを自覚するのです。「ぼくのこの固有の痛み」という同じ言葉をもって表現できる同一な何かになってしまう。
…言語を持って語ろうとするかぎり、私は私と他人との共通の磁場に引き寄せられてしまい、自分固有の領域を確保することはできなくなるのです。
 しかも、ここに重要なことは、私は自分の体験ではなく、他人の体験を基準にしてそれぞれの言葉を学ぶということです。ラカン的に言えば、私は鏡に映った頭部のある像を通じて、すなわち他人の視線を通じて、私の身体の同一性を学ぶのです。……
…私は他人に対しても私と同様に他人の身体との絶対的差異性を越境して、自分の身体を「私の身体」と語ることを要求する。そこには、恐ろしいほどの差異性が口を開けているのに、あたかもそれが見えないかのように同一の「身体」という言葉を適用する。このことに躓かない者だけが言語を習得することができるのです。」中島(95頁)
「言葉を習得するとは、第一に私の観点からでなく、他者の視点から見ること、記述することを学ぶこと、すなわち私の視点を無理やり(不特定の)他人の視点に合わせていくことです。」中島(97頁)


「神が私において想起する」中島(105頁)

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「ウィトゲンシュタインという哲学者は「私的言語」というものが可能か否かを論じて、不可能であるという結論を出したのですが、あの議論ははっきりと誤りで、私的言語が可能でなければ言語は不可能です。私的言語の可能性が言語にとって不可欠なものに転じることによって言語は成立するのですが、ただそうであるということを通常の公的言語で語ろうとすると、そのこと自体は公的言語の意味の働き方に乗らなければ語れないので、言わんとすることが言えない──言わんとしていることとは別の「正しい」ことが言われてしまう──ということが起こるのです。」永井(36頁)

「私が「私には他の誰にもない何かがある。私の私的経験には最も重要な意味で隣人というものがいない。それどころか、私だけ表裏が逆になっている」と言ったとしましょう。今度の相手はこう答えます。「その通りだ! 確かに、私には他の誰にもない何かがある。私の私的経験には最も重要な意味で隣人というものがいない。それどころか、私だけ表裏が逆になっている!」と。わたしはこう応答するでしょう。「違います。他の誰にもない何かがあると言わざるをえないのは私です。その私的経験に最も重要な意味で隣人というものがいないのは私です。表裏が逆なのは私です。あなたではありません」。私は、そもそも二人が同じことを言っているということ自体を認めないのです。
………問題の本質は、この「私」のような応答の見地に立つかぎり、およそ言語が成立しない、ということにあるのです。しかも、その言語を成立させない見地にも、十分な合理性があるのです。世界は事実そのようにできているからです。……出発点は、「世界は、事実として、なぜか、私の目からしか見えない」でもよければ、「身体を殴られると本当に痛いのは私の身体だけだ」でもいいし、「自由に動かせる体はこれだけだ」でもいいのです。これは、疑う余地のない、端的な事実です。あたりまえでしょう? だって、その否認こそが最初の発言の趣旨だったわけですから。」永井(119頁)

「言語とは、世界を人称的かつ時制的に把握する力なんですね。そのことによって、客観的世界というものがはじめて成立する。」永井(109頁)


・意識

「意識は「私」をほかのもろもろのものと同じく世界の内に構成するのであり、言い換えれば「私」は意識の活動にはじめから伴っているものではなく、意識によって構成されるものなのです。」中島(111頁)


「脳が意識を生みだしているにしても、その脳をどんなによく観察しても、その脳がやっている仕事は決して見えません。世の中の他のあらゆるものは、それをよくよく観察すれば、それが宿しているものや、それがやっている仕事が次第に明らかになってくるのに、ここにはそのような普通のつながりがまったくないのです。胃のやっている仕事は胃をよく観察すればわかるのに、脳がしている仕事は、そういうやり方では決してわかりません。脳がしている仕事を見るには、脳を観察しないで、脳自身に注意を向けないで、むしろ世界を見なければならない。」永井(7頁)

「感じられる「痛み」や「酸っぱさ」や「不安」や「憂鬱」は、感覚的・実質的要素こそが本質的な役割を演じており、見られる「家」や「空」や「酸っぱい顔」や「他人の脳」の場合は、逆に知覚的・機能的要素が本質的であって、感覚的・実質的要素は(もちろん存在するでしょうけど)本質的な役割を演じていない…」永井(28頁)

「意識とは、言語を初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られるとうのものの名でもあるのです。」永井(40頁)


とにかく意識は、石ころや木片のように実在するのではない。
それこそがほんとうの問題……
逆転の逆転の逆転の…走り出す…累進構造…

「一般的なゾンビの想定が可能になることによって、一般的な「意識」もまた成立します。」永井(84頁)


すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 人工無脳!インチキ脳科学・クオリアファンを逮捕しちゃうぞ!

永井均「なぜ意識は実在しないのか」

中島義道「「死」を哲学する」
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「……考えてみれば、弱者(子ども&凡人も含む)、負け組は、いつの時代も、
自然に反価値(前世、アナザーワールドの階級、人格…etc)を持ち出して勝とうとするもの……」
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 精神世界ブームらしい(笑)


ヘタレを、安直に弱者・負け組に組み入れてもいいのか?
という疑問がワシにもある。

たしかに、彼らの大半は、単なる弱者・負け組ではない。
どちらかというと、
勝ち組オタク、インテリ、…(特に世界の貧困、弱者の代弁をしてたりしてるやつはそう…)
少なくとも食うに困るような貧困弱者、負け組は、むしろ少ない。
つまり、そういった反価値を持ちだして、実際に勝とうとしているのは、
本当の貧困、弱者ではなく、
その人達に同情を寄せることによって、それを装う、じつは彼(ワシ)らのようなヘタレ中流がほとんどではないか。

永井均が、「今日におけるルサンチマン」で、次のようなことを書いていた。
「本当は自分のほうが強大で、それゆえすでに勝利をおさめているにもかかわらず、同情し愛することによって、もう一度勝ってしまう、ということが出来るようになった。」(37頁)
「ですから、その対象はもはやルサンチマンに駆られた人々ではありません。存在しないルサンチマンをでっち上げて、二重の勝利を手にする機構を身につけた人々です。つまり、すでに我々の社会を支配するにいたった外的ルールの中で十分強者であるにもかかわらず、さらにもう一度、いわば内的な強者を自分に装うことによって、内面のモラルの法廷の中で、今度は転倒した強者にもなるという、二重の勝利を味わう人々なのです。」(38頁)

結局、
このあいだの黒川伊保子さんの
「気持ちの良いことは何度でも繰り返したい。それが生物の本質なのだから。」(31頁)
ってうことだよなぁ~

弱者、敗者をダシに使おうが、でっち上げだろうが、なんだろうが
気持ちの良いことは何度でも繰り返したい
弱者敗者に同情(=「こんな風になりたくない」という軽蔑)し、その惨めさを、なんどとなく舐め回し繰り返し自分の勝利を味わい尽くしたい。
そういうことになる~
飽くなき追求…

そういうことからいけば、
ヘタレ(強者)は弱者より、
気持ちいいことをしたい欲求が(比較的に)強い
ってことが言えるかも知れない。


「その対象はもはやルサンチマンに駆られた人々ではありません。存在しないルサンチマンをでっち上げて、二重の勝利を手にする機構を身につけた人々です」は、言い換えればレヴィナスの「分離した実存」……か、どうかは、読者諸賢の想像にオマケ…


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「哲学はどんな価値も前提としないことがゆるされる(すべての価値を問題にできる)唯一の営みだから。」(永井均)
ワシもムカシは引用だらけの文章を多数「排出」していた時期があるな(笑)、
その時、たしか、どこかのオジサンさんに「自分の言葉で書け!」とか、叱られたことがある。
たいがい、そんなことをいうのは、知的なもの(権威)にクラーいコンプレックスを抱いているオジサン。
こういうオジサンは、根本的に自分自身を問題にすることができない。
だから「自分の言葉で書け!」なんて
そういう紋切り型の批判自体が、オジサンの自分の言葉ではないことに気づかずに言ってしまう……そんなところが、なんともアホ丸刺し
そもそも、言葉は自分の発明物でもなんでもない……

「我々が身につけている思考・習慣・文化の様式はほぼすべてと言っていいほど、広い意味で社会的「教育」を通して習得したものであって、成長と共に”自然と”身に付くものというのは、実は想像することさえ難しい。我々の考えていることや知っていることのほとんどは、他人から教えてもらったものである。このような文章を書いたり、読んだりする際に使用している「言語」自体が、「他者」から与えられたものであり、そうした「他者の言語」抜きには自分で考えることは不可能だ。……」(12頁)仲正昌樹「「不自由」論」
だから
他者の言語こそが「私」の言語である……と言っても
分かんない奴は分かんないよなぁ(´∀)ゲラ(´∀`)ゲラ(∀`)
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勢古浩爾

「なぜ、ワシは、こんなにも幸福なのか?」承前……
「われわれがいかにわれわれのやっていること、われわれ自身の知っていることについて、問わないか、疑っていないか」 (p10)榎並重行「ニーチェって何?」

「ぼく :犬のまちがいには人間が気づくけど、人間のまちがいにはだれが気づくのさ?
ペネトレ:だれも気づかない。」(pp.81)永井均「子どものための哲学対話」



永井均「子どものための哲学対話」



榎並重行「ニーチェって何?」



勢古浩爾「まれに見るバカ」

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「西田哲学的に解釈された日本語においては、日本語においては、知覚する主体もまた、究極的には存在しない。雷鳴が聞こえているとき、海が見えているとき、それを聞いたり見たりしている主体は、存在しない。雷鳴が聞こえているということ、海が見えているということが、存在するだけである。あえて「私」と言うなら、私が雷鳴を聞き、海を見ているのではなく、雷鳴が聞こえ、海が見えていること自体が、すなわち私なのである。」(17頁)

「日本語においては、知覚する主体もまた、究極的には存在しない。」
は、
表現を変えれば、次のようにも言える
「見ているのに見ていない
 聞こえているのに聞こえていない」


似たようなものが禅問答(道元)にある。

「雷鳴が聞こえているということ、海が見えているということが、存在するだけである。」

禅の「行」と西田の「行為」(的自己)

ニーチェならば、どうだろうか
「日本語においては、「純粋」経験もまた、究極的には存在しない。」
ただ、人間の、そんな「誤謬」だけがある。



後期西田については、別途、他(清水太郎氏など)の論考を参考にした方がいい
たとえば、清水太郎「西田幾多郎における世界の自己構成の理論」現代思想vol27-4


独我論の蒸発

二冊続けて、ていうか、比較しながら読むと…なんか分かるかも…

いかにして「私」は「世界」になったのか?


永井均:西田幾多郎


入不二基義:ウィトゲンシュタイン

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哲学が、
どんな価値でも疑ってかかることのできる
ほとんど唯一の思考的営みであることは、
かなりのひとが賛成するんじゃないかと思う。

それなのに、初歩的なところで、
かんたんに態度がぶれてしまう人がじつに多い。

鉄鼠 : 世間を哲学と勘違いする人たち

「世間の価値にどっぷり浸かってなにが悪い!」
と思うひとがいるかもしれない。
確かに、
なにも悪くない。
そうだ!君は世間の価値に、絶対の信頼を置いている。
それを疑うなんてバカくさい、青臭い。
なるほど。そうだ。
ただ、そういうひとは、それで納得しているわけだから
べつにいまさらそれ以上、考える必要がないだろう。
哲学なんか「する」必要ないだろう。

しばしば、哲学は、こういうこれっぽっちも必要のないひとのために歪んでしまっているように思える。
だいたい、こういう「世間の価値にどっぷり浸かっている」ひとは、(否、「世間の価値にどっぷり浸かっている」がゆえに)哲学といえば、高尚と考えているのか、
上で言ったように、なんにも必要がないにも関わらず(否、なんにもすることがないからと思うが…)
そういう(世間における)哲学のブランドイメージに乗っかって、自分の人生や世間の教訓のようなことを言いたがるひとばかりだ(どこにも哲学なんかない……)。
要は、他人に高尚だと思われたい(または、良い人間だと誤解させたがってる)だけ(……ただワシが思うに、方法として間違っていると思う。なぜなら、大半の世間人は、哲学研究を職業とする成功者が考えることが、カッコイイ(高尚)と思っているだけだから…それこそが世間の価値だろう?…( ^∀^)ゲラゲラ)。
……

とにかく、
哲学は、どんな価値でも疑ってかかることのできる、ほとんど唯一の営みである
前提にする価値は、できるかぎり少ないほうがいい。
だからこそ、現代哲学は言語の問題にまで、行っちゃったわけだし。
そこのところを初心者は肝に銘ずべきだと思う。

世間で自分の人生をどう行くべきなどというものは
自分というもの
社会や世間というもの、
人生というもの
それに付随する諸々のもの……前提の前提
そういった数多くの価値を前提としなければならない。
「そんなものあたりまえだからいい」というわけにはいかない。
なぜ、あたりまえなのか?
それこそが、哲学の出番なのだから。
これだけのものを何の疑いもなく前提とすると、
もはや哲学とは名ばかりのものになる。
(はっきりいって初心者には無理だ)
もし、人生というものを哲学するにしても、
それらの哲学を、後回しにすることができないのはいうまでもないだろう。

(老爺心からいうと、初心者なら、もっと少ない前提から、はじめるべきだと思う)


鉄鼠 : どんな価値も前提としない
鉄鼠 : 哲学というと
鉄鼠 : どんな価値だって
鉄鼠 : チンポ哲学Ⅰ  ……巨砲大鑑主義(フロイトを越えないで)
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哲学の私
(永井-カント-ウィトゲンシュタイン)

カント的世界
カント的世界には、何だってある。
見た目には、ふつうの世界となんにも変わらない。
カミナリだって聞こえているし
机やイスだってある。
精神や肉体……
意味や形式だってある。

しかし、
それは、たぶん
見えているのに、なんにも見えていない
聞こえているのに、なんにも聞こえていない
(脱落してる)ような世界かも……

なんだってあるのに、
なぜか、なんにもない世界。

それは、たとえば
心のない人物a,b,c,d…………
(あるいはきわめて精巧に作られた人間ロボットでも良い)
ばかりがいる世界に似ている。

勘違いしてはいけない
それは外見上、現実の世界となんら変わらない。

この心のない人物a(もちろん、きわめて精巧に作られた人間ロボットでも良い)に、
ある日突然「私」が生まれた(あるいは突然、「私」がロボットに乗り移ってしまった)…
そのとき、はじめて、世界がきらめき、
世界が「世界」という実質をもって、起ち上がってくる。
「世界」=「私」。

鶺鴒の花押…

画竜点睛を入れるが如き
神の所行か??

「私」……??
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