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「国旗・国歌、嫌いなら辞めよ」=起立しない教員に-上田埼玉知事(時事通信)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース

ワシも嫌いナンダヨなぁ~
まじで貧乏くさい国旗、勝ってても負けてるようなノリの悪りぃ暗い国歌
だいたい国家なんて言ったってさぁ、ワシのような戦後生まれの凡人には、まったく愛着無いもんね。
日本国家も嫌い(ワシの安い給料から税金取るし、法律とか作るし…)
日本人も嫌い(ワシに命令ばっかするし、とにかくうざいし…)
ていうか、ワシ、好きなもんが…オンナだけ…あとバイクとギターが少々
ほかは…なあんもいらんよ…
そんな生活してみたい…


「オメエもオンナも日本人だろうが?!」
「へぇ…そうなんだ…」

「「国民」という自覚がないのは、日本人ばかりではない。ロシアが東方進出のため敷設した鉄道を用い、一千万人ほどの清国人が、満洲、シベリアへ新天地を求めて流亡していった。
 彼らは、たとえば日本の、また清の国民としてのアイデンティティなどはほとんど有していない。ただ、少しでもしのぎ易そうな地を求め、どこへでも流れてゆくまでだ。そこに自らのアイデンティティを委ねられる国家などなくとも、人は大地の上で裸一貫で生きてゆける。
 ……当時の日本もまた、かなりの人々にとって、より生きやすいチャンスと引き換えに捨てても惜しくない国だった。」(33頁)浅羽通明「ナショナリズム

そういうことでいえば、
ワシ(負け組じじい)なんか、いまでも「より生きやすいチャンスと引き換えに捨てても惜しくない国」なんだけどさ…じっさい、より生きやすければ国名なんてどうでもええよ…( ^∀^)ゲラゲラ


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テレビは、殺人鬼以上の大きな扱いでバッシング。
まるで五百人ぐらい射殺したような勢い!(だいたい、亀を悪だ!悪だ!と言ってるけど、ボクシングの試合に反則なんか「つきもの」と言っていいし、いままでだって世界戦で反則で減点なんて、いくらだってあった。その都度、それを社会悪として国民的バッシングが起ったなんて聞いたことがない。なんで亀田戦だけ、悪なのか、その理屈が分からない)。
しつけだの、道徳だの、礼儀だの、
果ては、子育て、親子関係、人間性、私生活のことまで……小姑並に微に入り細に入りバッシング。
日頃からことあるごとに個性の尊重だの…旧いものからの脱却だの…同化政策批判だの、異文化コミュニケーション(外国人労働者受け入れ)だの…唱えているようなアンチ(反体制)を気どる進歩的文化人たちですら…異口同音、明治の道徳父のようなことを言う…爆笑(あーいう人間ほど底が浅く、世間様に弱い)。
言うに事欠いて、子離れ親離れが出来ていない…精神力がどうの…忍耐力がダメだの…シロウトがいうことじゃないだろう…せめて、大人だったら、他人の精神力や忍耐力を云々するなら、一日でもいいからあいつらとおんなじメニューをやってみてからにしたらどうか…アンコ腹抱えただぶだぶの身体にも少しは良いのではないか(笑)。
もう平均的視聴者(ワシ)のような小心翼々と・世間様に右顧左眄し・ひたすら失点のないように生きている同調(サラリーマン)的な人間しか、もはや人間でないかのような…論調…
要は、子どもは(亀父を除く)平均的視聴者のような大人の言うことならなんでも聞くような”良い子”じゃないといけない(市民のサティアンが必要だ)ということでしかないだろう…

とにかく、どう聞いても、
平均的視聴者と、考え方や価値観(生きる作法)が、ちょっと違うというぐらいで
なにがそんなに悪いのか、さっぱり分からない。
なにが殺人鬼以上の悪なのか…
分からなかった。

そういえば
青柳正規が面白いことを言ってたなぁ
「……日本人は小さな自由とか小さな博愛とか小さな平等は持っているけれど、とんでもないギリギリの世界でそれをなお維持できるのかどうかは、まだ試されていないように思います」
ギリギリの世界どころか、
この騒動を見ると
そんじゃそこらあたりで試されてないことが露呈しちゃったような気が…( ^∀^)ゲラゲラ

特に自由(主義)は、西洋で、他者(多数)の干渉から個人をいかにして守るかということで鍛えられてきた思想である(人権、権利の思想も源はおなじである)。
他者からの束縛から、いかに自分の生存の様式を守るか
遡れば「信教の自由」からきている……
つまり、異端な振る舞いをする者と、どう折り合いを付けるかである。
宗教的寛容(トレランス)とも言われる。
時代が下ると、他者に対する「無関心」の問題と言える。
「無関心」というとネガティブに聞こえるかもしれないが…
他者との関わり方(コミット)の問題である。
他者に対して、完全に無関心でもいけないが、
かといって、なにからなにまで干渉してもいけない(もし干渉して良いことになれば、それは国家主義・全体主義・ファシズムを呼び寄せることになる)。
つまり、個人の自由を守る上においては、他者に対して「洗練された無関心」が必要になってくる…(細かいことは稲葉の本を読むべし)
だから、社会や国家制度は、できるだけ必要最小限のミニマムな合意を基本とし、それ以外は他人にはなるだけ無関心でいよう……
というのが自由主義の基本的な構え(スタンス)である。
あなたにとってどんなに隣人(亀)が主観的には気持ち悪くても、社会のなかで最低限の合意を犯していないかぎりは無関心でいましょうということである。
青柳の疑義は、日本人は、タテマエでは、博愛やら個人やら自由やら…言葉は麗しいが、いざ、なんかことが起った時、あてにはならないのではないかと言うものであろう。

とはいえ、
駅の人混みでトラブルや、時には殺人があってても、
大半が見て見ぬふりをするような日本人が…(ある意味では洗練されすぎて…他者に対して、完全な無関心に近い状態)…
なぜ、亀田家に対してだけ、これほどの多くの人が(一種異様とも思えるほど)コミット(干渉)したがるのか?
なぜ、亀田家は、多くの人にとって、連続殺人鬼を超えるほどの大問題(悪)なのか?

ナゾである。

もちろん、イジメの群集心理、沈黙の螺旋、メディアの問題も関係あるだろう…
また、浅羽が言ってたように、通りを歩いている傍若無人な若者すら注意できないような「非力で矮小なエゴイストである自分」を、この機会に(それとはまったく関係のない亀田家を攻撃することによって)尊厳ある自己へと上げ底するためかもしれない……
それともうひとつ、分衆化も関係しているかもしれない…
分衆とは、エコノミーによって、住むところ、価値観、作法、などが細かく分化した
いわばエコノミー(格差化)によって、生の作法自体が、それぞれの分衆内でオタク化してる状態のことだろう。
当然、それは分衆どうしのあいだで、異端者(違うオタクサークル)どうしのような通じ合えない(軋轢)状況を引き起こすだろう…
みながミズノミで起きる時間寝る時間…収入・興味・価値観(生きる作法)が同じだった時代では考えられないような…
フラストレーションを隣人に対して持つことになるだろう…
そういう隣人に対する、
蓄積された違和感、恐怖、ストレス、フラストレーションが、
亀田家に投影されているだけかもしれない……(その点では、前述した文化人たちのトンチンカンなリアクションの原因もたぶんに同じような感じがしている)。


すさまじきものにして見る人もなきブログ! : バッシング
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : アンチ亀は、何を言っているのか?
すさまじきものにして見る人もなきブログ! : オッサンからすると


稲葉振一郎「リベラリズムの存在証明」
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清く正しく美しく
お手々つないでボクシングねぇ

天皇陛下万歳から戦後民主主義万歳へ
むかしから日本人は付和雷同の体質っていうけど…
一億総玉砕から一億総懺悔へ
みんなで、あげたり、さげたり
最近は特に周期が短く忙しいねぇ
マスコミも紙が売れないのか、さもしいネタばかり
分かり易い一方的な勧善懲悪物語ばかりあてがって
下げるために、持ち上げ、上げるために、叩き下げる……
品格とかなんとかいうんだったら、
いくらなんでも、もうちょっと余裕が欲しい(笑)。

他人の出方だけ(世間)を行動原理にしているともいわれる日本人だが、
どうも……、いったんひとつの物語(上げ底)があてがわれ、大きな流れ(空気)となってしまうと…
まるで下部工作員みたいに、みんな判でついたようにおなじことを言う人たちになる。
赤信号!みんなで渡れば恐くない!
そうなると、もうその物語の適否、是非の精査はそっちのけで…
ひたすら、その物語がヒット商品のように熱狂的に消費される。
まるで自分の頭でものを考えるのをやめたがってでもいるかのよう…。
物語が狂信(グランドセオリー)化されると、それ以外の物語は気持ち悪いヤツとして拒否(異端化)され、ひとつの物語による同調圧力(強制)は、内面化と相まって、さらに巨大になる。
そうなると民衆の声=世論それ自体が、強大な権力-暴力になり、
日毎、そのイキイキとした民衆の声(=暴力)による恐怖の(リンチ)ショーが繰り広げられ…それに拍手喝采が送られる………(笑)
かくして……世論という名のリヴァイアサンは…とか…古いか?(笑)



ところで
ストップ・ザ・コイズミみたいなことを唱える人のなかには、
「小泉政権は財政破綻という脅迫言説を使ってファシズムを起こしている」みたいなことを言ってるひとがいる(骨格は「国民はいつでも被害者」という図式の相も変わらぬ戦後民主主義なのだが)……。
しかし、そういう恐怖(脅迫)言説は、
ストップ・ザ・コイズミみたいなことを唱える人たち(民衆の声(世論))の側にもあるってことが分かってない!……
のか……どうかはしらないが…
とにかく、コイズミ言説を脅迫というなら、民衆のイキイキした声にも、同じようにいわなきゃ嘘。
自分に都合の良い言説だけが世論で、あとはファシズムってことか?プゲラ。


すさまじきものにして見る人もなきブログ! : なぜ、彼らは、そんなに立場表明したがるのか?
もちろん、ワシだって
浅羽に図式をあてがわれて彼の言説を消費してるんだけどねぇ…

浅羽が純粋内発的な思想のようなものがあると想定しているのか
どうかはしらないが…
ホントは、そんなものはないってのが、現代の問題……。
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すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 浅羽通明「天使の王国」

なぜ、彼らは立場表明=既成のコンテンツを消費するだけで良いのか?

このあいだの、荷宮が若者に対して同じような疑問をぶつけていた。
彼らにとって
「「自分を非難しない人」=「いいことしか言わない人」=「自分に好意を持っている人」=「味方」=「関わり合いになりたい人」
「自分を叱咤する人」=「自分を非難する人」=「自分に敵意を持っている人」=「敵」=「関わり合いになりたくない人」というわけである」(57頁)荷宮
つまり、彼らは、先に敵-友(味方)を設定したうえで味方としか関わろうとしない……というわけである(前にも云ったけど、それは若者だけの特徴ではないことはいうまでもない)。
それにしても、
なんだって、シュミットみたいにささくれだって「友-敵」を設定しなきゃ駄目なんだろう?
(浅羽なら、そこに学校化を見るかもしれないが)

たぶんに、そんなところでは、あらかじめ邪魔者が排除された世界でしか通用しない言葉を喋ることが求められているだろうし、
も少し言い方を変えるなら、
彼らの言葉について異議を申し立てる邪魔者を、あらかじめ排除した世界を作ることが求められているような気がする。
要は、お仲間社会で、ぬくぬくとまぐわうために自己の立場を表明する……ということになる。

それにしても、
なんでそんなに仲間とぬくぬくとまぐわっていたいのだろうか?
橋本治が、以前こんなことを云っていた。
「日本人は孤独に弱い。ものを考える人間は特に。」(123頁)
社会や世間、仲間からズれることを極端に怖がる。
仲間からずれることを怖がる者は、しだいに”自分の頭でものを考える”ということをしなくなる。
ていうか「自分の頭でものを考えて、外の社会とずれたところへ行ってしまったら、困るからである。」(127頁)
「自分の頭でものを考えると、当然のことながら、”孤独”というものがやって来る。そうなると、日本人の多くはすでに心細くなって、「この心細い自分をなんとかしてもらいたい」ということになって」「すぐに”救済を求める”に行ってしまう。」(122頁)
つまり、日本人は、「自分の頭でものを考える」=「すぐに”救済を求める”に行ってしまう。」
「”自分の頭で結論を出す”くらいの我慢」もできないで「すぐに”救済を求める”に行ってしまう。」
「私もとっても大胆なことを言うが、日本人は「理屈であれこれ考える」ということに弱くて、「信じれば救われる」という方を選ぶ。」(124頁)


理屈であれこれ考えるより、ただ既成(左右)のお題目(模範解答(コンテンツ))を唱える(消費する)ことによって…
救われたい。オウマー、サヨク、プチナショ…みたいに頭を取りたい。楽になりたい。
”個人の救済”を、そこに求めている…特に自称テツガク者は、そういう傾向の人が多い…わけか

「よりいじましい宗教的行為の戯画に陥ってゆくのがオチ」浅羽

橋本は、若者についてはこう記している…
「若いやつは自分の頭でものを考えようとするが、そんな若いやつを取り巻く既成現実の方は、自分の頭でものなんか考えない。自分の頭でものを考えない人間に取り巻かれて、若いやつは”孤独”の中に落っこちる。世間が”自分の頭でものを考えることの孤独”を知らないのだから、若いやつは、当然のこととして、そんな孤独に堪えられない
 孤独になった青年がアップアップしてオウム真理教にたどりつくのは、もう少しのことである。」(128頁)
せめてワシは離れていよう…

橋本治「宗教なんかこわくない」
荷宮和子「若者はなぜ怒らなくなったのか」
浅羽通明: 天使の王国―平成の精神史的起源
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ワシはモノカキでもオピニオンリーダーとやらでもないので、
たいがい本は古本、それもワゴン積みにされている30円とか100円とか……
特に最近はBOの105ばっか。
なので、古い本ばっかり読んでいる。
リアルタイムの本を読むことはほとんどない。
ワシにとって、本(モノカキが言ってるようなこと)は、しょせんそんなものでしかない。
基本的になんとも思ってない。気にしていない。

この本もBO105で買った本だが…
古い本だが、なかなか読ませる。
こんなむかしに…すでにまっとうな指摘をしてるひとがいたんだなぁ~

特に面白かったのはⅢ
「「現代思想」はいかに消費されたか──言説という商品の八〇年代史」
「新聞投書に見る「発言したい欲望」──精神病理としての正義」


すべてを紹介する余裕はないので、
このⅢの
「新聞投書に見る「発言したい欲望」──精神病理としての正義」
にしぼる…ことにしたい

「新聞投書に見る」とされているが、
べつだん、ブログとかネット上の政治的発言をするひとにもじゅうぶんあてはまるだろう。
浅羽は、そういった投書の内容が、結局、ふたつ(左右)の典型(権威)的な紋切り型(模範解答)に集約できると指摘した上でガッコ化、インテリ化、学生化してるとしている。
「学歴社会、情報化社会、それぞれが超高度化を遂げ、一億総中流意識が浸透した現在(九〇年代)はどうだろうか。先に紹介した朝日新聞の記事にあったように、TVニュースを見ていないと「世間話」に入れなくなると言う時代。マスメディア情報の摂取とそれへの反応とからなる営みが、全生活中かなりのウエイトを占める社会。これは、相対的にも絶対的にも私たち固有の「日常」のリアリティが衰退したことを意味する。いわば、日本の普通の人々はここに到って、あたかも知識人のごとく、己の「日常」についての自信を喪失したのだった。一億総「インテリ」時代、一億総「学生」時代。…」(275頁)

「TVニュースを見ていないと「世間話」に入れなくなると言う時代」とは、
「たとえば一月二十三日付の朝日新聞「テレビで見た湾岸戦争」という記事には、店でも配達の車の中でもラジオがつけっぱなしという食品店勤務の若い男性や、友達どうしで戦争の話をするのがはやって、TVを徹夜してでも見ておかないと話についてゆけないという男子学生」がいる時代であろう237
「しかし、それは所詮、TVメディアの過剰報道による日常生活の変化というレベルの「影響」でしかない。…臨場感も満点の究極の生テレビが巷の話題を独占したというだけではないか。白熱する日本シリーズ、高校野球の地元チームの熱戦、大相撲の千秋楽の横綱同士の優勝決定戦の盛り上がりと、それはどれほど違うのか…」。(237頁)
つまり、
大衆にとって色々な政治的な(左右、保革対立の)問題も、
所詮理屈ではなく、
ウッチャンナンチャンのバラエティ、阪神の応援
となんらかわりない(248を参照すべし)。
阪神を応援するように
平和、憲法、品格、国家、反自民……
というスローガンを並べ
自分の立場を表明するだけ…
そういったファンの中での…お題目(学校の模範解答)を消費するだけに終わる。
「ここから見えるのは、私たちが、結局、湾岸戦争という異常に視聴率の高い番組の視聴者でしかなかった実情だ…」(238頁)

という……。なるほど。

なぜ、彼らは、そんなに立場表明したがるのか?

「「【名もなき世界人民の力を見よ】

 こんなデモなんかしたって、なんになるんや」と、心ではしらけた思いでデモや、抗議集会を続けて一ヶ月たちました。
  しかしいま、(中略)(世界中で)連日何百万人の反戦デモが繰り広げられ、愛知県小牧市基地で若いOL、女学生たちがずぶぬれになった髪から雨水をしたたらせながら、「自衛隊員のいのちを守ろう。戦争反対」と叫ぶ衝撃的な光景に、私は、世界中の人々と手を握って、戦争勢力と闘っている私自身の姿を確認することができました。(後略)
           印刷業 七十三歳 大阪市都島区(『毎日新聞』九一年二月十九日付)」

彼らにとって、運動の実効とは、いつの間にやらこのように運動がこれだけ盛り上がったとか、連帯がこれだけ広がったといった、内輪の反響でしかなくなっている。だが、すり替えてもらっては困る。運動がいくら盛り上がっても、その圧力が外部である当事国の政策決定にまで届かなければ、外在としての戦争を動かさなければ、すなわち、本来の要求であった停戦決定へ影響しなければ、やはり、「なんになるんや」というしかない無意味なデモだったのである。「世界中の人々と手を握って、戦争勢力と闘っている私自身の姿」にナルシスティックに陶酔できたという実効しかなかったデモなのである。彼自身のアイデンティティ確認のためだけのでもだったのである。
 どうやらこのナルシズム、もしくはアイデンティティの確認への要求に彼らの行動を解き明かす鍵がありそうだ。「何かしなければ」と呼びかける投書にも、戦争なんていやだ、涙が止まらないと感きわまった投書にも、やはりナルシスティックな自己陶酔は漂っている。デモへゆく勇気はないけれど、投書ならできるという「行動」を差異づける位階も、それによって満足させるナルシシズムの程度から決定されていると言えよう。
 どう考えても宗教的と言いたくなってくる彼らの行動の動機は、このナルシシズムの満足、あるいはアイデンティティの確認であるととりあえず言ってよかろう。」(242頁)
アイデンティティの確認のため……
世間には、アイデンティティとか横文字でいえば、なんかもっともらしいことのように思うひとが多いが、
要は、ナルシスティックな自己陶酔(肯定)でしかない…
おそらく、そうとう気持ちが良いのだろう(笑)
それこそ、このあいだの黒川さんの
「気持ちが良いことは、何度でも繰り返したいのが、生命の本質…」みたいなところがあるのかもしれないが…要は、政治をダシに使った一風変わったオナニーだということになる。
自分のオナニーが、みんなにも関係があると言いたいだけなのだ。やぱッ

「「【人の命奪う権利があるのか】
 一日家にいても、何だか心が落ち着かない。わが子の愛らしいひとみと見つめ合っても、不安が私をいらだたせる。
 今、戦争をしているのだ。こうしているうちにも、爆弾が次々と落とされているのだ。逃げまどう人々。爆弾で死ぬ人々。その中にはわが子と同じ生まれたばかりの生命もあるだろう。こんなにも子どもは可愛いのに、生命の誕生はこんなにも神秘的で崇高なものなのに、人はなぜ、戦争なんかするのだろう。(中略)いやだ、いやだ。人間なんていやだ。権力なんていやだ。戦争なんていやだ。」
       主婦 二十六歳 滋賀県彦根市(『毎日新聞』九一年二月十八日付)」

 戦争勃発を怒り悲しみ憂い、一日も早い停戦を祈ることが、ごく自然な感情であるとしても、一日じゅう、その不安ゆえに心が落ちつかないとなるとどうだろうか。また、その感情を、「神秘的」とか「崇高」とか「権力」とかいう大仰な言葉や、「なのに」や「いやだ」が脚韻を踏んで繰り返されるレトリックまで使って文章化し、投稿欄へ送るとなると。
 つい考えてしまう。こういう投書を書き送る人たちは、はたして家庭でご主人と、学校でクラスメートと、職場で同僚と、こういう高邁深刻なお話を真剣なまなざしでなさっているのだろうか、と」(236-7頁)

こういうひと、ブログ(ネット)では、頻繁に見かける。
そういうひとのページには、世界の貧困、格差、紛争の問題が…
たくさんのやせこけた子どもの写真と共に載せられ、
自分がいかにそれらについて傷つき、憂いているかが記されていて、
上の投書以上に、大げさな言葉づかい、強迫的な感情吐露……フツーに考えれば、
すでに尋常でない事態を記しているが、
しかしである。
次の日をクリックすれば(ここが新聞の投書とは違う。ブログならでは)、
そのブログには、
「ハーイ
 今日は連休で、
 家族で○×温泉に来ていま~す……」
記事には、自慢の高級車や
高級旅館の料理、
同僚へのおみやげや
ピースしている自分……など
の写真があっけらかんと満載されている…
そこでもアフリカの飢えた子供について、家族で話し合ったかもしれないが(笑)…(他にも自慢なのか…高級化粧品、ブランド品購入インプレ記事とか…あったりするものがある(笑))……

意外に、そういうひとはネットに多い。
本人は、おろか、そこを訪問する人も、違和感を感じていないような…気がする。
どうしてか?
おそらく、それは、浅羽が先に言ったように、
彼らにとってそのような平和の願いは、単に自己の属性を明らかにする立場表明、自己のアイデンティティ確認にすぎず、ナルシスティックな自己肯定を味わう、刹那的な快楽行為にすぎないからではないか?。

「「【鳥がかわいそう】
 きょうテレビで、あぶらまみれになっていたとりを見ました。(中略)しんでいるとりもいました。かわいそうでわたしはなみだがでました。
 はやくせんそうをやめないと、人げんやしょくぶつやどうぶつや虫やとりなどがほとんどしんでしまいます。たくさんの人をころしたほうがかちなんて、わたしにはかんがえられません。(中略)
 イラクは、はやくせんそうをやめてほしいです。せかいがへいわにくらすのがわたしのゆめです」
       小学生(女子) 七歳 東京都(『朝日新聞』九一年二月二日付)」(235-6頁)

「私たちがこれらの文章に対して辟易するのは、この投稿者たちの、そして私たちの等身大の日常生活とのアンバランスゆえであった。矮小で非力なエゴイストである私たちが、「遠方の不幸」に涙を流し眠れなくなるほど切実になる必然性があるだろうか。「地球大の不安」について高邁な見識を抱き、それを訴えて世界を動かせる可能性があるうだろうか。たかが一視聴者か一読者にすぎない私たちが。」(265頁)
等身大の自分と高邁な理想、その大きな懸隔を埋めてくるのはなにか?
浅羽は、それを「戦後民主主義」にみる。
では、「戦後民主主義のイデオロギーは、いったいどういう心の隙間を埋めてくれたのか、
 それは等身大の自分についての自信のなさであった。
 せせこましい日常を生きている矮小なエゴイストである自分を恥じ、そんな実像を隠蔽して一気に尊厳ある個人へと自分を上げ底しようとして生じた空隙であった。
 しかし、その結果は、これまで見てきたような、たわいもない「行動」への自己陶酔や、大仰な感情吐露や、自己満足的な道義論説といった、よりいじましい宗教的行為の戯画に陥ってゆくのがオチだった。
 そこで、私たちは、何よりもまず、せせこましい日常を生きている矮小なエゴイストである等身大の自分を直視するところまで戻る必要がある。そんな自分に開き直り、学校で刷り込まれた戦後民主主義のイデオロギーを相対化する必要がある。」(267-8頁)


「矮小なエゴイストである等身大の自分を直視するところまで戻る必要がある」
確かに。
しかし、そこはなかなか難しい。
なんといっても、基本的にワシたちは「矮小なエゴイスト」だからである。
「学校で刷り込まれた戦後民主主義のイデオロギーを相対化する必要がある。」(267頁)
「私たちが、これらのイデオロギーに感染させられた現場は、もちろん学校である。」(264頁)
「知識人たちは事あるごとに、その「理念」に生きる自分たちであることを確認できる儀式を必要としたのだ。それが、政府のやることはなんでもくさし、ことあるごとに反対声明に著名を連ねてみせるという、「理念」への信仰告白であった。この知識人としてのアイデンティティ確認の儀式のためには、ただ「反対」の道義的理論を言葉で語るだけで良かった。要するに実効性ある社会的経済的方策をはじきだす仕事よりもはるかに楽も出来たのだ。
非力な自分を直視せず、自己陶酔の幻想が得られる行為へと逃避するパターンがここに見られる。……」(261頁)

ところが
「この儀式への参加なしでは知識人として認証されないという慣行は、いつしか彼らの胸中に強迫観念を蓄積していく。いとうせいこうの「失語症」「自殺を考えた」「気合いで決断する」といった異様な告白は、この強迫観念を真っ向から受けとめてしまった症例だろう。そして、この強迫観念を生みだした構造を直視する者は、ついにいなかったのである。」(262頁)
そういった観念をガキの頃から擦り込まれ転移した「私たち」は
「それは、一種の強迫観念となって私たちを駆り立て、その結果、私たちの膨大な非日常的(つまり、日々の常識からは判断がつけかねる)情報空間の中に、矮小な自分がちゅうぶらりんにされたような不安に陥った。あげくが、論壇の口まねをしたり、大仰な言葉で感情を吐露したり、たわいもない「行動」に自己陶酔したり。」(262頁)
「私たちはみな、いつしか知識人たちの強迫観念を転移させられていた。マクロな状況への関心を常に抱き続けなければならないという強迫観念を擦り込まれていたのだ。」(263頁)

ワシも哲学めいた(笑)ブログをやってるが、
ご覧のように、ちょっと不自然と思えるほど、その手合いの人たちは少ない?
内容以前に、たぶんに、知識人(哲学)としての平均的な通過儀礼(例えば、戦争反対、平和主義、反米などの、いわゆる文学青年的ナイーブなアイデンティティなど)を、リスペクトしないからかもしれないが(笑)。
どっちにしても、ワシがみるに、哲学を在野でやってるひとの中には、むしろ学校化、学生化をむしろ良いことのように感じているような人が多いような気がする。
というより浅羽が指摘している「口まね、大仰な言葉」、「自己陶酔に耽るひと」とは、哲学をやっているような人たちにこそ、ズボリ!当てはまるのもののように思える?(笑)

基本的に「矮小なエゴイストである」彼ら(ワシ)は、
「等身大の自分を直視する」より、権威に頼って安心するほうを選ぶだろう。
もちろん、不満を述べたいのではない。
ワシは、それで良いのではないかと思う。
「非力で矮小なエゴイスト」に、しょせん「等身大の自分を直視し」イデオロギーを相対化するなどできるわけがなかろう?(ワシ自身「非力で矮小なエゴイスト」だから、そう思うのだ(笑))。


浅羽は若者の年代的な不安変化の問題を扱っているが、
社会に出て行く
つまり、未体験ゾーンに突入する若者が、不安になるのは当然のことだろう。
それは、いつの時代も同じだろう。
若いのに、なんでも自信があるほうがおかしい。
その不安を表現する表現の型が、時代によって違うというだけではないだろうか?


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日本という国家が否定されることは
日本人が否定される
という理屈で、
高橋哲哉など……サヨク系?のひとたちに怒りを感じるヒトたちがいる……
それにしても、なにが、そんなに気にくわないのだろうか?
考えられる理屈の筋道は、
日本国家が否定されるとき、否定される「日本人」が「私」だからだろう。
たとえば、日本国家が否定されるとき、否定されるのは「ブラジル人」であったり、あるいは、日本人が否定されるとき「私」がブラジル人なら、
なんとも思わないだろうと考えられるからである。
否定される「日本人」が「私」であるからこそ、
国家を否定する論者に怒りをおぼえる……そうとしか、考えられない。

まず、言葉を明確にしておきたい。
そういう論者が言いたい「国家の否定」というのは、
正確には、現在の国家に対する批判的態度のような気がする。
なぜなら、「国家を否定」は、論理的にありえないことだから。サヨク系?の人は、右傾しかかっている国家(の政策やそれを支持指導しているひとたち)を否定?しているかもしれないが、国家(という枠組)自体を否定しているのではないのは明らかだろう。
また、
日本国家の否定が日本人の否定に結びつくのは、
日本人の集合が日本国家となる場合であろう。
日本人の集合=日本国家
しかし、日本人であっても、日本国家を批判されても、なんら痛痒を感じない外国籍の日本人もいるだろうから…
正確には、(日本国籍を有する)日本国民の集合→日本国家
であろう。
まとめて言い直すと
「日本国家が批判されると、日本国民が否定される。
そして、その日本国民が否定されることは、「日本国民」である「私」が否定される。
「私」を否定する論者であるサヨク系のひとたちは、とんでもないヤツラである……怒」
そういう順序みたいである。
(ていうか、それ以外に考えるのは、ちょっと難しい)…
しかし、ここまでくると、
この考えが、そうとうクルクルパーな思想を元にしていることが分かると思う。
どこがクルクルパーか?
国家と自分との同一視。
こういった思想が、戦前の「お国のために」という思想と地続きなのは、ムカシはよく知られていた。
それなのに、こういうことを言ってしまう人たちは、たいがい自分のことを日本の古い体質を批判する進歩的な人間だと思っているから、いっそう香ばしい。
自分と国家を同一視してるから
国家を否定されると、自分が否定され
腹が立つのか……なるほど。

それにしても、
国家と自分とを、すぐさま同一視すれば、戦争動員まで行かなくても、
原発や米軍基地、屎尿、ゴミ処理施設など……を、そういうひとたちの家の隣に簡単に作れたり、
国家財政健全化のための優生法や安楽死を認めたり、国家国民(全体)の最大生存をめざして、少数の健常者を犠牲にして、たくさんの病人を助ける移植だって許されるだろう(ちなみに国家の財政は、そういう経済思想を大なり小なり正しいこととして……税金を取っているように思われる)。
国家の過失(&犯罪)による(薬害などの)被害者(個人)は、国家のために国家賠償金だって、請求すべきでないということになる(ここらあたりは、いかにもクルクルパーで自覚せざる国家主義者だという気がするが(実は、このような(軽佻浮薄な)ひとたちが、この国の国家主義の大半を支えている)。
たぶん、クルクルパーたちも、こんなことになるのは望んでいないだろう。
国家の利益と個人(私=自分)の利益は、つねに一致するとは限らないから、
国家のやりたいことを、自分がやりたいことと、すぐさま一致し(同一視はでき)ない。
当たり前である。
一致するどころか、
「自分」と「国家」の利害は衝突するのである。
(そういう衝突するところに出来るのものが公共圏(パブリック)だということが、いまだに理解している人が少ない。ほとんどの場合、公=国家か、公=シミン(社会)に回収されてしまい、「個」-「私」がいつまでたっても出てこないハナシばかり)

同一視できない側からすれば、
国家のやりたいこと、していること(施策)を批判し、
自分のやりたいこと(利己)を要求することは、国民-個人としての当然の権利であろう。


さらに「私」から考えれば
日本国民-個人は、社会的な「私」のひとつの属性にすぎないと考えることもできる
たとえば、
社会的な「私」の属性には、次のようなものが考えられる
○×会社の社員である側面、
大阪市民である側面、
男性である側面、
父親である側面、
世帯主である側面、
友達である側面、……
・身長……cm……
・体重……kg……
・チビ、デブ、臭い、ハゲ、水虫……
・出身地 えの戸
・言語 えの戸弁……
ふつう「私」は
いろいろな側面、属性(ヘーゲル的にいえば、色々な「自己」がある)を持っている。
社会的な「私」にとって、日本国民は、社会的属性の一つにすぎないだろうし、
また、社会的な「私」も、「私」から考えれば、そういうひとつの属性にすぎないだろう。
上の国家主義論者(クルクルパー)は、これがまったく逆さまになっていて
「私」が、日本国家のひとつの要素(や属性)にすぎないこと(なんちゃってヘーゲリアン)になっている。

どうしても、国家と「私(個)」のあたりで、躓いてしまう人が多い。
なぜか?
それはたぶん
自分の生まれ育った場所に対する自然な感情みたいなものが関係しているような気がする。
だから、躓いてしまう多くの人が、強い反発を感じてしまうのかもしれない。
確かに、自分の故郷(クニ)を大事にしたい気持ちは分かる。
自分を育ててくれた両親(あるいは集団)を愛するように、自分の生れた場所を愛する、愛着を持つのは、広汎に見られる人間の性癖(習性)なのかもしれない?。
その延長上に、「日本」というひとつのまとまりがあると思うのも分からないでもない。
つまり、
郷土(=故郷(クニ))=国家となっていることが多い。

たとえば、彼らの考える国家とは、しばしば
「祖国とは私たちが子供のころに夕暮れまで遊びほうけた路地のことであり、石油ランプの光に柔らかに照らし出された食卓のほとりのことであり、植民地渡来の品物を商っていたお隣のショーウインドウのことである。」(ミルヘス)
みたいな下手なブンガク趣味、あるいは郷土へのロマン主義に流さて
内面で
郷土(=故郷=クニ)と国家が強く結びついていることが少なくない(この点について、浅羽通明「ナショナリズム」P53-を参照して欲しい)。

しかし、勘違いしてはいけない
浅羽の本でも指摘されてるように……
このような郷土感情は、国家(主義)によって、つねに
ただ利用(あるいは排斥)されてきた存在にすぎない。
断じて、「郷土」は国家ではない。
この場合の「郷土」はブンガク(感情)でしかないが、
国家は目に見える統治(権力)機構(手錠、牢獄、死刑台、核弾頭…)なのだ。

近代・戦後民主主義から、こっちの「国家」というものは、
あくまで権力装置であり、
霞ヶ関に散らばる、官僚機構(法治機構)の謂いである。
(逆にいえば、現今では、法治(官僚)機構すらない国家は、国家ではあるまい。)

考えてみて欲しい。
日本国家(という統治機構)なんか成立する遙か以前から、
キミらの祖先は存在したし、また、その遙か以前からキミらの故郷(クニ-土地-land)は存在する。

そういう「ヒト」-「私」から見ると、
前述したように、
「(日本)国民」とは、社会的属性のひとつでしかないだろう。
具体的にいうと、法的取り決めで日本国籍を有することでしかない。
そんなもの、「郷土」とはなんの関係もない。
「子供のころに夕暮れまで遊びほうけた路地」とはなんの関係もない。

「「国民」という自覚がないのは、日本人ばかりではない。ロシアが東方進出のため敷設した鉄道を用い、一千万人ほどの清国人が、満洲、シベリアへ新天地を求めて流亡していった。
 彼らは、たとえば日本の、また清の国民としてのアイデンティティなどはほとんど有していない。ただ、少しでもしのぎ易そうな地を求め、どこへでも流れてゆくまでだ。そこに自らのアイデンティティを委ねられる国家などなくとも、人は大地の上で裸一貫で生きてゆける。
 ……当時の日本もまた、かなりの人々にとって、より生きやすいチャンスと引き換えに捨てても惜しくない国だった。」(33頁)浅羽通明「ナショナリズム」
なんらかの事情で
その国家(統治機構)が根こそぎにされる場合(例えば、敗戦した日本やドイツのように…)もありうる。
しかし、どんな名前の統治機構になろうが、
いつだって
裸一貫
生きてきたのが「人」-「私」である。

逆にいえば、
このような国家主義者の論理とは、
そういう
「人-私」の自信(覚悟)の無さの表明かもしれない。


すさまじきものにして見る人もなきブログ! : 郵政民営化賛成の声!


国家nation
クニ(故郷・故里)country
土地(郷土) land


ちなみに
ワシは
高橋哲哉が大嫌いである( ^∀^)ゲラゲラ


浅羽通明「ナショナリズム」


高橋哲哉「靖国問題」

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ってことがよく言われる
中途半端な反米&平和主義者にかぎって
特にそういうことを声高にいうひとが多い。

古くは漱石のような文学者が、
明治国家を「内発的ではない」と批判したことが、広く知られている(じつはもっと昔から、そんなことばかり言われてきたのだが…)。
そのせいかどうかはしらないが、それから、似たようなことが
独立国家論として、繰り返し言われてきたわけで……
現代ならさしずめ、敗戦後、米国に属国のように従属し続ける日本国家に対して、
真の独立国家、つまり、内発的な思想で自立した国家を目指すべきだと訴える「品格」論調がそれ。

中途半端な平和主義者は、
中途半端な反米主義者であることが多い。
なぜか?
「平和国家「日本」を戦争へと加担させる米国には反対(大国の横暴)だ」というわけである。
そうやって中途半端な平和主義者は、中途半端な反米路線を経由しているうちに、
次第に独立国・自立路線に流れて、右派的な路線に、吸収されてしまってることが少なくない(しかも、気づいてないところが、タチが悪い)。
戦争の負担を強いる世界国家「アメリカ」に毅然とした態度を示せない日本国家を批判し、
どんな関係(もの)にも従属しない、内発的な思想を持つ、唯我独尊、自立した国家であるべきだという。
(なかには、そうでなければ、「大嘘の平和憲法国家」だとか言い出すひとまでいるから、ちょっとしたプチナショみたい!(笑))

しかし、そもそも日本人の場合、反米みたいな、弱きを助け強きをくじく……巨悪に立ち向かう個人みたいな
(青臭い)知的スタンス(批判的精神)自体が、そこから輸入されたものだろうし(もともと日本ではオカミにお仕えして死ぬことぐらい(諫言、諫死とか)しかなかったからな…)、
それこそ欧米的な近代的個人(いちばん身近なのはハリウッド映画のヒーロー)への憧れと俗流の知的ファッションからのものがほとんどと思う(要するに、ちょい反米ちょい反体制を気どってるのが、知的にカッコイイと思っているだけ)。
少なくとも、反米思想自体は、内発的で自立した知的スタンスとは思えない。
ていうか、そもそも、なんの関係も影響も受けていない知的スタンスなんてありえるのだろうか?(これはずいぶん昔に柄谷から学んだことなんだけど)?

なんの関係にもとらわれず自分の内発的な信じた道(知的スタンス)を行く唯我独尊・自立国家といえば、オツムの弱い人には、なんとなく威勢が良くて、聞こえが良いのかもしれないが、
ごまかされてはいけない、そんな文句は、自分勝手なリクツで、相手(関係)無視で、国際社会で振る舞って良いと言ってるのとなんらかわるところはない。
かつての侵略国家(大日本帝国や第三帝国など)の行動原理と、さして変わらないのである?。
もしかしたら、そういうことを言う人たちは、「私たちは平和を愛する良い人間であり、その理性と良心に則って行動するからノープロブレム」とか思っていないだろうか……。
そういう人間の理性や良心だけをあてにすることが、
いかにあてにならないものかを思い知ったのが、あの二つの世界戦争だったのではなかろうか?

ワシなんか
大嘘の平和憲法国家かもしれないけれど
とりあえず、いま平和だからいいじゃん
自前で軍隊持ったり
自前で核開発するより
ラクでいいじゃん。
とか思うけど……
彼らは、そうは思ってはいないのだろうか?。

それにしても、どうして彼らが、
そんなに自立国家にこだわるのか?
たぶんに、それは戦後個人主義の(自立)思想をかいかぶってるような気がする。
個人が大人になって自立(核家族)するように、日本国も自立しなければならない。
自立する、一人前になる…
なんとなく、そんなふうに思ってるような気がする。
自立論をとっているひとに、いい大人が多いのは、そのせいかもしれない。
しかし、近代になって個人(国民)が自立したとはいっても、
なにもかも完全に自立しているわけではあるまい。
結局、イヤでも会社に行かなければ
暮らしてもいけない。
日本の男なんか会社から完全に自立してやってるひとは、そんなにいないのではなかろうか?。
その会社だって、商売だって、芸能だって、……
社会(国家や国家間)の掟や通貨を無視して、じぶん勝手にやっていいわけではないし、やれるわけでもない。
結局、近代的個人(国民)の自立と言ったって、そういった力関係の差異(強弱)のなかで従属して生きているわけで、それとは、まったく無関係に、個人が自立しているわけではない。
それなら国家だって国際社会という社会にいる以上同じことではないのか?。
アメリカという巨大な世界国家の力関係のなかで、うまく生きていく以外にないのではないか?
そう考えれば、日本がアメリカに従属するのも、お父さんが会社に行くのも、同じようなものではないのか?
かえって、完全に自立し、手前勝手なリクツでなんでもできる、唯我独尊国家のほうが、危険なのではないか?(個人レヴェルでいうと、そういう(戦国武将のような)人間ばかりが社会にじっさいにいたら困るように)
「敗戦と占領を経て、法的に国家主権を回復したとはいえ、軍事的にはほぼ完全に、外交的にはかなりに、経済的文化的にも一定程度は、アメリカ合衆国に従属しつづけてきたのが、日本国家だった。この状況下でナショナリズムを自覚し、正面から掲げたならば、軍事と外交におけるアメリカからの完全自立を目標とする長く困難な闘争へと邁進するほかなくなるだろう
 だが、アメリカが珠に軍事的に世界国家化した戦後、ことに冷戦後の世界情勢下で、これは日本、いやほとんどの国家にとってあまりに現実性を欠いたプログラムである。
 そんないかんともしがたい屈辱的状況をまえに、日本人、特に知識人の多くは当初、ソ連・中共をうしろ盾としたマルクス主義革命を夢見て、日本民族が社会主義を掲げてアメリカ帝国主義から民主的独立を果たす路線を信じた。そして、革命の可能性が遠ざかるにつれ、彼らのほとんどは現実直視から逃げ、戦争放棄で世界の先駆となった日本という観念的なナショナリズムへと退嬰的にも閉じこもっていった。」(26頁)
浅羽通明「ナショナリズム」
「たしかに、すべてから「完全自立」する…
それは大変、高尚なことであるのかもしれない。
それからみれば、今の生活は、いかんともしがたい屈辱的状況(囚人生活)だと喩えられてもしかたない…
しかし、この生活だって、それなりにいいところもある……
この生活を捨てて(会社を辞めて)まで、そんな困難な(ユートピア)プログラムに参加しようとは思えない……云々」
そんなふうに大半の大人は思えるのではないか?
自分のことについては、そう思っている大人たちが……
なぜに…国家の完全自立にこだわるのか?
わからない…?
お父さんたちが会社を辞めないように、国家も完全自立を求めない
大事なのは自立ではなく、
自分の幸福(ごきらく)な生活ではないのか?( ^∀^)ゲラゲラ
「大人は自由である。習慣や慣行に服従して大人しく生活することは楽しくて快い。動機はどうであれ、既成のライフ・スタイルに乗ることが一番良い生き方なのだ。確かに大人は、そんな生き方が最善のほんとうの生き方でないことは弁えている。しかし大人は、人生において最善のほんとうの価値を求めても仕方ないと割り切っている。それが大人というものだ。だから大人は気楽なのである。
 そして大人はデカルトに言うだろう。自分の人生を囚人生活に喩えられてもかまわないが、わざわざ苦労して脱獄する積極的理由があるだろうか。家庭や会社や社会を捨てるのは大人げないやり方だし、それは一部の変わり者の特権にすぎない。捨てたい者は捨てればよいが、自分は持ち場を離れるわけにはいかないし、そこで満足するしかない。脱獄こそが最善の道だと言いたい者には言わせておけばよい。悩みつつ牢獄に甘んじる大人の心情を、デカルトは分かっていないのだ。〈目覚めよと呼ばう声〉は音楽会の時だけの話だ。」(76頁)
小泉義之:「デカルト=哲学のすすめ」


浅羽通明「ナショナリズム」



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「敗戦と占領を経て、法的に国家主権を回復したとはいえ、軍事的にはほぼ完全に、外交的にはかなりに、経済的文化的にも一定程度は、アメリカ合衆国に従属しつづけてきたのが、日本国家だった。」(26頁)
浅羽通明「ナショナリズム」
しょせん、
日本の外交なんて、
米国のオンブにダッコのお荷物で戦後六十数年やってきただけだから、
スキル的には、その米国に従属するだけで一杯々々
なんにもできないことをもって平和外交とか、人権・国連外交なんて言って、お茶を濁しているだけ
だから……
なんか期待してたわけじゃない
が……
(´∀)ゲラ(´∀`)ゲラ(∀`)
あいつぐ、
大臣の牧歌的発言のせいか?どうかはしらないが?
その得意のオンブにダッコもならず
六人の代表の中でサザエさんじゃなかった、ササエさんだけが魂を抜かれたように
ぼーっと幽霊のように突っ立っていたのが象徴的
あれでぜんぶ分かった( ^∀^)ゲラゲラ
おつかれさん

それにしても
先軍政治は得をする。
こうなりゃ日本も先軍政治か!(笑)

あーあ
日本では、
オニは退散させたばかりだというのに
ま、しょうがねえか~オニはソトだからなぁ
豆でも撒くか
オホホホッ
笑う門には福来たるだなぁ~

笑うといえば
中途半端な反米主義者……
「米国は、あんなに協力してやったのに
 ハシゴを外すなんて……」
彼(女)らも
結局、さいごは米国頼みなんだよね!


米国の政策をさんざんこけおろして、
そのすぐあとに、
「日本の政治は政権交代がないと(あるいは二大政党制にならないと)まっとうな政治にならない」なんて
平気でいう人たちだからな~

中途半端な反米なんてのは、ガキと一緒で、
結局、そういった反発(反感)が、親(米国-強いもの)に強く依存している…ことに気づかないところが…
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鉄鼠 : 浅羽通明「ナショナリズム」

わかもの……君の行く道は……ボクの通った道

「すなわち、彼はつねに多数者全体の良識の側に立って訴えてきたのである。
 そして、政府だろうと現体制だろうと、この多数者全体から見て正しければ、誤っていれば否定する。
 ……
 だが──、多数者全体とは誰か」(15頁)
「世間」だ。
「自らの存在理由をめぐる不安を解消したくて、社会問題へ関心を寄せ、正義の側へ加担することで安心したがる若者たち……。」(17頁)

しかし、「世間とは、きみじゃないか?」(太宰治)
----------------------------------
社会主義のナショナリズム

「敗戦と占領を経て、法的に国家主権を回復したとはいえ、軍事的にはほぼ完全に、外交的にはかなりに、経済的文化的にも一定程度は、アメリカ合衆国に従属しつづけてきたのが、日本国家だった。この状況下でナショナリズムを自覚し、正面から掲げたならば、軍事と外交におけるアメリカからの完全自立を目標とする長く困難な闘争へと邁進するほかなくなるだろう
 だが、アメリカが珠に軍事的に世界国家化した戦後、ことに冷戦後の世界情勢下で、これは日本、いやほとんどの国家にとってあまりに現実性を欠いたプログラムである。
 そんないかんともしがたい屈辱的状況をまえに、日本人、特に知識人の多くは当初、ソ連・中共をうしろ盾としたマルクス主義革命を夢見て、日本民族が社会主義を掲げてアメリカ帝国主義から民主的独立を果たす路線を信じた。そして、革命の可能性が遠ざかるにつれ、彼らのほとんどは現実直視から逃げ、戦争放棄で世界の先駆となった日本という観念的なナショナリズムへと退嬰的にも閉じこもっていった。」(26頁)

----------------------------------
・ボク=日本人

「「国民」という自覚がないのは、日本人ばかりではない。ロシアが東方進出のため敷設した鉄道を用い、一千万人ほどの清国人が、満洲、シベリアへ新天地を求めて流亡していった。
 彼らは、たとえば日本の、また清の国民としてのアイデンティティなどはほとんど有していない。ただ、少しでもしのぎ易そうな地を求め、どこへでも流れてゆくまでだ。そこに自らのアイデンティティを委ねられる国家などなくとも、人は大地の上で裸一貫で生きてゆける。
 ……当時の日本もまた、かなりの人々にとって、より生きやすいチャンスと引き換えに捨てても惜しくない国だった。」(33頁)

 そう!そう!
 惜しくなくなったら
 どこへでも流れてゆくまでのこと…
----------------------------------
・日本人とは誰か?

「日本人が、愛郷心や藩の主君への忠誠心ではない、日本国家への心情を自覚するに到ったのは、徳川時代末期、黒船来航で顕わとなった欧米諸国からの外圧ゆえだった。」(37頁)
この繰り返されるステロタイプ。
このとき名指されている日本人とは、いったい誰のことだろうか?

「日露戦争当時で人口の2.2パーセントしか選挙権者がいない明治国家」(202頁)

----------------------------------
自発的にファン……

「「……「日本の連戦連勝」は、近代社会の弱者・敗者でしかない民衆にも、”強者の一員としての彼ら”という自尊心をもたらせてくれた。常勝チームにファンが殺到するあの心理である」
「(民衆らは)お互いに煽りたてあいながら自発的に「国民」になっていったのである。」
(牧原憲夫「客分と国民のあいだ」)
……」(45頁)
ナショナリズムとはファン心理。
他人に過大に期待する

「満洲にあっては、「強者の一員となる」願いは、自尊心以前に、今日明日の生き死ににかかわる切実さをもっていたはずだ」(45頁)

自尊心も、生き死ににかかわる切実さかもヨ……?
----------------------------------
君は一体だれのために

「君は一体誰のために働いとるんだ、ロシアのためか」(48頁)
じぶん(のすべて)のためです。
----------------------------------
オクニ

「「祖国とは私たちが子どものころ夕暮れまで遊びほうけた路地のことであり……」ミルヘス……
パトリオティズム=郷土感情はナショナリズムではない。ナショナリズムは、近代国家とともに生まれた人為的なものだ。……
パトリオティズムはナショナリズムに、「時として利用され、時として排斥される」(橋川)。」(54頁)
民衆(弱者・敗者)の
強者(勝者)の一員としての一体感…錯覚

内面性の全体化
全体性の内面化
----------------------------------
いまだ国民(ネーション)なし

「「民衆をして真のネーションたらしめん」。橋川がこう表現する福沢の課題は、また当時の権力者が切望するところでもあった。国防のため人民を動員するにあたり、自ら「国家」へアイデンティティを抱き、すすんで従軍し報国する「国民兵」こそ必要としたからである。
 この急務を果たすべく、我が国が採った方法は、全日本人武家化計画だった。」(59頁)
日本国民=日本のファン

ご主人様のために、
こっちからすすんでいってワンといって死ぬのが日本人=武士道=日本人のファン

勝ち組と負け組の取り替えごっこ
ホントは、みんな勝ちた~い

「パトリオティズムを乗り越えるかたちで生まれた近代ナショナリズム」(64頁)
学校とテレビのナショナリズム

日本人としての紐帯(記憶)……学校とテレビ

戦後民主主義-教育

田舎⇔都会
戦前⇔戦後
戦争⇔平和
前近代的⇔近代的
軍事的⇔経済的
古い⇔新しい
悪(イケテナイ)⇔善(イケテル)……戦後日本人の倫理の基盤

「「近代国家はそれ自体、人間を作り出すひとつの教育装置」(柄谷)」(84頁)


「近い」ってのは、
運命だなぁ~( ^∀^)ゲラゲラ
----------------------------------
保守主義

「…事実として長く継承された制度や習俗のなかで培われてきた心性を尊重して、抽象的絶対的な理念や超越的信仰を懐疑する。保守主義とは元来そうした思想である。すなわち、長く続いた「事実」が、そのまま「価値」と見做される」(129頁)
これじゃ、保守主義とは、
近代主義リベラリズムだなぁ
わかってないなぁ~浅羽( ^∀^)ゲラゲラ
----------------------------------
ブンガクなんて…ララーラー

「……できたてほやほやの近代国家(もしくは民族)=ネイションの公権力が、それ以前の原型的なコミュニティ=エスニーの諸要素を、主に国民教育を仕切るために再構築したのが、国語や国文学や国史であった。そして、その生まれたばかりのフィクションへ付された自画自賛こそが、日本文化論なのであった……」(134頁)

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日本人の無私性

おのれをむなしゅうするということ

武士道=日本人性=奴隷根性の刷り込み
「オマイラは、いさぎよくご主人様のために死になさい」
忠犬ハチ公
「負け組は、いさぎよく勝ち組のために死になさい」

「個人を屹立させない……。さかしらでない=理念をもたない……。自然と人間を対峙させない……。くっきりとした方向性をもたない……。思い詰めた執拗な粘り強さがない……。容赦なき徹底性を厭う……。」(138頁)
たいはんの人間は奴隷だったから
悲しい過去…奴隷の歴史…人類の歴史

戦争をやってる国が、
ラストサムライなんて、もてはやしてりするのも、そのせい。
「不条理なまま殺されてもオレたちゃ奴隷だからしょうがない」
そういう空白(不条理)を埋めるための物語-武士道
----------------------------------
国家とは言い難い国家=日本

「戦争を放棄した非武装日本、従来の常識からは国家とは言い難い日本は、それゆえに、世界の先頭に立つパイオニア、諸国家が仰ぐべき模範なのだと思い込み、敗戦で焦土と化し、武装解除された現状にあって自らのプライドを保ち、屈折したかたちで「ナショナリズム」を充足しようとしたのだった。すなわち「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占め」(憲法前文)と思うことで満たされるナショナリズムを。あたかも、一週遅れたランナーがトップだと勘違いしたごとく」(254-5頁)

ワシはそこまで欲がないから
国家でなくたって
ワシが幸福ならそれでいい……( ^∀^)ゲラゲラ
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浅羽通明「ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門」


浅羽は、
「人はなぜ「思想」などを必要とするのか」?と、
問いかけ
「…人が思想を必要とするというよりも、思想を必要としてしまう人がいるのだ」(290頁)
と答えている。
浅羽にすれば、
「思想」を必要としてしまうほど弱く青臭い(ほとんどビョーキの)人間がいるだけなのだ……。
「ナショナリズムとは、コスモポリタンとして生きるには弱すぎる者たちの補助具」(291頁)
思想=ナショナリズムを必要とするほど弱すぎる者たち……
「日本はもっと立派なはずだと思いたい切ない心理」(286頁)は、
じかに、弱者、負け組の
「自分はもっと立派なはずだと思いたい切ない心理」にコネクトし(繋がっ)ている。

弱者のエゴイズムの帰結-近代民主主義国家

(もちろん、この考えでいけば、コスモポリタニストも「コスモポリタニズム」という思想を必要としている以上、弱く青臭いガキになるな。ここらへんは意外とヴィクトル・ユーゴーを引く柄谷かなぁ(笑))

「弱者の共同体である民族国家」(283頁)

そう!
みんな青く弱い……。
国民-民族。
ネーション、ポポロ


「思想」を必要としてしまうほど弱く青臭い(病気の)人間がいるだけのこと…」
もちろん、それは
「哲学」だって、おんなじこと。
だから
哲学なんかやってるヤツは、だいたいみんなキモイ~( ^∀^)ゲラゲラ


カルスタでは、よく指摘されることだが…
本書では、司馬を戦後民主主義において、空白(タブー)だった大衆のナショナリズムに、ひとつの模範解答をしめした重要な思想家として位置づけ、かつまた、戦後民主主義-近代主義者としての限界を示す。


個人的には、
リアルタイムがおおい本……なので
「アナーキズム」のほうが、面白かった。
どっちにしても、若い人は、読んでおいて損のない本。
アナーキズム―名著でたどる日本思想入門
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※※

伝統とは何か?


本書で、浅羽は
伝統とは何か?
さかんに問いかけているように思える(280頁)。

「先祖から継承されてきた無数の遺産のうち、どれとどれを「伝統」という物語に採用するかは、まったく現代人の価値観次第である。護るべきたった一つの「伝統」などありえないのだ。」(280頁)
としている……
まったく、その通りである。
たぶんに浅羽は、
「日本の誇るべき伝統」という言葉で、
巷のホシュのオッサンたちが、なにか一つの伝統(「大きな物語」)に抑圧、ファシズム(全体化)してしまうことを意識(危惧)しているのだろうが……
たしかに「保守主義」における「伝統」とは(巷のホシュのオッサンたちが、どう考えているのかは知らないが)、
「保守」という構えのなかで示されてきたものや物語ともいえるが……、
むしろ、伝統なのは、示されたものではなくて、その構え(スティル)におけるマインド(思想)のほうなのではないだろうか?。
だから、浅羽の言うような「一つの物語」批判は的を少し外していると思う。
(ひとまず、物語に対する、文法、文体と考えてもいい)

保守主義というと、
マスコミ&進歩的知識人などのせいか、
すぐさま、戦後民主主義図式(安直な段階史観みたいなもののモノマネ)で、
自民党、守旧派、旧態依然、閉鎖的、現状肯定、現状維持…
前近代的因習……などと(要するに「古い=悪い」、「新しい=良い」の二項対立)
言下に否定、侮蔑するひとが、じつに多いが…(まったくもってステロタイプな…)…、
要は出来合いの負のレッテルを貼って思考停止に陥っているだけである。
そもそも、
そういう態度そのものがワシに言わせれば、「戦後民主主義の保守」的態度(構え)そのものである。
勘違いしてはいけない。批難しているのではない。
「いままで考えてきたことを、そう簡単には変えたくない」というのは、
人間の認識の自然な性向ですらある。

新発見、革新理論、パラダイム・チェンジ!etcと喧伝される
科学の理論ですら、
できるかぎり、それを避けるかたちが……
例えば、部分を手直しするような手法をとって、体系全体(システム)を維持するような(ピースミール)……手法が採られている。
というより、
まったくの革新、まったくのパラダイム・チェンジなんて……ありえるだろうか……?
鉄鼠 : 保守主義者。……ほかクワイン、ローティ……などの論考をリファーしてほしい……
ここでは「長く続いた「事実」が、そのまま「価値」と見做され」(129頁)ているかもしれない……)
こういった保守の態度(保守主義)なくしては、科学もトンデモになってしまうのではないだろうか(この理屈でいけば、日本の学者のほとんどは保守主義者ということになる)。

というか、
僕たちが使うコトバすら、そういった保守の態度(保守主義)なくしては、
使用できないのではないだろうか?
そういう観点からみれば、
どんなに一見デタラメに見える流行語やスラングも…、保守、伝統の「使用」に他ならない……。

こういった保守主義の態度は、生物がイメージできる。
絶えず、打ち壊しながら維持される……生命
……
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