アンチバカ序説

戦後民主主義の申し子
プロ野球ファン
世に溢れるアンチバカの正体!
(つうか島国根性的諸行無常の判官贔屓とルサンチマン奴隷一揆爆発的データベース型消費)


最初にはっきり言っておこう。
オレは、(趣味で野球を少々やってるが~)
ジャイアンツファンでもないし、
いわゆるプロ野球ファンでもない。
プロ野球&巨人が負けようが、勝とうが、無くなろうが、売られようが、
痛くも痒くもない(このことは、前にも書いてる)。
ていうか、オレは「プロ野球ファン」や「アンチファン」なんか、だいの大人がヒッシになるようなものじゃないとすら思っている。
だいたい、他人のすることに、なんでそんなに過大に期待をかけるのか
信じがたい……
ガキの所行だと思ってる。
(そもそもプロ野球&プロスポーツは、ほとんどの常識のある大人にとって、
ガキの教育に役立てる程度のもの)

去年、プロ野球をめぐる騒動のなかで
いわゆるアンチバカ(エセトラ等含む)の腐れたクルクルパーな言説が
まことしやかに流れていたが…

そもそも日本のマスコミの言論というのは、
閉鎖的なところで、YASM系列で縛られている。
ウレナイモノカキが大新聞の悪口を書こうものなら、
まず、その系列からはあぶれると思って間違いない。
要するに、二流三流のモノカキにとって、こういった大新聞さまさまに、どういう態度をとるかが死活問題なのである。
なんの基盤もない奴がモノカキでいたいなら、大新聞にすり寄るしかない。

いうまでもないが、
この巨人(ジャイアンツ)及びナベツネのバッシングというのは、
Y以外の三者の共通の利益だ。
だとしたら、そういうモノカキにとって、これ以上ないカッコウのゴマスリ材料(おいしい仕事)になる。
新聞屋にとっては、讀賣バッシングが部数アップ(あるいはテレビの視聴率アップ)につながり?、
バッシングが商売になるとの期待がある。
かくて、御用三文ジャーナリスト、モノカキどもが、点数稼ぎのために、アンチバカになって、一斉攻撃というわけである。

もちろん、マスコミのせいだけではない。
それを歓迎する側にも、そういう土壌があってこそのハナシで、
マスコミは、それを利用したにすぎない。

ちまたに渦巻く強い者(&勝ち組)に対する弱者・負け犬根性(ルサンチマン)を、
きれいに戦後民主主義のコラージュ(か弱き民衆が正義の名において、強きを挫くという歌舞伎)にして、
巨人&ナベツネをゴーマン強者・悪役に仕立てて成敗いたす(バッシング)というわけである。


ところでいまやアンチバカの総本山である市民派(いわゆるサヨク(もちろん彼らがそういっているわけではない))の連中に言わせると、最近、ネットウヨクとかネットホシュが増えたという実感があるという。
2ちゃんでも、その傾向は確かに伺える。
ヘタをすると軍国主義に傾いているというひとまでいる(笑)。
(オレに言わせると、軍国主義だったら、アンタたちのほうも、その可能性が充分あると思うんだけど)

そんなことがあるはずがない。
ネットで
ウヨクとかホシュとか語ってるヤツラの大半は、
アムラーとかゴスロリとか、そういうのりで
愛国とか軍国とか日本、天皇とかを語ってるに過ぎない。
ネットとか、小コミュニティのなかでの流行りなのだ。
(タコツボからタコツボ・ササラへ)
なんの基盤もない。
ことほど左様に、彼らが、この問題(プロ野球騒動)においても
マスコミのルサンチマン言説(判官贔屓)に、容易く煽られ吸い寄せられたのは……
いうまでもない。
そういう「大きな物語り」への反発や抵抗なるものの対象が、
要するに、いまでは、
サヨクになるのか、天皇になるのか、は程度の差でしかない。
みんなが行くから、ボクも……
というところは、基本的には、むかしから、なにも変わっていない。
ただ、それが小集団化しているだけだ(集団自殺の多発とか見れば分かる)。
それが、市民派に、いわせるとネットウヨクとかネットホシュに見えるのだろう。
しかし、それは、決して、右翼や保守などではありえない。
それどころか、彼らこそ、戦後民主主義=市民派の鬼っ子にすぎないことを、そろそろ自覚した方がいい。
(だからこそ、この問題は、両者の不思議なセッションとなったわけ。)

そもそも、市民派の戦後民主主義の最大の思想は、戦い(力)を否定し、強い者を否定することだ。
世の中の強い者(大きな物語り)を否定し、引きずり降ろすための、えっちらほっちらエッホッエッホッみたいな百姓一揆の思想であり(早い話、自分よりエラそうなヤツは、とにかく否定するというバカの一つ覚えのワンパターン思想(カキストクラシー=データベース型消費)。たとえば、ホリエ問題のときは、彼がプロ野球(&巨人ナベツネ)という大きな物語りを引きずりおろそうとしたときは応援したひとたちが、逆に、彼が、フジの件で、大きな物語りになろうとすると、引きずりおろそうとした)、
「みんな一緒!」の思想だ(昨今の「ゆとり教育」などで明確に表される)。
(だから、戦後民主主義の「みんな一緒!」の平等思想ほどあやしげなものはない)
それが一番発揮されるのがアンチファン(アンチバカ)の思想である。
逆に言うと、日本の保守思想は、この戦後民主主義のアンチテーゼで、戦い(競争)を肯定し、強い者を肯定する思想であるはずだ。
しかし、残念ながら、保守側から、そんな声は一切聞こえなかった。呆れるばかりである…(わけても、保守を自称する産経の態度は、結局は、新聞を売らんかなのニセ保守(商品である「保守」)である。いったい、このクニには、保守と言えば、単なる縁故主義と勘違いしているようなものばかりでがっかりする)…

スポーツも、その闘い(競争)を肯定する。
強い者を肯定する思想だ。
そんなスポーツが、みんなに愛されるのはなぜだろう?
大多数の大人にとって子どもたちの夢として健全(適当)だったからだろう。
なにより、彼らの、その健康さと単純さだろう。
アメリカンドリームにしろ、なんにしろ、子どもの夢は、
単純明快なほどいい。
強いことはいいことだ!
カネモチはいいことだ!
モテ(尊敬され)ることはいいことだ!

この単純なスローガンだけで、歯を食いしばって(場合によっては命を賭けて)、どんな練習にも耐えて勝ち抜いてきた人たち、それがプロのアスリートである。

その単純さを、大人の知識(経験)でもって、嘲笑ったり、あれこれ批判するのは、愚かなことである(それこそガキの所行だ)。

逆に言うと、この単純性をモチベーションとして守っていくこと、
強い者に憧れるという自然な傾向(古代(ギリシア)性)=単純性(生)を賛美することこそが、唯一のスポーツマン、あるいは、スポーツを愛する者を証するもの(アイデンティティ)である。
太陽のひかりのもとに、まっすぐと勝利に向かうアポロン(生)
それがスポーツの原点の精神だ。

巨人のようなカネモチ球団のやり方は許せないというが、
ヤンキース:ロッドの年俸は、
巨人のレギュラー全員の年俸をあわせたのより高い。
逆にいえば、メジャーは、その多額なカネを使って、
単純な「夢」を維持しているわけだ。
ヤンキースにしろ、F1ドライバーにしろ、なんにしろ
プロスポーツなんてものは、
多額のカネを使って、
強いヤツはより強く……
カネモチはよりカネモチに……
ひとびとに単純な分かり易い夢を提供することが使命なのである。
つまり、
カネを出すことはいいことなのである。
強いことはいいことなのである。
たとえ、それが、ひとりの年俸30億円になろうがである。
競争(強さ)を疎外するような規制は、極力避けるべき。
それがプロのスポーツの要諦だと思う。

しかし、お分かりのように、このようなスポーツの精神(スローガン)は、
強者のルールに則った自由、強者そのものの個人主義(リバータリアン)的思想であり、
現今の世間(社会)の民主主義や平等主義の、つまり、弱者の、平等、集団(辺境・負け犬根性)の思想(それはある意味、「弱いが強い」というデカダン思想であり、貧乏は正しく「カネモチは悪い!」という不公正な思想である。もともと、この弱者、貧乏人の思想は…カネモチは悪い、平等主義、集団主義…は社会(&共産)主義者のテーゼであるが、かの社会で、それを重んずるあまりに、ぎゃくに抑圧だらけの社会が惹起して、肝腎な「生」を弱めきってしまったことは周知のことであろう。日本の場合、むかしから、平家物語を代表するように判官贔屓というドレイ的心情主義の傾向が強く、弱者の論理に著しく偏る傾向にあり(弱めきった社会=不活発な冷たい社会)、心情サヨク(薄められたヒダリ(西部邁))に接合されやすい。)とは、するどく対立する関係にある
確かに、スポーツの精神は、日常とは対立するところもあり、
少なくない逸脱(非日常性)があるが、
現今の社会を支える、もう一つの大きな精神でもある、自由(強者の論理、勝者)の精神(論理)であることは、論はまたないだろう
それは、いまでも、社会の大きな価値(ホンネ)である。
(多くの人間は、最初、勝者を目指して、やがて社会的敗者、弱者となって、ルサンチマンを持つが、それを隠蔽せんがために民主主義(社会)的正義に変奏(変装)する…)

もちろん、これは、どれも欠くべからざる社会の精神である。
個人と集団、自由と平等、弱者と強者、相反するものの絶え間ない相克(総合)が、
社会の基盤ですらある。
その意味において、つまり、
社会の言説としてなら、
世間(社会)の民主主義や平等主義(弱者理論)の側からの異議申し立ても(マスコミどもが「ボクらのプロ野球的」なノリでこのところ賑わせている言説も)、
一定の意義があることは認める(例えば、これに一番傾いているのは、ボクシング…などの…スポーツ廃止論。また、他ファンの色々な意見があるのも分かる)。
しかし、お分かりのように、強者の理論でしか機能しないスポーツ(プロ野球)を、弱者(アンチバカ)の論理(百姓根性)で規制-管理を加えすぎると、スポーツ性=単純性そのものの根幹を揺るがしてしまう(デカダンに陥る)危険がある?。
スポーツの王道が失われると、
そこに残るのは、スポーツとは、なんの関係もない、
ストレス発散的な排外主義のチンドン屋のやかましさだけだろう。
(ことほど左様に、一部の好事家の、弱者や地域の排外主義的ルサンチマン・バキューム装置(マッチポンプ)としてのスポーツとしては残るかもしれないが……
もはや、それは、メジャーな夢とはならないだろう。)

スポーツの持つ単純性(強いものは善い)は、
ボクは、社会倫理学的な観点からも、大切だと思っている。
なぜなら、そのような単純(自然)性こそが、倫理(善悪)の基盤であるからだ。
ホントだったら、この点は、日本の保守主義者が、言わなければならない点だが、
残念ながら、ろくなのがいない。

そもそも観衆とアスリートの(見る-見られる)関係は、
個と集団、称賛と侮蔑という緊張をはらんだアンビバレンツな関係でしかないことが忘れ去られているように思う。

「故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である」ヴィクトル・フーゴー



はっきり言おう
オレはプロ野球ファンが嫌いだ。
オレは野球するのは好きだが
プロ野球ファンは嫌いだ。
フォームがどうの、打順がどうの、やったこともない、分かりもしないくせに、
エラそうに語ってるプロ野球ファンに対して殺意を抱くことも少なくない。
だいたい野球ファンといっても、
野球をやるファンじゃなくて
ほとんどは、見るだけで、
野球を見るだけのファン(と名前を変えて欲しい)
要するに、認識中心義者(にわか評論家)。
なにごとも、やってみる(行動する)ことを重んずる
「やってみてなんぼの」
アスリートの精神とは対極にあるひとたちがファンのほとんどだ。
(戦後、このことをもっとも批判したのは、ひ弱なインテリ三島由起夫だった
 後のマッチョ三島の、あの割腹は
 そういうファン(認識中心主義者)=自分は何もしなくて、ひ弱で勝手なことをいうヤツからの脱却だった(太宰が根本的にニーチェを誤解していたのに比べ、彼は典型的なニーチェ主義者だった))

いまでは、
こういった認識中主義者(ファン)の考えに応えるものが、プロスポーツという位置づけだが、前述したように、ファン(認識中心主義者)とアスリートの精神は対極にある。
この違いをファン(認識中心主義者)が無視するとき、
スポーツの精神は、必ず衰退を辿る。
いままで、ファンの期待に応えるために、演出だけになったスポーツもあるぐらいだ。

そのファンのなかでも、すこぶる付きの認識中心主義者が、いわゆるアンチファン=アンチバカではないだろうか?(といっても野球ファンのほとんどはいわゆるアンチファンだが(笑))
ところで、
野球とアンチは、なんの関係があるのだろうか?
この手の認識中心主義者は、スポーツ(勝負)とは関係のないことを読んでしまう。
ある種の関係妄想である。
ピッチャーが投げ
バッターが打ち一塁へ走るあいだには
アンチなんてもんはありえない……
にも関わらず
アンチファンは、これを
野球は読売や阪神がやってると読む
阪神が投げ、巨人が打ち……
巨人は読売新聞がやっていて、
カネモチで、
ナベツネというじいさんがゴーマンだ
健気で清貧のテイコー者が、読売新聞のゴーマンなナベツネというじいさんと戦い
という具合に読む。
「祇園精舎の鐘のこゑ、 諸行無常のひびきあり。 沙羅双樹の花の色、 盛者必衰のことわりをあらはす」
いまだにこんなドレイ的な心性から抜け出せないのだ。

アンチバカはエディプスコンプレックスでAC

アンチバカ(認識中心主義者=ファン)の思想は、強い者に頼った思想だ。
若い人たちは思春期に「自己愛」に伴う不安から、自己と他者との境界を作ろうとして、反抗期(依存性攻撃)になるのと、なにも変わらない。

アンチバカは、抵抗、解放、民主主義……キレイゴトを並べるが、
要は、社会に出て行くときの(あるいは他人に対する)不安を力の限りぶつけているにすぎない。

橋本式分類法を適用すると
大半は、
日の本さん家のおじさん&おニイさん
タイプに分類されると思う。
橋本によると
彼らの認識は、思春期止まりの二流の論理(知性)でしかないという。
ホンネは
やっぱりおとうさんがこわい”だけ
エディプス・コンプレックス
ACなのよ~
~イヤーン~コワーイ

たとえば、野球が、おとうさんのスポーツだとすると、
ムスコ(ムスメ)は、やったこともないくせに、サッカーだ!
なにがなんでもサッカーだ!
となる。
アンチバカの典型は、ここにある。
”おとうさんがこわい”からサッカーなのだ。
おとうさんがこわくて、ほんとは面と向かってなんにも言えない。
おなじものではおとうさんには、勝てない。
それでおとうさんとちがうものを好きになってみただけ、
それで抵抗してるつもりなのである。
(けっこう、ヒッシだったりする)
そういうガキの最大の特徴と言って良い
(だってやったこともないのに、フツー好きになれる~??)
それが巨人になるか、キヨハラになるか、野球になるか
程度の問題。
珍走団の野球ファンバージョン。
(ちなみに珍走団の場合、これに複雑なマザコンが混入して
 父への怨恨でチンポをデカクしたまま
 夜な夜なそんな腐ったチンポを振り回しながら
「見てくれよ
 かまってヨ
 見て、ママン
 こんなボクにした(チンポをデカクした)、責任とってくれよ」
となってるだけ)……横道に逸れた

これらはフツー乗り越えられていく(大人になる)ものだが……
いまは、そう簡単にいかない~
思春期止まりのまま大人になったやつらが、チマタの溢れているからだ。
きわめつけは、そいつらが二流のクサレモノカキとかになったりして、
そういうガキどもを煽って育てるという永久機関がほぼマスコミにできあがってる。
そういう腐った”おじさんたち”のマネをして、
硬球すら触ったことすらないシロウトが、誰が良いの、これが悪いの
打順はどうのと言ってるわけである。

アンチバカの系譜はカラタニと安保闘争世代にある

こうなってしまった原因は、
ちょっと強引だが、
ハンシンファンにあると思っている(笑)。
オレはハンシンファンがキライである。
キライになった原因は、
なんと言っても、
1973年の130試合目の最終戦巨人×阪神、
阪神が負けたとたんに、ルールも知らないようなアンチファンが
グランドになだれ込んで、巨人ベンチに乱入。
王選手を、掴みあげて、殴りかかり、乱暴狼藉。
世界の王のユニフォームをボロボロに引きちぎって
オレの純粋無垢な汚れない性ショーネンの(いたいけな)ココロを
ずたずたに傷つけたのがひとつ
というのは軽い冗談だが、
なんといっても、
あのカラタニがハンシンファンを宣伝してから
特に嫌いになった。
あいつがハンシンファンを宣伝してからというもの
マスコミ(ジャーナリズム)では、
特にスポーツ系のクサレモノカキ猿どもによって
チュウトハンパなインテリ主義みたいな路線が敷かれて、
(こういう二流のインテリは、インテリってものに、どす黒いコンプレックスを持ってるみたい(そのくせひどく不勉強でバカ))。
キショク悪いインテリ・ブンガク言葉が、スポーツの世界で聞かれるようになった。
(このオサレ路線のサッカー版が村上龍、カラタニのマネなのだ~ゲラ)
アンチ&ハンシンファンは、
テイコーだの、タシャだの、シホン主義だの、
オッサレー、新しい、コーキュー、……etc
などとなり、最近は、一部の若者のオサレ新路線として、流通させている。
(なかみは井戸端会議のおかみさん達と変わらない、同調圧力の強いだけのコミュニケーションなんだけど)
結果、野球なんか、ぜんぜん知らないヤツまで
野球でアンチを気取るし、
逆に、
野球しか知らなかったヤツは
チュウトハンパなインテリ・ブンガク言葉で
テイコーだの、他者だの、シホン主義だの、民主主義だの……
(この逆パターンが野生だの、サムライだの、動物的だの……というのが面白い対比)
口当たりのいいオサレ戦後民主主義・政治路線を気取ってみせる……

こんなことになってしまうのも、
このクニのマスコミの(特にスポーツ系の一部のクサレモノカキどもは怨恨(コンプレックス)で)大半が狂ってるからだ。
ていうか、この国のマスコミ・ジャーナリズムを牛耳ってる顔ぶれを見れば分かるように、
大半は、安保闘争世代だ。
みんなが、よく知ってる、チクシや鳥越、高野…(久米なんかも早稲田闘争の共闘会議でアジってたやつだ(いうまでもないが、あの保守の西部邁もだ))みたいなやつらも、みんな一蓮托生。
みんな若い頃、アンチ(反体制)だった。
アンチバカだった。
しかし、こやつらの、その後の行動を見れば、反体制の何たるか、マルクス&共産主義の何たるか、シホン主義の何たるか?、
それどころか自分の何たるかすら、わかってやったわけではないことが分かる。
のーてんきなくらい、とんとわかっていなかった(「いなかった」と言ってるけど、いまでも分かっていない)。
(なので、「マルクスとコカコーラ」とか揶揄されたりした。この流れが生みだした左傾平和主義の思想も、この矛盾を、そのまま引きずっている)
要するに、
このあいだ、中国で「愛国無罪」とか叫んでいる奴らと同じ。
単に、あの当時、アンポ反対!と叫んでいるのがカッコ良かっただけなのだ。
そのリーダーたちが、女性週刊誌(「女性自身」)という雑誌にカッコイイ男として紹介されていたような時代だったのだ。
流行ってたわけだ。
モテたのだ。
みんなモテたかったのだ。
マイクで、クニを批判(アンチ)することが、カッコ良かった。
みんな、なにがなんでも、この新しいオサレ路線に乗りたかっただけ……

言うまでもなく、ここにもアンチバカの典型があり、
要するに彼らも、
実家の”おとうさんがこわい”
こわいおとうさんとは戦わずに、
こわいおとうさんのいない東京で一暴れというわけだ。
最初から、おとうさんに勝てるわけがなかったのだ。

ことほど左様に、
この流行がかげってくると
大半は、すごすごと、いい加減なところで転向して、学校もちゃんと卒業して、マスコミや一流企業に就職した。
要するに、どいつもシホン主義の軍門に降ったというわけ?~
にも関わらず、あのオジサンたちというか、おじいさんたちが、いまだにテレビで、恥ずかしげもなく、あんな批判的→ハンタイセイ(アンチ)的を演技できるのは、なんにも分かってないか?、もしくは、まともな神経が、あいつらにはないってこと。
どうやら、あいつらは、いまでも
それがカッコイイと思ってるとしか思えない~。
いまだに、オサレだと思ってる~
じゃなかったら、マスコミ(テレビ)というシホン主義(体制)のなかで、あんなキザな態度ができるわけがない~
結局、この人たちのアタマなかでは~いまでも、なんにもわかっちゃいないけど、アメリカや(日本)国家さえ、批判しておけば、その場その場で、カッコが着いて、すむってことみたい~恐ろしいことに~
要するにまともな神経じゃないってこと??……
いい?
時代錯誤なのよ?
こんな時代錯誤のカッコイイを、いまだに流通させてるわけ
世の中、おかしくなるわけよ

そうやって、毎日毎日、二流のインテリどもが騒ぐものだから、
それに押し流されて、
(あのゴシップ紙にも、そこはかとなく臭ってくる「薄められたヒダリ」臭を感じたことはないだろうか)
大半は、なにがなんだかわかんないうちに……
(やっぱり、いつのじだいも、変わらない)
すべてはオサレ、オサレ、オサレ、オサレ……で
オサレ路線に乗るために、エッチラホッチラ
百姓力で、サブカル、プチメンヘラーから、ダメ連まで
なんでもござれ……
そんな状況が、このクニの知的雰囲気、ジャーナリズム、マスコミ……、
いいかげんこのバカ全共闘世代のアホ話の、
うそくささに気づいてもいい頃だと思うんだけど……

結局、アンチとは、オサレに乗りたいだけの思春期的知性。
オサレとはいっても、早い話が、
みんなの出方ばかりを窺ってるにすぎないのに、シカツメらしい言葉やデータを並べて、さらにキレイゴト(情)で押し流される翼賛的体質の最たるものでしかない。

オナカマ社会の日本では、
なにより
負(イケテナイ)のレッテルが貼られるのはコワイ。
(鬼畜タクマ君ですら医者の名刺を持ってたのよ~(笑))
仲間がハズレが、もっとも恐い社会。
孤独がコワイ社会。



孤独に耐えられずに

アンチという、オサレに乗りたいだけの思春期的知性のまま、
さらに同調圧力の強い社会を形成していく。
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by qsso | 2005-06-08 19:30 | つれづれ | Comments(0)
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