西部邁回想

中島義道が「世間」という時、
西部邁=オルテガの大衆なのだと思う。

考えてみると
ワシは、西部さんから、いろんなことを教わったはずだが、
結局、のこったのは自己懐疑と孤独(西部さんいうところの保守的懐疑)。

西部さんがなによりも批判した(というよりも生理的に嫌っていた)大衆とは
オルテガの言葉で言うと
「自分よりすぐれた審判をいっさい認めない閉鎖的な人間」
「大衆とは、善きにつけ悪しきにつけ、特別の理由から自分に価値を見いだすことなく、自分を”すべての人”と同じだと感じ、しかもそのことに苦痛を感じないで、自分が他人と同じであることに喜びを感じる」
「意見を作り上げる努力もしないで、意見をいう権利があると信じている大衆人」
……etc
要するに自己懐疑(孤独)を忘れた無責任な大衆人…
ちょっと今風オヤジにアレンジすれば、
「ジコチュー君を取り締まれ!」ということになるだろうか?

しかし、昨今の大衆の現状は、もすこ~し分裂的で、その大衆人こそが、ジコチュー(自分と同じではない他人)をさがし、取り締まっている……
いささか皮肉と言わざるをえない。
考えてみれば、
西部=ワシこそが、大衆人だったという当たり前のことに気づくだけ。

丸山真男は日本社会の構造的な無責任体制を指摘したが、
そのなかに登場する日本人は決して主体的な自己中心主義者(ジコチュー)ではない。
むしろ、表面的には利他(愛他)的集団(的功利)主義者であり…「シャカイ」主義者であった。
お国のため…オクニ(地域社会)のため…家族のため…(戦後はことに、会社のため…)
といわれて要求される愛他的行為は、
結局、どこにも責任主体が無く、…個人は、ずるずると全体的目標のためにむなしく埋没していった。

しかし、ワシは丸山と違って
そんな日本の状況が単に遅れた民主主義だったとは思っていない。
逆に西部=オルテガの文脈に捉えなおせば、
それは、”多数者による専制”で、
むしろ、民主主義のいきすぎた形態ではなかったのか?……少なくとも、そういう疑いを少しは持つべきでは???…と思う…。
西部邁さんたちにいわせれば、民主主義自体は全体主義でしかないのだ。
「哲学は自分を完全に無益なものと見せかけ、そうすることによって、平均人にたいするいっさいの服従から逃れている。……哲学は自分自身の存在を疑うことから始まり、自分自身と戦い、自分自身の存在を危うくさせる程度に応じて生命をもちうるにすぎないのであるから、じぶんのことを真剣に取り上げてくれなどと、どうして要求することがあるだろうか」
オルテガ…大衆の…
[PR]
by qsso | 2007-11-12 19:31 | 哲学ノート | Comments(1)
Commented by tomoshimo at 2007-11-12 23:13 x
先日はどうも。ご無沙汰です...
炸裂してますねえtesso節。
ところで民主主義は存在したと考えますか?現在も含めて『民主主義』という制度は名乗るに恥ずかしくないほどものだったかというと自分はちと疑問に思います。
もしも、民主主義って多数決の事だとしたら品格のある全体主義といったところでしょうか?
わたいは何を言っているのでしょう。ゲラゲラ。
しかし、「ねばならない」などとのたまっている人々の自己正当化は殆ど自分を神格化しているように見えるから、勝手にさせておけば良いと自分は思います。神様にはかないませんて...
触らぬ神にたたりなし。神の不在という環境が人間に自由を感じさせるのではなかろうか?などとも思いますよ。
じゃ、また。
名前
URL
画像認証
削除用パスワード