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「鉄鼠 : 「道徳が」」のコメント欄より
> その基盤は、単なるルールブックでしょうか?
> ……(こぶとり爺さん的な問題)
> それともその従い方でしょうか?


道徳のルールブックは、いろんな共同体(国とか…)によって違うから~
その基盤は従い方!という見方がある……

数学の理論も、もしそうだとしたら?
どう思う?
(´∀)ゲラ(´∀`)ゲラ(∀`)


鉄鼠 : 無駄じゃ無駄じゃ
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鉄鼠:現象学の文章

「5・6  私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
5・61 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
     従って我々は論理において、世界にはこれこれが存在するが、かのものは存在しない、等と語ることはできない。
     というのも外見上このことはある可能性を排除を前提しているが、この排除は実情ではありえないからである。というのも仮にそうすれば、論理は世界の限界を超えていなければならないからである。つまりそのようになるのは、論理が世界の限界を他の側からも考察しうる場合なのである。
     我々が考えることのできないことを、我々は考えることができない。従って我々が考えることのできないことを、我々は語ることもできない。
5・62 この見解が、独我論が、どの程度真理であるか、との問を決定するための鍵を与える。
     即ち、独我論が言わんとすることは、全く正しい。ただそのことは語られることができず、自らを示すのである。
     世界が私の世界であることは、唯一の言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに、示されている。
5・621 世界と生は一つである。
5・63 私は私の世界である。
5・631 思考し表象する主体は存在しない。……後略
5・632 主体は世界には属さない。それは世界の限界である。
5・633 世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
      ここでの事情は眼と視野との場合と全く同じである、と君は語るであろう。しかし現実には君は眼を見ないのである。
      そして視野における何物からも、それが眼によって見られていることは推論されえない。」
Wittgenstein「論考」


「ウィトゲンシュタイン」が正しいと言ったからって、
ホントに正しいわけじゃないよ(´∀)ゲラ(´∀`)ゲラ(∀`)
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ノートに大きく「私」という文字を書き、
そいつを持って鏡の前に立って、ノートの「私」と私を見比べてみる

とは前にも書いたけど
今度は「世界」という文字を書いて
鏡の前に立ってみる……

注意して欲しいのは
その世界は、あくまで「私」が「見た」もの(経験)である(笑)。



「言語の限界が思考の限界」Ludwig Wittgenstein

しかし、日常言語に限っていうならば
言語の限界
論理の限界
は底なし
じつは限界がない。
残念ながら……はずれ

ちょっと待ってくれ、Wittgenstein は、次のようにも言ってる。
「私の言語の限界が私の世界の限界」

野矢に言わせれば……
「私の言語」の、その元手たるものの
「対象領域は私の存在論的経験に応じて定まるものである」(p.188)野矢「論考を読む」
らしい。
「私の言語の限界が私の世界の限界」

もちろん、それじゃ言語「に」限界があるってことじゃないけどさぁ(笑)
つながりからいけば、
「私の存在論的経験」と「言語」は、
共同体の言語、公的規則……があってのモノダネということにもなろうし
そう考えれば、「私の言語」は共同体の言語の派生的言語となり
そこに野矢は他者や実在の声を聞くのか……??どうかは知らん
もっともそれは幻聴かもしれん
お説教に仕立て上げたい(願望)だけかもしれん(笑)
だって、
「私の言語の限界が私の世界の限界」
なんですもの…

※ヘタレ問答

Q:世界……って、なんですか?
A:やくざの世界とか
バカの世界とか
オウム真理教の世界とか
チビまる子チャンの世界とか
いろいろ……

Q:言語ってなんですか?
A:アノホラケ

Q:「世界」って「言語」でできているんですか
A:さあ~
キミがそう思えば、そうなんじゃないか?
とにかく、鏡の前に立って考えてみてよ
やりすぎて、鏡の国の住人にならないように注意してね
まぁキミの場合、アリスというよりは、ハンプティ・ダンプティになるだろうけど


現象学の文章
鉄鼠 : 無駄じゃ無駄じゃ


『論理哲学論考』を読む
野矢 茂樹 / 哲学書房
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教育基本法:民主が対案決める 「国」の表現避ける-教育:MSN毎日インタラクティブ

「おまえの話はつまらん! 」

侵略を解放

敗退を転進

軍隊を自衛隊

植民地憲法を平和憲法……

オレみたいな善人を悪人
いや、そりゃあそんでいいか(^∀^)
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「一見ナンセンスに見えないものを、明らかにナンセンスなものへとその姿をあばくこと、これが私の示したいことなのだ。」探究464ウィト

誰も突っ込まないので
ひとりツッコミです。
ノートにボールペンで
大きく「我」と書いてみる。
そのノートを持って大きな等身大の鏡の前に立つ。
そこに映ったノートの字と「自分」を見比べてみる。

似ても似つかない。
(「「我」とは何か」)
哲学とはなにか?
……
ツチヤさん的にいうと、
「哲学は、新しい事実を発見することによって問題を解く学問ではありません。
哲学の研究は、頭の中で考えることでしかないんですね。頭の中で考えて、ことばとことばの関係だとか、論理的な関係とか、そういうことを分析することしかできない」(p.222)
それは、「哲学的問題を解決できるかどうかということです。あるいは哲学的なことを知ることができるかどうかということです。哲学的なことを知ることができるかどうかを調べるために、「知る」とはどういうことか考えるんですね。それは真なる文を作ること」(p.189)
です。

しかし、いままで、哲学的な文として、つまり、「真なる文」として、いままで語られてきた話型というのは、
「真の……」、「ホントーの……」という話型でしかありませんでした。
たとえば、(ツチヤさんが上げる)ベルグソンの「時間」。
「ベルクソンという人は、われわれが「時間」と呼んでいるものとは違うものを、真の時間だと主張」するものにすぎません(p.224)。
要するに、みなさん達がベルクソンの哲学なるものといっているものは……
「ベルクソンは、新しい発見をしたわけではなくて、われわれが使っている「時間」という言葉の規則を変更しようという提案」でしかないんです(p.224)。
これはベルクソンだけではなく、
ほとんどの哲学の…「真の(哲学体系とか)」…「真の……」、「ホントーの……」という文は、そういうものなんです(…ちなみに…「真の平和」とか、「ホントーの民主主義」って言葉も、新しい事実を発見することによって解くタイプの問題でない場合、その疑いがあります)。

だから、そんなツチヤ-ウィト説によると
いままでの哲学の問題は、すべからく言語上の誤解にすぎません(あるいはもうちょっとカッコヨクいうと「思考の限界を超えている」)。
言語上の誤解……
言葉の使用における誤解、逸脱、侵犯……

ウィト以降、
言語上の誤解を解くことが(言語論的転回)、
哲学の仕事になったと、よく言われますが……
言語上の誤解を解く……などの言語の探究というと、
だからこそ、真なる言葉を探究する哲学の言葉こそが、価値ある言葉だと…
いまだに、そう思ってるひとがいるようですが、
そうではありません。
それどころか、まったくの逆コースです。
現代哲学が、
必然的に反哲学にならざるをえない
とよく言われるのは、そこにあります……

そもそも哲学や科学の論理(言葉)といえど、
自然言語、日常使っているコトバ(話型)に寄生する形でしかありえず、
つまり、問題の始源は自然言語の使用段階にあったはずです(これにはクワインなどを参照して下さい(*1))。
しかし、哲学がいままでやってきたことは、結局、日常使っているコトバの規則を変更してしまうだけの提案(メタ言語)にすぎないとすると、どんなにコトバの規則に変更しようが、
あるいは「われわれのことばづかいをいくら明らかにしても、この世界に成り立っている深遠な真理を解き明かしたことにはなりません」。(p.225)

問題なのは、あくまでボクらが「X」と呼んでいるもののことです。
ベルクソンがなんと言おうが
時間とは、われわれが「時間」と呼んでいるもののことです。
そこで、ボクらの日常の言語使用(コミュニケーション)こそが問題になる。
ウィト(-ツチヤ)は、その日常の言語使用(コミュニケーション)を、
言語ゲームという着想を基に、
「真なる文」、言葉の意味について考察しているわけですが、
ゲームの規則(ルール)の問題なのか、それへの従い方なのか
これは非常に問題ですが……
いずれにしろ、こういう言語観に立つと、
言葉の意味、文(問題)の意味は、
その真の意味が、最初から、どこかに、あるわけではなく、
われわれの使い方の規則と、その(盲目的な)従い方(逸脱することも含む)によって、作られていくということが言えそうなんです。
つまり、いままでの哲学の主張(真理)が、その規則を変更してしまう提案(手続き)に過ぎないことが分かってくるわけです。

こうなってしまえば、事実を確認する(新しい事実を追加する)ことによって問題を解くたぐいの学問であればいざ知らず、
哲学のようにじぶんのあたまのなかで終わってしまうような真理の主張(営為)は、
単なる言葉の誤用、ナンセンスにすぎないわけで……
こうやって哲学の問題はすべて解消する……
哲学株式会社、ご破算!
ということでしょうか?……(実際、ほとんどそうなんですが…)

こういった言語観は、一見、
いわば「生きた言語使用」、もっと標語的にいえば、
「みんなで決める生きた意味論」、(反実在論)、
「意味の民主主義(多数決主義)」……等々
一見、、たいへん社会的で、コミュニケーティブで、現代(民主主義)的な言語観にも思えます。
しかし、これは逆にいうと、
従来の哲学………「単に通用しているだけの知」を批判して、「真の知」……いわんや「真の……」「ホントーの……」で語り出す話型の従来の哲学(や思想…その手の知…などなど)は、すべて無効になってしまうことを意味します?。
拙速にいけば、すべては事実任せになってしまうことであり、
言葉の意味、つまり、「知」は「力」であり、すべて権力者や、力の持っている人たち(強者(勝ち組))の「利」に適うものでしかない……少なくとも単に哲学が社会論へと吸収されてしまう……そうなってしまう可能性(デカダン)すらあるわけです(ボクはそのことを認めますが……もちろん、ウィトの説は、微妙にニュアンスが違うんですが……割愛します)。

そろそろ、ボクのような凡庸な者には手に負えない問題になってきたので、
このあたりでやめときますが、

そのような哲学の破産ついては、
ツチヤさんは楽天的で
たしかに哲学の問題は誤解に基づくものだけど、
人間というのは、「言葉」を使っているかぎり、どうしても、そういう誤解に基づく問題にぶち当たってしまう。そのかぎりにおいて、哲学の問題はなくならない。
そういうことらしいです……
お後がよろしいようで…ふんじゃぁ

名状しがたい肥沃な(ザラザラした)大地へ


(*1)
もともとこれは
ラッセルの
「日常言語-自然言語は、進化の過程で、場当たり的に作られてきた不完全な言語である」という言語観からきているもので…(カルナップもおなじようなアプローチがあるよね)…
ラッセルの場合、それから独立した理想言語へと探究を続けたのに対して、
ウィトは、哲学の問題は不完全な日常言語(言葉)の誤用であり、それを避ける形で、哲学的問題を解消することへ……
クワインも、おなじくラッセルから、ホーリズム(全体論)へ……ホーリズムから、認識論の自然化(自然科学的な心理学)
……みたいな~


ラッセルの還元公理ってのは人気がないけど、
それはそれで見方の違いでしかない(笑)。


とにかく哲学者ってのは、みんな、無意味とか、ナンセンスとか
コワイみたいだけど、
ワシのようなバカは、ちっともコワくない(笑)
まぁそこらへんは自分で勉強してねぇ(^Д^)


「ハエにハエとり壷からの出口を示してやること」ウィト「探究」

意外にウィトゲンシュタインというのは
お節介なひとなんだなぁ~

その点に関してだけは
ワシは、どっちかというとニーチェ派だ(笑)。

「のがれよ、君の孤独のなかへ。君は、ちっぽけな者たち、みじめな者たちの、あまりに近くに生きていた。目に見えぬかれらの復讐からのがれよ。君にたいしてかれらは復讐心以外の何物でもないのだ。
 かれらにむかって、もはや腕はあげるな。かれらの数は限りない。蠅たたきになることは君の運命でない。」(pp.113)
「かれらはまた賞賛のうなり声をあげて、君の周囲にむらがることがある。押しつけがましくつきまとうのが、かれらの賞賛である。かれらは、君の皮膚と血に近寄ろうとするのだ」(pp.114)(ニーチェ「ツァラ」)

(といっても、オレはニーチェのようにエラいからではないからなぁ)


また、
「あくまでボクらが「X」と呼んでいるもののことです。」というと
またぞろ、
それこそが「ボクの心の中のホントーの「X」」、つまり、ホントーの意味→観念-「心」こそを探究する哲学と勘違いして堂々めぐりしておいて、それなのに
ホントーのコミュニケーションとは!ホントーの言語行為とは!……etc
と堂々めぐりをはじめてしまうクルクルパーなひとをみかけますが、
本末転倒です。
いうまでもなく、そういったホントーの意味→観念-「心」……伝統的哲学-「意味の心理学主義」こそを、そもそも問題にしたわけです。
カルナップ-クワインあたりを、自分で調べて下さい。


↑心理学批判というと、鬼の首をとったみたいに心理学一般を攻撃する人がいますが(どういう意義があるのか分からないのですが)、ここでは、あくまでも伝統的哲学=「意味の心理学」への批判です。言語学についても同じ事が言えます。


クワインの「自然主義的人間観」は、ニーチェ-フロイト-進化論(チカラ思想と読めば)の焼き直しとして読めてしまうところが面白い~

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「調べてみたところ、代表的な間違い箇所として、以下のようなことが挙げられていた。

・ 明治維新の時まで外には小便壷が置かれており、女性も皆利用していた。」


まちがってないんじゃ……??

小便ツボどころか
外にドツボがあるところは
いまでもあるんじゃないかなぁ~
確実に20年ぐらい前までオレの田舎にはあった。

ドツボどころか
オレがガキの頃は、
バアさんなんか道路で堂々と立ちションしてたな~
もちろんスカートはおろか、
パンティーなんかはく習慣がないひとたちだ
そのまま馬跳びのような姿勢をとって…ジャー
ひとがとおりかかっても、ションベンしながら
軽く挨拶
堂々したものだった
これぞヤマトナデシコ!
これぞフェミニスト!
解放!解放!
放尿が終わると
ブルブルッと馬みたいに武者震い…
…すきっとさわやかコカコーラ!

混浴禁止令は明治二十三年とかいわれてるけど
混浴露天風呂とかいまでもあるでしょう(笑)

おおらかなのよ~
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<教育基本法改正案>愛国心教育、小泉首相「評価必要ない」 | Excite エキサイト : ニュース

みんな教育が好きだねぇ~

「国のため、君のために、止むことを得ずして為すべき事多し……」徒然

かわらねぇ~
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気分が良い
丘陵(堺南部)がキレイに見えたよ~

きぶんがいいので
今夜は
近所迷惑だろうけど
アコギでタマキをぶっ飛ばす

探してたんだ
こんなところを
どこにでもあるようで
ないような生き方を

花を咲かせたみたいな
道ばたに あふれるくらい
風に吹かれて行こうか
あの丘の向こうまで
(あの丘の向こうまで)


街角に立って 口笛吹いてくれよ
夜のパズルに迷い込まないように
……
常夜灯に群がる虫ケラたちのように
何千何百回も繰り返していうだろ

やりたいようにやっていいんだよ
悲しいぐらいでちょうどいいんだよ
やりたいようにやっていいんだよ
淋しいぐらいでちょうどいいんだよ
(常夜灯)

ニセモノ
玉置浩二 須藤晃 / ファンハウス
ISBN : B000059O19
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